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雪桜の教室は、誰の子を埋めたのか  作者: 綾見 恋太郎


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第七章 いつつ、母に返して

 母、という一文字だけが残っていた。

 焦げた紙片の端に、かろうじて。

 黒く焼けた縁の内側に、その字だけが妙に白く浮いている。

 旧職員室の机の上で、それは証拠品というより、予告状のように見えた。

 真壁彰は、しばらくその文字を見ていた。

 雪。

 水。

 枝。

 炉。

 そして、母。

 わらべ歌は、終わりに近づいている。

 だが、江口桜次郎は言った。

 まだ、数が合っていない。

 その言葉が、真壁の中で何度も引っかかった。

 五つの歌に、五つの死。

 そう思っていた。

 だが、すでに四人が死んだ時点で、江口は「まだ」と言った。

 何の数なのか。

 被害者の数ではない。

 ならば、消された何かの数。

 名前。

 記録。

 子ども。

 真壁は紙片から視線を上げた。

 窓の外は、まだ暗い。

 雪は止んでいる。

 その代わり、朝の冷えが校舎全体を硬くしていた。

 廊下の床板が、ときどき小さく鳴る。

 まるで、古い学校そのものが寝返りを打っているようだった。

「母親を探すべきだな」

 二階堂壮也が言った。

 彼は椅子に腰かけ、焼け残った資料を並べている。

 いつもなら指先の動きまで整っている男だが、今は少しだけ荒い。

「死んだ子の母親か、消された子の母親か」

 真壁が言う。

「あるいは、その両方」

 九条雅紀が、淡々と付け加えた。

 九条は焦げた集合写真を見ている。

 九年前の校庭。

 雪桜。

 若い江口桜次郎。

 そして、顔の潰された子ども。

「この写真に写っている子が、記録から消えた子だとすれば」

 九条は写真を机に置いた。

「母親の記録が残っていないのは、不自然だ」

「戸籍まで改ざんされたと?」

 二階堂が眉を寄せる。

「そこまでは分からない。だが、学校記録上では、母親の存在が曖昧になっている」

「曖昧?」

「ある資料では母子家庭。別の資料では祖父母と同居。さらに別の資料では保護者欄が空白。意図的に輪郭を崩している」

 真壁は資料を見た。

 確かに、保護者欄の記載が一定しない。

 同じ児童のものなのか、別の児童のものなのか。

 そこからして分からなくされている。

「誰の子だ」

 二階堂が呟いた。

 九条が静かに返す。

「誰の子にされたか、だ」

 その言葉に、真壁は頷いた。

 昨日、九条は同じことを言った。

 今、その意味が少しずつ形になっている。

 この事件の中心にあるのは、死亡事故だけではない。

 子どもが一人死んだ。

 それだけなら、隠蔽される理由はあっても、記録をここまで歪める必要はない。

 子どもが複数いた。

 そのうち一人が死に、もう一人が消された。

 あるいは、一人の子どもの存在を、別の子どもに押しつけた。

 ならば問題は、死因だけではない。

 出生。

 親子関係。

 名前。

 誰が、その子を産んだのか。

 誰が、その子を“いない”ことにしたのか。

「母親候補を洗う」

 真壁が言った。

 二階堂はすでに資料を分けている。

「当時の保護者名簿、PTA資料、保健室記録、事故報告書。全部照合する」

「白石と佐貫にも聞く」

「江口は」

 真壁は一瞬だけ黙った。

 その名前は、もう避けて通れない。

「聞く」

 二階堂が、真壁を見る。

「話すと思うか」

「話させる」

「壊れるぞ」

「もう壊れかけている」

 二階堂は、視線を落とした。

 反論しなかった。

      *

 朝食の時間になっても、食堂は静かだった。

 四つの空席。

 戸倉、柿沼、大内、宮原。

 昨日までは人が座っていた場所に、今は誰もいない。

 椅子が引かれないだけで、部屋はこんなにも広く見えるのかと、真壁は思った。

 白石理佳は、ほとんど顔を上げない。

 佐貫源蔵は、湯呑みに口をつけただけで何も食べない。

 江口桜次郎は、子どもたちのテーブルにいた。

 いつも通り。

 いや、いつも通りに見せている。

「今日は、朝ごはんのあと、短い作文を書きます」

 江口が子どもたちに言う。

「えー」

「えー、じゃないです。百字でいい」

「テーマは?」

「今、分かってること」

「事件のこと?」

「書きたくなければ書かなくていい。寒い、とか、眠い、とか、先生の顔色が悪い、とかでもいいです」

「先生の顔色が悪い」

「それだけで百字書けたら大したものです」

 子どもたちが少し笑う。

 江口も笑う。

 けれど、その目は笑っていなかった。

 真壁は近づいた。

「江口」

 江口は、顔を上げる。

「はい」

「あとで話を聞く」

「今じゃなくて?」

「子どもの朝食が終わってからだ」

 江口は、わずかに表情を変えた。

「優しいですね」

「違う。順番を守っているだけだ」

 江口は、しばらく真壁を見ていた。

 それから、小さく笑った。

「順番、大事ですもんね」

 その言い方が、妙に刺さった。

      *

 江口への聞き取りは、旧職員室ではなく、元図書室で行うことにした。

 子どもたちから離れた場所。

 だが、完全に隔離するわけではない。

 江口がそれを嫌がると分かっていたからだ。

 彼は椅子に座ると、まず窓の外を見た。

 雪桜ではない。

 多目的室の方角。

 真壁は言う。

「子どもたちは施設職員が見ている」

「二階堂は?」

「廊下にいる」

「なら大丈夫ですね」

「二階堂なら安心か」

「まあ」

 江口は肩をすくめる。

「あいつ、品のいい顔して面倒見いいんで」

「昔からか」

「昔からです」

「お前もそうだったんじゃないのか」

「僕は違います」

「場を明るくしていたと聞いた」

「便利だっただけです」

「便利?」

「空気が悪くなったとき、馬鹿なことを言うやつが一人いると楽でしょう」

 江口は笑った。

「僕はそういう係でした」

「自分で選んだのか」

「選んだというか、気づいたら」

「今も同じだな」

 江口の笑みが薄くなる。

「そうですか」

「子どもの前で軽口を叩く。大人の前では自分を安く見せる」

「悪い癖ですね」

「癖で済ませるな」

 真壁は机に焦げた紙片の写真を置いた。

 母。

 江口の目が、そこに止まる。

 明らかに反応した。

「次は母だ」

 真壁が言う。

「心当たりがあるな」

 江口は黙った。

「死んだ子の母親か」

 沈黙。

「消された子の母親か」

 江口の指が、机の下でわずかに動いた。

 真壁は見逃さなかった。

「江口。もう四人死んでいる」

「知ってます」

「次を止めるには、お前の知っていることが必要だ」

「止められますか」

「止める」

「九年前も、誰かがそう言えばよかった」

「今は九年前ではない」

「でも、九年前の続きです」

 江口の声は静かだった。

 真壁は踏み込む。

「母親の名前を言え」

 江口は、ゆっくり顔を上げた。

「名前って、怖いですね」

「何?」

「呼ぶと、その人がいたことになる」

「当たり前だ」

「この村では、当たり前じゃなかった」

 江口は窓の外を見た。

「名前を呼ばなければ、いなかったことにできる。保護者欄を空白にすれば、親はいなかったことにできる。転校したことにすれば、子どももいなかったことにできる」

「誰がやった」

「大人です」

「具体的に言え」

「戸倉先生が黙った。柿沼さんが押さえた。大内先生が記録を曲げた。白石さんが整理した。佐貫さんが村を守った。宮原は知っていて、喋らなかった」

 真壁は、江口を見た。

「お前は」

 江口は笑った。

「見てました」

「それだけか」

「それだけです」

「嘘だな」

「嘘です」

 あっさりと認めた。

 真壁の目が鋭くなる。

「何をした」

 江口は答えなかった。

 その沈黙は、これまでよりも深かった。

 責められたくなくて黙っているのではない。

 言えば、何かが壊れる。

 そう分かっていて、黙っている。

 そんな沈黙だった。

 扉の外で、二階堂が動く気配がした。

 聞いている。

 江口も気づいている。

「僕は」

 江口は言いかけた。

 そのとき、廊下の向こうで声が上がった。

 施設職員の声だった。

「白石さんがいません!」

 江口の顔が変わった。

 真壁は立ち上がる。

「二階堂!」

 扉が開き、二階堂が飛び込んでくる。

「聞こえた。白石だ」

「佐貫は」

「食堂にいる。職員が確認中」

「江口、お前はここにいろ」

 真壁が言った。

 江口は立ち上がりかけて、止まった。

 その顔には、焦りがあった。

「多目的室は」

 二階堂が答える。

「子どもは全員いる。職員二人付き」

「白石さんは、どこへ」

 江口の声は、今までで一番低かった。

 真壁は答えなかった。

 だが、全員が同じことを考えていた。

 いつつ、母に返して。

      *

 白石理佳の部屋は空だった。

 机の上に、資料が散らばっている。

 その中に、古い保護者名簿があった。

 一か所だけ、赤いペンで丸がつけられている。

 保護者欄。

 氏名は、途中までしか読めない。

 ――桐。

 その先が擦れている。

「桐?」

 二階堂が呟く。

 真壁は資料を慎重に袋へ入れた。

 部屋の窓は閉まっている。

 出入口の廊下には、白石の靴跡らしきものが残っている。

 雪ではない。

 濡れた跡。

 旧校舎の奥へ向かっている。

「どこへ」

 二階堂が聞く。

 真壁は床の跡を追う。

 旧職員室の前を通り、資料室を抜け、さらに奥へ。

 そこは、かつての保健室と家庭科室の間にある、小さな廊下だった。

 突き当たりに、古い扉がある。

 昨日までは、施錠されていたはずの場所。

「ここは?」

 真壁が施設職員に聞く。

「旧母子相談室です」

「母子?」

「昔、地域の保健指導に使っていた部屋だそうです。今は物置に」

 母。

 真壁は扉を見た。

 鍵は開いている。

 中から、かすかな匂いがした。

 古い畳。

 埃。

 そして、何か甘い匂い。

 白粉のような。

 線香のような。

 真壁は扉を開けた。

 部屋は薄暗かった。

 小さな和室。

 壁際に古い棚。

 中央に、布団が敷かれている。

 その上に、白石理佳が横たわっていた。

 両腕を胸の前で曲げている。

 何かを抱くような姿勢。

 だが、腕の中には何もない。

 ただ、小さな白い布だけが挟まれている。

 赤ん坊のおくるみのような布。

 白石の顔は穏やかだった。

 眠っているように見える。

 だが、九条が近づき、確認するまでもなく、真壁には分かった。

 生きていない。

「死亡している」

 九条が言った。

 声は低い。

 二階堂が、息を吐く。

「五人目……」

 真壁は、部屋の中を見た。

 布団。

 おくるみ。

 白石の姿勢。

 母に返して。

 だが、白石が母なのか。

 それとも、母に“された”のか。

 真壁はしゃがみ込み、白い布を見た。

 布には、小さな刺繍があった。

 桜の花びら。

 そして、糸で縫われた一文字。

 ――環。

「たまき」

 二階堂が呟いた。

 真壁は顔を上げる。

「知っているのか」

「いや」

 二階堂は首を振る。

「でも、名前だ」

 名前。

 ついに、名前が出た。

 環。

 誰の名前か。

 消された子か。

 死んだ子か。

 あるいは、母の名前か。

 九条が白石の腕を見ていた。

「抵抗痕は少ない」

「死因は」

「現場では断定できない。薬物か、窒息か。だが、暴力的に殺された感じではない」

「自分でここへ来たか」

「可能性はある」

 真壁は部屋の入口を見た。

 足跡は白石のものだけに見える。

 まただ。

 犯人の痕跡がない。

 死体は、わらべ歌の通りに配置されている。

 だが、そこへ至る道には、被害者自身の足跡しかない。

「呼ばれたのか」

 二階堂が言う。

「あの子に?」

 その言葉に、九条がわずかに顔を上げた。

「白石も、同じ言葉を聞いたのかもしれない」

 大内が言ったという言葉。

 あの子が呼んでいる。

 真壁は部屋を見回した。

 棚の上に、古い人形が置かれている。

 赤ん坊の人形。

 埃を被っている。

 その横に、写真立てが倒れていた。

 中身は空。

 いや、写真が抜かれている。

「写真を探せ」

 真壁が言った。

      *

 白石の死は、施設内の全員を沈黙させた。

 佐貫源蔵は、食堂の椅子に座ったまま動かなかった。

 江口桜次郎は、旧母子相談室へ近づこうとはしなかった。

 廊下の途中で立ち止まり、真壁から白石の死を聞くと、ただ目を伏せた。

「白石さんでしたか」

「ああ」

「そうですか」

 二階堂が、低く言った。

「また、それか」

 江口は顔を上げない。

「他に言葉がない」

「本当にか」

「本当に」

「お前、白石が死ぬことも分かってたのか」

「分かってません」

「でも、“母”が次だとは分かっていた」

「歌詞なので」

 二階堂が一歩踏み込む。

「白石は母親だったのか」

 江口は、はっきり首を振った。

「違います」

 真壁の目が動く。

「なら、なぜ白石が“母に返して”なんだ」

 江口は黙る。

「白石は、誰かを母に返したのか」

 江口の指が、わずかに震えた。

 真壁は続ける。

「それとも、母から奪ったのか」

 江口は目を閉じた。

 数秒。

 やがて、低く言った。

「白石さんは、整理したんです」

「何を」

「記録を」

「母親の記録か」

「はい」

「誰の母親だ」

 江口は、ゆっくりと顔を上げた。

 疲れきった顔だった。

 だが、目だけは逃げていない。

「環の」

 名前が出た。

 廊下の空気が止まる。

 二階堂が聞く。

「環は、子どもの名前か」

 江口は答えなかった。

 その沈黙が、答えだった。

「苗字は」

 真壁が聞く。

「言えません」

「なぜ」

「まだ」

「まだ、ではない」

 真壁の声が低くなる。

「五人死んだ」

「だからです」

 江口の声も低かった。

「五人死んだから、まだ言えない」

「どういう意味だ」

「言ったら、最後の一人が動く」

 二階堂の表情が変わる。

「最後の一人?」

 江口は口を閉じた。

 しまった、という顔ではない。

 言うつもりで言ったのか。

 それとも限界だったのか。

「佐貫か」

 真壁が言う。

 江口は答えない。

 だが、この場に残る関係者はもう少ない。

 白石が死に、宮原が死に、大内が死に、柿沼が死に、戸倉が死んだ。

 主な関係者で残っているのは、佐貫源蔵。

 そして、江口桜次郎。

「佐貫は、何をした」

 真壁が聞く。

 江口は、廊下の奥を見た。

 食堂の方角。

 佐貫がいる。

「村を守った」

「具体的に」

「子どもを消して、村を残した」

 その言葉は、短かった。

 だが、重かった。

      *

 旧母子相談室の棚から、古いノートが見つかった。

 保健相談記録。

 表紙は黄ばんでいる。

 中には、妊婦や乳幼児の相談内容が記されていた。

 その中の一ページが破られている。

 破られた前後に、同じ名前が何度か出てきた。

 桐生。

 桐生真砂。

 そして、子の名前。

 環。

「桐生真砂」

 二階堂が読み上げる。

「これが母親か」

 真壁は頷く。

「可能性が高い」

 九条が記録を見ている。

「この記録だと、環は桐生真砂の子どもとして生まれている」

「学校記録では」

「保護者欄が消えている。別の名字に移っている可能性がある」

 二階堂が目を細める。

「誰かの子にされた」

「そうだ」

 真壁は資料を重ねる。

 桐生真砂。

 環。

 そして、事故死した児童の記録。

 まだ繋がらない。

 だが、線は見えている。

 環という子どもがいた。

 その子は母親から切り離され、別の形で記録された。

 その後、十年前の事故で何かが起きた。

 一人が死に、一人が消えた。

「桐生真砂は今どこにいる」

 二階堂が聞く。

「資料上は不明」

 九条が答える。

「転出記録も、死亡記録もない」

「それも消されたか」

「可能性はある」

 真壁は、白石の腕に抱かれていた布を思い出した。

 環。

 母に返して。

 白石は母ではない。

 母親の記録を整理し、消した側。

 ならば、犯人は白石に“母を返させた”。

 存在しない子どもを抱かせる形で。

 空の腕。

 白い布。

 そこにいない赤ん坊。

 それは、あまりにも残酷な見立てだった。

      *

 午後、佐貫源蔵への聞き取りが始まった。

 佐貫は、旧職員室の椅子に座っている。

 杖を膝の上に置き、両手を重ねている。

 老いた体は小さく見えた。

 だが、目はまだ強い。

「桐生真砂を知っていますね」

 真壁が聞く。

 佐貫は答えない。

「環という子どもも」

 沈黙。

 二階堂が、柔らかく言う。

「佐貫さん。もう五人亡くなっています。ここで話さなければ、次が出ます」

「次などない」

 佐貫が初めて口を開いた。

「歌は終わった」

「本当にそう思いますか」

 二階堂が聞く。

「いつつ、母に返して。五つ目まで終わりました」

 佐貫の声はかすれている。

「終わりだ」

 真壁は静かに言った。

「江口は、数が合っていないと言いました」

 佐貫の目が、わずかに動いた。

「何の数です」

「知らん」

「知っている」

「知らん!」

 佐貫は杖を床に叩きつけた。

「あの男の言うことを信じるのか。江口桜次郎は、昔からおかしかった。あの日も、余計なことを――」

 言葉が止まった。

 真壁はすぐに聞く。

「余計なこととは」

 佐貫は口を閉ざした。

「江口は何をした」

「……」

「佐貫さん」

 二階堂の声が低くなる。

「あなたは“村を守った”そうですね」

 佐貫の顔が歪む。

「誰がそんなことを」

「重要なのは、誰が言ったかではありません」

 二階堂の声は穏やかだ。

 だが、逃げ場を消していく。

「あなたが何を守り、何を捨てたかです」

「都会の警察に何が分かる」

 佐貫は吐き捨てる。

「あの村で、あの時、何を守らなければならなかったか。学校を残すために、観光を残すために、子どもたちの未来を」

「子どもを消して、子どもの未来を守ったと?」

 真壁の声が、思わず低くなった。

 佐貫は黙る。

「桐生真砂はどこにいる」

 佐貫は、目を伏せた。

「死んだ」

 短い答えだった。

「いつ」

「九年前」

「事故のあとか」

「……」

「環は」

 佐貫の手が震えた。

「環は、誰の子にされた」

 佐貫は答えない。

 だが、真壁はもう感じていた。

 この老人は知っている。

 すべてではないにしても、中心を知っている。

 そして恐れている。

 犯人をではない。

 真実を。

      *

 夕方、江口が多目的室から出てきた。

 手には、子どもたちの作文を持っている。

 真壁が廊下で待っていると、彼は少し嫌そうな顔をした。

「また聞き取りですか」

「ああ」

「僕、人気者ですね」

「状況を考えろ」

「考えてますよ」

「なら話せ」

 江口は黙る。

 真壁は言った。

「桐生真砂」

 江口の顔から、血の気が引いた。

「環」

 江口の指が、作文の束を強く握る。

「佐貫は、桐生真砂は死んだと言った」

「そうですか」

「本当か」

 江口は答えない。

「環は、桐生真砂の子か」

 長い沈黙。

 江口は、やがて小さく頷いた。

「そうです」

「環は、死んだのか」

 江口は、真壁を見た。

 目の下のクマが濃い。

 疲労で、肌は青白い。

 それでも、目だけは逃げなかった。

「分かりません」

「分からない?」

「死んだことにされた子と、いなかったことにされた子がいるんです」

「環はどちらだ」

「それを、僕は間違えた」

 真壁は眉を寄せる。

「どういう意味だ」

 江口は笑った。

 笑おうとして、失敗した。

「教師失格ですよね」

「説明しろ」

「僕は、助ける子を間違えたのかもしれない」

 その言葉の意味は、すぐには分からなかった。

 だが、真壁の中で何かが冷えた。

 助ける子を間違えた。

 つまり、あの日、江口は二人の子どもを前にしていた。

 一人を助けた。

 あるいは助けようとした。

 もう一人を、助けられなかった。

「九年前、何があった」

 真壁が聞く。

 江口は、目を伏せた。

「雪の日でした」

 ようやく、彼は話し始めた。

「今日みたいに、季節が混ざってた。桜が咲いて、雪が降って、みんな変だって笑ってた」

 声は静かだった。

「子どもが二人、いなくなった」

 二人。

 真壁は息を止める。

「一人は見つかった」

「どこで」

「水路です」

「死んでいた?」

「はい」

「もう一人は」

 江口は答えなかった。

 代わりに、窓の外を見た。

 雪桜。

 薄い夕暮れの中に立つ、季節外れの桜。

「見つかったことにされた」

 真壁は、言葉の意味を噛み砕く。

「実際には?」

「分かりません」

「なぜ」

「記録が変わったからです」

「誰が変えた」

「大人たちです」

「お前は」

 江口は、作文の束を胸に抱えるように持った。

「僕は、見てました」

「またそれか」

「すみません」

「謝るな。話せ」

 江口は、少しだけ笑った。

「真壁さん、怒ると怖いですね」

「江口」

「はい」

 彼は観念したように息を吐いた。

「僕は、あの日、環を見たんです」

「どこで」

「雪桜の下で」

 真壁は動かない。

「何をしていた」

「泣いてました」

「なぜ」

「自分の名前を呼んでくれる人が、もういないって」

 廊下が静かになった。

 遠くで、子どもたちの声がする。

 その無邪気さが、残酷だった。

「それで?」

「僕は」

 江口の声が、わずかに震えた。

「大丈夫だって言いました」

「……」

「僕がいるから、大丈夫だって」

 彼は笑った。

 今度の笑いは、自分への嘲りだった。

「実習生のくせに」

 真壁は何も言えなかった。

「そのあと、僕は大人に呼ばれた。戸倉先生に。ちょっと来いって。戻ったときには、環はいなかった」

「消えた?」

「はい」

「水路で死んだ子は?」

 江口は、しばらく黙った。

「別の子です」

 真壁の中で、線がつながり始めた。

 死んだ子。

 消された子。

 村は、二人の子どもを一人の事故にした。

 片方の死を、片方の名前に重ねた。

 あるいは逆に、死んだ子の名前を残し、消えた子の存在を消した。

「なぜそんなことを」

 江口は言った。

「環が、いてはいけない子だったから」

「誰にとって」

「村にとって」

「具体的に」

 江口は答えようとした。

 だがそのとき、多目的室から子どもが顔を出した。

「先生」

 江口は振り返る。

「何」

「作文、集めたよ」

「ああ、ありがとう」

 江口の顔が、すぐに教師の顔へ戻る。

 その切り替わりが、痛々しかった。

「先生、泣いてる?」

 子どもが聞く。

 江口は笑った。

「寝不足です」

「寝なよ」

「正論が痛い」

 子どもは不満そうに戻っていく。

 江口はその背中を見送り、真壁へ向き直った。

「続きは」

「今聞く」

「ですよね」

 江口は息を吐く。

「でも、これだけは先に言っておきます」

「何だ」

「環は、たぶんまだ終わってません」

「生きているのか」

 江口は答えなかった。

「死んでいるのか」

 それにも答えなかった。

 ただ、静かに言った。

「呼んでるんです」

 真壁の背筋に、冷たいものが走った。

「あの子が?」

「はい」

「誰を」

 江口は、食堂の方角を見た。

「佐貫を」

      *

 その夜、佐貫源蔵は自室に戻された。

 一人にはしない。

 施設職員と二階堂が交代で見張ることになった。

 真壁は旧職員室で、江口から聞いた内容を整理した。

 二人の子ども。

 一人は水路で死亡。

 もう一人は雪桜の下から消えた。

 環。

 桐生真砂の子。

 いてはいけない子。

 村が消した子。

 白石は母親記録を整理した。

 佐貫は村を守った。

 そして江口は、何もしなかったと言う。

 だが、本当にそれだけか。

 真壁には、そうは思えなかった。

「助ける子を間違えた」

 二階堂が呟いた。

 真壁は彼を見る。

「江口の言葉か」

「ああ」

 二階堂は、両手を組んでいる。

「昔から、あいつはそういう言い方をする。自分が悪いと思っていることだけ、妙に抽象的にする」

「具体的に言うと壊れるからか」

「たぶん」

「江口は犯人か」

 二階堂は黙った。

 かなり長く。

「分からない」

 ようやく答えた。

「でも、犯人じゃないと言い切れなくなってる」

「そうだな」

「嫌だな」

 二階堂は短く笑った。

「俺、あいつのこと、そこまで大事だったかな」

 真壁は何も言わなかった。

 二階堂は、窓の外を見た。

「高校のときから面倒なやつだった。明るいふりして、自己評価低くて、人に好かれてるのに信用しない。面倒ごと嫌いなくせに、誰かが困ってると拾う」

「今も同じだ」

「だから余計に分からない」

「何が」

「あいつは人を殺せる」

 二階堂の声は低かった。

「でも、子どもが怖がるような殺し方は嫌がる」

 真壁は黙る。

 それは、江口自身が言っていた。

 犯人は子どものことを考えていない。

 考えていたら、こんな下手な時間にやらない。

 だが事件は、進むほどに江口の思想に近づいている。

 子どもの存在を忘れさせない。

 大人の罪を順番に思い出させる。

 教師の授業のように。

 九条が、焼け残った資料をめくりながら言った。

「江口が犯人かどうかは、まだ分からない」

「お前もか」

 二階堂が言う。

「ただ、彼の中に犯人と同じ構造がある」

 真壁は眉を寄せる。

「同じ構造?」

「忘却を嫌う。順番を重視する。子どもの視点から大人を裁く」

「それは犯人そのものだろう」

「そうとも言える」

 九条は資料を閉じた。

「だが、同じ傷を持つ人間が、同じ犯人になるとは限らない」

 その言葉は正しい。

 だが、救いにはならなかった。

      *

 深夜。

 真壁は廊下に出た。

 眠気はある。

 だが、眠れない。

 空気が張っている。

 歌は終わったはずだ。

 いつつ、母に返して。

 五つ目まで終わった。

 それでも、終わった気がしない。

 むしろ、ここからが本番だという感覚がある。

 旧校舎の廊下を歩いていると、多目的室の前に江口が座っていた。

 壁にもたれ、膝を抱えている。

 眠ってはいない。

 手元には、子どもたちの作文があった。

「寝ないのか」

 真壁が言う。

 江口は顔を上げた。

「教師が寝ると、子どもが起きるんです」

「逆だろ」

「そうですね」

 江口は小さく笑う。

 真壁は隣に立った。

「作文か」

「はい」

「何を書いていた」

「寒い。怖い。帰りたい。先生の顔色が悪い」

「お前の顔色は人気だな」

「やめてください。照れます」

 いつもの軽口。

 だが、もう薄い。

 江口は一枚の作文を見た。

「子どもって、ちゃんと見てるんですよ」

「ああ」

「大人が嘘ついてるかどうかも」

「お前の嘘もか」

「たぶん」

 江口は、扉の向こうを見た。

「だから、いつか怒られる」

「子どもに?」

「はい」

「それが怖いか」

「怖いですよ」

 江口は即答した。

「警察に捕まるより、ずっと」

 真壁は、その言葉を聞き逃さなかった。

「捕まる心当たりがあるのか」

 江口は、少し笑った。

「誘導が雑ですね」

「答えろ」

「あります」

 短い答え。

 真壁は彼を見る。

 江口は逃げなかった。

「人を殺した心当たりか」

「違います」

「では何だ」

「子どもを守れなかった心当たりです」

 真壁は黙った。

 江口は作文を揃える。

「真壁さん」

「何だ」

「人って、何をしたかより、何をしなかったかで壊れることがありますよね」

「ある」

「僕はそっちです」

「だが、この事件では人が殺されている」

「はい」

「お前が殺したのか」

 江口は、少しだけ目を閉じた。

 それから言った。

「今は、まだ言えません」

「今は?」

「最後まで見ないと」

「何を」

「数を」

 また、それだ。

 真壁は声を低くした。

「江口。次に誰かが死ねば、もう遅い」

「もう遅いですよ」

 江口の声は、驚くほど静かだった。

「九年前から」

 その言葉に、真壁は怒りを覚えた。

 だが同時に、彼の目を見てしまった。

 その目は、諦めている人間のものではなかった。

 むしろ、何かを最後まで見届けようとしている人間の目だった。

 それが、何より怖かった。

      *

 翌朝。

 佐貫源蔵が消えた。

 見張りについていた施設職員が、ほんの数分、トイレに立った隙だった。

 二階堂は廊下で別の職員と確認をしていた。

 戻ったとき、佐貫の部屋は空だった。

 窓は閉まっている。

 扉は開いている。

 床には、紙が一枚落ちていた。

 真壁はそれを拾わず、ライトで照らした。

 そこには、わらべ歌の続きが書かれていた。

 だが、知っている歌詞ではなかった。

 ねんねん桜 誰の子だ。

 ひとつ 雪に隠して。

 ふたつ 川に流して。

 みっつ 枝に結んで。

 よっつ 炉にくべて。

 いつつ 母に返して。

 そして、その下に。

 むっつ 父を問いましょう。

 二階堂が、息を止めた。

「六つ目……」

 真壁は、紙を見つめる。

 江口が言った。

 あと三つ。

 数が合っていない。

 五つで終わる歌に、六つ目があった。

 いや。

 もしかすると、これが本来の歌なのかもしれない。

 消された歌詞。

 消された子ども。

 消された父。

 真壁は低く言った。

「佐貫を探す」

 そのとき、廊下の向こうから江口が現れた。

 寝不足の顔。

 だが、目だけが異様に醒めている。

 紙を見て、彼は小さく息を吐いた。

「やっと」

 二階堂が彼を見る。

「何が、やっとだ」

 江口は答えた。

 静かに。

「本当の歌になった」

 真壁は、紙の六行目を見下ろした。

 むっつ 父を問いましょう。

 事件は終わっていなかった。

 むしろ、ここから初めて、本当の名前へ向かうのだ。


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