表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雪桜の教室は、誰の子を埋めたのか  作者: 綾見 恋太郎


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/12

第二章 再会と違和感

 職員室という場所には、独特の匂いがある。

 紙。

 インク。

 冷めたコーヒー。

 古い暖房機の熱。

 そこに少しだけ、湿った上履きの匂いが混じる。

 旧雪桜小中学校の職員室も、改装された宿泊施設の一室になっていながら、その匂いだけは残っていた。

 真壁彰は入口で足を止めた。

 壁には、昔の校訓らしき額が掛けられている。

 ――よく見て、よく聞き、よく考える。

 単純な言葉だった。

 だが、今のこの場所では、妙に重く見えた。

「そこ、暖房の近くなんであったかいですよ」

 江口桜次郎が、奥の椅子を指した。

 本人は自分の席らしき事務机に戻り、マグカップを置く。

 机の上は、ひどかった。

 プリントの束。

 赤ペン。

 付箋だらけのノート。

 空になった栄養ドリンクの瓶。

 菓子パンの袋。

 途中まで開かれたタブレット。

 真壁は、それを見て言った。

「整理は苦手か」

「苦手ですね」

 江口は悪びれない。

「でも、どこに何があるかは分かってます」

 二階堂が、机の隅に積まれたプリントを一枚つまむ。

「これは?」

「照会プリントの決裁」

「こんなところに置いてていいのか」

「たいした内容じゃないよ」

「明日の日付だぞ」

「そうだね」

「出せよ」

「面倒なんだよ」

「教師だろ」

「だから面倒なんだよ」

 江口は椅子に沈むように座った。

 姿勢が悪い。

 だが、目だけは眠そうなまま動いている。

 真壁、二階堂、九条。

 そして廊下の向こう。

 子どもの声。

 外の雪。

 彼は、すべてを雑に見ているようでいて、妙に逃していない。

 九条が、机の上のノートを見た。

「授業計画ですか」

「見ないでくださいよ」

 江口がすぐに言う。

「恥ずかしいんで」

「授業計画が?」

「はい。僕が真面目みたいじゃないですか」

 二階堂が鼻で笑った。

「お前、昔からその言い方するよな」

「どの?」

「自分が真面目だと思われるのを嫌がる」

「真面目じゃないからね」

「真面目だろ」

「違うよ」

 江口は椅子を回し、二階堂から視線を逸らした。

「これは仕事。仕事は仕事。オフはオフ」

「その机を見る限り、オフはなさそうだが」

 真壁が言う。

 江口は肩をすくめた。

「教師って職業、バグってるんですよ。人の生活に侵入してくるんで」

「ならなぜ続ける」

 その問いに、江口は一瞬だけ黙った。

 真壁は見逃さなかった。

 ほんの一瞬。

 軽口が止まった。

「……子どもは嫌いじゃないんで」

 江口は言った。

「授業を考えるのは嫌いです。会議はもっと嫌い。保護者対応は得意に見せかけて苦手。早出残業は人類の敵。でも」

 そこで、少しだけ口元を緩める。

「授業中に、分からなかった子が分かった顔するのは、嫌いじゃないです」

 その言い方は、不思議だった。

 好きだとは言わない。

 誇りだとも言わない。

 ただ、嫌いではない。

 その程度の言葉に、ずいぶん深いものを隠している。

「素直じゃないな」

 二階堂が言った。

「お前に言われたくない」

 江口が返す。

「お前の素直さって、全部計算済みじゃん」

 二階堂の目が細くなる。

「言うようになったな」

「昔から言ってたろ」

「昔はもう少し可愛げがあった」

「高校生男子に可愛げ求めるなよ。気持ち悪いな」

「変態でゲスなのはお前だろ」

「自己申告済みです」

 二人の会話は軽い。

 だが、どこか噛み合いすぎていた。

 古い関係。

 互いに、どの言葉なら踏み込めるかを知っている。

 真壁はそれを黙って見ていた。

 二階堂壮也は、人との距離の取り方がうまい。

 相手に好かれる距離。

 警戒されない距離。

 必要なら懐に入る距離。

 だが、江口桜次郎に対しては少し違う。

 いつもの整えた距離ではない。

 雑で、近い。

 そして、少しだけ警戒している。

「高校の同級生だったな」

 真壁が聞いた。

 二階堂が頷く。

「同じクラスだった」

「仲が良かったのか」

「良かったというか」

 二階堂は江口を見る。

「目立つやつだった」

「やめろ」

 江口が即座に言う。

「昔話は禁止」

「陽キャだったもんな」

「禁止って言ったよな」

「文化祭で司会やって、体育祭で応援団やって」

「黙れ、広報」

「女子に人気あった」

「それは嘘です」

「嘘ではないだろ」

「人気があったのは、僕じゃなくて“便利な明るいやつ”です」

 江口は笑った。

 軽く。

 だが、その言葉だけ妙に冷えていた。

「場を明るくするやつは便利なんですよ。面倒な空気を一瞬だけ別の方向に逸らせるから」

 九条が、そこで口を開いた。

「陽気だったわけではない」

 江口の視線が、九条に向く。

「……へえ」

 九条は淡々と言う。

「陽気を演じるのがうまかっただけだ」

 職員室が、一瞬静かになった。

 二階堂が黙る。

 真壁も、江口を見る。

 江口は数秒、九条を見ていた。

 やがて、笑った。

「法医学者って、死体だけ読んでればいいんじゃないんですか」

「生きている人間のほうが、死体より雑に証拠を残す」

「嫌な職業ですね」

「君ほどではない」

「教師、そんな嫌な職業ですか」

「君のやり方は、少し嫌だ」

 江口は小さく吹き出した。

「初対面で嫌われた」

「嫌ってはいない」

「じゃあ何ですか」

「不安だ」

 九条は、何でもないことのように言った。

 江口の笑みが、また少しだけ止まった。

 真壁は、その変化を見ていた。

 江口桜次郎。

 軽い。

 不健康。

 面倒くさがり。

 自己評価が低い。

 だが、たぶんそれだけではない。

 彼には、人を安心させる力がある。

 同時に、人を不安にさせるものもある。

 その両方が、同じ笑顔の中に入っていた。

 廊下の向こうから、ざわざわと人の声が近づいてきた。

 江口が、わずかに姿勢を正す。

「ああ、来た」

「誰だ」

 真壁が聞く。

「今日の関係者です」

 江口は机の上から紙を一枚取り上げた。

「施設視察と、過去事故の聞き取り。名目上はそういうことになってます」

「名目上?」

 二階堂が聞く。

「実際は、みんな自分の保身で来てるだけですよ」

 さらりと言う。

「嫌な言い方だな」

「事実です」

 江口は紙を見ながら、指で名前を追った。

「まず、旧雪桜小中学校の元担任、戸倉誠一」

 廊下から、五十代後半の男が入ってきた。

 痩せている。

 背筋は伸びているが、口元に神経質な皺がある。

 真壁たちを見ると、わずかに眉を動かした。

「警視庁の方ですか」

 声は硬い。

 真壁が名乗る。

 戸倉は形式的に頭を下げた。

「まさか、こんな天気になるとは」

 江口が小声で言った。

「天気のせいにできる人、一人目」

 二階堂が肘で軽く突く。

「聞こえるぞ」

「聞かせてません」

 次に入ってきたのは、恰幅のいい男だった。

「柿沼康夫さん。元PTA会長」

 江口が紙を見ずに言う。

 柿沼は大きな声で笑った。

「いやあ、こんな山奥までご苦労さんですな」

 握手を求めてくる。

 真壁は応じた。

 手は厚く、力が強い。

 目は笑っていない。

「昔はこの学校も活気があったんですよ。子どもが多くてね」

 柿沼はそう言った。

 その言葉に、江口が一瞬だけ目を細めた。

 真壁はまた見た。

 反応がある。

 次は白衣姿の初老の男だった。

「校医だった大内先生」

 江口が紹介する。

 大内医師は、どこか落ち着かない様子だった。鞄を胸の前に抱え、真壁たちに視線を合わせようとしない。

「どうも」

 短く頭を下げる。

「お久しぶりです」

 江口が言った。

 大内はびくりとした。

「あ、ああ。江口先生」

「僕は先生ってほどじゃないですよ」

「いや、立派に……」

 大内は言いかけて、口を閉じた。

 江口は笑っている。

 だが、その笑みは薄かった。

 続いて、スーツ姿の女性が入ってきた。

 四十代半ばほど。

 髪をきっちりまとめ、隙のない印象を与える。

「県教育委員会の白石理佳さん」

 江口の声が少し平坦になった。

 白石は、真壁たちに名刺を差し出した。

「このたびは、遠方よりご足労いただきありがとうございます」

 丁寧すぎる挨拶。

 真壁は名刺を受け取る。

 白石の視線は、短く江口に向いた。

「江口先生。子どもたちは?」

「多目的室です。暖房つけてます」

「不用意に外へ出さないように」

「分かってます」

「報道関係者に接触させないようにも」

「まだ報道関係者は来てませんけど」

「念のためです」

「はいはい」

 江口の返事は軽い。

 白石の眉がわずかに動いた。

 さらに、地元の有力者である佐貫源蔵が入ってきた。

 七十を越えているだろう。

 杖を突いているが、目は鋭い。

 この施設の再開発に関わった人物だという。

「雪桜は村の宝だ」

 佐貫は、挨拶もそこそこに言った。

「昔のことばかり掘り返されては困る」

 真壁は、ゆっくりと彼を見た。

「昔のこと、とは」

 佐貫は口を結ぶ。

 その沈黙に、空気が沈んだ。

 最後に入ってきたのは、若い男だった。

 三十前後。

 地元で観光事業に関わっているという、宮原司。

「江口とは同じ時期にここにいたんですよ」

 宮原は明るく言った。

 江口は、笑わなかった。

「……いたっけ」

「おい、ひどいな」

 宮原は笑う。

「教育実習のときだよ。お前、子どもに人気あっただろ」

「記憶にないです」

「嘘つけ」

 宮原は肩をすくめる。

「相変わらずだな」

 その言葉に、江口は何も返さなかった。

 関係者がそろうと、職員室は急に狭くなった。

 古い学校の空気に、大人たちの思惑が混じる。

 暖房は効いているはずなのに、真壁は寒さを感じた。

 誰もが過去を知っている。

 だが、誰も口にしたがらない。

 そんな沈黙だった。

「では」

 白石が資料を広げた。

「本日の確認事項ですが、旧雪桜小中学校における児童死亡事故について――」

「事故です」

 戸倉が遮った。

 早かった。

 白石が彼を見る。

「戸倉先生」

「事故です。何度も調査されました」

 声が少し震えている。

「今さら、何を」

「再検証です」

 二階堂が穏やかに言った。

「事故かどうかを決めるためではなく、当時の記録と証言の整理を行うためです」

 その声は柔らかい。

 だが、有無を言わせない。

 戸倉は黙った。

 真壁は資料に目を落とした。

 九年前。

 旧校舎裏の水路付近で、児童が死亡。

 転落事故。

 積雪と凍結による足場不良。

 発見時には心肺停止。

 氏名の一部が黒塗りになっている。

 その下に、別の紙。

 在籍一覧。

 欠席記録。

 校医の診療記録。

 だが、奇妙だった。

「名前の表記が違うな」

 真壁が言う。

 白石の手が止まる。

「旧字体、誤記、転記ミスが混在しています」

「多すぎる」

 真壁は資料を並べる。

「同じ児童の記録にしては、揺れが大きい」

 大内医師が、眼鏡を直した。

「当時は、整理が不十分で」

「死亡事故の記録だ」

 真壁は淡々と言う。

「不十分では済まない」

 沈黙。

 江口は、少し離れたところで窓の外を見ていた。

 聞いていないように見える。

 だが、聞いている。

「江口」

 二階堂が声をかけた。

「お前、その事故のとき、ここにいたんだな」

 全員の視線が、江口に集まった。

 江口はゆっくり振り返る。

「いましたね」

 軽い声。

「教育実習中でした」

「現場には?」

「行きました」

 即答だった。

 戸倉の顔色が変わる。

 白石も視線を鋭くした。

 真壁は江口を見る。

「何を見た」

「雪」

 江口は言った。

「あと、子どもの靴」

「靴?」

「片方だけ、落ちてました」

 大内医師が口を開きかける。

 だが、言葉にならない。

 江口は続けた。

「誰かが泣いてた気がします。でも、誰だったかは覚えてません」

「本当に覚えていないのか」

 真壁が聞く。

 江口は笑った。

「忘れたいことほど、形が変わるんですよ」

「質問に答えろ」

「覚えてますよ」

 また、空気が止まった。

 江口は、窓の外へ視線を戻した。

「でも、僕が覚えていることを話すと、たぶん誰かが困ります」

 柿沼が机を叩いた。

「若造が、何を偉そうに」

 江口はゆっくり柿沼を見る。

「僕、もう二十九ですよ」

「そういう話じゃない」

「そうですね」

 江口は笑った。

「そういう話じゃない」

 その返しに、柿沼は言葉を詰まらせた。

 二階堂が、江口を見ていた。

 いつもの笑みはない。

「お前」

 低く言う。

「何を隠してる」

「隠してない」

「なら話せ」

「面倒なんで」

「桜次郎」

 名前で呼んだ。

 江口の目が、わずかに動く。

 二階堂は続けた。

「ここに来てから、お前はずっと軽口で逃げてる。高校のときもそうだった。場の空気が悪くなると、わざと自分を安く見せる」

 江口は黙っている。

「でも今は違う」

 二階堂の声は静かだった。

「逃げてるのは、空気からじゃない。何かからだ」

 江口は数秒、二階堂を見た。

 それから笑った。

「お前、広報向いてるよな」

「茶化すな」

「人の見せ方がうまい」

「茶化すなと言ってる」

「じゃあ、真面目に言うけど」

 江口の声が少し落ちる。

「僕が話しても、死人は戻りませんよ」

 誰も動かなかった。

 外で、風が鳴った。

 いや、風ではない。

 雪が窓を叩いた音だった。

     *

 その後、聞き取りは一度中断された。

 天候が悪化したため、施設側から全員に宿泊の準備をするよう連絡が入ったのだ。

 道路はすでに一部通行止め。

 村外へのバスは運休。

 携帯の電波も不安定になっていた。

 完全ではない。

 だが、閉じ始めている。

 真壁は廊下に出た。

 窓の外は白い。

 校庭の桜だけが、うっすらと見えた。

 花はまだ咲いている。

 雪の中で。

「嫌な場所だな」

 二階堂が隣に来て言った。

「ああ」

 真壁は短く返す。

「江口について、どこまで知っている」

「高校時代だけだ」

「どういう男だった」

 二階堂は少し考えた。

「面倒くさがり」

「今と同じだな」

「自己評価が低い」

「それも同じだ」

「明るかった」

「今も明るく見える」

「違う」

 二階堂は、雪桜を見た。

「あいつは昔から、明るく“していた”」

 真壁は黙る。

「場が沈むと、先に自分を雑にする。誰かが責められそうになると、先に自分が笑われる場所に立つ。そういうやつだった」

「優しいのか」

 二階堂は、すぐには答えなかった。

「本人は、そう言われるのを嫌がる」

「なぜ」

「責任が増えるからだろ」

 それは、江口が言いそうな答えだった。

 だが、二階堂の声には、それだけではない響きがあった。

「それに」

 二階堂は続ける。

「あいつは、自分が優しいと思うことを、たぶん許せない」

「面倒な男だな」

「そうだよ」

 二階堂は、かすかに笑った。

「昔から面倒だった」

     *

 廊下の奥から、子どもの声が聞こえた。

 真壁と二階堂が振り返る。

 多目的室の扉が少し開いている。

 中では、数人の子どもたちが集まっていた。

 江口がその中心にいる。

 床に座り、紙を広げて何かを書かせている。

「停電になったら怖いので、今のうちに懐中電灯の場所を確認しましょう」

 江口の声は、職員室で聞いたものと違っていた。

 柔らかい。

 だが、甘くはない。

「先生、帰れないの?」

 女の子が聞く。

「今日は無理かも」

「怖い」

「怖いのは正常です」

 江口は言った。

「怖くないふりするほうが危ない」

「先生は怖くないの?」

「怖いですよ」

 子どもが目を丸くする。

 江口はペンを回した。

「でも、怖いときに何をするか知ってるので、まあ大丈夫です」

「何するの?」

「まず、あったかいところにいる。次に、明かりを確保する。それから、人数を数える」

「人数?」

「そう」

 江口は指で子どもたちを数えた。

「誰がいるか。誰がいないか。それをちゃんと見る」

 真壁は、その言葉を聞いていた。

 誰がいるか。

 誰がいないか。

 それは、さっきの資料の違和感と、どこかで繋がっている気がした。

 江口は続ける。

「分からないことが一番怖いんです。だから、分かるところから順番に数える」

 子どもたちは頷く。

「順番に?」

「そう。順番に」

 その言葉だけが、妙に強く残った。

      *

 夕方。

 施設内の食堂で、関係者たちが集まった。

 食事は簡素だった。

 炊き込みご飯。

 味噌汁。

 焼き魚。

 山菜の小鉢。

 外の雪のせいか、温かいものがありがたかった。

 だが、空気は重い。

 誰も大きな声で話さない。

 柿沼だけが、酒を求めて施設職員に断られていた。

「こういうときに酒くらい出さんでどうする」

「規則ですので」

「昔はなあ」

 柿沼は不満げに言う。

「こういう雪の日は、みんなで火を囲んで飲んだもんだ」

 江口が、離れた席で小さく呟いた。

「火を囲むの、好きですね」

 真壁は聞き逃さなかった。

「どういう意味だ」

「別に」

 江口は味噌汁を飲む。

「昔の人って、すぐ火でごまかすなと思っただけです」

「ごまかす?」

「寒さとか、暗さとか、罪悪感とか」

 江口は箸を置いた。

「すみません。僕、口が悪いんで」

「自覚があるなら直せ」

「無理です。仕様です」

 二階堂が呆れたように言う。

「社会人として終わってるな」

「教師としても終わってます」

「子どもに言うなよ」

「子どもの前では言いません」

 そこだけは、即答だった。

      *

 食事の途中、停電が起きた。

 一瞬で、食堂が闇に沈む。

 子どもが小さく悲鳴を上げた。

 直後、江口の声がした。

「動かない」

 低い声だった。

 誰も動かなかった。

「椅子から立たない。手元のスマホ、ライトつけて。大人は騒がない」

 その指示は早かった。

 軽さはない。

「人数確認します。返事だけして」

 江口は、子どもたちの名前を一人ずつ呼んだ。

 返事が返る。

 一人。

 二人。

 三人。

 全員。

「はい、大丈夫」

 江口の声が柔らかく戻る。

「怖かったな。でも今ので勝ちです」

「何に?」

 子どもが聞く。

「暗さに」

 小さく笑いが起きた。

 非常灯が数秒遅れて点いた。

 薄い赤の光が、食堂を満たす。

 真壁は江口を見た。

 彼はもう、いつもの気だるい顔に戻っている。

 だが、今の一瞬。

 彼は誰よりも早く、誰よりも正確に動いた。

「……向いてるじゃないか」

 真壁が言う。

 江口は嫌そうな顔をした。

「やめてください。責任が増える」

 二階堂が小さく笑う。

「昔からそれだな」

「昔から責任は嫌いです」

「なのに、抱える」

「押し付けられるんだよ」

「違うな」

 二階堂の声が少しだけ低くなった。

「お前が拾うんだよ」

 江口は何も返さなかった。

     *

 停電は十分ほどで復旧した。

 原因は積雪による一時的な送電不良。

 施設職員はそう説明した。

 しかし、その夜から、空気は明らかに変わった。

 外へ出られない。

 連絡が不安定。

 過去の事故。

 消えた名前。

 雪桜。

 わらべ歌。

 ひとつひとつは、まだ事件ではなかった。

 だが、真壁は知っていた。

 事件は、起きた瞬間に始まるわけではない。

 もっと前から、空気の中にある。

 誰かが黙ったとき。

 誰かが目を逸らしたとき。

 誰かが、言葉を飲み込んだとき。

 そこから、もう始まっている。

     *

 夜。

 真壁は一人で旧校舎の廊下を歩いていた。

 暖房の届かない場所は冷える。

 窓ガラスの向こうは雪で白い。

 校庭の桜は、闇の中でもうっすら見えた。

 ライトアップされているわけではない。

 雪明かりだった。

 その下に、誰かが立っていた。

 江口桜次郎だった。

 コートも着ずに、桜を見上げている。

 真壁は窓越しに彼を見た。

 江口は動かない。

 雪が肩に積もっていく。

 不健康そうな細い背中。

 だが、その姿には、妙な静けさがあった。

 祈りではない。

 反省でもない。

 懐かしさでもない。

 もっと別のもの。

 真壁が外へ出ようとしたとき、背後から声がした。

「やめておけ」

 九条だった。

「なぜ」

「今行っても、何も話さない」

「分かるのか」

「顔がそういう顔だった」

 真壁は窓の外を見る。

 江口はまだ桜を見ている。

「お前はあの男をどう見る」

 九条は少し考えた。

「疲れている」

「それは見れば分かる」

「嘘が多い」

「それも分かる」

「ただし、嘘の向きが奇妙だ」

「向き?」

「人を騙すためというより、自分を軽くするための嘘だ」

 真壁は黙った。

「自分が大事なものを持っていると認めたくない人間は、よくああいう嘘をつく」

「大事なもの?」

 九条は、窓の外の桜を見る。

「子ども」

 短い答えだった。

      *

 そのとき、廊下の奥から、また歌が聞こえた。

 小さな声。

 子どものものではない。

 もっと年老いた、かすれた声だった。

「ねんねん桜 誰の子だ」

 真壁と九条は顔を見合わせた。

 声のほうへ向かう。

 廊下の先、展示室になった元図書室に、一人の老人がいた。

 施設の管理を手伝っているという、村の古老だった。

 名前は、笹原トメ。

 八十を越えているらしい。

 昼間はほとんど口を開かなかった。

 彼女は、古い写真の前に立っていた。

 そこには、かつての雪桜小中学校の集合写真が飾られている。

 子どもたち。

 教師。

 校庭の桜。

 今よりも、枝ぶりが若い。

「その歌を知っているのか」

 真壁が聞いた。

 トメは振り返った。

 白く濁った目が、真壁を見上げる。

「あれは、子守唄だ」

「子守唄」

「死んだ子を寝かせる歌だ」

 九条が一歩近づく。

「誰の子を?」

 トメは、しばらく黙っていた。

 それから、写真に目を戻す。

「誰の子でもない」

 低く言った。

「誰の子でもない子が、一番かわいそうだ」

 真壁の背筋に、冷たいものが走った。

「どういう意味だ」

 トメは答えなかった。

 ただ、もう一度歌った。

「ひとつ 雪に隠して」

 声は、震えている。

「ふたつ 川に流して」

 九条の目が、写真の隅に留まった。

「みっつ 枝に結んで」

 真壁もそこを見る。

 古い集合写真。

 その端。

 一人の子どもの顔だけが、光の反射で見えにくい。

「よっつ 炉にくべて」

 トメの声は、細くなる。

「いつつ 母に返して」

 歌が終わる。

 廊下に、沈黙が落ちる。

 真壁は聞いた。

「その歌は、誰が歌っていた」

 トメは、ゆっくり首を振った。

「村の者は、みんな知っている」

「江口もか」

 その名前を出した瞬間、トメの顔に変化があった。

 恐れ。

 いや、違う。

 後悔に近い。

「あの先生は」

 トメは言った。

「あの子を、覚えている」

「誰を」

 トメは答えない。

 ただ、写真の隅を指した。

「雪は隠す」

 かすれた声。

「でも、桜は落ちる」

 真壁はその言葉を胸の内で繰り返した。

 雪は隠す。

 桜は落ちる。

 落ちたものは、そこに残る。

      *

 展示室を出ると、二階堂が廊下に立っていた。

「江口がいない」

 短く言う。

「外にいた」

 真壁が答える。

「今は?」

 三人で窓を見る。

 校庭に、人影はなかった。

 桜だけが立っている。

 雪はさらに強くなっていた。

 九条が、静かに言った。

「明日、何か起きるな」

 二階堂が彼を見る。

「そういう不吉な予言、やめろ」

「予言ではない」

 九条は、写真を見ていたときと同じ目をしている。

「準備が終わった場所の匂いがする」

 真壁は外を見た。

 雪に埋もれた校庭。

 一本の桜。

 消えた人影。

 そして、古い歌。

 まだ誰も死んでいない。

 だが、真壁にはもう分かっていた。

 この村は、何かを隠している。

 そして隠されたものは、もうすぐ雪の下から顔を出す。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ