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雪桜の教室は、誰の子を埋めたのか  作者: 綾見 恋太郎


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8/12

第八章 江口桜次郎

 むっつ、父を問いましょう。

 その一行を見た瞬間、廊下の空気が変わった。

 冷えたのではない。

 むしろ、今まで凍っていたものが、音を立てて割れたようだった。

 真壁彰は紙から目を離せなかった。

 ねんねん桜 誰の子だ。

 ひとつ 雪に隠して。

 ふたつ 川に流して。

 みっつ 枝に結んで。

 よっつ 炉にくべて。

 いつつ 母に返して。

 むっつ 父を問いましょう。

 昨日までの歌にはなかった六つ目。

 江口桜次郎は言った。

 本当の歌になった、と。

 真壁は紙を見下ろしたまま、低く聞いた。

「本当の歌とは何だ」

 江口は答えなかった。

 白い廊下。

 古い校舎。

 朝の冷え。

 どこかで、暖房機が唸っている。

 その音だけが、やけに現実的だった。

 二階堂壮也が、一歩、江口へ近づく。

「桜次郎」

 声は静かだった。

 だが、その静かさが、かえって危うい。

「今の言葉、説明しろ」

 江口は紙を見ている。

 薄い唇が、わずかに動いた。

「……昔は、六番まであったんです」

「わらべ歌か」

「はい」

「誰が消した」

「大人です」

「またそれか」

 二階堂の声に苛立ちが混じる。

「大人、大人って、便利な言い方をするな。具体的に誰だ」

 江口は、ゆっくり視線を上げた。

「佐貫源蔵」

 廊下の奥で、施設職員が息を呑む音がした。

 佐貫源蔵。

 村の有力者。

 この施設再開発の中心にいた男。

 九年前の事故処理にも関わったと見られる男。

 そして、今、部屋から消えた男。

「佐貫はどこへ行った」

 真壁が聞く。

「分かりません」

「本当にか」

「はい」

「お前は“やっと”と言った」

「はい」

「佐貫が消えることを知っていたのか」

 江口は少しだけ目を伏せた。

「消えるだろうな、とは思ってました」

 二階堂が息を詰める。

「なぜ止めなかった」

「止めても、行く人なので」

「ふざけるな」

 声が鋭くなった。

 江口は、反射的に多目的室の方角を見た。

 子どもたちがいる。

 扉は閉まっている。

 聞こえてはいないだろう。

 それでも、江口の顔がわずかに強張った。

 二階堂は、それに気づいた。

 気づいた上で、声を落とした。

「お前、分かってるのか。五人死んでるんだぞ」

「分かってる」

「なら、どうしてそんな顔ができる」

「どんな顔」

「全部、予定通りみたいな顔だ」

 江口は笑わなかった。

 そこに笑みを乗せようともしなかった。

「予定通りなら」

 彼は言った。

「もう少し、ましにしましたよ」

 その言い方は、以前にも聞いた。

 もし自分が犯人なら、もっと上手くやる。

 子どもを怖がらせない。

 時間帯を選ぶ。

 段取りを整える。

 それは弁明にも聞こえた。

 だが同時に、犯人の視点を持っている人間の言葉でもあった。

 真壁は、紙を証拠袋に入れた。

「佐貫を探す。二階堂は中を固めろ」

「俺も行く」

「駄目だ」

 二階堂の視線が、真壁へ刺さる。

「また中か」

「江口から目を離すな」

 江口が顔を上げた。

 二階堂は一瞬、口を閉じた。

 その沈黙だけで、真壁には十分だった。

 二階堂は江口を疑っている。

 だが、同時に、この場所に置いていくことも怖がっている。

 同級生という情だけではない。

 江口が今、事件の中心にいるからだ。

「分かった」

 二階堂は短く言った。

「ただし、江口は俺が見てる」

「そうしろ」

 九条雅紀は、すでにコートを羽織っていた。

「佐貫が自分で出たなら、足跡がある」

「外か」

 真壁が聞く。

「この紙を置いてから消えたなら、誰かに呼ばれた可能性が高い。今までと同じだ」

 今まで。

 戸倉は外へ出た。

 柿沼は水路へ向かった。

 大内は木の下へ歩いた。

 白石は母子相談室へ入った。

 宮原は焼却炉へ。

 被害者たちは、無理やり運ばれたというより、最後の場所へ自分で近づいている。

 呼ばれて。

 導かれて。

 あるいは、行かざるを得ないものを見せられて。

「行くぞ」

 真壁は言った。

      *

 佐貫源蔵の部屋の床には、濡れた跡が残っていた。

 窓は閉まっている。

 扉から廊下へ。

 廊下から旧昇降口へ。

 昇降口の鍵は、内側から開けられていた。

 外に出ると、足跡があった。

 老人の歩幅。

 杖の跡。

 雪の上に、点々と続いている。

 真壁はそれを追った。

 九条が後ろに続く。

 雪は膝下まである。

 空は重い。

 風は弱いが、冷たさが皮膚を刺す。

 足跡は、雪桜へ向かっていた。

 校庭の中央。

 一本の桜。

 すでに何度も見た光景なのに、今朝は違って見える。

 枝には雪が積もり、花弁は白の中で薄く霞んでいる。

 春と冬が、互いを殺しきれずに同居しているようだった。

「父を問いましょう」

 九条が呟く。

「父とは、佐貫か」

「可能性はある」

「環の父親?」

「あるいは、父であることを隠した男」

 真壁は足跡を見た。

 佐貫の跡は、桜の手前で止まっている。

 そこから、別の方向へ曲がっていた。

 旧校舎の裏。

 倉庫。

 さらに奥。

 昨日まで立ち入り禁止にしていた、古い防空壕兼保管庫の方角だった。

「地下か」

 真壁の声が低くなる。

 九条は頷いた。

「最後にふさわしい場所だな」

「嫌な言い方をするな」

「事実だ」

 旧保管庫は、校舎の裏手にある斜面の下に作られていた。

 戦時中の防空壕を、のちに農具や教材の保管場所として使っていたものらしい。

 施設改装後は、危険という理由で閉鎖されている。

 入口は木の扉。

 古い南京錠。

 その南京錠が、外れていた。

 扉は少しだけ開いている。

 中から、土と黴の匂いがした。

「佐貫」

 真壁が呼ぶ。

 返事はない。

 懐中電灯をつけ、扉を押す。

 重い音がして、扉が開いた。

 内部は暗かった。

 低い天井。

 土壁。

 冷たい湿気。

 奥へ続く通路。

 足跡は中へ続いている。

 杖の跡も。

「無理に入るな」

 九条が言う。

「崩落の危険がある」

「佐貫が中にいる可能性がある」

「だから慎重に入る」

 真壁は頷き、足元を確認しながら進んだ。

 通路の奥は思ったより広い。

 古い棚が並び、錆びた缶、壊れた椅子、教材らしき箱が積まれている。

 さらに奥。

 小さな空間があった。

 そこに、何かが置かれていた。

 白い布。

 小さな靴。

 古いランドセル。

 そして、桜の花びら。

 季節外れの、淡い花弁。

 真壁は足を止めた。

「……ここは」

 九条が静かに言う。

「祭壇のようだな」

 真壁は周囲を照らした。

 佐貫はいない。

 だが、棚の上に紙が置かれていた。

 真壁は手袋をしたまま、ライトで照らす。

 そこには一行だけ書かれていた。

 ――父は、まだ答えていない。

「佐貫はここに来た」

 真壁が言う。

「ああ」

「その後、どこへ」

 九条が足元を見る。

 足跡は、祭壇の前で乱れている。

 そこから奥へ続く。

 奥には、さらに狭い扉があった。

 普段なら気づかないような、壁と同じ色の小さな扉。

 佐貫の杖の跡は、その前で途切れていた。

 真壁は扉に手をかけた。

 開かない。

 内側から何かで塞がれているようだった。

「佐貫!」

 声を張る。

 奥から、微かな音がした。

 呻き声。

 真壁と九条は顔を見合わせた。

「生きている」

 真壁は扉を押した。

 動かない。

 肩で押す。

 わずかに軋む。

 九条も手を貸す。

 二度、三度。

 扉が開いた。

 中は狭い。

 人一人がようやく入れるほどの空間。

 そこに、佐貫源蔵が倒れていた。

 胸を押さえている。

 顔面蒼白。

 息が荒い。

 首に縄はない。

 血も見えない。

 だが、明らかに危険な状態だった。

「佐貫!」

 真壁が駆け寄る。

 九条が脈を取る。

「心拍が乱れている。低体温とショック。すぐに暖かい場所へ」

 佐貫の唇が動いた。

「……ちがう」

「何が違う」

 真壁が顔を近づける。

「わしは……父では……」

 言葉はそこで途切れた。

 意識が落ちる。

 九条が短く言う。

「運ぶ」

 真壁は無線代わりのスマホを確認する。

 圏外。

 走るしかない。

「二階堂を呼ぶ」

      *

 佐貫は一命を取り留めた。

 少なくとも、現時点では。

 旧保健室に運ばれ、毛布で包まれた。

 九条が最低限の処置を行い、施設職員が暖房を強める。

 医療機器はほとんどない。

 救急もまだ来ない。

 佐貫は意識を失ったままだった。

「殺されかけたのか」

 二階堂が聞く。

 九条は首を振る。

「判断が難しい。薬物の可能性もあるが、今のところ外傷はない。閉じ込められたことで低体温を起こした可能性が高い」

「つまり、今回は未遂?」

「あるいは、問いの途中で止めた」

 真壁は佐貫の顔を見る。

 老人は、うなされるように息をしている。

 父ではない。

 そう言った。

 なら、父は別にいる。

 環の父親。

 いてはいけない子の父親。

 村が消した理由。

 それが、次の鍵になる。

「江口は」

 真壁が聞く。

 二階堂が答える。

「多目的室にいる。ずっと俺が見てた」

「紙が置かれた時間は」

「佐貫が消える前だろうな。江口はその前後、多目的室から出ていない」

「証言者は」

「俺と施設職員二名。子どもたち」

 江口の直接関与は薄くなった。

 だが、疑いは消えない。

 むしろ濃くなる。

 本人が動かなくても、犯行は進んでいる。

 誰かと共犯か。

 事前準備か。

 あるいは、江口以外の誰かが、江口の知る真実をなぞっているのか。

「祭壇があった」

 真壁が言う。

 二階堂の目が鋭くなる。

「何の」

「子どものものだ。靴、ランドセル、白い布、桜の花びら」

「環の?」

「まだ分からない」

「でも、そう見せたい」

「ああ」

 二階堂は口元に手を当てる。

「父を問いましょう。佐貫は父ではないと言った」

「本当ならな」

「嘘をつく余裕はなかったように見えた」

 九条が言う。

「では父は誰だ」

 沈黙。

 その答えに近い人物は、今この施設にいるのか。

 それとも、すでに死んだ誰かなのか。

 戸倉。

 柿沼。

 大内。

 宮原。

 佐貫。

 江口。

 そして、名前だけ出てきた桐生真砂。

 環。

 真壁は、疲労で重くなった頭を無理やり動かした。

「江口に聞く」

 二階堂が言った。

「もう逃がさない」

      *

 江口桜次郎は、多目的室の前にいた。

 中では子どもたちが作文の続きを書いている。

 施設職員がついている。

 江口は廊下に立ち、壁にもたれていた。

 真壁たちを見ると、彼は小さく息を吐いた。

「佐貫さん、生きてます?」

「ああ」

「そうですか」

 その返事に、二階堂の表情が険しくなる。

「残念そうだな」

「安心してますよ」

「顔がそう見えない」

「顔色の悪さは標準装備です」

「桜次郎」

 鋭い声。

 江口は黙った。

 二階堂は近づく。

「父は誰だ」

 江口の表情が止まる。

「佐貫は、自分は父ではないと言った」

 真壁が続ける。

「なら、誰だ。環の父親は」

 江口は、多目的室の扉を見る。

「ここでは話せません」

「場所を変える」

「子どもから離れたくない」

「逃げるな」

 二階堂の声が低くなる。

「子どもを盾にするな」

 江口の目が、わずかに揺れた。

 初めて、痛みを感じたような顔をした。

「……それは」

 言葉が止まる。

 二階堂は畳みかけない。

 ただ、静かに言った。

「お前が一番嫌うことだろ」

 江口は、目を閉じた。

 長い沈黙。

 やがて、扉を振り返る。

「五分だけ」

「足りない」

「じゃあ十分」

「足りない」

「……分かりました」

 江口は多目的室へ顔を出した。

「僕、ちょっと大人に怒られてきます」

 子どもが顔を上げる。

「また?」

「またです」

「悪いことしたの?」

「しました」

 子どもたちは黙った。

 江口は笑う。

「でも、今すぐ逃げたりしないので、ここで待っててください。僕が戻るまで、作文の続き。テーマは“帰ったらしたいこと”」

「先生は?」

「寝たい」

「それ作文にならない」

「僕の人生はだいたい短文です」

 子どもたちは少し笑った。

 その笑いを聞いてから、江口は扉を閉めた。

 閉める瞬間の顔は、笑っていなかった。

      *

 元図書室に移動した。

 かつて本棚が並んでいた部屋には、今は展示パネルと古い写真が置かれている。

 九年前の雪桜。

 集合写真。

 消された顔。

 すべてが、この部屋に集まっていた。

 江口は椅子に座らなかった。

 窓際に立つ。

「座れ」

 真壁が言う。

「立ってた方が楽です」

「座れ」

 今度は二階堂だった。

 江口は、少しだけ笑って椅子に座った。

「命令口調、昔より板についてるな」

「茶化すな」

「はい」

 真壁は机の上に、祭壇で見つかった紙の写真を置いた。

 父は、まだ答えていない。

「環の父親は誰だ」

 江口は写真を見た。

 しばらく黙っていた。

 その沈黙は、これまでの逃げる沈黙とは違った。

 思い出している。

 あるいは、思い出したくないものを、言葉にしようとしている。

「僕は」

 江口が口を開く。

「最初、佐貫さんだと思ってました」

「違ったのか」

「違いました」

「なぜ分かった」

「環が言ったから」

 二階堂が眉を寄せる。

「九年前に?」

「はい」

 江口は窓の外を見た。

「雪桜の下で、泣いていた。自分の名前を呼んでくれる人がいないって。母親は消えた。村では別の家の子にされた。本当の父親は、知らないふりをしてるって」

「誰だ」

 真壁が問う。

 江口はすぐには答えない。

「環は、その人の名前を言ったのか」

「言いました」

「なら言え」

「……言いたくない」

「江口」

「言うと、全部変わる」

「もう変わっている」

 二階堂が言った。

「五人死んで、佐貫も死にかけた。まだ変わってないと思ってるなら、お前は本当におかしい」

 江口は、少し笑った。

「おかしいですよ」

「桜次郎」

「僕は、あの日からずっとおかしい」

 声は静かだった。

「教師になったのも、たぶんおかしいからです。普通なら、学校なんて戻らない。子どもの声なんて聞きたくなくなる。でも、僕は戻った」

「なぜ」

 真壁が聞く。

「確認したかった」

「何を」

「子どもが、まだ大人を呼んでくれるか」

 その言葉に、部屋が静まった。

 江口は続ける。

「環は、最後に僕を呼びました。先生って」

「お前は教育実習生だった」

「はい」

「それでも先生と呼ばれた」

「はい」

 江口の指が、膝の上で握られる。

「だから、僕は行った。でも遅かった」

「何に」

「全部に」

 真壁は低く言う。

「環は死んだのか」

 江口は答えない。

「生きているのか」

 それにも答えない。

「分からないのか」

「分からない」

 ようやく、江口は言った。

「でも、僕はたぶん、分からないふりをしている」

 二階堂が目を細める。

「どういう意味だ」

「本当は、見たのかもしれない」

「何を」

 江口は口元を歪めた。

「環が、いなくなるところ」

 真壁は息を止めた。

「いなくなる?」

「連れて行かれたのか、逃げたのか、落ちたのか。分からない。でも、僕は雪桜の下に戻った。そこに、あの子はいなかった。白い布だけが落ちていた」

「今日、白石が抱いていた布か」

「たぶん」

「なぜ白石が持っていた」

「彼女が保管していたんでしょう」

「なぜ」

「罪悪感です」

 江口は即答した。

「人は、完全に捨てられなかったものを、隠すんです」

 真壁は紙片を見た。

 母。

 環。

 白い布。

 消された子。

「父親の話に戻る」

 真壁が言う。

 江口は、深く息を吐いた。

「環の父親は」

 そこで一度、言葉が止まる。

 二階堂が、静かに名前を呼ぶ。

「桜次郎」

 江口は二階堂を見た。

 昔の同級生を見る目だった。

 いや、もしかすると、初めてそう見たのかもしれない。

 江口は言った。

「戸倉先生です」

 真壁は動かなかった。

 二階堂の表情が変わる。

「第一の被害者……」

「はい」

 江口は頷く。

「環は、戸倉先生の子です」

 沈黙。

 第一の死体。

 雪に隠された元担任。

 彼は見て見ぬふりをしただけではなかった。

 父だった。

 問いに答えないまま死んだ父。

「なぜ佐貫は“父ではない”と言った」

 真壁が問う。

「佐貫さんは、環を自分の家の血筋の問題として処理した。戸倉先生を守ったのではなく、村を守ったんです」

「戸倉は教師だ。教え子の母親との間に子どもを?」

「桐生真砂さんは、当時、学校の臨時職員でした」

 江口は淡々と言った。

「図書室の手伝いと、給食補助。若かった。村の外から来た人でした」

「環は戸倉の子」

「はい」

「それを村が隠した」

「はい」

「なぜ、環を別の家の子にした」

「教師の不祥事になる。学校が荒れる。村の評判に傷がつく。雪桜観光の整備計画も止まる」

 江口は、吐き捨てるように言った。

「そういう、大人の都合です」

 二階堂が低く聞く。

「桐生真砂は」

「死にました」

「自殺か」

「表向きは」

「実際は」

 江口は答えない。

 真壁は、言葉を継ぐ。

「殺された可能性があるのか」

「分かりません」

「また分からないか」

「分からないんです。本当に」

 江口の声が、初めて乱れた。

「僕は、何も分からなかった。大人が何をしてるのか、誰が誰の親なのか、誰が嘘をついてるのか。子どもに先生って呼ばれて、でも何も分からなかった」

「それで、何もしなかった」

「はい」

「だから今、しているのか」

 真壁は真正面から聞いた。

「この事件は、お前の授業か」

 江口は、真壁を見た。

 部屋の空気が止まる。

 二階堂も、九条も、何も言わない。

 江口は、長い沈黙のあと、微かに笑った。

「だったら」

 低い声。

「もう少し、うまくやります」

 答えは同じだった。

 だが、今度は違う。

 否定ではない。

 真壁には、そう聞こえた。

 自分なら、もっと上手くやる。

 それは、犯人ではないという意味ではない。

 この事件を、自分のものとして評価している言葉だ。

「お前は誰を待っている」

 九条が初めて口を開いた。

 江口が彼を見る。

「何の話ですか」

「君は、事件を止めたいだけではない。終わりを待っている」

 江口は黙った。

「佐貫では終わらなかった。戸倉は父だった。なら、もう一人いる」

 九条の目は冷静だった。

「君自身だ」

 二階堂が息を止める。

 真壁は江口を見た。

 江口は、しばらく何も言わなかった。

 やがて、目を伏せる。

「僕は父じゃないですよ」

「分かっている」

 九条は言う。

「だが、君は先生だ」

 その言葉が、江口に刺さったのが分かった。

 教師。

 先生。

 子どもに呼ばれた名前。

 守れなかった役割。

 江口は、ひどく疲れた笑みを浮かべた。

「やめてください」

「何を」

「それが一番、きつい」

      *

 聞き取りはそこで終わらなかった。

 真壁はさらに問いを重ねた。

 戸倉と桐生真砂の関係。

 環が別の家の子にされた経緯。

 水路で死んだもう一人の子ども。

 しかし、江口は肝心なところで言葉を止めた。

 知らないのか。

 知っているが言えないのか。

 判断がつかない。

 ただ一つ、明らかになったことがある。

 九年前の事故は、事故ではない。

 少なくとも、ただの事故ではない。

 二人の子どもが関わり、一人が死亡し、一人が消えた。

 その背後には、教師と臨時職員の関係、出生の隠蔽、村の保身、学校の記録改ざんがあった。

 わらべ歌は、その順番をなぞっている。

 雪は隠蔽。

 水は事故死。

 枝は責任の吊り下げ。

 炉は記録の焼却。

 母は消された親子関係。

 父は戸倉。

 では、次は何か。

 真壁は、江口の顔を見た。

 この男は、まだ何かを隠している。

 おそらく、自分に関わることを。

      *

 夕方、佐貫の意識が戻った。

 旧保健室に入ると、彼は天井を見ていた。

 弱っている。

 だが、目はまだ生きている。

 真壁は枕元に立った。

「佐貫さん」

 老人の目が動く。

「戸倉先生が、環の父親だったんですね」

 佐貫の唇が震えた。

「……誰が」

「江口です」

 佐貫は目を閉じた。

「余計なことを」

「まだそう言いますか」

 二階堂の声が冷えた。

「五人死んで、あなたも死にかけた。まだ余計なことですか」

 佐貫は、かすれた声で言う。

「村を……守るには」

「子どもを消す必要があった?」

 真壁が言う。

 佐貫は黙った。

「環はどこへ行った」

 真壁が聞く。

 佐貫の喉が動く。

「知らん」

「嘘だ」

「知らん……本当に」

 その声には、初めて本物の恐れがあった。

「わしらは、真砂を追い出した。環は、戸倉の子ではないことにした。別の家に預ける予定だった。だが、あの日……」

「あの日?」

「雪桜の日。子どもが二人、消えた」

「一人は水路で死んだ」

「……そうだ」

「もう一人は」

 佐貫は、震えながら目を開けた。

「桜の下に、いなかった」

「誰が連れて行った」

「知らん」

「環は生きていたのか」

「分からん」

「なぜ探さなかった」

 真壁の声が低くなる。

 佐貫は涙を浮かべた。

「探せば、全部出る。真砂のことも、戸倉のことも、村のことも」

「だから消した」

「違う」

「何が違う」

「わしらは……事故を一つにした」

 佐貫は、息を荒げながら言った。

「死んだ子の名前を、環にした」

 部屋の空気が凍った。

 二階堂が、ゆっくり言う。

「では、死んだのは環ではない」

 佐貫は答えない。

「環は、いなくなった」

 九条が続ける。

「死んだ別の子の名前を消し、環を死んだことにした」

 佐貫の目から、涙がこぼれた。

 真壁は拳を握る。

「誰の子が死んだ」

 佐貫は、口を開く。

 だが、その瞬間、廊下の向こうから悲鳴が上がった。

 子どもの声だった。

 江口の声が続く。

「動くな!」

 真壁たちは一斉に走った。

      *

 多目的室の前で、子どもたちが固まっていた。

 江口はその前に立ち、片手を広げている。

 床に、一枚の紙が落ちていた。

 子どもの一人が、扉の隙間から差し込まれたのを見たという。

 二階堂が紙を拾う前に、真壁が制した。

 ライトで照らす。

 そこには、また歌があった。

 ねんねん桜 誰の子だ。

 ひとつ 雪に隠して。

 ふたつ 川に流して。

 みっつ 枝に結んで。

 よっつ 炉にくべて。

 いつつ 母に返して。

 むっつ 父を問いましょう。

 ななつ 先生、答えなさい。

 江口の顔から、表情が消えた。

 二階堂が彼を見る。

「桜次郎」

 江口は動かなかった。

 子どもたちが、不安そうに彼を見ている。

「先生?」

 小さな声。

 江口は、ゆっくり振り返った。

 そして、いつものように笑おうとした。

 けれど、笑えなかった。

「大丈夫です」

 声だけは、教師のものだった。

「ちょっと、大人の宿題が増えただけです」

 子どもは泣きそうな顔をする。

「先生の?」

「はい」

 江口は頷く。

「先生の宿題です」

 真壁は紙を見た。

 ななつ。

 先生、答えなさい。

 歌は、まだ終わらない。

 そして今度こそ、矛先は江口桜次郎に向いた。

      *

 夜。

 施設は、これまでで最も静かだった。

 子どもたちは眠れなかった。

 江口は多目的室の前に座り続けた。

 二階堂はその横に立った。

 真壁は少し離れた場所から、二人を見ていた。

 高校の同級生。

 かつて明るいふりをしていた男と、その仮面を見抜いていた男。

 今、その間に七つ目の歌が置かれている。

「なあ」

 二階堂が言った。

 江口は前を見たまま答える。

「何」

「お前、逃げるなよ」

「逃げないよ」

「本当に?」

「子ども置いて逃げるほど、落ちてない」

「大人からは逃げるくせに」

「大人は追ってこられるだろ」

 二階堂は、しばらく黙った。

 それから言った。

「お前、自分を嫌いなふりして、自分を罰する場所だけは丁寧に選ぶよな」

 江口は小さく笑った。

「最悪の褒め方」

「褒めてない」

「知ってる」

 短い沈黙。

 二階堂の声が、少しだけ低くなる。

「先生、答えなさい。これはお前への問いだ」

「そうだな」

「答えるのか」

 江口は、多目的室の扉を見た。

 中で眠る子どもたち。

 いや、眠れていない子もいるだろう。

 それを分かっていて、彼はずっとそこにいる。

「答えるよ」

 静かな声だった。

「僕は教師だから」

 二階堂は彼を見る。

 江口は、薄く笑った。

 今度は、少しだけ笑えていた。

「子どもに宿題出されたら、逃げられないでしょう」

 真壁は、その横顔を見ていた。

 この男が犯人なのか。

 まだ分からない。

 だが、この事件の最後の扉は、江口桜次郎の中にある。

 それだけは、もう疑いようがなかった。

 雪桜の村は、夜の底で息を潜めている。

 五人が死に、一人が死にかけ、七つ目の歌が現れた。

 そして、次に問われるのは犯人ではない。

 先生だ。

 九年前、子どもに「大丈夫」と言った男。

 その言葉を守れなかった男。

 江口桜次郎。

 彼が答えるまで、この授業は終わらない。


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