第九章 ななつ、先生、答えなさい
江口桜次郎は、夜明けまで多目的室の前にいた。
椅子には座らなかった。
壁にもたれ、片膝を軽く曲げ、腕を組んでいる。
いつもの気だるい姿勢だった。
だが、真壁彰には分かった。
あれは休んでいる姿勢ではない。
扉を塞いでいる姿勢だ。
中には子どもたちがいる。
眠っている子もいる。
眠れずに毛布の中で目を開けている子もいるだろう。
扉一枚を隔てた向こう側に、江口が守ろうとしているものがある。
そして廊下には、七つ目の歌が落ちていた。
ななつ 先生、答えなさい。
真壁は、その紙を証拠袋に入れて旧職員室へ持ち帰った。
机の上に並べる。
一枚目。
ひとつ、雪に隠して。
二枚目。
みっつ、枝に結んで。
六つ目。
むっつ、父を問いましょう。
七つ目。
先生、答えなさい。
犯人は、もう隠していない。
問いを投げている。
しかも、その問いは少しずつ対象を変えている。
最初は死者への見立てだった。
次に、村への問いになった。
母。
父。
そして、先生。
真壁は紙を見下ろした。
教師。
先生。
この施設にいる“先生”は、二人いた。
すでに死んだ戸倉誠一。
そして、江口桜次郎。
戸倉は父だった。
環の父。
それを江口は告げた。
ならば、七つ目が問う“先生”は、江口以外にいない。
二階堂壮也が旧職員室へ入ってきた。
顔色は悪い。
だが、目は眠っていない。
「江口は」
真壁が聞く。
「扉の前。動いてない」
「眠ったか」
「目は閉じてた。でも、寝てはいない」
「お前もだろう」
「まあな」
二階堂は椅子に座らず、机の前に立った。
証拠袋の中の紙を見る。
「七つ目か」
「ああ」
「この歌、どこまで続くんだ」
「江口は知っている」
「だろうな」
二階堂は口元に手を当てた。
「昔の桜次郎なら、こういうとき馬鹿なことを言って空気を壊した」
「今は?」
「壊す空気を選んでる」
「どういう意味だ」
「あいつは、子どもの不安は壊す。大人の沈黙は残す」
真壁は二階堂を見た。
うまい表現だった。
江口は子どもの前では場を軽くする。
だが、大人たちの前では、むしろ沈黙を濃くする。
言葉を選び、肝心なところで止める。
そのたびに、部屋の空気が重くなる。
「意図的か」
「半分は」
二階堂は言った。
「あとの半分は、本人も制御できてない」
九条雅紀が、焼け残った資料を持って入ってきた。
彼は机に資料を置く。
「整理できた」
真壁が促す。
「九年前、消された子の名は環。桐生真砂の子で、父親は戸倉誠一。死亡した子は、別にいる」
「名前は」
「まだ確定していない」
九条は一枚の紙を示す。
「ただ、事故報告書の黒塗りの下に残る文字と、保健室記録の断片から、死んだ子は“麻生”姓の可能性がある」
二階堂が顔を上げた。
「麻生?」
「そう読める」
「麻生環?」
「いや」
九条は首を振る。
「環は桐生真砂の子だ。後に別の家の子として処理される予定だった可能性はあるが、死んだ子の記録には別の名がある」
「では」
真壁が言う。
「死んだのは麻生姓の子。環は消えた」
「おそらく」
「村は、死んだ麻生の子を環として処理した」
「そうなる」
二階堂が低く言った。
「数が合わない、の意味が見えてきたな」
真壁は頷いた。
死んだ子が一人。
消えた子が一人。
だが、記録上は一人の事故。
つまり、死者の数と、名前の数が合っていない。
弔われた子と、消された子がずれている。
犯人は、それを合わせようとしている。
見立て殺人は、人数を増やすためのものではない。
消された関係者を、役割ごとに引きずり出している。
雪。
水。
枝。
炉。
母。
父。
先生。
それぞれが、十年前の隠蔽の工程だった。
真壁は紙を見た。
「七つ目の問いは、江口が何をしたかだ」
「何もしなかった、と本人は言っている」
二階堂が答える。
「だが、それだけなら七つ目にならない」
九条が静かに言った。
「彼は、何かを見た。あるいは、何かを選んだ」
真壁は、江口の言葉を思い出した。
助ける子を間違えたのかもしれない。
その意味が、重くなった。
子どもが二人いた。
一人は死に、一人は消えた。
江口は、どちらを助けようとしたのか。
そして、どちらを助けられなかったのか。
*
朝。
江口は子どもたちに、いつも通りの声で言った。
「今日は、荷物をまとめる練習をします」
「帰れるの?」
男の子が聞く。
「まだ分かりません」
「じゃあなんで?」
「帰れるときに、すぐ帰れるように」
江口は紙袋を配る。
「大事なもの、なくしたら困るもの、手元に置いておきたいもの。三つに分けてください」
「先生は?」
「僕は、なくして困るものが少ない人生なので」
「またそういうこと言う」
「はい、生活指導入りました」
子どもたちは、疲れた顔ながらも笑った。
真壁は廊下の外から見ていた。
江口の声は、いつもと変わらない。
だが、背中が違った。
昨夜より、少しだけ細く見えた。
いや、違う。
背負っているものが見えるようになっただけだ。
二階堂が隣に立つ。
「話すタイミングを探してる」
「江口が?」
「ああ」
「逃げているように見えるが」
「逃げながら、戻る場所を探してるんだろうな」
二階堂の声は、ひどく低かった。
「面倒なやつだ」
「高校時代からか」
「高校時代から」
二階堂は短く笑う。
「でも、あのころはまだ逃げ切れると思ってた」
「今は?」
「もう無理だ」
*
江口への聞き取りは、旧音楽室で行われた。
多目的室から少し離れ、けれど子どもの声が完全には消えない場所。
江口がそれを望んだ。
「声が聞こえるほうがいいので」
彼はそう言った。
真壁は反対しなかった。
むしろ、そのほうがいいと思った。
江口は子どもの声が聞こえる場所では、完全な嘘をつきにくい。
旧音楽室には、壊れたピアノが残っていた。
鍵盤のいくつかは沈んだまま戻らない。
壁には、古い校歌の額。
江口は、その下の椅子に座った。
昨日までより、おとなしかった。
自分を軽くする言葉を、あまり使わない。
真壁は真正面に座る。
二階堂は窓際。
九条は壁際。
誰も急がなかった。
最初に口を開いたのは、真壁だった。
「七つ目の歌について聞く」
「はい」
「先生、答えなさい。これはお前への問いだな」
「そうでしょうね」
「何を答えるべきなんだ」
江口は、壊れたピアノを見た。
「九年前、僕が何をしたか」
「何をした」
「間違えました」
「何を」
「子どもの嘘と、大人の嘘を」
真壁は黙って続きを待った。
江口は、指を組んだ。
指先が白い。
「子どもが嘘をつくときって、大抵、何かを守ってます。自分だったり、友達だったり、怒られたくない気持ちだったり」
「大人も同じだろう」
「違います」
江口はすぐに言った。
「大人の嘘は、守る対象が大きくなる。学校とか、村とか、体面とか、将来とか。大きい言葉を使うぶん、目の前の一人が見えなくなる」
「九年前、お前はそれを見誤った」
「はい」
江口は目を閉じた。
「環は嘘をついていると思いました」
「どんな」
「自分は誰の子でもない、と」
二階堂が少し動いた。
江口は続ける。
「そんなわけないと思った。子どもは誰かの子だ。戸籍もある。保護者もいる。学校に来てる。名前もある。だから、環が言っていることは、寂しさから来る言葉だと思ったんです」
「実際は」
「本当だった」
江口の声は、かすれた。
「少なくとも、あの子の世界では、本当だった。母親は消えた。父親は名乗らない。村は別の家の子にしようとしていた。記録は直される。先生たちは黙る。誰も、あの子の名前を正しく呼ばない」
真壁は言葉を挟まない。
「僕は、そんなことがあると思わなかった」
「教育実習生だったからか」
「いえ」
江口は首を振る。
「僕が、子どもを見下ろしていたからです」
それは、厳しい言葉だった。
自分への。
「先生として?」
「大人として」
江口は、壊れた鍵盤を見つめる。
「子どもが言っていることを、全部比喩だと思った。本気で助けてと言われているのに、“寂しいんだな”って受け取った」
二階堂が低く聞く。
「それで?」
「環は、雪桜の下にいました」
江口の声が、さらに静かになる。
「泣いていた。僕は、大丈夫だと言った。僕がいるから、と」
「そのあと、戸倉に呼ばれた」
真壁が確認する。
「はい。戸倉先生が来て、僕を呼んだ。桐生さんの件で話があると」
「桐生真砂の件?」
「はい」
「お前は行った」
「行きました」
「環を置いて」
江口の喉が動いた。
「はい」
短い答え。
だが、その一音に九年分の重さがあった。
「戻ったら、環はいなかった」
「はい」
「もう一人の子は」
「その前に、水路で見つかっていました」
真壁は眉を寄せる。
「時系列を整理する。子どもが二人いなくなった。先に水路で一人が見つかった。死亡していた。環はその後、雪桜の下にいた」
「はい」
「つまり、環は生きていた」
「その時点では」
二階堂が拳を握る。
「じゃあ、環を消したのは事故のあとだ」
「はい」
「誰が」
江口は答えない。
「戸倉か」
「分かりません」
「佐貫か」
「分かりません」
「お前は見たんじゃないのか」
江口は目を伏せる。
「見ました」
真壁の目が鋭くなる。
「何を」
「雪の上に、誰かの足跡を」
「誰の」
「大人のものです」
「それだけか」
「あと」
江口は、ひどく言いにくそうに口を開いた。
「小さな血」
部屋が静まる。
九条が初めて強く反応した。
「血?」
「はい」
「どこに」
「桜の根元。雪の上に」
「環のものか」
「分かりません」
「なぜ調べなかった」
江口は笑った。
力のない笑いだった。
「そのころの僕に、何ができたと思います?」
「警察を呼べた」
真壁が言う。
「はい」
「騒げた」
「はい」
「子どもを探せた」
「はい」
「しなかった」
「はい」
江口は、全部受け止めた。
反論しない。
弁解しない。
それがかえって痛々しい。
「なぜしなかった」
真壁が聞いた。
江口は、しばらく黙った。
そして言った。
「大人たちが、もう大丈夫だと言ったから」
真壁は息を止める。
「戸倉先生が、環は保護者が迎えに来たと言った。佐貫さんが、村の問題だから外には出すなと言った。柿沼さんが、余計なことを言えば子どもたちが傷つくと言った。大内先生が、水路の子は事故死で間違いないと言った。白石さんはまだ担当ではなかったけど、後から書類を整理した。宮原は、足跡を見たのに黙った」
「お前は信じたのか」
「信じたかった」
江口は答えた。
「それが一番、最低です」
真壁は、江口を見ていた。
この男は、自分の罪を“何もしなかった”と呼んでいる。
だが違う。
何もしなかったのではない。
大人の言葉を選び、子どもの言葉を退けた。
それが、江口の罪だった。
「七つ目の問いは、それか」
真壁が言う。
「お前はなぜ、子どもの言葉を信じなかったのか」
江口は小さく頷いた。
「そうだと思います」
「誰が、お前に問うている」
江口は答えない。
二階堂が低く言う。
「環か」
江口は、壊れたピアノを見たまま言った。
「そうなら、楽ですね」
「楽?」
「環が問うているなら、僕は謝れる。でも」
江口は、初めて真壁たちを見た。
「これは、環の問いじゃない」
「誰の問いだ」
「たぶん」
江口は言った。
「僕より、僕を許せない人です」
*
その言葉の意味を考える暇はなかった。
旧音楽室の外で、走る音がした。
施設職員の声。
「大変です! 佐貫さんが!」
真壁たちは立ち上がった。
旧保健室へ向かう。
佐貫は、ベッドの上で上体を起こしていた。
呼吸が荒い。
だが、意識はある。
施設職員が慌てている。
佐貫は、真壁を見ると、震える手を伸ばした。
「紙が……」
「紙?」
枕元に、一枚の紙があった。
誰が置いたのか。
見張りはいた。
だが、見張りは誰も紙が置かれる瞬間を見ていないという。
紙には、短い言葉。
――先生が答えないなら、子どもに聞きましょう。
真壁の背筋が冷えた。
二階堂が即座に走り出す。
「多目的室!」
真壁も続く。
江口が最後に出遅れた。
いや、出遅れたのではない。
一瞬、動けなかった。
顔から血の気が引いていた。
「桜次郎!」
二階堂が叫ぶ。
その声で、江口が走った。
*
多目的室の前には、誰もいなかった。
施設職員が一人、廊下に倒れている。
意識はある。
後頭部を押さえている。
「中は!」
真壁が扉を開ける。
子どもたちはいた。
ほとんど全員。
だが、一人足りない。
江口が、一瞬で数えた。
その速さは、教師のものだった。
「……新葉がいない」
声が変わった。
「誰だ」
真壁が聞く。
「男の子です。四年生」
「どこへ」
子どもたちは泣きながら首を振る。
一人の女の子が、震える手で窓を指した。
「先生を呼びに行くって……紙が来て……」
「紙?」
床に、小さな紙が落ちていた。
子どもの字ではない。
そこには一行。
――先生は、雪桜の下で待っています。
江口の顔が、完全に消えた。
表情も、色も、何もない。
真壁が言うより早く、江口は走り出していた。
「江口!」
真壁が追う。
二階堂も続く。
九条が子どもたちを施設職員に任せ、後から走る。
旧昇降口。
鍵は開いている。
外へ続く足跡。
小さな足跡。
子どものもの。
雪桜へ向かっている。
江口は雪に足を取られながら、走った。
転びかけても止まらない。
真壁は追いつけない。
江口のフィジカルはボロボロのはずだった。
目の下にはクマがあり、寝不足で、疲労で、まともに食べてもいない。
だが、そのときだけは違った。
子どもが消えた。
それだけで、彼の体は限界を超えて動いていた。
「新葉!」
江口が叫ぶ。
雪桜の下。
小さな影があった。
男の子が倒れている。
江口が駆け寄り、膝をつく。
「新葉!」
真壁も追いつく。
子どもは意識があった。
目を開けている。
震えている。
首元に、桜の花びらがついていた。
怪我はないように見える。
真壁は周囲を見る。
足跡。
子どもの足跡。
江口の足跡。
そして、もう一つ。
大人の足跡が、雪桜の反対側へ続いている。
「二階堂!」
「分かってる!」
二階堂が足跡を追う。
九条は子どもを確認する。
「低体温になりかけている。すぐ中へ」
江口は男の子を抱き上げた。
「先生……」
男の子が泣きそうな声で言う。
「ごめんなさい」
「謝るな」
江口の声は震えていた。
「いいから、息して。俺の首に手回せ」
「先生がいるって……紙に」
「うん」
「先生、いなかった」
江口の顔が歪んだ。
「ごめん」
「先生、嘘ついた?」
「違う」
江口は、雪を踏みしめながら言った。
「僕が、遅かった」
その言葉は九年前と重なった。
雪桜の下。
子ども。
大丈夫だと言った教師。
そして、遅かった男。
真壁は、その背中を見ていた。
江口は、九年前と同じ場所に立たされている。
犯人はそれを狙った。
先生に答えさせるために。
*
二階堂は足跡を追って、旧保管庫の方角へ向かっていた。
真壁は子どもを九条と施設職員へ任せ、二階堂を追う。
足跡は途中で消えていた。
いや、消されたのではない。
古い除雪用の板が置かれた場所から、足跡が不自然に途切れている。
「板の上を歩いた」
二階堂が言う。
「誰だ」
「分からない」
「江口ではないな」
二階堂は、雪桜の方を振り返った。
江口は子どもを抱えて校舎へ戻っている。
「あいつには無理だ」
「そうだな」
少なくとも、この誘拐まがいの行動を江口が同時に行うことは不可能だった。
だが、江口が事件から外れたわけではない。
むしろ、犯人は明確に江口を舞台に上げた。
「犯人は江口を責めている」
真壁が言う。
「そうだ」
二階堂の声は低い。
「江口より、江口を許せない人間」
「それは誰だ」
二階堂は答えなかった。
だが、答えは近づいていた。
*
新葉という男の子は、命に別状はなかった。
体温が下がっていたが、九条と施設職員の処置で落ち着いた。
江口は多目的室の隅で、彼のそばに座っていた。
ずっと。
子どもが眠るまで、手を離さなかった。
真壁が近づいても、江口は顔を上げなかった。
「江口」
「はい」
声は枯れている。
「新葉くんは助かった」
「はい」
「今回は、間に合った」
江口の手が止まる。
真壁は、あえて言った。
「九年前とは違う」
江口は、ゆっくり顔を上げた。
その目は赤かった。
涙ではない。
怒りか、疲労か、恐怖か。
たぶん全部だった。
「違いませんよ」
「違う」
「僕が遅かったことは同じです」
「だが、助かった」
「それは、この子が強かっただけです」
「お前も動いた」
「動くのが遅い」
「江口」
真壁の声が強くなる。
江口は、初めて怒ったような顔をした。
「慰めないでください」
低い声だった。
「僕は慰められるために、ここにいるんじゃない」
「なら何のためにいる」
「答えるためです」
多目的室の空気が静まる。
江口は、眠る子どもを見てから、真壁を見た。
「先生、答えなさい」
自分で、その言葉を口にする。
「分かりました」
声は、震えていなかった。
「答えます」
*
旧音楽室に戻ると、江口は自分から椅子に座った。
二階堂が向かいに立つ。
真壁は机の前。
九条は壁際。
江口は、少しだけ目を閉じ、それから話し始めた。
「九年前、水路で死んだ子の名前は、麻生薫です」
麻生薫。
真壁はメモを取る。
「環とは別人だな」
「はい」
「麻生薫は、なぜ死んだ」
「環を助けようとしたからです」
二階堂が息を呑む。
「助けようと?」
「薫は、環と仲が良かった。環が自分の家にも学校にも居場所がないと泣いていたのを知っていた。あの日、環は雪桜の下に行った。薫も追いかけた」
「水路で死んだのは薫」
「はい」
「事故か」
江口は、長く黙った。
「最初は、事故だったのかもしれません」
「最初は?」
「薫は、環を探して水路の方へ行った。足を滑らせた。そこまでは、本当に事故だったのかもしれない」
「その後、何があった」
「環が生きていた」
江口は、唇を噛んだ。
「環は雪桜の下に戻ってきた。そこで僕が見つけた。でも大人たちは、薫が死んだことを知ったあと、環も消すことにした」
「なぜ」
「薫が環を探して死んだと分かれば、環の存在を隠せなくなるから」
真壁の中で、怒りが静かに膨らんだ。
子どもが一人死んだ。
その理由を隠すために、もう一人を消した。
「環はどこへ行った」
「分かりません」
「またか」
「本当に分からない。でも」
江口は、ゆっくり言った。
「僕は、見てしまった」
「何を」
「雪桜の根元に、薫の血がついたハンカチが置かれているのを」
「薫の?」
「はい」
「なぜ分かる」
「名前が刺繍されていた」
真壁は眉を寄せる。
「薫の血のついたハンカチが、環のいた場所に?」
「はい」
「それが何を意味する」
「環が持っていたんだと思いました」
「なぜ」
「薫を助けようとして、助けられなかった。だから持っていたのかもしれない」
「そして?」
「大人たちは、それを逆に利用した」
江口の声が冷えていく。
「薫の死を、環の死にした。環は水路で死んだことにした。薫という名前は、事故の記録から消された」
二階堂が、低く言った。
「麻生薫が、消された子だった」
「はい」
「環は死んだことにされた子」
「はい」
真壁はメモを止めた。
構造が反転した。
消された子は環だと思っていた。
だが違う。
記録から消されたのは麻生薫。
死んだことにされたのは環。
実際に水路で死んだのは薫。
行方不明になったのは環。
村は、薫の死を環の死として処理した。
薫は存在ごと消された。
環は死者にされた。
どちらも、正しく弔われなかった。
「数が合わない」
真壁が呟いた。
江口は頷いた。
「そうです」
「死んだ子の名前と、弔われた名前が違う」
「はい」
「だから、数を合わせる」
「誰かは、そう思っている」
真壁は江口を見る。
「お前ではなく?」
江口は、目を伏せた。
「僕は、そう思っています」
二階堂が息を止める。
江口は続けた。
「でも、僕はやっていません」
「信じてほしいのか」
「いいえ」
江口は顔を上げる。
「信じなくていいです。僕は、信じてもらえることをしていない」
その言葉は、弁解ではなかった。
むしろ、信頼を拒む言葉だった。
だからこそ、真壁は聞いた。
「なら、なぜ今話した」
江口は、眠っている悠真のいる多目的室の方角を見た。
「子どもが巻き込まれたからです」
「今までも巻き込まれていた」
「はい」
「だが、直接ではなかった」
「そうです」
江口は、静かに言った。
「犯人は、僕に答えさせるために子どもを使った」
「それが許せないか」
江口の声が、初めて明確に冷たくなった。
「許せるわけないでしょう」
その目に、真壁は初めて“犯人ではない江口”を見た気がした。
いや。
正確には、犯人であってもおかしくない怒りを持ちながら、別の一線だけは踏まない男を見た。
子どもを使わない。
そこだけは、江口の中で絶対だった。
*
その夜、真壁たちは事件の構造を整理した。
雪に隠された戸倉。
戸倉は環の父。
水に流された柿沼。
柿沼は保護者を黙らせた。
枝に結ばれた大内。
大内は死因と記録を曲げた。
炉にくべられた宮原。
宮原は薫の存在を知り、写真と音声を残していたが黙っていた。
母に返された白石。
白石は母親記録を整理し、環の母である桐生真砂を記録から遠ざけた。
父を問われた佐貫。
佐貫は村を守るため、環と薫の存在を入れ替えた。
そして、先生として問われた江口。
江口は子どもの言葉を信じず、大人の説明を受け入れた。
七つの役割。
七つの罪。
だが、犯人はまだ見えない。
「誰が、この構造を知っている」
真壁が言う。
二階堂が答える。
「江口。佐貫。宮原は知っていた。白石も一部。戸倉は当然。大内も。柿沼も」
「死んだ者を除くと」
「江口と佐貫」
「佐貫は動けない」
「江口は、悠真の件では動けなかった」
九条が言う。
「もう一人いる」
「誰だ」
真壁が聞く。
九条は、焼け残った資料を指した。
「麻生薫の関係者」
二階堂が眉を寄せる。
「親か」
「可能性は高い」
麻生薫。
その名が出た瞬間、事件はまた別の顔を見せ始めた。
薫の死は、環の死として処理された。
なら、薫の家族は何を聞かされたのか。
転校。
失踪。
病気。
あるいは、最初からいなかったことにされたのか。
子ども一人の死が、別の名前で処理された。
その事実を知った人間がいたら。
復讐。
いや。
九条は言った。
これは復讐ではない。
思い出させる構造だ。
だが、復讐でなくても、人は殺せる。
名前を返すために。
弔い直すために。
数を合わせるために。
「麻生薫の母親、父親、親族を探す」
真壁が言った。
「資料に残っているか」
二階堂がファイルをめくる。
九条も焼け残りを確認する。
だが、麻生の記録はほとんど残っていない。
消されている。
環以上に。
その不自然さが、かえって証拠だった。
「麻生薫こそ、本当に消された子か」
二階堂が言う。
「そうだ」
真壁は頷いた。
「なら、犯人はそこにいる」
*
深夜。
江口は旧職員室に来た。
自分からだった。
手には、子どもたちの作文の束。
その中の一枚を、真壁の前に置いた。
「新葉の作文です」
「本人は」
「眠りました」
真壁は紙を見る。
子どもの字で、短い文章が書かれている。
――先生は、うそをついたけど、来た。
――だから、ぼくは先生をちょっとだけゆるす。
――でも、こんどはもっと早く来てほしい。
真壁は、ゆっくり江口を見た。
江口は笑っていた。
今にも崩れそうな顔で。
「子どもって、きついですね」
「そうだな」
「大人より、ずっと」
「答えを出したか」
江口は頷いた。
「はい」
「何を答える」
「九年前、僕は先生ではなかった」
真壁は黙る。
江口は続ける。
「でも、あの子たちは僕を先生と呼んだ。だから、逃げたら駄目だった」
「今は?」
「今は、逃げません」
二階堂が言う。
「犯人に心当たりがあるのか」
江口は、少しだけ目を伏せた。
「あります」
空気が止まった。
真壁が聞く。
「誰だ」
江口は答える前に、窓の外を見た。
雪桜。
夜の中で、白く沈んでいる。
「麻生薫には、姉がいました」
「姉?」
「当時、中学生。薫より六つ上」
「名前は」
江口は言った。
「麻生遥」
二階堂が資料を探す。
だが、すぐには見つからない。
江口は言う。
「記録からは、薫と一緒に消されています」
「今どこにいる」
「分かりません」
「なぜ心当たりがある」
「昨日」
江口の声が低くなる。
「新葉を連れ出した紙の字を見ました」
「見覚えがあるのか」
「はい」
「誰の字だ」
「九年前、僕に手紙をくれた子がいました」
江口は、目を閉じる。
「“先生、薫を見つけてください”って」
真壁は、息を止めた。
「麻生遥か」
「はい」
江口は頷いた。
「僕は、その手紙にも答えなかった」
七つ目の問い。
先生、答えなさい。
それは環だけの問いではなかった。
薫の問いでもあった。
そして、薫の姉の問いでもあった。
真壁は立ち上がった。
「麻生遥を探す」
江口は言った。
「たぶん、もう探す必要はありません」
「なぜ」
「向こうから来ます」
「どこへ」
江口は、窓の外を見たまま答えた。
「雪桜の下です」
その瞬間、旧校舎の放送設備が鳴った。
ざらついたノイズ。
古いスピーカー。
校内放送。
誰も使っていないはずの設備から、女の声が流れた。
『先生』
江口の顔が、完全に硬直した。
『今度は、答えてくれますか』
声は若くない。
だが、どこか少女の響きを残している。
『薫は、どこですか』
放送が切れた。
旧職員室に、沈黙が落ちる。
真壁は江口を見る。
江口は、まっすぐスピーカーを見ていた。
逃げない目だった。
ようやく、彼は言った。
「行きます」
二階堂が遮る。
「一人では行かせない」
「分かってる」
「分かってない。お前は自分を罰する場所に行こうとしてる」
江口は、二階堂を見る。
「そうかもな」
「認めるな」
「でも、行かないと」
「警察が行く」
「僕が答えないと、終わらない」
真壁は二人の間に入った。
「全員で行く」
江口は頷いた。
その顔に、もう軽口はなかった。
雪桜の村は、最後の問いを始めた。
薫はどこですか。
それは、死んだ子の場所を聞いているのではない。
消された名前の行き先を聞いている。
真壁はコートを手に取った。
雪は、また降り始めていた。




