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雪桜の教室は、誰の子を埋めたのか  作者: 綾見 恋太郎


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第四章 ふたつ、川に流して

 水の音は、校舎の奥から聞こえていた。

 ぽたり。

 ぽたり。

 一定の間隔ではない。

 近づくたびに、音は大きくなる。

 真壁彰は懐中電灯を握り、旧校舎の廊下を進んだ。

 床が軋む。

 そのたびに、二階堂壮也が後ろで小さく息を吐いた。

「古い校舎ってやつは、夜に歩くように作られてないな」

「昼でも同じだ」

 真壁が返す。

「いや、昼はまだいい。夜の学校は、人間を歓迎してない」

「それは同感だ」

 九条雅紀が淡々と言った。

 二階堂が振り返る。

「珍しく乗ってきたな」

「構造上、音が多い。視界が悪い。記憶と現実が混ざりやすい。事件現場としては、かなり嫌だ」

「そういう真面目な同感なら、いらない」

 真壁は二人の会話を聞きながら、音のする方へ意識を集中させていた。

 深夜の旧校舎。

 雪で孤立した廃校リノベ施設。

 十年前の児童死亡事故。

 第一の死体。

 わらべ歌。

 ひとつ、雪に隠して。

 ふたつ、川に流して。

 頭の中で、歌詞が勝手に続いていく。

 それを止めるように、真壁は足を速めた。

 廊下の突き当たりに、非常口がある。

 その向こうは、旧校舎裏へ続く通路だった。

 昼間に確認した地図では、そこから水路に出られる。

 山から流れ込む細い沢を、学校用地に沿って整備したものだ。

 冬場は凍る。

 今夜も凍っているはずだった。

 だが、音がする。

 水の音。

 真壁は非常口の前で足を止めた。

 扉の下から、冷たい空気が流れ込んでいる。

 わずかに開いていた。

「誰かが出たな」

 二階堂が低く言う。

 真壁は手袋をはめ直し、扉を押した。

 金属が軋む。

 外の空気が、刃物のように顔へ当たった。

 雪は弱まっていた。

 だが、風がある。

 校舎の裏は、表の校庭より暗かった。

 照明が少なく、雪明かりも届きにくい。

 懐中電灯の白い輪が、雪の上を滑る。

 足跡があった。

 一人分。

 いや、複数か。

 乱れている。

 非常口から、斜めに水路へ向かっていた。

 真壁はしゃがんだ。

 足跡は新しい。

 雪がまだ埋めきっていない。

「行くぞ」

 短く言う。

 三人は足跡を追った。

 旧校舎の裏手は、雪が深かった。

 防寒用の長靴でも、足を取られる。

 水音はだんだん近くなる。

 ぽたり、ではない。

 今は、ちょろちょろと流れる音になっていた。

 そして、真壁は水路を見た。

 細い石積みの溝。

 幅は一メートルほど。

 深さは、大人の膝から腰ほどだろう。

 そのほとんどは氷に覆われていた。

 だが一部だけ、黒い水面が開いている。

 そこに、何かが浮いていた。

 黒い布。

 腕。

 人間の体。

「二階堂、施設に連絡」

 真壁は言った。

 声は、自分でも驚くほど低かった。

 二階堂はすぐにスマホを取り出す。

 圏外。

 舌打ちする。

「戻って呼ぶ」

「一人で行くな。九条」

「分かっている」

 九条は懐中電灯で水路を照らしながら、慎重に縁へ近づいた。

 真壁も足場を確認する。

 石の上に雪が積もっている。

 滑る。

 水路の氷は薄いところと厚いところが混ざっているように見えた。

 不用意に乗れば、落ちる。

「誰だ」

 二階堂が息を詰める。

 真壁はライトを顔に向けた。

 水に濡れた顔。

 口を半開きにしている。

 目は閉じている。

 元PTA会長、柿沼康夫だった。

 大柄な体が、半ば水に浸かり、半ば氷に引っかかっている。

 まるで流されてきたものが、そこで止まったように。

 真壁の頭の中で、歌がまた鳴った。

 ふたつ、川に流して。

「引き上げる必要がある」

 真壁が言う。

「だが、現場を壊すな」

 九条は、水面を覗き込んだ。

「顔を下にしていた時間は長くない」

「生きている可能性は」

 九条は短く首を振った。

「ない」

 断言だった。

 二階堂が目を伏せる。

「またか」

 真壁は唇を結んだ。

 また、ではない。

 これは続きだ。

 第一の死とは別の事件ではない。

 同じ線の上に置かれている。

 犯人がそう見せている。

 歌に従って。

 順番に。

「足跡を確認する」

 真壁は周囲を照らした。

 非常口から続く足跡。

 水路の縁に近づく足跡。

 だが、不可解だった。

 柿沼本人のものらしき大きな足跡は、水路の手前で途切れている。

 周囲に、彼を押したような足跡がない。

 誰かと揉み合った跡もない。

 そして、水路の向こう側には足跡がない。

 氷の上にも、明確な痕跡は見当たらなかった。

「自分で落ちたか」

 二階堂が言う。

「この足場ならあり得る」

 真壁は水路を見た。

「だが、なぜ夜中にここへ来る」

「誰かに呼び出された」

「なら呼び出した相手の足跡がない」

「雪が消した」

「柿沼の足跡は残っている」

 二階堂は黙った。

 九条が、柿沼の体を照らしている。

「おかしい」

「何が」

「流されたにしては、衣服の引っかかり方が不自然だ」

 九条は水路の縁を指す。

「体は水流に沿っている。だが、足の向きが逆だ」

「つまり」

「ここで落ちたというより、ここで“出された”ように見える」

 真壁はその言葉を聞き、眉を寄せた。

「出された」

「水の中から」

 水路は凍っている。

 黒い開口部は狭い。

 そこから、死体が出た。

 そんなことがあるのか。

 真壁は氷の縁を見る。

 不自然に割れた跡がある。

 だが、人間が落ちたときの割れ方ではない。

 内側から押されたようにも見える。

「凍った水路の下に、死体があった?」

 二階堂の声がかすかに上ずる。

 九条は答えない。

 代わりに言った。

「少なくとも、発見時の状態は、犯人が作ったものだ」

 真壁は頷いた。

「施設に戻る。全員を起こす」

 二階堂がすぐに歩き出す。

 真壁は最後にもう一度、水路を見た。

 黒い水面。

 そこに浮く柿沼康夫。

 雪と氷に囲まれた、流れのない川。

 流して、という歌詞。

 だが、これは流されたのではない。

 九条の言った通りだ。

 待たされていた。

 何かの順番が来るまで。

      *

 施設に戻ると、廊下にはすでに数人が出ていた。

 非常口が開いた音を聞いたらしい。

 白石理佳が青ざめた顔で立っている。

「何があったんですか」

 二階堂が答える前に、江口桜次郎が奥から現れた。

 上着を羽織っている。

 顔色は悪い。

 だが、目は覚めていた。

「子どもは」

 真壁が聞く。

「寝てます。職員さんに見てもらってます」

「多目的室から出すな」

「分かってます」

 江口は即答した。

 その反応には迷いがない。

「誰が」

 二階堂が低く聞く。

 真壁が答えた。

「柿沼康夫」

 白石が口元を押さえた。

 大内医師が壁に手をつく。

 宮原司は「嘘だろ」と呟いた。

 佐貫源蔵は、杖を握ったまま動かなかった。

 江口だけは、少し目を伏せた。

「……そうですか」

 二階堂が、彼を見る。

「驚かないんだな」

「驚いてますよ」

「またそれか」

 江口は小さく笑った。

「顔に出にくいだけです」

「昨日も同じようなことを言ったな」

「便利な言葉なんで」

 真壁は、江口の前に立った。

「柿沼さんが水路で発見された」

「はい」

「わらべ歌の二つ目と一致する」

「ふたつ、川に流して」

 江口は、何のためらいもなく言った。

 白石が震える声で言う。

「やめてください」

 江口は彼女を見る。

「僕がやめても、歌詞は変わりません」

「そういう問題ではありません」

「そうですね」

 江口はそれ以上言わなかった。

 真壁は問う。

「心当たりは」

「あります」

 また即答だった。

 二階堂が一歩踏み出す。

「なら話せ」

「心当たりがあるのと、説明できるのは別です」

「逃げるな」

「逃げてません」

「桜次郎」

 その呼び方で、江口の目が少しだけ変わる。

 二階堂は低く言った。

「二人死んだ」

「知ってます」

「次もあると思ってるのか」

 江口は黙った。

 沈黙が、答えだった。

 真壁はその表情を見た。

 恐怖ではない。

 焦りでもない。

 むしろ、何かを確認しているような顔。

 計算。

 いや、違う。

 授業の進行を確かめる教師の顔。

 その連想が浮かんだ瞬間、真壁は自分の思考に苛立った。

 まだ決めつけるな。

 現場を見ろ。

 証言を集めろ。

 順番を守れ。

 そう自分に言い聞かせる。

「全員、食堂に集まってください」

 二階堂が声を上げた。

「勝手な行動はしないこと。今から所在確認を取ります」

 白石が頷く。

 大内は震えながら椅子に座り込む。

 宮原はスマホを握りしめる。

「警察はまだ来ないんですか」

「道路が塞がっています」

 二階堂が答える。

「地元署とは連絡を試みています。到着まで、こちらで安全確保をします」

「安全って」

 宮原の声が裏返る。

「安全なんてあるんですか、ここに」

 誰も答えなかった。

 その沈黙が、何よりの答えだった。

      *

 食堂での所在確認は、混乱の中で始まった。

 時刻は深夜一時半を過ぎていた。

 柿沼が最後に確認されたのは、午後十時頃。

 食堂を出て、自室へ戻る姿を宮原が見ている。

 その後、誰も見ていない。

 柿沼の部屋は、旧家庭科室を改装した宿泊室だった。

 扉は閉まっていたが、施錠はされていなかった。

 ベッドは乱れていない。

 上着がない。

 長靴もない。

 つまり、彼は自分で部屋を出た。

 少なくとも、そう見える。

「誰かが呼び出した可能性があります」

 真壁が言う。

「柿沼さんと口論していた人は?」

 沈黙。

 白石が視線を落とす。

 大内医師は指を震わせている。

 宮原は顔をしかめる。

 佐貫は動かない。

 江口は壁にもたれていた。

「昨日の聞き取りで、柿沼さんは戸倉さんの事故責任について強く反発していた」

 真壁は続ける。

「彼に不利な情報を知っていた人間は?」

「みんな知ってますよ」

 江口が言った。

 全員の視線が彼に向く。

「この村の大人なら、だいたい」

「江口先生」

 白石が強く言う。

「憶測で不安を広げるような発言は控えてください」

「憶測じゃないです」

 江口は静かに返した。

「皆さん、知ってますよね」

 その声には、いつもの軽さがなかった。

「戸倉先生が何を見て見ぬふりしたか。柿沼さんが何を黙らせたか。大内先生が何を記録しなかったか。白石さんが何を整理したことにしたか。佐貫さんが何を村のためって呼んだか」

 大内が立ち上がりかけ、椅子を倒した。

「やめなさい」

 声が震えている。

「君に何が分かる」

「分かりますよ」

 江口は大内を見た。

「僕、あの日ここにいましたから」

 食堂の空気が、凍った。

 真壁は江口から目を離さなかった。

 江口の手は、ポケットに入っている。

 肩の力は抜けている。

 だが、目だけが醒めている。

 二階堂が静かに言う。

「江口。お前、今すぐ全部話せ」

「話しても意味ないですよ」

「意味があるかどうかはこっちが判断する」

「違います」

 江口は首を振った。

「もう始まってるものは、途中で止まりません」

 真壁が言う。

「なぜそう言い切れる」

 江口は黙った。

「お前が始めたからか」

 その問いに、食堂の全員が息を呑んだ。

 江口は真壁を見た。

 笑わなかった。

 長い沈黙。

 やがて、彼は小さく言った。

「だったら、もう少し上手くやりますよ」

「どういう意味だ」

「子どもが怖がる」

 真壁の眉が動く。

「犯人は、子どものことを考えていないってことです」

「それをどうして判断できる」

「考えてたら、こんな下手な時間にやらない」

 江口の声に、苛立ちが滲んだ。

「夜中に大人が騒げば、子どもは起きる。泣く。眠れなくなる。明日の体調にも響く。やるなら、もっと」

 そこで、言葉を止めた。

 二階堂の目が細くなる。

「もっと?」

 江口は口を閉じた。

 真壁はその続きを待った。

 江口は視線を逸らし、いつものように笑おうとした。

 だが、うまく笑えていなかった。

「……すみません。教師の職業病です」

 真壁は低く言う。

「今の発言は記録する」

「どうぞ」

 江口は椅子に座った。

 それ以上、何も言わなかった。

      *

 夜明け前、水路の現場確認が再開された。

 雪は弱くなっていたが、気温はさらに下がっている。

 柿沼の遺体は、九条の指示のもと、最低限の記録を残した上で引き上げられた。

 正式な検視は、地元署と医師の到着を待つしかない。

 だが、九条は現場で分かる範囲のことを淡々と整理していった。

「溺死ではない可能性が高い」

 真壁は聞き返す。

「なぜ」

「口腔内の水量が少ない。肺については解剖しなければ断定できないが、少なくとも水中で長時間もがいた様子はない」

「死後に水路へ?」

「その可能性が高い」

 二階堂が水路を見下ろす。

「でも、どうやって氷の下に入れたんだ」

 九条は水路の上流側を指した。

「この水路は、旧校舎裏から山側へ伸びている。途中に暗渠がある」

「暗渠?」

「地図で見た。雪解け水を逃がすための地下水路だ」

 真壁は思い出した。

 施設の古い平面図。

 旧校舎の下を通る排水用の溝。

 普段は使われていないが、雪解け時や大雨のときだけ水が流れる。

「そこに遺体を入れた?」

「あり得る」

 九条は氷の割れ目を見る。

「上流の暗渠内に死体を固定し、一定量の水が流れた時点で押し出されるようにすれば、ここに現れる」

 二階堂が顔をしかめる。

「死体を“待たせる”ってことか」

「そうだ」

 九条は短く言う。

「これは流されたのではない。流れるように準備されていた」

 真壁は水路の縁を確認した。

 柿沼が自分で落ちたというより、彼の死体がここに到達するように仕組まれていた。

 つまり、犯人はこの水路の構造を知っている。

 暗渠の存在を知っている。

 雪と水の動きを知っている。

 この学校に詳しい人物。

 この村に詳しい人物。

 あるいは、十年前を知る人物。

「柿沼を殺した場所は別か」

「そう見るべきだ」

「移動には時間がかかる」

「大柄だからな」

 二階堂が言う。

「犯人が一人なら、かなり大変だ」

「一人とは限らない」

 真壁が言う。

 二階堂は黙った。

 連続見立て殺人。

 クローズドサークル。

 犯人は一人。

 そう思いがちだ。

 だが、思い込みは危険だった。

 この村では、十年前にも複数の大人が同じ方向を向いていた可能性がある。

 隠蔽。

 共犯。

 沈黙。

 今もまた、複数の沈黙が事件を支えているのかもしれない。

      *

 朝になると、施設内は前日よりも明らかに暗くなっていた。

 天候のせいだけではない。

 二人死んだ。

 それも、わらべ歌の順に。

 誰もが、その事実を認めざるを得なかった。

 食堂での朝食は、ほとんど手をつけられないまま終わった。

 子どもたちは別室。

 大人たちは、互いに疑いの目を向けている。

 大内医師は、何度も水を飲んでいた。

 白石は資料を抱えている。

 宮原は落ち着きなく足を揺らす。

 佐貫は目を閉じている。

 江口は、食堂の端で紙に何かを書いていた。

 真壁が近づく。

「何を書いている」

「子どもたちの今日の予定です」

「この状況で?」

「この状況だからです」

 江口はペンを止めない。

「何もすることがないと、怖いことばかり考えます。朝の会、読書、ストレッチ、昼食、自由時間。形だけでも予定があると、少し楽になる」

「教師らしいな」

「悪口ですか」

「褒めている」

「もっと悪い」

 江口は顔をしかめた。

 真壁は椅子を引き、向かいに座る。

「柿沼さんについて聞く」

「どうぞ」

「彼は九年前、何をした」

 江口のペンが止まる。

「……PTA会長でした」

「それは知っている」

「声が大きい人でした」

「何を黙らせた」

 江口は、しばらく黙った。

 食堂のざわめきが遠くなる。

「親です」

「誰の」

「死んだ子の」

「その親は今どこにいる」

「いません」

「亡くなったのか」

 江口は答えない。

「江口」

「真壁さん」

 江口は顔を上げた。

 その目は、寝不足の赤さを帯びている。

「人が“いない”って、色々ありますよね」

「どういう意味だ」

「死んだ。出て行った。追い出された。最初からいなかったことにされた」

 真壁は黙る。

 江口はペンを置いた。

「この村では、それが一緒になることがある」

「誰が、いなかったことにされた」

 江口は、答えようとした。

 少なくとも、真壁にはそう見えた。

 だがその瞬間、多目的室のほうから小さな泣き声がした。

 江口は立ち上がる。

「すみません」

「待て」

「子どもが泣いてます」

「話は終わっていない」

「終わってませんね」

 江口は頷く。

「でも、今は子どもが先です」

 その言い方に嘘はなかった。

 だからこそ、真壁は苛立つ。

 この男は逃げている。

 だが、逃げ道の先に子どもを置かれると、追えない。

 江口は食堂を出て行った。

 二階堂が近づく。

「どうだった」

「核心に近づくと、必ず逃げる」

「あいつらしい」

「お前なら追えるか」

 二階堂は、少しだけ苦い顔をした。

「たぶん、追える。でも今追うと、壊れる」

「誰が」

「江口が」

 真壁は食堂の入口を見る。

「壊れたほうが、話すかもしれない」

「そうだな」

 二階堂は静かに言った。

「でも、あいつが壊れるときは、たぶん誰かを巻き込む」

      *

 昼過ぎ、ようやく地元署との通信が安定した。

 だが、到着はまだ見込めない。

 除雪車が途中で止まり、山道の倒木処理に時間がかかっている。

 ヘリも天候のため飛べない。

 警察は、電話越しに現場保存と関係者の隔離を指示した。

 真壁は必要な情報を伝えた。

 戸倉誠一。

 柿沼康夫。

 いずれも十年前の児童死亡事故に関係する人物。

 わらべ歌に対応した見立ての可能性。

 雪と水。

 電話の向こうの刑事が息を呑むのが分かった。

 だが、来られないものは来られない。

 この場所にいる人間だけで、次を止めるしかなかった。

「次は、みっつ」

 二階堂が言った。

 旧職員室に、真壁、二階堂、九条が集まっていた。

「枝に結んで」

 九条が続ける。

 真壁は窓の外を見る。

 校庭の雪桜。

 枝。

 吊るす。

 首。

 あまりにも分かりやすい。

「桜に近づけさせるな」

 真壁が言う。

「全員に指示する」

 二階堂が立ち上がる。

「特に、関係者は一人にしない」

「江口もだ」

 二階堂の動きが止まる。

「分かってる」

「私情を入れるな」

 二階堂は真壁を見た。

「入れてない」

「ならいい」

「……入れそうになるから、言うな」

 珍しく、二階堂が本音を漏らした。

 真壁は何も言わなかった。

 九条が資料を見ている。

「次があるとして」

 彼は言った。

「犯人は、我々に次を予想させている」

「それが目的か」

「一部は」

「なぜ」

「予想させた上で、止められないことを見せるため」

 二階堂が低く呟いた。

「性格が悪いな」

「かなり」

 九条は静かに答えた。

「だが、怒りだけではない。これは、構造化されている」

「構造化?」

「授業に似ている」

 真壁は九条を見た。

「お前もそう思うか」

「順番があり、教材があり、受講者がいる」

 二階堂が顔をしかめる。

「やめろ」

「何を」

「その言い方、江口に近い」

 九条は少し考えた。

「そうかもしれない」

「冗談じゃないぞ」

「冗談ではない」

 二階堂は舌打ちした。

      *

 夕方前、江口は多目的室で子どもたちに本を読ませていた。

 真壁が扉の外から様子を見ると、子どもたちは思ったより落ち着いていた。

 床に毛布を敷き、輪になって座っている。

 江口は壁際に座り、赤ペンでプリントを採点していた。

 その顔は疲れている。

 だが、子どもが話しかけるたびに、きちんと顔を上げる。

「先生」

「何」

「この漢字、読めない」

「どれ」

「罪」

 江口の手が止まった。

 真壁は扉の陰から見ていた。

 江口は数秒、その文字を見ていた。

「つみ」

「つみ?」

「悪いこと」

「悪いことしたら、どうなるの?」

 江口はペンを置いた。

「怒られる」

「それだけ?」

「謝る」

「それだけ?」

 江口は少し笑った。

「難しい質問するな」

「だって、悪いことした人が謝らなかったら?」

 部屋が静かになる。

 子どもたちが、江口を見る。

 江口は、しばらく考えた。

「誰かが、覚えておくしかない」

「覚える?」

「うん」

 江口の声は穏やかだった。

「謝らない人がいても、なかったことにはしない。誰かが覚えていれば、それは消えない」

 真壁の胸に、何かが引っかかった。

 同じ言葉。

 忘れたふり。

 戻ってくるもの。

 覚えていること。

 この男の中で、それらは全部つながっている。

「先生も覚えてる?」

 子どもが聞く。

 江口は笑った。

「嫌になるくらい」

 その笑顔は、軽くなかった。

      *

 夜が迫るにつれ、施設内の緊張はさらに高まった。

 真壁は関係者を二人以上の組に分け、各部屋で待機させた。

 白石と大内。

 宮原と佐貫。

 施設職員二名は子どもの近く。

 江口は多目的室。

 二階堂が巡回。

 九条は旧職員室。

 真壁は全体を見て回る。

 完全ではない。

 だが、一人になる時間を減らす。

 次を止めるには、それしかなかった。

 午後八時。

 外は暗い。

 雪はほとんど止んだ。

 その代わり、気温が下がっている。

 窓の外の桜は、闇に沈んでいた。

 ライトアップは停止させた。

 校庭への扉は施錠した。

 それでも真壁は不安だった。

 犯人は、こちらの予想を利用してくる。

 枝。

 桜。

 吊るす。

 あまりにも見えやすい次。

 だからこそ、別の場所かもしれない。

 それでも、雪桜から目を離すことはできない。

 午後九時。

 大内医師が体調不良を訴えた。

 白石が真壁を呼びに来る。

 大内は顔面蒼白だった。

「持病は」

 真壁が聞く。

「高血圧と、不整脈が少し」

 大内は震えながら答える。

「薬は」

「部屋に」

 真壁は白石とともに大内の部屋へ向かわせた。

 二階堂を同行させる。

 一人にしない。

 その原則は守る。

 午後九時半。

 宮原が、佐貫と揉めた。

 声が廊下まで響いた。

「もう全部話せばいいでしょう!」

 宮原の声。

 真壁が駆けつけると、佐貫が杖を握りしめ、宮原を睨んでいた。

「若造が、知ったような口を」

「知ってますよ。知らないふりしてただけです」

「黙れ」

「また黙れですか。九年前もそうやって」

 真壁が間に入る。

「何を知っている」

 宮原は口を開いた。

 だが、佐貫が先に言った。

「何も知らん」

「宮原さん」

 真壁が促す。

 宮原は、悔しそうに唇を噛んだ。

「……すみません。頭に血が上っただけです」

「今の発言は記録する」

「はい」

 彼は俯いた。

 何かを知っている。

 だが、話せない。

 この村の人間は、誰もがその形をしている。

 知っているのに、言わない。

 言えない。

 あるいは、言わないことでまだ守れるものがあると思っている。

 午後十時。

 多目的室から歌が聞こえた。

 小さな声。

 ひとりではない。

 子どもたちが、眠る前に口ずさんだのだろう。

 真壁は廊下で足を止めた。

「ねんねん桜 誰の子だ」

 江口の声が重なる。

「歌わない約束だろ」

 子どもが小さく言う。

「ごめんなさい」

「怒ってない」

 江口は言った。

「でも今はやめよう」

「なんで」

「聞いてる人がいるから」

 その言葉に、真壁は扉を開けそうになった。

 だが、やめた。

 中で江口が続ける。

「怖いものを呼ぶ歌じゃない。でも、怖いことをした人が嫌がる歌ではある」

「怖いことをした人?」

「大人の話」

「先生も大人?」

「一応」

「先生も嫌?」

 少しの沈黙。

 江口は言った。

「嫌だよ」

 その声は、いつもよりずっと静かだった。

「でも、嫌だからって忘れていいわけじゃない」

      *

 午後十一時。

 ようやく施設は静かになった。

 見回りを続けながら、真壁は強い疲労を感じていた。

 眠気ではない。

 神経が擦り減るような疲れだった。

 次を待っている。

 それが一番悪い。

 犯人が用意した順番の上に、自分たちが立たされている。

 その感覚がある。

 真壁は旧職員室へ戻った。

 二階堂が机に座っている。

 九条は資料を読んでいる。

「異常は」

 二階堂が聞く。

「今のところない」

「それが一番嫌だな」

「ああ」

 真壁は窓の外を見る。

 雪桜は見えない。

 闇の中だ。

 そのとき、廊下の向こうで小さな物音がした。

 かたん。

 三人が同時に顔を上げる。

「どこだ」

 二階堂が立ち上がる。

 真壁は耳を澄ませた。

 再び。

 かたん。

 金属が触れるような音。

 校舎の外ではない。

 中だ。

 旧昇降口の方。

 真壁は扉を開けた。

 廊下は暗い。

 懐中電灯の光が、床を照らす。

 雪で濡れた跡がある。

 誰かが外から入った。

 または、外へ出た。

 真壁の胸が冷えた。

「校庭側の扉」

 短く言う。

 三人は走った。

 旧昇降口。

 施錠したはずの扉が、わずかに開いていた。

 鍵は壊れていない。

 内側から開けられている。

 外には、雪の白。

 そして、闇。

 真壁は扉を押し開けた。

 冷気が流れ込む。

 校庭が広がる。

 足跡があった。

 一人分。

 雪桜へ向かっている。

 真壁は一瞬、息を止めた。

 みっつ。

 枝に結んで。

「まだだ」

 九条が言った。

 真壁は彼を見る。

「何が」

「足跡の先に、人の気配がない」

「なら、これは」

「誘導かもしれない」

 二階堂が低く言う。

「俺たちを桜に向かわせるための」

 真壁は校庭を見た。

 闇の中、雪桜の輪郭がかすかに見える。

 行くべきか。

 行かなければ、誰かが死ぬかもしれない。

 行けば、別の場所が空く。

 犯人は、それを狙っている可能性がある。

 真壁は判断した。

「二階堂、江口と子どもを確認。九条は俺と来い」

 二階堂が一瞬ためらう。

 だが、すぐに頷いた。

「分かった」

 彼は走り出した。

 真壁と九条は、雪桜へ向かった。

 足跡はまっすぐ続いている。

 しかし、桜の手前で途切れていた。

 そこには、誰もいない。

 枝にも何もない。

 雪だけ。

 真壁は舌打ちした。

「やられたか」

 その瞬間、校舎の中から声が響いた。

 二階堂の声。

「真壁!」

 真壁は振り返った。

 声は校舎の方からだ。

 多目的室ではない。

 旧校舎裏でもない。

 もっと中央。

 昇降口付近。

 真壁と九条は走った。

 雪を蹴る。

 校舎へ戻る。

 廊下を駆ける。

 二階堂は旧昇降口の反対側、廊下の角に立っていた。

 顔が険しい。

「江口は?」

 真壁が聞く。

「多目的室にいた。子どもも全員いる」

「なら何だ」

 二階堂は、廊下の床を指した。

 濡れた足跡。

 それは昇降口からではなく、廊下の奥へ続いている。

 旧家庭科室。

 柿沼の部屋。

 いや、そのさらに奥。

 使われていない旧資料室。

 扉が開いていた。

 中から、冷たい空気が流れている。

 真壁は懐中電灯を向けた。

 床に、水が広がっていた。

 資料室の奥。

 古い棚の間。

 そこに、一枚の紙が落ちていた。

 濡れている。

 白い紙に、墨のような文字。

 ねんねん桜 誰の子だ。

 ひとつ 雪に隠して。

 ふたつ 川に流して。

 みっつ 枝に結んで。

 真壁は紙を拾わず、ライトで照らした。

 そして気づく。

 文字の下に、赤い線が引かれている。

 みっつ、枝に結んで。

 次を示している。

 予告。

 挑発。

 あるいは、授業の板書。

 二階堂が低く言った。

「犯人は、次を隠す気がない」

 九条が紙を見つめる。

「むしろ、見てほしいんだろう」

 真壁は奥歯を噛んだ。

「全員を再確認する」

      *

 その後の確認で、全員の所在は一応取れた。

 白石と大内は部屋。

 宮原と佐貫も部屋。

 江口と子どもたちは多目的室。

 施設職員もいる。

 誰も、資料室に行っていないと言う。

 当然だ。

 犯人が名乗るはずはない。

 だが、ひとつだけ分かったことがある。

 犯人は、施設内を自由に動いている。

 鍵を開け、足跡を作り、紙を置く。

 そして、次の死を予告する。

 閉鎖された場所で。

 全員の目がある中で。

 それでも動いている。

 午前零時を回った頃、真壁は多目的室へ向かった。

 江口が、扉の前に立っていた。

 子どもたちは眠っている。

 江口は真壁を見る。

「何かありました?」

「知らないのか」

「知りません」

「資料室に、わらべ歌の紙が置かれていた」

 江口は一瞬だけ目を細めた。

「みっつに線が?」

 真壁の視線が鋭くなる。

「なぜ分かった」

 江口は、失敗したという顔をしなかった。

 ただ、疲れたように笑った。

「順番ですから」

 二階堂が後ろから来て、江口を見た。

「お前、本当にどこまで知ってる」

「歌詞くらいは」

「それだけじゃない」

「……」

「桜次郎」

 江口は二階堂を見た。

 その目は、ひどく暗かった。

「僕を疑ってます?」

「疑ってる」

 二階堂は即答した。

「でも、信じたいとも思ってる」

 江口は、小さく笑った。

「面倒なこと言うなよ」

「お前が面倒なんだ」

「昔から?」

「昔から」

 短い沈黙。

 江口は視線を落とした。

「……僕、教師なんですよ」

「知ってる」

「子どもが寝てる前で、あんまり怖い顔しないでください」

 二階堂の表情がわずかに歪む。

 江口は、扉の向こうを見た。

「この子たちは関係ない」

「なら、話せ」

 真壁が言う。

「関係ない子どもを守りたいなら、知っていることを話せ」

 江口は黙った。

 長い沈黙だった。

 やがて、彼は言った。

「九年前も、そう言えればよかったんですけどね」

「九年前?」

「関係ない子どもを守りたいなら、話せって」

 江口は笑った。

 笑ったが、その顔には何も乗っていなかった。

「誰も言わなかった」

 真壁は、胸の奥が冷えていくのを感じた。

「何があった」

 江口は答えない。

 代わりに、廊下の先を見た。

「あと三つですね」

 その言葉に、二階堂の顔色が変わった。

「何?」

「ひとつ、雪。ふたつ、水」

 江口は指を折る。

「みっつ、枝。よっつ、炉。いつつ、母」

 そして、静かに言った。

「あと三つ」

 真壁は一歩近づいた。

「それは予告か」

「違います」

「なら何だ」

「数です」

 江口の声は低かった。

「まだ、数が合ってない」

 その言葉の意味は、分からなかった。

 だが、不吉さだけははっきり伝わった。

 二階堂が江口の襟元を掴みかけた。

 真壁が止める。

「やめろ」

 二階堂の手が震えていた。

「お前、ふざけるなよ」

 江口は、二階堂を見上げる。

 昔の同級生を見る目ではなかった。

 どこか遠くの人間を見る目だった。

「ふざけてないよ、壮也」

 初めて、名前を呼んだ。

「一度も」

 その声は、ひどく疲れていた。

      *

 その夜、誰もまともに眠れなかった。

 施設は完全に閉じた。

 外には雪。

 中には疑い。

 そして、わらべ歌の続き。

 真壁は旧職員室の窓から、見えない桜の方角を見ていた。

 第一の死は、雪。

 第二の死は、水。

 第三の死は、まだ来ていない。

 だが、犯人はもう、その枝を指している。

 雪桜の村は、逃げ場のない教室になっていた。

 黒板には、すでに次の一行が書かれている。

 みっつ、枝に結んで。

 誰が先生で、誰が生徒なのか。

 その答えだけが、まだ伏せられていた。


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