脱出
地下の暗がりの中で忙しなく動き回る者達がいた。
その数は三十ほどだろうか。
そこは本来なら昼間であっても一条の光すら差すことの無いような場所だ。
その暗闇を照らすのは壁にかけられた、あるいは幾人かの者たちがその手に掲げる松明の明かりのみだった。
その頼りない光の中を動き回る人々が生じさせる音が、こだまして大きく響き渡る。
鎧がこすれる金属音や足音に混じって、水が流れる音も聞こえて来ていた。
神聖帝国の北側に隣接する小国アーデルラント。
ここはその王城の地下を流れる水路だった。
水路には数艘の小舟が浮かんでいる。
そのうちの一艘に乗り込んでいた一人の女騎士が声を上げた
「クラウディア様! シャルロッテ様! そろそろ出発いたします!」
その声の主に二人の少女が視線を向けた。
二人の容貌は良く似ていた。
艷やかな黒髪に薄翠色の瞳。
翠色の瞳はアーデルラントの王族によく見られる特徴だった。
一人はこの国の第一王女であるクラウディア。
もうひとりはその妹である第二王女シャルロッテ。
彼女らは普段は華やかなドレスに身を包んでいたが、今は飾り気のない旅装束という出で立ちだった。
クラウディアは十九歳という年齢ではあったが、穏やかで落ち着いた雰囲気をその身に纏っている。
美しく、その表情は優しげに見えるが、その眼差しからは意志の強さが見て取れた。
シャルロッテは今年で十四歳になる。
その容貌にまだ年相応の幼さが残っていた。
今はまだ愛らしいという表現が似合う可憐な少女だ。
クラウディアは常に穏やかな表情を浮かべ、妹を安心させるかのようにたまに笑顔を浮かべてみせたりしていた。
対してシャルロッテは不安げな表情を浮かべたまま、姉の側から離れようとはしなかった。
クラウディアが妹の手を引いて水路の縁へと歩いていき、岸につけてある小舟の前までたどり着く。
彼女はシャルロッテに向き直ると、その頬を両手で愛おしげに包み込む。
そして、シャルロッテの目を真っ直ぐに覗き込みながら、彼女を安心させるかのように微笑んだ。
「さあ、行きなさい、シャーリー。やるべきことはわかっているわね?」
「お姉さま! お兄様! お二人も一緒に!」
シャルロッテの言葉に、離れた場所に立っていた一人の騎士が顔を向ける。
彼の容貌も二人の王女とよく似ていたが、その顔つきは男であるがゆえの無骨さと力強さを感じさせた。
彼はこの国の第二王子であるエーリヒ。
クラウディアの弟であり、シャルロッテの兄だった。
「私達は一緒には行けないの。お父様を止めるために、この国に残らなければ。あなたは皇子様の元になんとしても辿り着くのよ。そうすれば後はあの方があなたを守ってくださるわ」
そこにやってきたエーリヒが横から声をかけた。
「お前が負うことになる責任は、俺達よりもずっと重い物になる可能性もあるんだ。それを忘れるな。俺たちのことよりも自分の事をまず第一に考えるんだ」
「でも、兄様……私」
目を潤ませ不安げな表情を浮かべるシャルロッテにエーリヒは微笑みかけた。
「お前から見て、俺達はそんなに頼りなく見えるか?」
その言葉をシャルロッテはブンブンと大きく首を振って否定する。
「いいえ! いいえ! お兄様! お兄様もお姉さまも私なんかとは違って強くて、いつか私もそんなふうになれたらってずっと憧れていました。でも、それでも……」
そこまで口にしたシャルロッテの顔が苦しげに歪んだ。
「お父様やヴァルター兄様はおかしくなってしまいました。まるで別人みたいに」
その言葉にクラウディアとエーリヒの表情が険しくなる。
アーデルラント王、ゲオルグ。
厳格だが優しかった彼女らの父親。
だが今はもうその優しかった面影は微塵も残っていない。
ゲオルグは残忍な悪魔のような存在に変わってしまっていた。
いつ頃だったか、ゲオルグの王族特有の翠色の瞳が真っ赤な血のような色に変わっていた。
そこからだった。
彼がおかしくなってしまったのは。
しばらくして、彼らの長兄であるヴァルターの瞳の色も血のような赤色に変わってしまった。
そしてヴァルターもまた別人のようになっていた。
彼はほとんど言葉を発しなくなり、ただゲオルグの命令を遂行するだけの機械のようになってしまっていた。
それがどのような残忍な命令であっても遂行する。
以前の高潔な騎士としての精神は完全に消え去っていた。
うつむき黙ってしまったシャルロッテをクラウディアが優しく抱きしめた。
「大丈夫よ。私達はコリンナ様に助けて頂くつもりなの。だから心配いらないわ」
シャルロッテはその顔に驚きの表情を浮かべてクラウディアの顔を見つめた。
「コリンナ様? まだ生きていらっしゃったのですか?」
それに対してクラウディアはおかしそうに笑ってみせた。
「失礼なことを言ってはいけないわ、シャーリー。もちろん、まだ生きていらっしゃるわよ」
「でも、随分前にお見かけしたときはもう皺だらけのお婆さんだったのに……」
シャルロッテのその言葉を聞いてエーリヒもおかしそうに笑う。
「魔術師というのはなかなかしぶといらしいからな。そう簡単には死なないさ」
そう口にしたエーリヒをクラウディアが軽く睨みつける
「エーリヒ、あなたもよ。失礼なことを言うのはやめなさい」
エーリヒはおどけたように肩をすくめて、それに答える。
クラウディアは困ったような表情でそれを見やってからシャルロッテに視線を戻した。
そして、悲しげな想いをその瞳に宿した妹に、優しく微笑んでみせた。
「わかった? 私達は大丈夫。あなたは自分のことだけ考えなさい。追手から逃れてこの国から出るのも簡単なことでは無いのだから。無事に抜け出したら、皇子様に助けを求めるのです。それも大事な仕事よ。やってくれるわね?」
「はい、お姉さま……」
そう言ってシャルロッテはクラウディアに抱きつき、二人はお互いを抱きしめた。
クラウディアから身を離したシャルロッテはその目に涙を浮かべながら、今度はエーリヒに抱きつく。
エーリヒも微笑みを浮かべて妹の体を抱きしめ返した。
「さあ、行きなさい」
クラウディアに促され、シャルロッテは悲しみに顔を歪めながら船のほうへと歩いていく。
女騎士が船の上から手を伸ばしてシャルロッテが乗り込むのを助けた。
「ゾフィー、シャルロッテのことを頼んだぞ」
エーリヒが船の上で待つ女騎士に声をかけた。
その言葉に、女騎士は胸に手を当て、頭を垂れる。
「はい、この命に変えても必ずやお守り致します」
シャルロッテと彼女を護衛する二十人の騎士達を乗せた四艘の小舟が、岸を離れ遠ざかっていく。
シャルロッテはその姿が見えなくなるまで、小船の上からずっとクラウディアとエーリヒに手を振り続けていた。
妹の姿を見送る二人の瞳には憐れみの感情が宿っていた。
この国に残るクラウディアとエーリヒにとって、シャルロッテは保険でもあったのだ。
国内の王族が死に絶えたとしても、異国に逃れた彼女が生き残っていればなんとかなる。
「あの子にだけはあんな責任を負わせたりしたくは無かったのだけど……」
そう呟くクラウディアにエーリヒが小さくため息を付きながら答える。
「仕方ないさ。王族として生まれた以上、その責務を負わなければならない」
「そうね。だとしても、もう少し先延ばしにしてあげたかった」
シャルロッテは隣国の皇子と婚約している。
本来なら、来年には正式に嫁ぐはずだったのだ。
周りに祝福されながら盛大に送り出してやれる筈だった。
それがこんなふうに隠れて逃げ出さなければならなくなるとは誰も思っていなかった。
皇子とシャルロッテは幼い頃に何度か会ったことがある。
二人の婚約は本人達の預かり知らぬところで決められたものだった。
それでも隣国の銀髪の皇太子を見て、シャルロッテは一目で恋に落ちたと言っていた。
十五歳になって彼の元に嫁ぐのをシャルロッテ自身、とても楽しみにしていたのだ。
そのために様々な教養を身に着けるための学習や稽古に一生懸命励んでいた。
その姿を思い出して、クラウディアはため息をついた。
こんな酷い送り出し方ではなく、幸せに送り出してやりたかった。
だがもうそれは不可能だ。
何もかもが変わってしまった。
もう一度深くため息を付いて、クラウディアは顔を上げ、弟に視線を送った。
「エーリヒ、追手はどのくらいでやって来そうですか?」
「明日の朝には気づかれるだろうが、その頃には俺たちは無事逃げおおせていると思うよ」
「私達はそうね。国境まで逃げなければならないシャルロッテはそうは行かないでしょうけど」
「ゾフィー達に期待するしか無いだろうが……」
そう言いながら、二人は残った騎士達を集め脱出するための準備を始める。
「シャルロッテは無事に国から出られるだろうか?」
「大丈夫よ、きっと。神聖帝国側も黙って見てはいないだろうし」
神聖帝国にもシャルロッテを亡命させるという連絡を秘密裏に入れてある。
おそらく何らかの援助はして貰えるだろう。
だが、いかに隣国で友邦国であっても、他国である以上可能な事は限られてくるだろう。
本来なら両国は兄と弟のような関係だった。
だが、王であるゲオルグがおかしくなってしまったせいで、その関係もおかしくなりはじめている。
ゲオルグもヴァルターも、その瞳はかつては美しい翠色だった。
だがその瞳は今は禍々しい血のような赤い色に変わってしまっている。
そして城内の兵達も、少なくない数が同じ状態になっていた。
彼らはまるで人間では無い何かに作り変えられてしまったかのようだった。
クラウディアは一人の男の顔を思い浮かべた。
顔色が悪く痩せぎすで、顔の左側が引きつったかのようにゆがんでいるせいで、いつも気味の悪い笑みを浮かべているように見える男。
魔術師アンドレアス。
全てが変わってしまったのは、あの気味の悪い男が宮廷魔術師として城に出入りするようになってからだ。
本当に何もかもが変わってしまった。
前任の宮廷魔術師であったコリンナが老いを理由に辞してすぐのことだった。
一体どのようにしてゲオルグに取り入ったのか、あの男は宮廷魔術師として王城に出入りするようになった。
それからしばらくして、ゲオルグがおかしくなりはじめたのだ。
王宮内で気に入らぬものを捕らえては、鞭打ちなどの罰を与えるようになった。
罰を与えた理由はどれも理不尽なものだった。
やがて誰もが王を恐れ始めた。
それからしばらくして王宮内の兵員が行方不明になる事件が頻発するようになった。
行方不明になった者達はしばらくすると戻ってきた。
心を失い、ただ王の命に従うだけの人形のようになって。
そんな事が続いている間にも、父はどんどんとおかしくなっていった。
城下の民を捕らえて、頻繁に公開処刑を行うようになったのだ。
ヴァルターがそんな狂ったとしか思えないような父の行動を見て、何度も父を諌めようとしたが、父はそれを聞き入れようとはしなかった。
クラウディアやエーリヒが同じように諫言しても聞き入れる様子は微塵もなかった。
やがて、ヴァルターもおかしくなってしまい状況はさらに悪化した。
その頃から、クラウディアは父である王に見切りを付けていた。
あれはもはや彼女らの父ではない、ただの狂人と成り果ててしまったのだと。
それ以来、クラウディアはどのようにして父を退けるか思案を巡らせるようになった。
そんな矢先のことだった。
突然、アンドレアスがシャルロッテには魔術の素養があるなどと言い出した。
その才能を活かすためにも自らが教師になってシャルロッテに魔法を教授したいと、ゲオルグに申し出たのだ。
ゲオルグはそれを二つ返事で承知した。
嫌な予感がしたクラウディアはすぐさまシャルロッテを匿い、自分達共々脱出する準備を始めた。
城内は決して狭くはないが、それでもシャルロッテを長期間匿い続けるには無理がある。
元々、城を出て身を隠すつもりでいたクラウディアは、その計画をすぐさま行動に移すことにしたのだ。
もし、何もせずシャルロッテをあの魔術師に差し出していたなら、今頃は彼女もゲオルグやヴァルターの様になっていたのではないか?
それを想像してクラウディアはおぞましさに身震いをした。
なぜか、あの魔術師はシャルロッテに執着していた。
シャルロッテが逃げたことを知れば、あの魔術師は必ず連れ戻そうと追手を差し向けるだろう。
いつまでもごまかし続けることはできない。
それでも、できるだけ時間を稼いで追手がかかるのを遅らせねばならない。
そうやって物思いに耽っていた彼女の肩に手を置く者がいた。
意識を現実に引き戻し、目を上げるとエーリヒがそこに立っていた。
「姉上、もう出よう。俺達にもさほど余裕があるわけじゃない」
「そうね。では行きましょう」
エーリヒがそう言いながら、先に立って小舟に乗り込み、クラウディアに手を差し出した。
弟の助けを借りながら、クラウディアは小舟に乗り込み、周りにいる騎士達に声をかける。
「さあ、皆! 私達も脱出しましょう!」
周りには他に騎士たちが乗り込んだ小舟が浮かんでいた。
ここを出た後は念の為別々に逃走し、あらかじめ定めた合流地点で落ち合うことになっていた。
「皆、どうか無事で」
クラウディアの言葉に騎士達が一様に頭を垂れる。
やがて小舟は進み出し、岸から離れていく。
シャルロッテは国外に逃したが、彼女らはこの国に残り戦うつもりだった。
狂ってしまった父を玉座から引きずり下ろすために。
そのためにまず、かつて宮廷魔術師であった女魔術師の元に身を寄せるつもりだった。
「シャルロッテのことはもう神に祈るしか無いな」
小舟の上でエーリヒが呟くのを聞いて、クラウディアはその頬に微かな笑みを浮かべた。
「知らないの? 悪い魔法使いに狙われたお姫様は、素敵な王子様に救われて幸せになるって、そう決まっているのよ」
「まあ、昔話の中ならそうだろうね」
エーリヒは笑いながらクラウディアの言葉を聞いていたが、ふと何かに気づいたように口を開いた。
「……だったら姉上も同じなんじゃないか?」
そうエーリヒに問われたクラウディアは弟を見る。
「同じって何が?」
「お姫様というところだよ。姉上にも当てはまるだろ?」
それを聞いたクラウディアはしばらくエーリヒの顔を見つめた後に悪戯めいた笑顔を浮かべた。
「ええ、そうね。だからきっと私のところにも素敵な王子様がやってきてくれる筈よ」
「王子なら、ここにも一人いるけどね」
そう言っておどけたように笑ってみせるエーリヒを、クラウディアは鼻で笑ってみせた。
「弟は数に入らないの」
「まあ、そうだろうね」
クラウディアの答えにエーリヒは愉快げに笑う。
「私達もまず自分の事を考えましょう。ここまではうまくやれたけど、この先はどうなるかわからないのだから」
「ああ。いくら心配しても、シャルロッテのためにしてやれることはもう無いしな」
エーリヒの言うとおりだった。
シャルロッテのために出来ることはもう何も無い。
後は護衛として付いている騎士達と、神聖帝国の援護に期待するしか無い。
今考えなければならないのは自分達のことだ。
最終的には父である王をなんとかしなければならない。
狂っているとはいえ一国の王を退けようというのだ。
簡単な事ではないだろう。
それでもあの狂王をそのまま玉座に座らせておくわけにはいかなかった。
「天の神々よ、どうか我らをお守りください」
この先に待ち受けているであろう苦難を思い、クラウディアは祈りの言葉を呟いていた。




