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雪桜の教室は、誰の子を埋めたのか  作者: 綾見 恋太郎


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第三章 ひとつ、雪に隠して

 朝、世界は消えていた。

 窓の外にあるはずの校庭も、山の稜線も、旧校舎へ続く渡り廊下も、すべて白に飲まれている。

 音がしない。

 降り続ける雪は、夜のあいだに建物の輪郭を鈍らせ、村の気配を遠ざけていた。

 真壁彰は、宿泊室として使われている旧音楽室で目を覚ました。

 時計は午前六時二十分を示している。

 暖房は低く唸っていたが、床から上がってくる冷えは消えない。

 起き上がると、隣の簡易ベッドで二階堂壮也が毛布を頭から被っていた。

「起きろ」

 真壁が言う。

「無理」

 毛布の中から声が返る。

「朝だ」

「朝は人類の欠陥だ」

「江口みたいなことを言うな」

 毛布が少しだけ動いた。

「……それは嫌だな」

 二階堂が顔を出す。

 髪は乱れていない。

 寝起きでも、そういうところだけは崩れない男だった。

「外は?」

「白い」

「語彙が死んでる」

「見れば分かる」

 二階堂は上体を起こし、窓の外を見た。

 その表情が、わずかに引き締まる。

「……これは、しばらく出られないな」

「ああ」

 昨夜の時点で、村外へ抜ける道路は一部通行止めになっていた。

 さらに夜半からの降雪で、除雪車も入れない可能性があるという。

 完全な孤立。

 まだそう断定するには早い。

 だが、真壁の経験上、こういう場所では断定より早く、空気が閉じる。

 外へ出られないと思った瞬間、人間は変わる。

 隠していたものを、余計に隠そうとする。

 あるいは、隠しきれなくなる。

「九条は」

 二階堂が聞く。

「隣だ」

「寝てるか?」

「起きているだろう」

 そう答えた直後、扉が叩かれた。

 二度。

 間を置いて、一度。

 九条雅紀だった。

 真壁が扉を開けると、九条はすでにコートを着ていた。

「外を見る」

「早いな」

「眠れなかった」

「珍しいな」

 九条は淡々と言う。

「この建物は、夜に音が多すぎる」

「古いからだろ」

 二階堂が上着を羽織りながら言った。

「木造校舎なんてそんなもんだ」

「木の音だけではない」

 九条は廊下の奥を見た。

「足音がした」

 真壁が反応する。

「いつ」

「午前三時過ぎ」

「誰か見たか」

「見ていない。廊下に出たときには消えていた」

 二階堂の手が止まる。

「嫌なことを朝から言うなよ」

「言わないほうがよかったか」

「いや、言え。そういうのは言え」

 九条は小さく頷いた。

 旧校舎の廊下は、まだ薄暗かった。

 非常灯と、朝の雪明かりだけが壁を照らしている。

 床はきしむ。

 誰かが歩けば、確かに音は響く。

 三人は廊下を進み、食堂へ向かった。

      *

 食堂には、すでに何人かが集まっていた。

 県教育委員会の白石理佳。

 校医だった大内。

 地元有力者の佐貫源蔵。

 元PTA会長の柿沼康夫。

 観光事業者の宮原司。

 そして、江口桜次郎。

 江口は食堂の隅で、紙コップのコーヒーを両手で包むように持っていた。

 顔色が悪い。

 昨日よりさらに悪い。

 だが、子どもが近づいてくると、すぐに表情が変わった。

「先生、雪すごい」

「見た。人類負けたな」

「外出ていい?」

「駄目」

「ちょっとだけ」

「駄目」

「けち」

「命を守るけちは良いけちです」

 子どもが口を尖らせる。

 江口は紙コップを置き、しゃがんで目線を合わせた。

「雪が積もってると、どこが道で、どこが穴か分からない。昨日まで大丈夫だった場所が、今日は大丈夫じゃない。だから、先生か大人が一緒のときだけ」

「江口先生も大人?」

「たぶん」

「たぶん?」

「戸籍上は」

 子どもは笑った。

 その笑い声だけが、食堂の重さを少し押し戻した。

 真壁は、江口を見ていた。

 やはり、この男は子どもの前でだけ違う。

 軽口は同じだ。

 だが、言葉の置き方が違う。

 大人には逃げるための冗談を使う。

 子どもには、怖さを小さくするために使う。

 似ているようで、まったく違った。

「おはようございます」

 白石が真壁たちに声をかけた。

「状況は」

 真壁が聞く。

「道路は通行止めです。除雪は午前中に入る予定ですが、山道の一部で倒木があるらしく、時間がかかると」

「警察への連絡は」

「固定電話が一時つながりました。地元署には状況を伝えています。ただ、すぐに来られるかは……」

 白石は言葉を濁した。

「つまり、しばらくここに缶詰か」

 二階堂が言う。

 柿沼が不機嫌そうに箸を置いた。

「まったく、こんなことなら昨日のうちに帰るべきだった」

「昨日も帰れませんでしたよ」

 江口がぼそりと言う。

 柿沼が睨む。

「何か言ったか」

「事実確認です」

「若い教師が、生意気な」

「すみません。若さしか取り柄がなくて」

 江口は笑って頭を下げた。

 だが、目は笑っていなかった。

 佐貫源蔵が低く言う。

「こんな雪は、昔からあった」

 全員の視線が向く。

 佐貫は杖に両手を重ね、窓の外を見た。

「雪が降れば、村は閉じる。閉じた村では、外の理屈は通らない」

「それは困りますね」

 二階堂が穏やかに言う。

「閉じていても、法は通ります」

 佐貫の目が二階堂へ向いた。

 鋭い。

 だが、二階堂は微笑んでいる。

 柔らかいが、一歩も引いていない。

 江口が小さく笑った。

「広報様、朝から仕事してる」

 二階堂は見ずに答えた。

「お前も教師の仕事をしろ」

「してますよ。子どものプリンを死守してます」

「何の話だ」

「朝食のデザート争奪戦」

 真壁は、会話を聞きながら食堂全体を見渡した。

 元担任の戸倉誠一がいない。

「戸倉は」

 真壁が言った。

 白石が周囲を見る。

「そういえば……」

「部屋では?」

 大内が不安そうに言う。

「朝食は七時半と伝えてあります」

 江口が時計を見る。

 七時四十分。

「寝坊ですかね」

 軽く言う。

 だが、声に微かな硬さがあった。

 柿沼が鼻を鳴らす。

「戸倉先生も年だ。疲れているんだろう」

「様子を見てくる」

 真壁が立ち上がる。

「俺も行く」

 二階堂も続いた。

 九条は黙って席を立つ。

 江口も立ち上がろうとした。

 真壁はそれを制した。

「子どもを見ていろ」

「……はい」

 江口は素直に座り直した。

 その反応が、逆に気になった。

 いつもの彼なら、「僕が行っても役に立ちませんけど」とでも言いそうだった。

 だが、言わなかった。

 言わずに、子どものほうへ視線を戻した。

      *

 戸倉に割り当てられた部屋は、旧理科準備室だった。

 宿泊用に改装され、簡易ベッドと暖房が置かれている。

 扉は閉まっていた。

 真壁がノックする。

「戸倉さん」

 返事はない。

 もう一度叩く。

 やはり返事はない。

 二階堂がドアノブを回した。

「鍵は」

 開いた。

 室内は、空だった。

 ベッドは乱れている。

 だが、寝ている人間はいない。

 荷物は残っている。

 コートもない。

「外に出たか」

 二階堂が言う。

「この雪で?」

 九条が室内を見回す。

 机の上に、湯呑みがある。

 中身は半分ほど残っていた。

 冷えている。

 床には、雪が少し落ちていた。

 溶けかけて、黒い染みになっている。

「靴跡」

 真壁が言った。

 入り口付近。

 わずかな雪の水滴。

 外から戻ったのか。

 あるいは、外へ出たのか。

「昨夜、足音を聞いたと言ったな」

 真壁が九条を見る。

「ああ」

「この辺りか」

「近い」

 二階堂が窓を見た。

 内側から開けられるタイプだが、鍵はかかっている。

 窓の外は一面の雪。

 足跡は見えない。

 降り続けた雪で消えた可能性はある。

 だが、それでも気になった。

「職員玄関を確認する」

 真壁が言う。

 三人は廊下へ戻った。

 廊下の端、職員玄関。

 土間には長靴が並んでいる。

 一足分、空いていた。

「誰のだ」

 二階堂が聞く。

 あとから来た施設職員が確認する。

「戸倉先生用に出したものです」

「外へ出たな」

 真壁は扉を開けた。

 冷気が流れ込む。

 白い世界。

 雪はまだ降っている。

 だが、玄関前には踏み跡があった。

 一人分。

 校庭の方へ続いている。

「追う」

 真壁が外へ出る。

 雪は膝下まである。

 歩きづらい。

 踏み跡は新しくはない。

 夜から朝にかけて降った雪で、輪郭がぼやけている。

 だが、確かに校庭へ向かっていた。

 旧校庭。

 雪桜のある場所。

 真壁は、足跡を追った。

 二階堂が後ろに続く。

 九条は周囲を見ている。

 校庭は広かった。

 雪に覆われると、距離感が狂う。

 昨日見たより、桜は遠く見えた。

 近づいても、近づいても、なかなか辿り着かない気がする。

「足跡、薄くなってる」

 二階堂が言った。

「ああ」

 桜まであと十数メートルのところで、足跡は急に乱れた。

 そして、消えていた。

 いや、消えたように見えた。

 雪が吹き溜まりになっている。

 真壁は立ち止まる。

「……」

 桜の根元。

 雪が、不自然に盛り上がっていた。

 白い丘のように。

 その一部から、黒いものが見える。

 布。

 袖。

 真壁は駆け寄り、雪を掘った。

 手袋の上から冷たさが刺さる。

 二階堂も手伝う。

 九条は少し離れて、周囲を見ていた。

 雪の中から、顔が出た。

 戸倉誠一だった。

 目を閉じている。

 唇は紫色。

 首元に、雪が詰まっている。

 半身が埋まっていた。

 眠っているようにも見えた。

 だが、生気はない。

「九条」

 真壁が低く呼ぶ。

 九条は膝をつき、戸倉の顔に触れた。

 次に頸動脈。

 瞳孔。

 手首。

 短い沈黙。

「死亡している」

 二階堂が息を吐く。

「……第一発見、か」

 真壁は周囲を見た。

 足跡。

 自分たちが来た足跡。

 戸倉らしき足跡。

 だが、死体の周囲には、それ以外がない。

 少なくとも、見える範囲では。

 雪は降り続けている。

 痕跡は消えていく。

「全員を建物内に戻す。子どもは絶対に外へ出すな」

 真壁が言う。

 二階堂が頷き、スマホを取り出す。

 圏外に近い。

 舌打ちする。

「職員を呼ぶ」

 彼は校舎へ走り出した。

 真壁は、戸倉の死体から目を離さなかった。

 雪に隠された死体。

 昨日聞いた歌が、頭の奥で蘇る。

 ひとつ、雪に隠して。

「……見立てか」

 真壁が呟いた。

 九条は答えない。

 ただ、死体の周囲の雪を見ていた。

「どうだ」

「低体温による死亡、と見せたいのかもしれない」

「違うのか」

「まだ分からない。ただ」

 九条は、戸倉の口元に顔を近づけた。

「雪で窒息したわけではない」

「なぜ」

「口腔内に雪はあるが、吸引量が少ない。死後に詰められた可能性が高い」

 真壁は周囲を見た。

「ここで殺されたのではない?」

「可能性はある」

 九条は戸倉の手を見る。

 指先に、細かい傷。

 爪の間に、黒いもの。

 土か。

 いや、木片のようにも見える。

「移動されたか」

「少なくとも、埋められた」

 九条は言った。

「隠された、というほうが近い」

 真壁は眉を寄せる。

 自分がさっき思った言葉と同じだった。

 埋められたのではない。

 隠された。

 雪に。

      *

 校舎から、人が出てくる声がした。

 白石、柿沼、大内、宮原、佐貫。

 施設職員。

 江口。

 江口は子どもを連れていなかった。

 それだけで、真壁は少しだけ安心した。

 だが、彼の顔を見た瞬間、その安心は消えた。

 江口は驚いていなかった。

 少なくとも、驚いた顔をしていない。

 雪の中に立ち、戸倉の死体を見下ろしている。

 目の下のクマが、朝の白さの中でいっそう濃く見えた。

「下がってください」

 真壁が言う。

 白石が口元を押さえる。

「戸倉先生……」

 大内は膝から崩れそうになった。

 宮原が支える。

 柿沼は顔を赤くし、佐貫は杖を握ったまま黙っている。

 江口だけが、静かだった。

「江口」

 二階堂が低く呼ぶ。

「子どもは」

「多目的室に。職員さんについててもらってます」

「なら近づくな」

「近づいていない」

 確かに、江口は一定の距離を保っていた。

 それが逆に不自然なほど、正確な距離だった。

 真壁は言う。

「戸倉さんは、いつからいなかった」

 白石が震える声で答える。

「昨夜、消灯前には……部屋に戻るのを見ました」

「時間は」

「二十二時頃です」

「その後、会った人は」

 誰も答えない。

 九条が死体から目を上げた。

「死亡時刻は、すぐには絞れない。低温環境で変化が遅れている」

 白石が聞く。

「事故、ではないんですか」

 真壁は彼女を見た。

「事故かどうかは、これから確認する」

 柿沼が叫ぶように言った。

「どう見ても、雪で倒れたんだろう。戸倉先生は年だった。夜中に外へ出て、足を滑らせたんだ」

「なぜ夜中に外へ」

「知らん」

「足跡は途中で乱れていますが、倒れた場所と死体の位置に不自然な差があります」

 真壁は淡々と言う。

「それに」

 視線を雪の盛り上がりへ落とす。

「死体は雪に覆われすぎている」

 柿沼が口を閉じる。

 江口が、ぽつりと言った。

「雪って便利ですよね」

 全員が彼を見る。

「何でもなかったことにできる」

 声は軽かった。

 いつものように。

 だが、その言葉だけは、雪より冷たかった。

 二階堂の表情が変わる。

「桜次郎」

「冗談です」

「笑えない」

「でしょうね」

 江口は死体を見ていた。

「戸倉先生、寒いの苦手だったんですよ」

「知っていたのか」

 真壁が聞く。

「ええ」

「なぜ」

「教育実習のとき、職員室でよくストーブの前にいました」

「九年も前のことをよく覚えているな」

 江口の視線が、真壁に向いた。

「忘れたいことほど、覚えてるんですよ」

 また、それだ。

 真壁は一歩、江口に近づく。

「昨夜、戸倉さんと話したか」

「いいえ」

「本当にか」

「はい」

「外に出たか」

「出ました」

 二階堂が顔を上げる。

「いつ」

「夜。桜見に」

「時間は」

「覚えてません」

「誰かに会ったか」

「会ってません」

「足跡は?」

 江口は自分の足元を見た。

「雪が消してくれたんじゃないですか」

 その言い方に、真壁の中で何かが硬くなる。

「江口」

 声が低くなった。

「今の状況で、軽口はやめろ」

「すみません」

 江口は素直に頭を下げた。

「癖なんで」

「癖で済まない」

「ですよね」

 反省しているようで、していない。

 いや、違う。

 反省の仕方が分からない人間のようだった。

 九条が江口を見た。

「君は驚いていない」

 江口は少しだけ笑う。

「驚いてますよ」

「顔が違う」

「法医学者って、顔色で死因も当てるんですか」

「死因は当てない。だが、生きている人間の反応は見る」

「じゃあ外れてます」

「そうですか」

 九条はあっさり引いた。

 だが、視線は江口から離れなかった。

      *

 死体は、いったん現場保存のため雪ごと簡易シートで覆われた。

 地元署への連絡は試みたが、回線はつながったり途切れたりを繰り返した。

 救急もすぐには来られない。

 除雪が必要。

 倒木がある。

 山道が危険。

 どの言葉も、同じ意味に聞こえた。

 ここから出られない。

 そして、外からも来られない。

 真壁は施設内に戻り、関係者を食堂に集めた。

 子どもたちは別室に移された。

 江口がその対応をした。

 子どもに死体を見せなかった。

 それだけは確かだった。

「全員、この施設から出ないでください」

 真壁が言った。

「これは命令ですか」

 白石が聞く。

「安全確保のための要請です」

 二階堂がすぐに補う。

「警察到着まで、現場保全に協力してください」

 柿沼が机を叩いた。

「警察ならここにいるだろう」

「正式な捜査体制はまだ整っていません」

 二階堂の声は柔らかい。

「ただし、人が一人亡くなっています。勝手な行動は控えてください」

「事故だと言っている」

 柿沼は苛立っている。

 大内医師は青ざめたまま座っている。

 宮原は落ち着かない様子でスマホを何度も確認している。

 佐貫は何も言わない。

 白石は資料を握ったまま固まっている。

 江口は、入口近くの壁にもたれていた。

 立ったまま。

 椅子が空いているのに座らない。

「戸倉先生は、昨夜どなたかと口論していませんでしたか」

 真壁が尋ねる。

 沈黙。

「小さなことでも構いません」

 白石が口を開いた。

「夕食後、資料の確認で少し……」

「誰と」

「戸倉先生と、柿沼さんと、大内先生です」

 柿沼が声を荒げる。

「ただの昔話だ」

「内容は」

 真壁が聞く。

 柿沼は口を閉じた。

 代わりに大内が小さく言った。

「事故の、責任について」

「誰の責任か」

「……誰の、というより」

 大内は汗を拭う。

「当時の対応が適切だったかどうか」

「戸倉さんは何と」

「自分は悪くない、と」

 江口が、壁にもたれたまま小さく笑った。

 全員の視線が向く。

「すみません」

 江口は言う。

「よくある台詞だなと思って」

「江口先生」

 白石が咎める。

「不謹慎です」

「はい」

「はい、ではありません」

「じゃあ何て言えばいいですか」

 江口の声は穏やかだった。

 だが、目が冷たい。

「人が死んだら、急に“良い人だった”みたいな顔をすればいいですか」

「江口」

 二階堂が制する。

 江口は黙った。

 ただ、少しだけ目を伏せる。

「……すみません」

 今度の謝罪は、少し違った。

 誰に向けたものか分からない。

      *

 聞き取りは続いた。

 戸倉は昨夜、食事後に自室へ戻った。

 白石が二十二時頃に廊下で見た。

 その後、大内が二十二時半頃、職員室前で戸倉の姿を見たかもしれないと言う。

 曖昧だった。

 柿沼は知らないと言う。

 宮原も知らない。

 佐貫は、早く休んだと答えた。

 江口は、夜中に一度、桜を見に外へ出た。

 時間は不明。

 誰にも会っていない。

 その言葉が、食堂の中でずっと浮いていた。

「なぜ外へ出た」

 真壁が改めて聞いた。

 江口は少し考える。

「眠れなかったので」

「雪の中を?」

「はい」

「コートも着ずにか」

「着てましたよ」

「足跡は」

「消えたんじゃないですか」

「戸倉さんの足跡は残っていた」

「僕、軽いんで」

 二階堂が鋭く言う。

「桜次郎」

 江口は肩をすくめた。

「すみません」

「何度も言わせるな。軽口で逃げるな」

「逃げてませんよ」

「逃げてる」

 二階堂の声は低い。

 高校の同級生に向ける声ではない。

 真壁が知る、対外説明を制御する二階堂の声でもない。

 もっと個人的で、苛立っている。

 江口は二階堂を見た。

「お前、昔からそうだよな」

「何が」

「人に“逃げるな”って言える場所に立つのが上手い」

 二階堂の目が細くなる。

「今は俺の話じゃない」

「そうだな」

 江口はあっさり引いた。

 それがまた、気持ち悪いほど滑らかだった。

      *

 午前十時過ぎ。

 雪は弱まらなかった。

 地元署からの連絡で、現場到着は午後以降、場合によっては翌日になると分かった。

 真壁は現場確認を続けた。

 九条とともに、死体周辺の状況を見る。

 桜の根元。

 戸倉の足跡。

 乱れた雪。

 死体の位置。

 不自然なのは、死体周辺に犯人らしい足跡がないことだった。

 戸倉の足跡は、途中まではある。

 だが、死体を埋めるには、誰かが近づかなければならない。

 その足跡がない。

 雪が降って消えた。

 そう説明することもできる。

 だが、それなら戸倉の足跡だけが残っていることがおかしい。

 残るものと消えるものの差。

 そこに作為がある。

「死後に移動されたとして」

 真壁が言う。

「どうやってここまで運ぶ」

「雪上を引きずれば跡が残る」

 九条が答える。

「抱えれば足跡が深くなる」

「そりでも使ったか」

「跡がない」

 真壁は桜を見上げた。

 枝に雪が積もっている。

 花はまだ咲いていた。

 不自然なほど、健気に。

「この桜、温度管理で咲かせていると言っていたな」

「ああ」

「設備は?」

 九条が周囲を見る。

 根元付近。

 雪に半分埋もれた配線カバー。

 ライトアップ用の小型装置。

 観光用の演出設備か。

 真壁はそれを記憶に入れた。

 今はまだ、意味が分からない。

 だが、意味の分からないものほど、後で効いてくる。

      *

 昼前、食堂へ戻ると、子どもたちのいる多目的室から小さな声が聞こえた。

 歌。

 真壁は足を止めた。

「ねんねん桜 誰の子だ」

 歌っている。

「ひとつ 雪に隠して」

 真壁は扉を開けた。

 子どもたちが一斉にこちらを見る。

 江口が、床に座ったまま顔を上げた。

「すみません」

 彼は言った。

「止めます」

「誰が歌い出した」

 真壁が聞く。

 子どもたちは黙る。

 一人の女の子が、小さく手を上げた。

「昨日、おばあちゃんが歌ってたから」

「笹原トメか」

 女の子は頷く。

 江口が言う。

「昔からある歌なんです。子どもは覚えるの早いんで」

「意味を知っているのか」

 江口は一瞬黙った。

「弔いの歌、らしいですね」

「それだけか」

「それだけです」

 嘘だ。

 真壁はそう思った。

 だが、今ここで問い詰めるべきではない。

 子どもが見ている。

 江口もそれを分かっている。

「先生」

 男の子が江口の袖を引いた。

「戸倉先生、死んだの?」

 部屋の空気が止まる。

 江口は、その子を見る。

 真壁も二階堂も黙った。

 江口は、少しだけ息を吸った。

「うん」

 嘘をつかなかった。

「亡くなった」

 子どもの顔が歪む。

「怖い?」

 江口が聞いた。

 子どもは頷く。

「怖いよな」

 江口は言った。

「こういうとき、大人は“大丈夫”って言いたがるけど、今は大丈夫じゃない。だから、怖いのは正しい」

「どうしたらいいの」

「一人にならない」

 江口の声は静かだった。

「大人の言うことを聞く。知らない場所に行かない。見たこと、聞いたことは隠さない」

 子どもは頷く。

「先生も?」

「先生も」

「先生、隠さない?」

 真壁は、江口を見た。

 江口は笑わなかった。

「子どもには、隠さない」

 その答えに、真壁の背筋が冷えた。

 子どもには。

 では、大人には。

      *

 午後になっても、外部からの到着はなかった。

 雪は少し弱まったが、道路状況は悪いままだった。

 真壁は仮の捜査本部として、元職員室を使うことにした。

 関係者の動線を紙に書き出す。

 昨夜の時系列。

 二十二時、白石が戸倉を見る。

 二十二時半、大内が職員室付近で戸倉らしき影を見る。

 二十三時頃、宮原が廊下で物音を聞く。

 午前三時過ぎ、九条が足音を聞く。

 時間がばらばらだった。

 証言は曖昧。

 雪。

 停電。

 古い校舎。

 言い逃れには十分すぎる条件が揃っている。

「死亡推定時刻が絞れないのが厄介だな」

 二階堂が言う。

「低温だと身体の変化が遅い」

 九条が答える。

「ただ、死後硬直の進み方と体表の凍結状態から見て、夜間のどこかではある」

「幅が広すぎる」

「広いな」

「凶器は」

「外傷は少ない。頸部に軽い圧痕があるが、雪と衣類で見えづらい。窒息、薬物、低体温、まだ候補は複数ある」

 真壁は資料を見つめた。

 戸倉誠一。

 元担任。

 九年前の児童死亡事故の直接の担任。

 そして、第一の死体。

 雪に隠された。

「わらべ歌との一致は偶然ではないな」

 二階堂が言った。

「ひとつ、雪に隠して」

 九条が続ける。

「見立てにしては、あまりに分かりやすい」

「見せたいんだろう」

 真壁が言う。

「誰に」

 二階堂が聞く。

 真壁は答えなかった。

 誰に見せたいのか。

 警察か。

 村人か。

 関係者か。

 それとも、子どもか。

 その問いが、職員室の空気に残った。

      *

 夕方近く。

 江口が職員室に来た。

 ノックはしたが、返事を待たずに入ってくる。

「子どもたち、落ち着きました」

「そうか」

 真壁が答える。

「あと、これ」

 江口は一枚の紙を机に置いた。

 子どもたちが今日一日どこにいたか。

 誰がどの時間に多目的室にいたか。

 誰がトイレに行ったか。

 誰が職員と一緒だったか。

 細かく書かれている。

 二階堂が紙を見た。

「お前が作ったのか」

「人数確認は大事なので」

「ずいぶん細かいな」

「子どもに疑いが向くの嫌なんで」

 即答だった。

 真壁は江口を見る。

「大人は疑われてもいいのか」

「大人は自分で説明できます」

「子どもは?」

「説明できないことがある」

 江口は言った。

「だから、大人が先に見ておく必要があります」

 その言葉は正しい。

 正しすぎるほどに。

「江口」

 真壁は声を落とした。

「戸倉さんの死に、心当たりはあるか」

「ありますよ」

 二階堂が顔を上げる。

 真壁も視線を鋭くする。

 江口は、あっさり続けた。

「この村で、あの歌が出た時点で、何か起きると思ってました」

「なぜ」

「そういう歌だから」

「どういう歌だ」

 江口は黙る。

 数秒。

 それから、薄く笑った。

「死んだ子を、順番に返す歌です」

 九条が反応した。

「誰に返す」

「さあ」

 江口は視線を逸らす。

「母親じゃないですか。歌詞通りなら」

「誰の母親だ」

 真壁が聞く。

 江口は答えなかった。

「江口」

 二階堂が言う。

「お前は何を知ってる」

 江口は、少し困ったように笑った。

「昔のことですよ」

「それで人が死んでいる」

「そうですね」

「そうですね、じゃない」

 二階堂の声が、静かに怒りを帯びる。

「桜次郎。お前、いつまで自分を関係ない場所に置くつもりだ」

 江口は笑っていた。

 だが、手元の指がわずかに動いた。

 震えたように見えた。

「関係ないとは言ってません」

「なら話せ」

「話しても、たぶん止まりませんよ」

 職員室が、冷えた。

 真壁が一歩前に出る。

「止まらない、とはどういう意味だ」

 江口は、真壁を見た。

 その目は疲れていた。

 だが、どこか澄んでもいた。

「歌は、ひとつで終わらないでしょう」

 二階堂が息を止める。

 九条が目を細める。

 真壁は低く言った。

「次があると知っているのか」

「知りません」

「今、そう言った」

「歌の話です」

「軽口はやめろ」

「軽口じゃないです」

 江口の声が、初めて少しだけ硬くなった。

「順番の話です」

 沈黙。

 そのとき、廊下の向こうから子どもの声が聞こえた。

 誰かが泣いている。

 江口は反射的に振り向いた。

 さっきまでの緊張が消える。

「すみません」

 彼は言った。

「行きます」

「話は終わっていない」

 真壁が言う。

「子どもが泣いてるんで」

 それだけ言って、江口は出ていった。

 二階堂が、深く息を吐く。

「最悪だ」

「何が」

 真壁が聞く。

「あいつが、嘘をついてる」

「それは分かる」

「違う」

 二階堂は扉のほうを見た。

「あいつ、自分を守るための嘘なら、もっと雑につく。今のは違う」

「何のための嘘だ」

 二階堂は、すぐには答えなかった。

 代わりに九条が言った。

「誰かを守るため」

 真壁は眉を寄せる。

「誰を」

 九条は静かに答えた。

「少なくとも、大人ではない」

      *

 夜が来た。

 雪はまだ降っている。

 旧校舎の窓に、白い闇が張りついている。

 食堂には最低限の灯りだけが点いていた。

 関係者たちは、互いに距離を置いて座っている。

 戸倉の死が、全員の間に置かれていた。

 見えない死体のように。

 誰もその上を跨げない。

 子どもたちは多目的室に集められ、施設職員と江口が交代で見ている。

 真壁は廊下で立ち止まった。

 多目的室の扉の向こうから、江口の声が聞こえる。

「今日はここで寝ます。修学旅行みたいなもんです」

「先生も?」

「僕も」

「床で?」

「僕は床属性なので」

「床属性って何?」

「大人になったら分かる」

「分かりたくない」

「賢い」

 子どもたちが笑う。

 その声は小さいが、確かに部屋の空気を暖めていた。

 真壁は扉の前を通り過ぎようとした。

 そのとき、中から別の声がした。

「先生」

「何」

「あの歌、もう歌っちゃだめ?」

 沈黙。

 真壁は足を止める。

 江口の声が、少し遅れて返った。

「……今は、やめとこう」

「怖い歌だから?」

「違う」

「じゃあ何で?」

「誰かが、ちゃんと聞いてるかもしれないから」

 真壁は、ゆっくり振り返った。

 扉の向こうは見えない。

 だが、江口の声だけが聞こえる。

「歌っていうのは、ただの音じゃないんだよ。覚えてる人がいると、戻ってくる」

「何が?」

「忘れたふりしてたもの」

 子どもは黙った。

 江口が続ける。

「だから、今は歌わない。先生との約束」

「うん」

「偉い」

 真壁は廊下に立ったまま、しばらく動けなかった。

 忘れたふりしていたもの。

 戻ってくるもの。

 この村が隠している何か。

 そして、雪に隠された戸倉誠一。

 ひとつ。

 雪に隠して。

 歌は、まだ始まったばかりだった。

      *

 深夜。

 真壁は眠れず、旧職員室で資料を見ていた。

 二階堂は向かいの椅子で腕を組んでいる。

 九条は窓際に立ち、外の桜を見ている。

 机の上には、戸倉の資料と、十年前の事故記録。

 名前の揺れ。

 欠けたページ。

 黒塗り。

 どれも、小さな違和感だった。

 だが、それらは同じ方向を向いている。

 誰かが、何かを隠した。

 真壁はその確信を強めていた。

「なあ」

 二階堂が口を開く。

「江口をどう見る」

「怪しい」

「だよな」

「だが、怪しすぎる」

 二階堂は目を伏せる。

「昔から、あいつは自分を盾にするところがあった」

「盾?」

「誰かに目を向けさせたくないとき、自分が目立つ」

 真壁は資料を閉じた。

「今もそうだと?」

「分からない」

 二階堂の声には苛立ちがあった。

「分からないのが腹立つ」

 九条が外を見たまま言う。

「彼は、嘘をつくときに罪悪感を持っている」

「それがどうした」

「本当に悪意だけで動く人間は、ああいう顔をしない」

「なら善人か」

 九条は振り返った。

「善人なら、人は死なない」

 その言葉に、誰も返せなかった。

 外では、雪が降り続けている。

 桜は白い闇の中に立っている。

 花弁が一枚、落ちるのが見えた。

 雪の上に。

 消えずに。

 残る。

 真壁は、机の上の紙に目を落とした。

 九年前の事故記録。

 被害児童の名前は、黒く塗られている。

 だが、黒塗りの下から、ほんのわずかに文字の端が見えていた。

 読み取れない。

 それでも、そこに名前があったことだけは分かる。

 誰かの名前。

 誰かの子。

 真壁は、低く呟いた。

「誰の子だ」

 二階堂が顔を上げる。

「何?」

「いや」

 真壁は紙を閉じた。

「まだ分からない」

 そのとき、廊下の向こうから、かすかな音がした。

 水の音。

 ぽたり。

 ぽたり。

 雪解け水が落ちるような音。

 三人は同時に顔を上げた。

 音は、旧校舎の奥から聞こえていた。

 水場のほう。

 旧校舎裏へ続く扉の近く。

 真壁は立ち上がった。

「行くぞ」

 二階堂が黙って頷く。

 九条も続く。

 廊下に出ると、冷気が強くなっていた。

 どこかの窓が、わずかに開いているのかもしれない。

 水の音は、まだ続いている。

 ぽたり。

 ぽたり。

 真壁は、その音を聞きながら思った。

 歌は、ひとつで終わらない。

 江口はそう言った。

 ふたつ。

 川に流して。

 その言葉が頭をよぎった瞬間、真壁は無意識に足を速めた。

 まだ何も起きていない。

 まだ、そう思いたかった。

 だが、雪桜の村は、すでに次の沈黙を用意している気がした。

 第一の死は、雪に隠された。

 ならば次は。

 水だ。


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