第五章 みっつ、枝に結んで
朝は、来た。
けれど夜は終わっていなかった。
旧雪桜小中学校の廊下には、明るさだけが差し込んでいる。窓の外は白く、空は鈍く、校庭の雪桜は薄い光の中でぼんやりと立っていた。
真壁彰は、旧職員室の椅子に座ったまま、ほとんど眠らなかった。
机の上には、昨夜見つかった紙が置かれている。
ねんねん桜 誰の子だ。
ひとつ 雪に隠して。
ふたつ 川に流して。
みっつ 枝に結んで。
赤い線が引かれている。
みっつ、枝に結んで。
次を示す言葉。
予告。
挑発。
あるいは、授業の板書。
真壁は、その紙を見下ろしていた。
犯人は、隠れていない。
少なくとも、犯行の意味は隠していない。
むしろ、見ろと言っている。
読めと言っている。
順番に理解しろと。
それが腹立たしかった。
「寝てないな」
二階堂壮也が、紙コップのコーヒーを二つ持って入ってきた。
片方を真壁の前に置く。
「お前もだろ」
「俺は仮眠した」
「何分」
「十二分」
「それは仮眠じゃない。目を閉じただけだ」
二階堂は椅子を引いて座った。
いつもの整った顔にも、さすがに疲労が見えている。
それでも乱れてはいない。
身だしなみも、声の置き方も、視線も。
この状況でなお、彼は“見られる自分”を崩さない。
だが、江口桜次郎の話になると、その制御が微かに甘くなる。
真壁は紙コップを持ち上げた。
「江口は」
「多目的室。子どもたちを起こしてる」
「監視は」
「施設職員が二人。俺も見た。子どもは全員いる」
「本人は」
「いる」
二階堂は短く答えた。
「ただ、あいつはずっと起きてた」
「何をしていた」
「プリント作ってた」
「プリント?」
「ああ」
二階堂は苦く笑う。
「今日の予定表と、簡単な計算問題と、読書感想メモ。非常時の過ごし方まで書いてた」
「教師だな」
「本人に言うなよ。嫌がる」
「分かってる」
真壁はコーヒーを口にした。
冷めている。
苦味だけが強かった。
「枝の対策は」
「校庭への出入口はすべて確認した。旧昇降口、職員玄関、非常口。鍵は内側から管理。窓も点検した」
「桜に近づけさせるな」
「それは徹底してる」
二階堂は一度言葉を切った。
「ただ、犯人が“桜の枝”を使うとは限らない」
「分かっている」
みっつ、枝に結んで。
枝は、桜とは限らない。
枝状のもの。
木材。
配線。
梁。
あるいは、比喩。
見立ては分かりやすいほど、別の意味を隠せる。
九条雅紀が入ってきたのは、そのときだった。
顔色はいつも通り薄い。
だが、目は冴えていた。
「水路をもう一度見たい」
第一声がそれだった。
「柿沼の件か」
真壁が聞く。
「ああ。暗渠の流れと、氷の割れ方を確認したい」
「今か」
「雪が止んでいる。痕跡が完全に変わる前に見たい」
二階堂が時計を見る。
午前七時前。
食堂の朝食まではまだ少しある。
「俺も行く」
真壁が立ち上がる。
二階堂も続こうとしたが、真壁が止めた。
「お前は中に残れ。関係者の確認を続けろ」
「一人で行かせる気か」
「九条と行く」
「そうじゃない」
二階堂の視線は、旧職員室の扉の向こうへ向いていた。
多目的室の方角。
江口がいる場所。
「中が気になるなら、お前が残れ」
真壁は言った。
二階堂は一瞬黙り、頷いた。
「分かった」
その声には、割り切りきれないものがあった。
*
外へ出ると、空気がさらに冷えていた。
雪は小康状態。
だが、風が雪面を撫で、細かな粉雪を低く流している。
旧校舎裏の水路は、前夜よりも静かだった。
柿沼康夫の遺体が引き上げられた場所には、簡易の目印が置かれている。
氷の割れ目は、夜のうちに一部凍り直していた。
九条はしゃがみ込み、氷の端を観察する。
真壁は周囲を見た。
足跡は、昨夜の確認で踏み荒らされている。
その中に、意味のある痕跡を見つけるのは難しい。
「柿沼さんは、ここで殺されたのではないな」
九条が言った。
「確定か」
「ほぼ。水路の中に引っかかっていたが、衣服に泥の付着が少ない。落ちて流されたなら、もっと擦れる」
「暗渠から出てきた」
「そう考えるのが自然だ」
九条は上流側を照らす。
水路は途中で校舎の下へ潜り込んでいる。
暗い穴。
鉄格子のようなものがあるが、一部が外れていた。
「ここを使った犯人は、構造を知っている」
「学校関係者か、村の人間」
「あるいは、事前に調べた人間」
真壁は江口の顔を思い浮かべた。
教育実習生として、この学校にいた。
教師として今この場所にいる。
子どもを守ると言いながら、何かを隠している。
疑う理由は十分ある。
だが、足りない。
江口が犯人だとして、なぜこんなに露骨に怪しまれる態度を取るのか。
逆に犯人でないなら、何を守っているのか。
「江口は」
九条が言った。
真壁は彼を見る。
「どう思う」
「怪しい」
「それは分かる」
「だが、犯人であることと、事件の中心であることは違う」
九条は淡々と続けた。
「彼は中心にいる。だが、手を下しているかは別だ」
「お前は、江口を庇っているのか」
「庇う理由はない」
「ならなぜ」
「死体は嘘をつかない。だが、生きている人間は、嘘で本当の位置を隠す」
九条は暗渠の奥を見た。
「江口の嘘は、自分を犯人に近づけすぎている」
真壁は黙った。
それは、二階堂が言っていたことにも近い。
あいつは自分を盾にする。
誰かに目を向けさせたくないとき、自分が目立つ。
「誰を守っている」
真壁が呟く。
九条は答えなかった。
代わりに、暗渠の脇に落ちていたものを拾い上げる。
細い、透明なもの。
糸。
いや、釣り糸に近い。
「何だ」
「昨日は気づかなかった」
九条はそれを光に透かす。
「水で濡れて、氷に張りついていた」
「犯行に使ったものか」
「可能性はある。何かを固定していたのかもしれない」
真壁は袋を取り出し、証拠として保管した。
「水路にも仕掛けがあった」
「ああ」
「なら次も仕掛ける」
九条は頷く。
「枝に結ぶなら、時間差があり得る」
「時間差?」
「人間を枝に結ぶ瞬間を見られたくないなら、死体を後から“そう見える状態”にする」
真壁は雪桜を思い出した。
枝。
ロープ。
吊るす。
「それを防ぐには」
「枝だけでなく、吊るせる場所をすべて見張る必要がある」
「無理だな」
「無理だ」
九条はあっさり言った。
「だから犯人は、それを選んだ」
*
施設に戻ると、食堂は重苦しい空気に包まれていた。
朝食の湯気が、誰にも歓迎されずに立ち上っている。
白石理佳は顔色が悪く、大内医師はほとんど箸をつけていない。
宮原司はしきりにスマホを見ている。
佐貫源蔵は、窓際で杖を抱えたまま座っている。
江口桜次郎は、子どもたちのテーブルにいた。
子どもたちの前には、いつもより小さく切られたパンと、温かいスープが置かれている。
「食べられる分だけでいいです」
江口の声が聞こえた。
「残しても怒りません。ただ、温かいものを一口は入れてください」
「先生は?」
女の子が聞く。
「僕はコーヒーで生きてます」
「だめだよ」
「だめですね」
「食べて」
「生徒に生活指導される教師、終わってるな」
江口はそう言いながら、パンを小さくちぎって口に入れた。
子どもが安心したように笑う。
真壁はそれを見た。
この男は、こういうことを自然にやる。
自分を雑に扱う。
でも、子どもの前では雑にしきれない。
そこが、かえって厄介だった。
食堂の端で、二階堂が腕を組んでいた。
真壁が近づくと、彼は小さく顎を動かした。
「全員確認済み。現時点で欠けはない」
「問題は」
「大内がかなり不安定だ」
真壁は大内を見た。
老いた校医は、両手で湯呑みを持っている。
指先が震えていた。
「昨夜から薬を飲んでいる。白石が付き添ってるが、あの状態だと単独行動しかねない」
「見張れ」
「分かってる」
「宮原は」
「佐貫と揉めたあと、黙り込んでる」
「佐貫は」
「黙りすぎだな。村の年寄りっていうより、裁判を受ける前の被告人みたいな顔をしてる」
二階堂の言葉は鋭い。
軽口の形をしているが、観察は正確だった。
「江口は」
真壁が聞く。
二階堂は少し間を置いた。
「子どもの前では、いつも通り」
「大人の前では」
「いつもより静かだ」
「怪しいな」
「怪しい」
二階堂はすぐに認めた。
「でも、あいつが本当に犯人なら、俺たちにここまで考えさせる意味が分からない」
「犯行を見せたい」
「ならもっと上手く隠れる。桜次郎は、そういう計算はできる」
「昔からか」
「ああ」
二階堂は食堂の奥の江口を見た。
「面倒くさがりだけど、雑ではない。自分のことは雑に扱うが、段取りは雑にしない」
その言葉が、真壁の中に残った。
段取り。
順番。
授業。
事件は、あまりにも整っている。
ならば、江口に似ている。
いや、江口が事件に似ているのか。
どちらなのかは、まだ分からない。
*
午前九時。
真壁たちは全員に改めて行動制限を伝えた。
校庭への出入り禁止。
単独行動禁止。
旧校舎裏、水路、焼却炉周辺への立ち入り禁止。
使われていない教室の施錠。
窓の開閉禁止。
わらべ歌を口にしないこと。
最後の項目を読み上げたとき、江口が微かに笑った。
「何か」
真壁が聞く。
「いえ」
「言え」
「歌を禁止しても、覚えてる人の中では鳴りますよ」
白石が苛立った声を出した。
「江口先生。今はそういう詩的な発言をしている場合では」
「詩じゃないです」
江口は彼女を見た。
「記憶の話です」
その視線に、白石が黙る。
大内が小さく咳をした。
佐貫は目を閉じたままだ。
宮原は俯いている。
誰もが歌を知っている。
誰もが意味を知っている。
ただ、真壁たちだけが知らされていない。
その構図が、はっきりしてきた。
「では」
二階堂が場を引き取った。
「各自、指定された部屋で待機してください。必要な移動は必ず申告を」
そのとき、廊下の向こうで子どもの声がした。
「先生、雪桜見ちゃだめなの?」
多目的室にいた子どもの一人が、扉から顔を出している。
江口がすぐに振り返った。
「だめ」
「ちょっとだけ」
「だめ」
「なんで?」
「危ないから」
「桜も?」
「桜は危なくない」
江口は少しだけ言葉を選んだ。
「危ないのは、桜を使う人」
その言葉に、食堂の大人たちが固まった。
江口は気づいていないはずがない。
それでも子どもに向かって、静かに続ける。
「綺麗なものを、悪いことの言い訳に使う人がいる。だから今は近づかない」
子どもは難しそうな顔をした。
「分かんない」
「分かんなくていい」
江口はしゃがむ。
「僕たちが分かってればいい」
「先生たち?」
「大人」
「大人、分かってる?」
その問いに、誰もすぐには答えられなかった。
江口だけが笑った。
「分かってない大人もいるから、先生が怒ってます」
「先生、怒ってるの?」
「けっこう」
「顔、怒ってないよ」
「僕は怒るの下手なんです」
子どもが少し笑う。
江口も笑った。
「だから、どうか僕を怒らせないでください」
その台詞は軽く聞こえた。
だが、真壁には、底に沈んだ冷たいものが聞こえた。
*
昼前。
大内医師が消えた。
最初に気づいたのは白石だった。
「先生がいません」
彼女は真壁たちのいる旧職員室へ駆け込んできた。
顔が白い。
「薬を取りに行くと言って、戻ってこないんです」
「一人で行かせたのか」
真壁の声が硬くなる。
「部屋のすぐ近くだったので……私は廊下で待っていました。ですが、戻らなくて」
「部屋は」
「空です」
二階堂がすぐに立ち上がる。
「校庭側の扉は確認済みか」
「今朝から施錠している」
真壁は答えた。
「鍵は?」
「俺と施設責任者が持っている」
九条が言う。
「窓」
三人は動いた。
大内に割り当てられた部屋は、旧保健室だった。
皮肉な場所だ、と真壁は思った。
中に入ると、薬袋が机の上に置かれている。
水の入ったコップ。
椅子は引かれている。
ベッド脇の窓が、少しだけ開いていた。
「ここから出たか」
二階堂が窓へ近づく。
外は校庭とは逆側、旧庭園に面している。
雪は積もっているが、窓の下に足跡がある。
小さく、浅い。
大内のものかどうかは分からない。
「なぜ窓から」
白石が震える。
「誰かに呼ばれた」
真壁が言う。
「あるいは、何かを見た」
九条が窓枠を見た。
「雪が内側に入っている。開いてから時間が経っている」
「どこへ向かった」
足跡は庭園の奥へ続いている。
その先には、古い倉庫と、校庭へ回り込む細い道があった。
真壁はすぐに指示を出す。
「二階堂は中に残れ。江口と子ども、他の関係者を確認。九条、行くぞ」
「俺も行く」
二階堂が言う。
「駄目だ」
「真壁」
「中を空けるな」
二階堂は悔しそうに息を吐いた。
「分かった。十分ごとに連絡する」
「圏外でもだ」
「分かってる」
真壁と九条は窓から外を確認し、建物の出口から庭園へ回った。
足跡は、雪の上に細く続いている。
大内は小柄な男だった。
雪に足を取られながら進んだのだろう。
途中で何度もふらついた跡がある。
「自発的に歩いているな」
九条が言う。
「引きずられてはいない」
「だが、目的が分からない」
足跡は倉庫の前を通り過ぎ、さらに奥へ続いた。
そこからは、校庭の雪桜が見える。
真壁は足を止めた。
足跡は、雪桜の方へ向かっている。
しかし、まっすぐではない。
途中で旧庭園の枯れ木の方へ逸れている。
枝ぶりの大きな、古い梅の木。
葉はない。
細い枝が、雪を被っている。
その下に、大内医師がいた。
立っていた。
一瞬、そう見えた。
だが違った。
彼の体は、枝から垂れたロープに支えられていた。
首ではない。
胸部と両腕に絡むように結ばれている。
頭は前に垂れ、足先は雪面にかすかに触れている。
まるで、枝に預けられた人形のようだった。
真壁は走った。
「大内さん!」
返事はない。
近づいた瞬間、九条が制した。
「待て」
「生きている可能性は」
「確認する。だが、足元を見ろ」
真壁は足を止めた。
雪の上に、細い線が走っている。
釣り糸のようなもの。
ロープ。
枝。
地面。
複雑に絡んでいる。
罠か。
「下手に触るな」
九条は慎重に近づき、大内の頸動脈に触れた。
短い沈黙。
「死亡している」
真壁は奥歯を噛んだ。
また。
また、防げなかった。
みっつ、枝に結んで。
枝は桜ではなかった。
旧庭園の梅。
桜を見張っていた。
だからこそ、違う枝が使われた。
九条は大内の体を観察する。
「首吊りではない」
「見れば分かる」
「死後に吊られている可能性がある」
「またか」
「いや」
九条は眉をわずかに寄せた。
「今回は、少し違う」
真壁は周囲を見る。
足跡がある。
大内のものらしき足跡が木の下まで続いている。
他にはない。
少なくとも、見える範囲では。
犯人の足跡がない。
枝に結ばれた死体。
本人が歩いてきた足跡。
他者の痕跡なし。
不可能状況。
「自殺に見せたいのか」
真壁が言う。
「胸部にロープが回っている。自殺にしては不自然だ」
九条は枝を見上げた。
そこには滑車のような金具が取り付けられている。
いや、滑車ではない。
古い園芸用の吊り具か。
雪の重みで枝を支えるための補助具。
それにロープが通されている。
「時間差だ」
九条が言った。
「死体が後から持ち上がった」
「どうやって」
九条はロープを辿る。
木の根元に、小さなバケツが転がっていた。
中には氷。
溶け残った雪。
ロープの一端が、そこに繋がっている。
「重りか」
真壁が言う。
「逆だ。おそらく、雪解け水か氷を利用して重さを変えた」
九条は枝の滑り跡を見る。
「最初は大内の体は雪面に倒れていた。時間が経つにつれ、氷が溶けるか水が抜ける。重心が変わり、ロープが滑って体が持ち上がる」
「枝に結んだように見える」
「そうだ」
九条は淡々としていた。
だが、その目は鋭い。
「犯人は、見つかる時刻まで計算している」
真壁のスマホが震えた。
電波が一瞬だけ入ったのだろう。
二階堂からの着信。
真壁は出る。
「見つけた」
『誰だ』
「大内。死亡」
電話の向こうで、二階堂の息が止まる。
『場所は』
「旧庭園。梅の枝」
『……枝か』
「ああ」
『江口は多目的室にいる。子どもも全員いる。白石、宮原、佐貫も確認済みだ』
「全員の所在を固めろ。誰も動かすな」
『分かった』
電話が切れた。
真壁は大内の死体を見る。
枝に結ばれた三人目。
雪。
水。
枝。
順番は守られている。
犯人は、止まらない。
*
遺体発見の知らせは、施設内に一気に広がった。
白石はその場に座り込んだ。
宮原は壁を殴り、すぐに手を押さえた。
佐貫は初めてはっきりと顔色を変えた。
江口は、多目的室の扉の前に立っていた。
子どもたちを中に残し、自分だけ廊下に出ている。
真壁が戻ると、彼はすでに何が起きたか察している顔をしていた。
「誰ですか」
江口が聞く。
「大内さん」
真壁が答える。
江口は目を伏せた。
「そうですか」
二階堂が、低く言う。
「またそれか」
「何て言えばいい」
「驚けよ」
「驚いてます」
「嘘だ」
「じゃあ、どうすれば信じる?」
江口の声が少しだけ荒れた。
すぐに彼は、扉の向こうを気にする。
子どもに聞こえたかもしれない。
声を落とす。
「すみません」
二階堂は江口を睨んだ。
「お前、昨夜“あと三つ”と言ったな」
「言いましたね」
「その一つが今起きた」
「はい」
「本当に無関係か」
江口は、二階堂を見た。
薄い笑みを作る。
失敗している。
「無関係な人間なんて、この村にはいませんよ」
「そういう話じゃない」
「そういう話です」
江口は、はっきり言った。
「戸倉先生も、柿沼さんも、大内先生も、みんな関係者です。死んだ子にも、消された子にも」
真壁の目が動く。
「消された子」
江口は黙った。
失言。
まただ。
江口は重要なところで、言葉を漏らす。
それがわざとなのか、限界なのか分からない。
「今、何と言った」
真壁が問う。
江口は息を吐く。
「聞こえた通りです」
「説明しろ」
「まだです」
「まだ?」
「順番がある」
二階堂が一歩近づく。
「お前、いい加減にしろ」
江口は笑った。
今度は少しだけ、いつもの軽さが戻っていた。
「怒ってる?」
「怒ってる」
「珍しいな。お前、怒り方まで品がいいのに」
「茶化すな」
「茶化してないよ」
江口は、二階堂を見た。
その目に、わずかな疲れとは別のものがあった。
諦めに近い。
「にか。お前、昔からそうだったよな。正しい場所に立つのが上手かった」
「何の話だ」
「俺は苦手だった」
「一人称」
二階堂が言った。
江口が止まる。
いつもは「僕」だった。
今、彼は「俺」と言った。
二階堂は見逃さなかった。
「お前、動揺してる」
江口は一瞬だけ目を伏せた。
「してるよ」
初めて、認めた。
「人が死んだんで」
「三人目だ」
「知ってる」
「次もあるのか」
江口は答えない。
二階堂の声がさらに低くなる。
「桜次郎」
江口は、扉に手を置いた。
多目的室の中では、子どもたちが小さな声で話している。
「子どもがいます」
「逃げるな」
「逃げてない」
「なら話せ」
「話すと」
江口は言葉を切った。
「この子たちの中にも、聞かなくていいことを聞く子が出る」
「事件が続けば、もっと聞くことになる」
「分かってる」
「本当に分かってるのか」
江口は、ゆっくり二階堂を見た。
「分かってるから、まだ話さないんだよ」
その声には、軽さがなかった。
*
大内医師の死体は、旧庭園に保存された。
地元署には再び連絡を入れた。
到着は依然として未定。
除雪作業は進んでいるが、倒木の処理が終わっていない。
山道の一部で雪崩の危険もあるという。
真壁は電話を切り、旧職員室の壁を見た。
校訓の額。
よく見て、よく聞き、よく考える。
今は、それだけしかできない。
よく見る。
よく聞く。
よく考える。
それでも、人が死んでいく。
悔しさが、胃の底に溜まっていた。
九条が入ってきた。
「大内の死因は、現場見解だが、薬物の可能性がある」
「薬物?」
「注射痕らしきものがある。腕の内側。本人の持病薬とは別のものかもしれない」
「殺害後に吊った」
「おそらく」
「なら、大内は歩いて木の下まで行ったのではない?」
「いや、足跡は大内のものだろう。自分で歩いた可能性が高い」
「薬で誘導されたか」
「または、呼び出されて、自分で行った。そこで薬物を投与された」
二階堂が言う。
「犯人の足跡は」
「ない」
「どうやって近づいた」
九条は机に図を描いた。
「大内の足跡は木の下まである。だが、その周辺に別の足跡はない。犯人は、足跡を残さずに近づいたか、近づく必要がなかった」
「遠隔?」
「可能性はある」
「注射を遠隔では無理だ」
「注射が死因ならな」
真壁は図を見た。
木。
足跡。
ロープ。
バケツ。
雪解け水。
時間差で吊り上がる死体。
「大内は、木の下に自分で来た。そこで何かをした。あるいは、何かをさせられた」
二階堂が呟く。
「自分でロープを装着した?」
「脅されていたなら」
九条が言う。
「または、救命行為だと思わされた」
「医者だからか」
「あり得る」
真壁は江口の言葉を思い出す。
大内先生が何を記録しなかったか。
十年前、校医だった大内。
記録しなかったもの。
死因。
怪我。
虐待。
いじめ。
それらを隠した。
ならば今回、彼が“記録される側”になった。
犯人は、役割を反転させている。
「順番に思い出させている」
九条が言った。
真壁は顔を上げる。
「何だ」
「この殺人は、処刑ではない。少なくとも、犯人の主観では」
「では何だ」
九条は答えた。
「再現だ」
*
午後。
白石理佳への聞き取りが行われた。
彼女は極度に緊張していた。
大内と同室待機していた責任を感じているようにも見える。
だが、真壁にはそれだけではないと分かった。
「大内先生は、なぜ窓から出たと思いますか」
「分かりません」
「薬を取りに行くと言った」
「はい」
「部屋には薬がありました」
「……はい」
「つまり、薬は口実だった」
白石は唇を噛む。
「私は、止めるべきでした」
「大内先生は何か言っていましたか」
「……」
「白石さん」
「“あの子が呼んでいる”と」
真壁はペンを止めた。
「誰が」
「分かりません。先生はそう言って……様子がおかしかったんです」
「なぜそれをすぐ言わなかった」
「意味が分からなかったからです」
「本当に?」
白石は目を伏せた。
「怖かったんです」
「何が」
「また、始まったと思ったから」
部屋の空気が重くなる。
二階堂が静かに言った。
「九年前にも、“あの子が呼んでいる”という言葉があったんですね」
白石は答えなかった。
だが、沈黙が答えだった。
「その子の名前は」
真壁が聞く。
白石の手が震える。
「言えません」
「なぜ」
「言ってはいけないことになっているから」
「誰が決めた」
白石は涙をこらえるように目を閉じた。
「村が」
短い言葉だった。
だが、十分だった。
この村には、名前を言ってはいけない子がいた。
誰の子でもない子。
誰の子にされたか分からない子。
消された子。
江口が言った言葉の輪郭が、少しずつ見えてくる。
*
聞き取りの後、真壁は廊下に出た。
江口が、窓際に立っていた。
外を見ている。
雪桜ではない。
旧庭園の方角。
大内の死体が見つかった場所。
「白石さん、何か話しました?」
江口が聞いた。
「なぜ気にする」
「順番なので」
「またそれか」
「便利な言葉なんで」
江口は笑った。
だが、疲れきった笑いだった。
真壁は隣に立つ。
「大内さんは、“あの子が呼んでいる”と言ったそうだ」
江口の表情が止まる。
「心当たりがあるな」
「あります」
「名前は」
「言えません」
「白石さんも同じことを言った」
「でしょうね」
「村が決めたと」
江口は小さく息を吐いた。
「村って便利ですよね」
「何が」
「誰も責任を取らなくていい。みんなで決めたことにすれば、誰の手も汚れない」
「だが、誰かの手は汚れている」
「ええ」
江口は窓に映る自分の顔を見た。
「だから、洗っても落ちないんでしょうね」
真壁は彼を見る。
「お前の手もか」
江口は答えなかった。
その沈黙に、真壁は踏み込む。
「江口。お前は犯人か」
直球だった。
江口は驚かなかった。
むしろ、少し安心したように見えた。
「真壁さんって、優しいですね」
「質問に答えろ」
「優しいですよ。ちゃんと聞いてくれる」
「犯人か」
江口は、窓の外を見たまま言った。
「僕が犯人なら、どうします?」
「逮捕する」
「でしょうね」
「違うなら、知っていることを話せ」
「話したら?」
「次を止める」
江口は、そこで初めて真壁を見た。
「本当に?」
「ああ」
「九年前も、誰かがそう言ってくれたらよかったのに」
また、九年前。
また、あの日。
真壁がさらに聞こうとしたとき、多目的室の方から子どもの声がした。
「先生!」
江口の顔が変わる。
真壁は一瞬、制止しようとした。
だが、江口はすでに走り出していた。
その背中を見ながら、真壁は思った。
この男は逃げている。
だが、逃げる方向がいつも同じだ。
子どもの方へ。
*
夕方。
施設内に、三人目の死の詳細が知れ渡った。
枝に結ばれていた。
その言葉は、誰の口から出たわけでもないのに、静かに広まった。
わらべ歌の三つ目。
みっつ、枝に結んで。
子どもたちは歌わなくなった。
大人たちは、歌を忘れたふりをした。
だが、誰の頭の中にも鳴っている。
四つ目。
よっつ、炉にくべて。
次は火。
炉。
焼却炉。
真壁は、施設図面を広げた。
旧校舎の北側に、古い焼却炉がある。
現在は使用禁止。
施設改装後も、撤去されずに残っている。
「次はここだ」
二階堂が言う。
「分かりやすすぎる」
真壁は答える。
「だから警戒する」
「枝のときもそうだった」
「だから今度は、焼却炉だけでなく、火を使う場所をすべて確認する」
家庭科室。
厨房。
ボイラー室。
暖房設備。
非常用発電機。
炉にくべる。
火とは限らない。
消すこと。
燃やすこと。
証拠を失わせること。
次は、火そのものより、何を燃やすかが重要かもしれない。
「江口をどうする」
二階堂が聞く。
真壁は図面から目を上げた。
「目を離すな」
「拘束は」
「証拠がない」
「任意で部屋にいてもらうか」
「子どもから離せるか」
二階堂は黙った。
江口を子どもから離す。
理屈ではできる。
だが、それが子どもたちの不安を増やすことも分かっている。
そして、江口自身がそれを盾にすることも。
「厄介だな」
真壁が言う。
二階堂は苦く笑った。
「昔からだ」
*
夜が落ちた。
三人目の死体が出た日の夜は、前の二夜よりさらに重かった。
雪は止んでいる。
けれど、施設の中では誰も外へ出ようとしない。
外が怖いのではない。
中が怖いのだ。
真壁は巡回中、廊下の角で江口と出くわした。
彼は毛布を抱えている。
「どこへ行く」
「多目的室です。子どもが寒がってたので」
「一人で動くなと言った」
「すみません」
「軽いな」
「軽くしてます」
江口は言った。
「重くすると、動けなくなるので」
その言葉だけは、本音に聞こえた。
真壁は彼を見た。
「大内さんの死体を見て、お前は何と言った」
「何か言いましたっけ」
「ちゃんと順番守ってる、と」
江口は目を伏せる。
「言いましたね」
「なぜそんなことを言った」
「……」
「江口」
「真壁さん」
江口は顔を上げた。
その目は赤い。
寝不足だけではない。
「人が死ぬのは嫌です」
「なら止めろ」
「止められるなら、とっくに止めてます」
「どういう意味だ」
「僕には、止める資格がない」
真壁は眉を寄せた。
「資格?」
「はい」
「人殺しを止めるのに資格はいらない」
「そう言える人は、たぶん強いんです」
江口は、少しだけ笑った。
「僕は弱いので」
「弱い人間が、子どもの前であんな顔はできない」
その言葉に、江口は初めて明確に不快そうな顔をした。
「やめてください」
「何を」
「そういう言い方」
「事実だ」
「事実でも、嫌なものは嫌です」
江口は毛布を抱え直す。
「僕は、自分が良い教師だと思ったことは一度もありません」
「子どもはそう思っていない」
「子どもは騙されやすいんです」
「お前が騙しているのか」
「そうかもしれません」
江口は、低く言った。
「だから、いずれ怒られる」
「誰に」
「子どもに」
その答えは、真壁の予想外だった。
江口は続ける。
「大人に裁かれるより、そっちの方がきついですよ」
「お前は何をした」
江口は黙る。
長い沈黙。
その間に、廊下の遠くから、暖房の作動音が聞こえた。
古い建物が、小さく鳴る。
江口は最後に、かすかに笑った。
「まだ授業中です」
真壁の目が鋭くなる。
「何?」
「すみません。独り言です」
「江口」
「毛布、届けてきます」
真壁は止めなかった。
いや、止められなかった。
彼の背中には、逃げる人間の軽さがなかった。
むしろ、決まった場所へ向かう人間の重さがあった。
*
その深夜。
旧職員室に戻った真壁は、窓の外を見た。
校庭の雪桜は、闇の中に沈んでいる。
枝に積もった雪は、月明かりを受けて青白い。
三人が死んだ。
雪。
水。
枝。
次は、炉。
だが、真壁の頭から離れないのは、江口の言葉だった。
まだ授業中です。
誰が教師なのか。
誰が生徒なのか。
何を教えようとしているのか。
そして、その授業の最後に、誰が残るのか。
真壁は、机の上の紙を見た。
わらべ歌の三行目までに、赤い線が増えている。
誰が引いたのかは分からない。
みっつ、枝に結んで。
線は、そこまで進んでいた。
残る歌詞は二つ。
よっつ、炉にくべて。
いつつ、母に返して。
しかし、江口は言った。
あと三つ。
数が合わない。
五つの歌に、六つ目がある。
それが何を意味するのか。
真壁にはまだ分からなかった。
ただ一つだけ分かっている。
この事件は、殺人の数を数えているのではない。
消された何かの数を、合わせようとしている。
雪桜の村は、まだすべてを見せていない。
枝に結ばれた死体は、答えではない。
次の問いだった。




