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雪桜の教室は、誰の子を埋めたのか  作者: 綾見 恋太郎


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第六章 よっつ、炉にくべて

 火は、雪よりも都合がいい。

 雪は隠すだけだ。

 溶ければ、下にあったものが顔を出す。

 けれど火は違う。

 形を奪う。

 匂いを変える。

 名前のあったものを、灰にする。

 旧職員室の窓から、真壁彰は暗い校庭を見ていた。

 夜は明けた。

 だが、施設の中に朝は来ていなかった。

 三人が死んだ。

 元担任の戸倉誠一。

 元PTA会長の柿沼康夫。

 校医だった大内修。

 雪に隠され、水に流され、枝に結ばれた。

 そして次は。

 よっつ、炉にくべて。

 その一行が、頭から離れなかった。

 旧職員室の机には、施設の見取り図が広げられている。

 焼却炉。

 厨房。

 家庭科室。

 ボイラー室。

 非常用発電機室。

 火を使える場所はすべて印をつけた。

 だが、火という言葉を額面通りに受け取るべきかは分からない。

 燃やす。

 消す。

 焼く。

 証拠を失わせる。

 どれも、炉の意味になり得る。

「眠ってないな」

 二階堂壮也が、背後から言った。

 真壁は振り返らなかった。

「お前もだ」

「まあな」

 二階堂は隣に立つ。

 整った横顔に、薄い疲労が見えた。

 それでも、彼は崩れない。

 声も、立ち方も、視線も。

 だが、江口桜次郎の話になると、その均衡が少し揺れる。

「江口は」

 真壁が聞いた。

「多目的室。子どもたちに朝の予定を説明してる」

「また予定か」

「予定があると怖さが小さくなる、らしい」

「教師らしいな」

「その言葉好きだな。……本人に言うなよ」

「分かっている」

 二階堂は窓の外を見た。

 雪桜は、朝の光に鈍く浮かんでいる。

 花弁はまだ残っていた。

 あれだけ雪に打たれて、まだ咲いている。

 美しいというより、不気味だった。

「桜次郎は昔から、段取りを作るのがうまかった」

 二階堂が言った。

「面倒くさがりのくせにか」

「ああ。面倒くさいことを減らすために、先に段取りを作る。文化祭でも、修学旅行でも、気づいたらあいつが一番先回りしてた」

「今も同じか」

「たぶん」

 二階堂は息を吐いた。

「だから嫌なんだよ」

「何が」

「この事件が、あいつの作った段取りに見える」

 真壁は黙った。

 その可能性を、否定できなかった。

 雪。

 水。

 枝。

 次は炉。

 順番。

 教材。

 受講者。

 九条が言った通り、これは授業に似ている。

 そして江口は教師だ。

 それも、授業が好きだと言った教師。

 いや。

 彼は「授業そのものは嫌いじゃない」と言った。

 その消極的な言い方が、かえって頭に残っている。

「江口を拘束したいか」

 真壁が聞く。

 二階堂は少しだけ目を伏せた。

「したい」

「証拠はない」

「分かってる」

「任意で部屋に留めることはできる」

「子どもが荒れる」

「それも分かっている」

 二階堂は、悔しそうに笑った。

「本当に厄介なやつだよ。疑えば疑うほど、必要になる」

 真壁は窓を離れた。

「だから犯人なら最悪だ」

「ああ」

 二階堂の声が沈む。

「だから犯人じゃなければ、もっと最悪かもしれない」

      *

 午前七時半。

 食堂には、誰も食欲を持っていなかった。

 温かい味噌汁の湯気だけが、場違いに立ち上っている。

 白石理佳は、昨夜からほとんど眠っていないようだった。

 宮原司は、目の下を赤くしながら、何度もスマホを確認している。

 佐貫源蔵は、杖を両手で握ったまま目を閉じていた。

 そして、空席が増えた。

 戸倉。

 柿沼。

 大内。

 三つの空席は、誰も座っていないのに、食堂の中で最も存在感があった。

 江口桜次郎は、子どもたちのテーブルにいた。

「食べられるだけでいいです」

 いつものように、彼は子どもたちへ声をかけている。

「ただ、温かいものを一口。約束です」

「先生、またコーヒーだけ?」

「今日はパンも食べます」

「ほんと?」

「僕は嘘をつきません」

 子どもがじっと見る。

 江口は一瞬だけ目を逸らし、すぐにパンを口へ入れた。

「……今のは嘘ついた人の顔だった」

「鋭いな」

「先生、嘘ついた?」

「大人はね、細かい嘘で社会を回してるんです」

「だめじゃん」

「だめですね」

 子どもたちが、少し笑う。

 その笑いは弱かったが、確かにあった。

 真壁は離れた席で、それを見ていた。

 江口は、子どもの前では嘘をつかない。

 正確には、ついてもすぐに撤回する。

 大人には、いくらでも煙に巻く。

 だが、子どもには違う。

 その線引きが、あまりにもはっきりしていた。

 朝食が終わる頃、真壁は全員の前に立った。

「今日からさらに行動制限を強めます」

 食堂が静まる。

「単独行動は禁止。焼却炉、厨房、家庭科室、ボイラー室、発電機室への立ち入りは禁止。必要な移動は必ず申告してください」

 宮原が椅子を鳴らして立ち上がる。

「いつまでこんなことを続けるんですか」

「警察が到着するまでです」

「その警察はいつ来るんですか」

「除雪作業中です。山道の倒木処理が終わり次第、到着します」

「昨日もそう言ってましたよ」

 二階堂が穏やかに答えた。

「状況が悪い。だからこそ、ここで次を出さないことが重要です」

「次って」

 宮原の声が震える。

「次がある前提で話すの、やめてくれませんか」

 誰も返せなかった。

 次はある。

 この場にいる全員が、そう思っている。

 わらべ歌が続いているからだ。

 江口が、子どものテーブルから立った。

「子どもたちは多目的室に戻します」

「待て」

 真壁が止める。

「大人の話を聞かせたくないのか」

「聞かせたいですか?」

 江口は静かに返す。

 真壁は黙った。

「怖いのは、分からないことです。でも、分からなくていいことまで聞かせる必要はない」

「分からなくていいこと、とは」

「大人が失敗した話です」

 食堂の空気が変わった。

 白石が顔を上げる。

 佐貫の手が、杖を強く握る。

 宮原が江口を見る。

 江口は、何でもない顔で子どもたちへ言った。

「はい、移動します。忘れ物ないか確認。椅子を戻す。走らない」

 子どもたちは素直に従った。

 江口は最後尾に立ち、全員を見送ってから、真壁たちを見た。

「大人の話なら、あとで呼んでください」

 そう言って、食堂を出ていった。

 二階堂が小さく呟いた。

「逃げたな」

 真壁は言った。

「逃げ道を作ったんだろう」

「誰の」

「子どもの」

 二階堂は答えなかった。

      *

 午前九時。

 焼却炉の確認が行われた。

 旧校舎の北側にある、古いコンクリート製の焼却炉。

 かつて学校で紙ごみを燃やしていたものだという。

 今は使用禁止。

 扉は錆びていて、南京錠がかけられていた。

 雪が周囲を覆っている。

 足跡はない。

 少なくとも、昨夜以降に近づいた形跡は見えなかった。

「ここは使われていないな」

 二階堂が言う。

 真壁は南京錠を確認した。

「鍵は」

 施設責任者が震えながら答える。

「事務室の鍵箱にあります。昨夜から確認していますが、なくなっていません」

「合鍵は」

「分かりません。古い施設なので……」

「施設改修時の記録を出してください」

「はい」

 九条は焼却炉の扉に触れず、周囲を見ている。

「ここが分かりやすすぎる」

「同感だ」

 真壁は言った。

「だが、見張る」

 二階堂が周辺を見渡す。

「炉にくべて、か」

「焼却炉だけとは限らない」

「燃えるものなら何でもあり、だな」

 真壁は頷いた。

「特に資料」

 二階堂の視線が鋭くなる。

「十年前の記録か」

「ああ」

 雪に隠された。

 水に流された。

 枝に結ばれた。

 次が炉なら、誰かが焼かれるだけではない。

 何かが焼かれる可能性もある。

 そして、この事件で最も燃やされて困るものは、十年前の記録だった。

      *

 旧資料室は、三重に確認された。

 真壁、二階堂、九条。

 さらに施設職員。

 中には、古い段ボール箱が積まれていた。

 児童名簿。

 行事記録。

 保健室記録。

 PTA議事録。

 改修時に整理されたはずだが、未分類のものも多い。

 十年前の資料は、一部だけ別の棚に入っていた。

 だが、欠けている。

 ページが抜かれている。

 ファイルごとないものもある。

「これは元からか」

 真壁が聞く。

 施設責任者は首を振る。

「分かりません。廃校時に整理したものを、そのまま保管していて」

「誰が整理した」

「当時の教育委員会と、地元の方々です」

 二階堂が低く言った。

「つまり、白石さんと佐貫さんたちか」

「白石さんは当時はまだ担当ではありませんでしたが、後任として引き継ぎに関わったと聞いています」

「佐貫さんは」

「村側の責任者でした」

 真壁はファイルを一冊開いた。

 在籍一覧。

 写真。

 欠席記録。

 その中に、名前の消された箇所がある。

 黒塗り。

 上から修正液。

 古いコピーの線。

「誰の子だ」

 真壁は無意識に呟いた。

 九条が隣で言う。

「誰の子にされたか、かもしれない」

 真壁は彼を見る。

「何か分かったのか」

「記録の揺れが、単なる誤記にしては方向性を持っている」

「方向性?」

「ある名前が、別の名前に寄せられている」

 二階堂が近づく。

「つまり?」

「一人の子を、別の子として扱った可能性がある」

 真壁はファイルを見下ろした。

 死んだ子。

 消された子。

 江口の言葉が、資料の中で形を持ち始める。

 そのときだった。

 廊下の向こうで、短い悲鳴が上がった。

 女性の声。

 白石だった。

 真壁たちは同時に走り出した。

      *

 白石は旧事務室の前に立っていた。

 顔面蒼白。

 扉は開いている。

 中にあった鍵箱が、床に落ちていた。

「どうした」

 真壁が聞く。

「鍵が」

 白石は震える手で鍵箱を指した。

「焼却炉の鍵がありません」

 二階堂が舌打ちする。

「いつ確認した」

 施設責任者が慌てて答える。

「朝はありました。確かに」

「誰がここに入った」

「私と、白石さんと、事務担当の職員だけです」

 白石が首を振る。

「私は資料を取りに来ただけです。鍵箱には触っていません」

「事務担当は」

 呼ばれた職員は、震えながら否定した。

「触っていません」

 真壁は鍵箱を見た。

 無理にこじ開けられた跡はない。

 鍵を持っている人間が、鍵を盗った。

 あるいは、最初から鍵はなかった。

「焼却炉へ」

 真壁が言った。

      *

 外へ出ると、雪は止んでいた。

 風だけがある。

 焼却炉の周辺には、新しい足跡があった。

 一人分。

 だが、途中で乱れている。

 真壁は足跡を追う。

 焼却炉の南京錠は外れていた。

 扉が、わずかに開いている。

 隙間から、焦げた匂いが漏れていた。

 火の匂い。

 そして、別の匂い。

 真壁は顔をしかめた。

「開けるぞ」

 九条が頷く。

 扉を開けた瞬間、白い煙が薄く流れ出た。

 中は黒い。

 まだ熱が残っている。

 灰。

 焦げた紙。

 布の端。

 そして。

 人間の手。

 二階堂が息を呑む。

 真壁は奥歯を噛んだ。

 焼却炉の中に、人がいた。

 全身ではない。

 完全に焼かれてはいない。

 だが、顔は黒く焼け、すぐには身元が分からない。

 火は消えかけている。

 九条が慎重に近づき、熱を避けながら確認する。

「死亡している」

「身元は」

「焼損が強い。だが体格から見て、男性」

 二階堂が周囲を見る。

「宮原は?」

 その一言で、真壁の体が動いた。

「全員確認」

 施設内に戻り、所在確認が行われた。

 白石。

 佐貫。

 江口。

 子どもたち。

 施設職員。

 そして。

 宮原司がいなかった。

 焼却炉の中の遺体は、宮原と見てほぼ間違いなかった。

 四人目。

 よっつ、炉にくべて。

      *

 食堂は、完全に壊れていた。

 白石は椅子に座り込んだまま、両手で口を覆っている。

 佐貫源蔵は、初めて怒鳴った。

「こんなことが、許されるか」

 その声は怒りというより、恐怖だった。

 真壁は彼を見た。

「知っていることを話してください」

「何も知らん」

「四人死んだ」

「知らん!」

 杖が床を叩く。

「こんなこと、誰が……」

「誰が、ではなく」

 江口の声がした。

 食堂の入口。

 彼は立っていた。

 顔色が悪い。

 だが、声は静かだった。

「誰に、でしょう」

 佐貫が江口を睨む。

「何だと」

「誰がやったかじゃなくて、誰に向けてやってるのか」

 江口はゆっくり食堂に入ってくる。

 二階堂が止めようとしたが、真壁が手で制した。

「続けろ」

 江口は、空席を見た。

 戸倉。

 柿沼。

 大内。

 宮原。

 いない者たちの席。

「戸倉先生は、見て見ぬふりをした」

 白石が震える。

「柿沼さんは、親を黙らせた」

 佐貫の表情が歪む。

「大内先生は、記録を変えた」

 江口は最後に、宮原の空席を見る。

「宮原は、知っていたのに話さなかった」

 二階堂が言う。

「お前は?」

 江口は振り返る。

「俺は」

 また、一人称が変わった。

 江口自身も気づいたのだろう。

 口を閉じる。

 それから、いつもの調子に戻すように言った。

「僕は、何もしなかった」

 真壁は、まっすぐ彼を見た。

「何もしなかった人間が、なぜここまで知っている」

 江口は笑った。

「何もしなかったから、見てたんですよ」

 その言葉には、言い訳ではなく、自罰の響きがあった。

「江口」

 二階堂が低く言う。

「お前、誰を守ってる」

「子どもです」

「今ここにいる子どもじゃないな」

 江口の目が止まる。

 二階堂は続けた。

「九年前の子どもだ」

 江口は黙った。

「死んだ子か。消された子か」

 真壁が言う。

 その瞬間、江口の顔から表情が消えた。

 白石が小さく悲鳴を漏らす。

 佐貫が立ち上がろうとして、膝を震わせる。

「その言葉を」

 江口は静かに言った。

「どこで」

「お前が言った」

 真壁が答える。

「昨日」

 江口は目を閉じた。

 ほんの一瞬。

 それから、ひどく疲れた声で言う。

「そうですか」

「説明しろ」

「まだです」

「また順番か」

「はい」

 真壁は机を叩きそうになる手を抑えた。

「四人死んだ。まだと言える段階ではない」

「四人だからです」

 江口は言った。

「まだ、合ってない」

 二階堂の顔色が変わる。

「数が、か」

 江口は答えなかった。

      *

 宮原司の遺体は、九条の見立てでは、死後に焼却炉へ入れられた可能性が高かった。

 死因は現場では特定できない。

 だが、焼死ではない。

 つまり、彼もまた見立てのために配置された。

 よっつ、炉にくべて。

 燃やされたのは、人間だけではなかった。

 焼却炉の灰の中から、焦げた紙片が見つかった。

 真壁はピンセットで慎重に取り上げる。

 文字が残っている。

 児童名簿。

 保健室記録。

 そして、写真。

 集合写真の一部。

 顔のあたりが焼け落ちている。

「九年前の記録だな」

 二階堂が言う。

「ああ」

 真壁は灰の中をさらに確認する。

 焼かれた資料は、宮原の遺体と一緒に入れられていた。

 誰かが証拠を消そうとした。

 あるいは、証拠が消されたことを見せようとした。

「炉にくべたのは、宮原だけじゃない」

 九条が言った。

「記録もだ」

「犯人が不利な記録を焼いた?」

 二階堂が言う。

「それなら、なぜ一部だけ残す」

 真壁は焦げた紙片を見た。

 完全に消したいなら、もっと燃やせばいい。

 それをしない。

 残している。

 見つけさせている。

「教材か」

 真壁が呟く。

 二階堂が顔を上げる。

「何?」

「犯人は、俺たちに見せている」

「殺人も、資料も?」

「ああ」

 九条が静かに頷いた。

「これは復讐ではないな」

 真壁と二階堂が、同時に九条を見る。

「どういう意味だ」

 九条は焼却炉を見る。

「復讐なら、相手を苦しめることが目的になる。だが、この犯人は死そのものより、死体の置き方、資料の残し方、順番にこだわっている」

「だから?」

「これは、思い出させるための構造だ」

 二階堂が、低く言った。

「授業」

 九条は否定しなかった。

      *

 午後、宮原の部屋が調べられた。

 彼の荷物の中から、古いUSBメモリが見つかった。

 中身を確認するため、二階堂が施設のパソコンを借りた。

 電源が入るまでの時間が、異様に長く感じた。

 フォルダは一つ。

 中には、写真データと音声ファイル。

 写真は十年前のものだった。

 旧校舎。

 雪。

 水路。

 子どもたち。

 そして、雪桜の下に立つ若い江口桜次郎。

 教育実習生だった頃の彼。

 今より頬がふっくらしている。

 目の下にクマはない。

 だが、笑い方は同じだった。

 明るく見える。

 けれど、どこか自分を外側に置いている。

 音声ファイルを再生すると、ざらついた声が流れた。

『……俺は、見たんです』

 宮原の声だった。

『あの子は、一人じゃなかった。先生たちは、一人の事故にした。でも、本当は――』

 そこで、音声は途切れていた。

 ファイルは破損している。

 二階堂が何度も操作するが、続きは再生できない。

「本当は、何だ」

 真壁が呟く。

 九条が画面を見ている。

「子どもは複数いた」

「やはりか」

「おそらく」

 二階堂が写真を拡大した。

 雪桜の下。

 若い江口のそばに、子どもが二人写っている。

 片方の顔は見える。

 もう片方は、光で飛んでいる。

 いや。

 後から加工されている。

 顔の部分だけが、不自然に潰れている。

「消されてる」

 二階堂が言った。

 真壁は画面を見つめた。

 死んだ子。

 消された子。

 その言葉が、いよいよ具体的な形になり始めた。

      *

 夕方、真壁は江口を旧職員室に呼んだ。

 江口は素直に来た。

 抵抗しない。

 椅子に座り、眠そうな顔で言う。

「取り調べですか」

「聞き取りだ」

「同じようなものでは」

「違う」

「じゃあ優しくお願いします。僕、メンタルはそこそこ元気ですけど、フィジカルは終わってるんで」

 二階堂が無言で彼を見る。

 江口は肩をすくめた。

「冗談ですよ」

「笑えない」

「ですよね」

 真壁はパソコン画面を彼に向けた。

 九年前の写真。

 雪桜の下の若い江口。

 その隣の子どもたち。

「これを見ろ」

 江口の表情が止まった。

 完全に。

 軽口も、自虐も、消えた。

「宮原の荷物から出た」

 真壁が言う。

「この子どもは誰だ」

 江口は黙っている。

「顔が消されている」

 沈黙。

「江口」

「……よく残ってましたね」

 やっと、彼は言った。

 声が低い。

「宮原、臆病なくせに、こういうところは変にしぶとい」

「誰だ」

 真壁の問いに、江口は答えない。

 二階堂が言う。

「桜次郎」

 江口の目が二階堂へ動く。

「昔から、お前は自分が傷つく話なら笑って逃げる。でも、今は違う。これは子どもの話だろ」

「だから話せない」

「逆だ。子どもの話だから話せ」

 江口は、かすかに笑った。

「お前は本当に、正しいな」

「茶化すな」

「茶化してない」

 江口は画面を見る。

 そこに写る若い自分を見ているのか。

 消された子どもを見ているのか。

 真壁には分からなかった。

「その子は」

 江口は言った。

「名前を持ってました」

 白い沈黙が落ちた。

「当たり前だろ」

 真壁が言う。

「当たり前じゃなかったんです。この村では」

 江口は、やっと顔を上げた。

「名前って、誰かが呼ばないと消えるんですよ」

「誰が消した」

「大人です」

「お前もか」

 江口は答えた。

「はい」

 二階堂の表情が変わる。

「お前が?」

「僕も大人でしたから」

「教育実習生だろ」

「二十歳を超えてました」

「そういう話じゃない」

「そういう話です」

 江口は静かに言った。

「子どもから見れば、二十歳の実習生も、五十歳の担任も、七十歳の村の偉い人も、全部“大人”です」

 真壁は黙った。

 その言葉は、逃げではなかった。

 むしろ、逃げ道を自分で塞ぐ言葉だった。

「お前は何をした」

 江口は、少しだけ目を伏せた。

「何もしなかった」

「それは聞いた」

「でも、子どもにとっては同じです」

「何が」

「何もしない大人も、嘘をつく大人も」

 江口は笑った。

 ひどく弱い笑いだった。

「同じくらい、役に立たない」

     *

 その夜、子どもたちはいつもより早く眠った。

 江口が、読み聞かせをしたらしい。

 怖い話ではない。

 昔話でもない。

 理科の教科書の、春の植物の項目。

 雪解け。

 発芽。

 花。

 季節の移り変わり。

 真壁が多目的室の前を通ると、江口の声が聞こえた。

「怖いのは、分からないことです」

 静かな声だった。

「だから、分かることを増やしましょう。今日は何人いるか。明日は何をするか。ご飯はどこで食べるか。困ったら誰を呼ぶか」

 子どもの声。

「先生?」

「何」

「悪い大人っているの?」

 沈黙。

 江口は、少し間を置いて答えた。

「います」

「先生も?」

「僕も、悪い大人かもしれません」

「えー」

「えー、じゃないです。大人を簡単に信じない。大事です」

「でも先生は?」

 江口は笑ったようだった。

「僕は、信じなくてもいいので、呼んでください」

「信じないのに?」

「うん」

 声が、少し柔らかくなる。

「信じるのと、助けを呼ぶのは別です」

 真壁は廊下で足を止めていた。

 江口の言葉は、いちいち正しい。

 正しすぎる。

 だからこそ、危うい。

 正しい言葉で、人は人を殺せる。

 そういう現場を、真壁は何度も見てきた。

      *

 深夜。

 旧職員室で、九条が焼け残った資料を並べていた。

 真壁と二階堂がそれを見る。

 児童名簿。

 保健室記録。

 事故報告書。

 集合写真。

 焼け残った断片だけでも、分かることがあった。

 同じ年、同じ学級に、似た名前の子どもが二人いた。

 片方は事故死として記録されている。

 もう片方は、途中から記録が消えている。

 転校。

 退学。

 病欠。

 資料によって説明が違う。

 つまり、どれかが嘘だ。

「誰かが、二人を一人にした」

 二階堂が言う。

「あるいは、一人を二人に分けた」

 九条が訂正する。

 真壁は資料を見つめた。

「まだ足りない」

「ああ」

 九条は頷いた。

「母親の記録がない」

「いつつ、母に返して」

 二階堂が呟く。

 三人の間に、沈黙が落ちる。

 次は母。

 母とは誰か。

 死んだ子の母か。

 消された子の母か。

 それとも、誰かの母にされた女か。

「次を止める」

 真壁は言った。

「必ず」

 二階堂も頷く。

 九条は、焼け焦げた写真を見ながら言った。

「急いだほうがいい」

「なぜ」

「犯人は、我々がここまで気づくことを予定している」

「だったら次も予定通りか」

「おそらく」

 真壁は窓の外を見た。

 雪桜が闇に沈んでいる。

 雪は止んでいる。

 けれど、花弁が一枚、また落ちた。

 白い雪の上ではなく、黒い夜の中へ。

 消えたように見えた。

 だが、きっとどこかに落ちている。

 見えないだけだ。

 消えたわけではない。

 この村が消したつもりの名前も、同じなのだろう。

 誰かが覚えている限り。

 誰かが呼ぶ限り。

 火で焼いても、雪で隠しても、水に流しても。

 消えない。

 真壁は、机の上の焦げた紙片を見た。

 そこには、半分だけ焼け残った文字がある。

 読めるのは、一文字だけだった。

 ――母。

 次は、そこに向かっている。


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