第十章 薫はどこですか
雪は、また降り始めていた。
夜の校庭に出た瞬間、真壁彰は冷気を肺の奥まで吸い込んだ。
旧校舎の明かりが背後で滲んでいる。
前方には、雪桜。
白い闇の中に、一本だけ立っている。
花はまだ散りきっていなかった。
雪と桜が同時に落ちる。
どちらも白い。
だが、落ちる速度が違う。
雪は迷うように降り、桜は諦めたように落ちる。
江口桜次郎は、真壁の少し前を歩いていた。
足取りは重い。
それでも、止まらない。
二階堂壮也がその横につく。
九条雅紀は少し後ろから、周囲を見ている。
旧校舎のスピーカーから流れた声は、まだ耳に残っていた。
――先生。
――今度は、答えてくれますか。
――薫は、どこですか。
麻生遥。
九年前、水路で死んだ子ども、麻生薫の姉。
記録から消された家族。
存在しなかったことにされた名前。
その女が、今ここにいる。
真壁は、雪の上の足跡を見た。
新しい足跡が、雪桜へ向かっている。
一人分。
細い。
女のものに見える。
足跡は、桜の下で止まっていた。
その先に、人影がある。
黒いコート。
長い髪。
顔は雪明かりに沈んでいる。
女は、桜の幹に手を添えて立っていた。
まるで、その木だけが世界で唯一残っているもののように。
「麻生遥さんですね」
真壁が言った。
女は、ゆっくりこちらを向いた。
年齢は三十前後だろう。
痩せている。
目元に疲労がある。
けれど、その目だけは異様に強かった。
泣き腫らした目ではない。
長い時間、泣くことをやめていた人間の目だった。
「警察の方ですか」
声は静かだった。
「警視庁の真壁です」
「東京の警察が、こんな村まで」
「人が死んでいます」
「知っています」
麻生遥は、淡々と言った。
その声には、驚きも怯えもない。
真壁は一歩進む。
二階堂が江口の腕を軽く押さえた。
江口は動かなかった。
麻生遥の視線は、真壁ではなく、江口に向いている。
「先生」
彼女は言った。
江口の喉が動いた。
「……遥さん」
「覚えてたんですね」
「覚えています」
「薫のことも?」
江口は、答えるまでに少し時間がかかった。
「覚えています」
「じゃあ、どうして答えてくれなかったんですか」
雪が降る。
その問いは、九年分の雪を被っていた。
江口は、何も言わない。
麻生遥は続ける。
「私、手紙を書きました。先生なら、薫を探してくれると思った。だって、先生は薫と環の話を聞いてくれた大人だったから」
江口の顔が歪む。
「聞いただけです」
「そうですね」
遥は頷いた。
「聞いただけでした」
二階堂が小さく息を吐く。
真壁は麻生遥から目を離さなかった。
彼女の足元に、何かが置かれている。
古いランドセル。
白い布。
そして、小さな靴。
旧保管庫の祭壇にあったものと同じだ。
いや、同じものかもしれない。
「その品は」
真壁が聞く。
「薫のものです」
遥が答える。
「どうやって手に入れた」
「取り戻しました」
「どこから」
「この村から」
短い答えだった。
真壁は、彼女の目を見る。
「あなたが、連続殺人の犯人ですか」
二階堂が江口の腕を押さえる力を強めた。
江口が動こうとしたのだ。
麻生遥は、真壁を見た。
「そう聞くんですね」
「必要な質問です」
「では、必要な答えをします」
遥は、静かに言った。
「私は、薫を探しに来ました」
「人が五人死んでいる」
「薫は、九年前に死んでいます」
「質問に答えてください」
「先生は答えてくれませんでした」
遥の視線が、また江口に戻る。
「だから、私も少しだけ、答えを遅らせます」
真壁は足元の雪を踏みしめた。
この女は落ち着きすぎている。
その落ち着きは、無実の落ち着きではない。
準備してきた人間の落ち着きだった。
「麻生遥さん」
九条が口を開いた。
「あなたは、薫さんの遺体が環さんとして処理されたことを知っていた」
遥は九条を見る。
「あなたは?」
「九条です。法医学です」
「死んだ人を読む人」
「そうです」
「なら、薫も読んでください」
「そのためには、薫さんの遺体がどこにあるか知る必要がある」
遥の目が、ほんのわずかに揺れた。
「だから聞いてるんです」
彼女は言った。
「薫は、どこですか」
江口が、一歩出た。
二階堂が止める。
「行くな」
「答えないと」
「何を答える。お前は知らないと言っただろ」
「知らない。でも」
江口は麻生遥を見た。
「僕が知らないことが、もう答えなんです」
遥の表情が変わった。
「どういう意味ですか」
江口は、雪の中で息を吐いた。
白い息がすぐに消える。
「薫さんは、環として処理された。事故記録上は、環が水路で死んだことになった。なら、遺体は環の名前で葬られているはずです」
「そんなことは知っています」
遥の声が初めて揺れた。
「私はその墓を掘りました」
真壁の目が鋭くなる。
「掘った?」
「ええ」
遥は言った。
「環と書かれた墓を。そこに薫がいるなら、連れて帰るつもりでした」
「中には」
「ありませんでした」
雪の音だけが残った。
「空だったんです」
真壁は、無意識に九条を見た。
九条の表情が変わる。
「空?」
「骨壺はありました。でも、中身が違った。薫ではなかった。人間の骨ですらなかった」
二階堂が低く言う。
「偽装か」
遥は笑った。
笑いというより、声にならない息だった。
「九年ですよ。九年、私は妹がどこかの墓にいると思っていた。名前を間違えられても、せめてどこかに眠っていると思っていた。でも、いなかった」
彼女は江口を見た。
「先生。薫は、どこですか」
江口は、言葉を失っていた。
それは演技ではなかった。
真壁にも分かった。
江口は知らなかったのだ。
麻生薫の遺体が、墓にないことを。
なら、九年前の隠蔽はさらに深い。
死んだ子の名前を変えただけではない。
遺体そのものも、消されている。
「誰が骨壺をすり替えた」
真壁が言う。
麻生遥は首を振る。
「それを聞くために、戻ってきました」
「そのために人を殺したのか」
遥は答えなかった。
沈黙。
それは、否定ではなかった。
真壁は一歩前に出る。
「戸倉、柿沼、大内、宮原、白石。佐貫も死にかけた。新葉くんも危険に晒された」
江口が顔を上げる。
遥の目が、一瞬だけ揺れた。
子どもの名に反応した。
真壁は見逃さない。
「新葉くんを連れ出したのはあなたですか」
遥は唇を結ぶ。
「子どもを使った」
真壁は言葉を重ねる。
「江口に答えさせるために」
「怪我はさせていません」
遥が初めて即答した。
江口の声が低くなる。
「そういう問題じゃない」
遥は江口を見る。
「先生がそれを言うんですか」
「言います」
「九年前、環を一人にした先生が」
「言います」
江口の声は震えていなかった。
「僕は間違えました。子どもの言葉を信じなかった。環を置いて行った。遥さんの手紙にも答えなかった」
「なら」
「だからこそ言います」
江口は、一歩前に出る。
今度は二階堂も止めなかった。
「子どもを使うな」
雪が、二人の間に落ちる。
麻生遥の顔が、怒りで歪んだ。
「薫も子どもでした」
「はい」
「環も子どもでした」
「はい」
「誰も守らなかった」
「はい」
「先生も」
「はい」
江口はすべて受け止めた。
逃げなかった。
「だから、あなたは僕を責めていい。殺したいなら、僕を殺せばよかった」
「先生を殺しても」
遥の声が低くなる。
「薫は戻らない」
「戻りません」
「だから、順番にしたんです」
その言葉で、真壁の中の線がつながった。
順番にした。
彼女は認めた。
「あなたが見立てを作った」
真壁が言う。
遥はゆっくり頷いた。
「歌は、昔から村にありました」
「六つ目、七つ目も?」
「ええ」
「誰が教えた」
「祖母です」
「麻生家の?」
「はい」
遥は足元のランドセルに視線を落とす。
「でも、村は五つ目までしか残さなかった。母に返して、で終わる歌にした。父と先生を消したんです」
二階堂が低く呟く。
「父と先生。戸倉と江口」
「戸倉は父だった」
遥が言う。
「先生は、答えなかった」
江口は目を伏せる。
「そうです」
「私は、二人に答えてほしかった」
「だから殺した?」
真壁が問う。
遥は首を振った。
「殺すつもりで始めたわけじゃありません」
「それは通らない」
「分かっています」
「では、なぜ」
遥は、雪桜を見上げた。
「九年前、私は子どもでした。薫を探して走り回った。環がいなくなったと聞いて、何が何だか分からなかった。大人たちは、事故だと言った。薫は親戚のところへ行ったと言った。環が死んだと言った。全部、少しずつ違っていた」
声は静かだった。
「でも、子どもには反論できない。証拠もない。名前も消される。家族ごと村から追い出される。私は大人になるまで、薫が死んだことさえ正式には知らされなかった」
「そして戻った」
「ええ」
「一人で?」
真壁の問いに、遥は答えなかった。
真壁は目を細める。
「一人ではないな」
麻生遥の表情が止まる。
二階堂が反応する。
「共犯がいる?」
「少なくとも、すべての犯行を一人で行うのは難しい」
真壁は遥を見る。
「戸倉を雪に埋める。柿沼を水路へ仕掛ける。大内を時間差で吊り上げる。宮原を焼却炉へ入れる。白石を母子相談室へ導く。佐貫を保管庫へ閉じ込める。子どもを連れ出す。放送を使う。施設の構造に詳しい人間が必要だ」
遥は黙っている。
「あなたに協力したのは誰だ」
江口が、真壁を見た。
何かに気づいた顔だった。
「まさか」
二階堂も同時に江口を見る。
「施設職員か」
真壁は答えない。
旧校舎の中には、施設職員が複数いる。
子どもを見ていた職員。
鍵を管理していた職員。
倒れていた職員。
全員を完全に洗えてはいない。
だが、もう一つ可能性がある。
この村に詳しく、施設構造を知り、わらべ歌の本来の形を知り、麻生遥に同情する人物。
佐貫以外の村人。
古老、笹原トメ。
真壁の脳裏に、元図書室で歌っていた老人の声が蘇る。
――誰の子でもない子が、一番かわいそうだ。
「笹原トメさんはどこにいる」
真壁が言った。
遥の目が、わずかに揺れた。
それが答えだった。
二階堂がスマホを取り出す。
「中へ連絡する」
しかし、電波は弱い。
真壁は九条を見る。
「戻れ。トメさんを確認」
九条が頷き、校舎へ走る。
真壁は遥から目を離さなかった。
「笹原トメさんが共犯か」
遥は答えない。
「高齢の彼女が実行犯とは考えにくい。だが、歌や記録、隠し場所を教えた」
沈黙。
「違いますか」
遥は、ようやく口を開いた。
「おばあちゃんは、薫の名前を覚えていてくれました」
「質問に答えてください」
「村でたった一人、薫の名前を忘れなかった」
真壁は、その言葉で理解した。
笹原トメは、麻生薫を覚えていた。
そして、おそらく環も。
記録から消えた子。
死んだことにされた子。
二人の名前を知っていた。
それは、遥にとって救いだったのだろう。
同時に、事件を起こすための鍵にもなった。
*
九条から連絡が入ったのは、数分後だった。
短い通話。
電波が途切れがちだった。
『笹原トメがいない』
真壁は目を閉じた。
「部屋は」
『空だ。窓が開いている』
「足跡は」
『旧保管庫の方角へ向かっている』
通話が切れる。
真壁は遥を見た。
「笹原トメさんはどこへ」
遥の顔色が変わっていた。
それは演技ではない。
「知らない」
「本当に?」
「本当に」
初めて、彼女は焦った。
「おばあちゃんは、もう動かないはずだった」
「どういう意味だ」
「歌を戻してくれたら、それでいいって。あとは私がやるって」
真壁は二階堂に目配せした。
二階堂が頷く。
「旧保管庫だ」
江口が言った。
真壁が見る。
「なぜ分かる」
「トメさんは、あそこに薫のものを隠していた」
「祭壇か」
「はい」
「行くぞ」
真壁は言った。
遥も動こうとした。
真壁は制する。
「あなたはここに」
「嫌です」
「任意同行では済まない状況です」
「おばあちゃんが」
遥の声が崩れた。
「おばあちゃんは、関係ない」
「関係ある」
真壁は短く言った。
「でも、助けるために行く」
遥は唇を噛む。
江口が彼女を見る。
「遥さん」
「何ですか」
「薫を、これ以上一人にしないためにも」
江口は言った。
「生きている人を、死なせないでください」
遥の顔が歪んだ。
泣く寸前の顔だった。
しかし、涙は出なかった。
「先生」
彼女は言う。
「それを九年前に言ってほしかった」
「はい」
江口は頷いた。
「本当に」
*
旧保管庫へ向かう道は、雪でさらに深くなっていた。
真壁、二階堂、江口。
少し遅れて、施設職員に見張られた遥。
九条は先に保管庫付近へ向かっている。
足跡は複数ある。
九条のもの。
古い小さな足跡。
笹原トメのものだろう。
そして、別の足跡。
誰のものか分からない。
旧保管庫の扉は開いていた。
中から冷たい空気が流れている。
真壁はライトをつける。
「九条」
奥から声が返った。
「こっちだ」
祭壇の前に、笹原トメが座っていた。
いや、座らされていたのかもしれない。
白い髪。
小さな体。
胸には、薫のものだという小さな靴を抱いている。
意識はある。
だが、息が弱い。
九条が脈を取っている。
「低体温だ。早く中へ」
遥が駆け寄ろうとする。
真壁が止める。
「待て」
祭壇の周囲に、細い糸が張られていた。
見えにくい。
足元。
棚。
天井。
トリックに使われた釣り糸と同じようなもの。
「罠か」
二階堂が言う。
九条が頷く。
「触ると棚が倒れる。上の箱も落ちる。直接の殺傷力はないが、混乱させるには十分だ」
真壁は慎重に糸を避け、トメに近づいた。
トメは、薄く目を開けた。
「薫は……」
かすれた声。
「薫は、寒かったろうねえ」
遥が泣きそうな声を出す。
「おばあちゃん」
トメの目が遥を探す。
「遥ちゃん……駄目だよ」
「何が」
「あの子たちは、殺してほしかったんじゃない」
その言葉に、保管庫の中が静まった。
遥は動けない。
トメは、かすかな声で続けた。
「名前を、呼んでほしかっただけだ」
江口が、目を伏せた。
真壁はトメのそばにしゃがむ。
「誰があなたをここへ」
トメは、首をかすかに振った。
「自分で来た」
「なぜ」
「薫を、置いていけなかった」
「誰かに呼ばれたのでは」
「歌が……終わらないから」
トメは、靴を抱く手に力を込めた。
「終わらせに来た」
九条が真壁を見る。
このままでは危ない。
早く運ぶ必要がある。
真壁は頷いた。
「運びます」
遥が言った。
「私が」
「あなたは下がって」
「私が薫を置いていったから」
遥の声が震える。
「私が、薫を探しきれなかったから」
江口が、静かに言った。
「それは違います」
遥が彼を睨む。
「先生に何が分かるんですか」
「分かりません」
江口は答えた。
「でも、あなたは子どもでした」
その言葉に、遥が止まる。
「子どもが、子どもを守れなかった罪まで背負わなくていい」
江口の声は低い。
「それは大人の仕事です」
「先生は、背負ってるじゃないですか」
「僕は大人でした」
「実習生だった」
「子どもから見れば、大人です」
遥は何も言えなくなった。
江口は続けた。
「だから、あなたは薫の姉でいい。犯人にならなくていい」
その言葉が、遥に届いたのかは分からない。
ただ、彼女の肩が小さく震えた。
*
笹原トメは旧保健室へ運ばれた。
命はひとまず繋がった。
佐貫と同じ部屋には置けないため、別室で保温する。
九条が処置を続け、施設職員が湯たんぽや毛布を集めた。
麻生遥は、真壁の監視下で旧職員室に入れられた。
彼女は逃げなかった。
江口もそこにいた。
二階堂は扉の前に立つ。
真壁は、遥の前に座った。
「もう一度聞きます」
声を低くする。
「あなたが、見立て殺人を実行したのですか」
遥は、長い沈黙のあと、頷いた。
「全部ではありません」
「誰が協力した」
「笹原さんは、歌と隠し場所を教えてくれただけです」
「施設職員は」
「協力していません」
「では、どうやって」
遥は、静かに言った。
「私は、この施設の改修工事に関わりました」
真壁の目が動く。
「業者として?」
「設計補助です。今は建築設備の仕事をしています」
二階堂が低く呟く。
「だから構造を知っていた」
「はい」
「暗渠も、焼却炉も、旧母子相談室も、放送設備も」
「はい」
「鍵は」
「改修時の複製を持っていました」
真壁は唇を結ぶ。
すべて繋がる。
外部者に見えて、施設の内部構造を知る人物。
十年前の関係者。
消された子の姉。
麻生遥。
「大内の時間差トリックは」
九条が入ってきて聞いた。
遥は彼を見た。
「雪解け水です」
「やはり」
「庭園の枝には昔、雪吊り用の補助具があった。それを利用しました。ロープと氷の重さで、時間差で体が持ち上がるように」
「柿沼は」
「暗渠の中に固定して、水量が増えたところで出るようにしました」
「宮原は」
「睡眠薬で眠らせてから、焼却炉へ」
「殺害方法は?」
遥は答えない。
真壁が言う。
「答えてください」
「薬です」
「入手経路は」
「仕事柄、薬品管理の知識はあります。詳しい方法は、あとで話します」
「白石は」
「母子相談室へ呼び出しました。桐生真砂の記録が見つかったと伝えて」
「佐貫は」
「保管庫へ。父を問うために」
「新葉くんは」
江口の声が割り込んだ。
低い。
遥は、目を伏せる。
「怪我はさせるつもりはありませんでした」
「答えになってない」
江口の声は、冷たかった。
「なぜ子どもを使った」
遥は、苦しそうに言う。
「先生に、同じ場所へ来てほしかった」
「僕を呼べばよかった」
「来てくれなかったじゃないですか」
「今なら行った」
「九年前は来なかった」
「遥さん」
「私は九年待った!」
初めて、遥が声を荒げた。
その声は旧職員室の壁にぶつかり、古い棚を震わせた。
「薫を探してくださいって書いた。環を助けてくださいって書いた。先生なら、と思った。先生は、子どもの話を聞いてくれる大人だと思った。でも、返事はなかった」
江口は、黙って受け止めた。
「だから、今度は来るようにした。絶対に、来るようにした」
「子どもを使って?」
「……はい」
遥の声は小さくなった。
「それが、私の罪です」
江口は、目を閉じた。
怒りを飲み込むように。
そして、言った。
「それは、薫さんのためじゃない」
遥の顔が歪む。
「分かっています」
「環のためでもない」
「分かっています」
「あなたのためでも、もうない」
江口は、ゆっくり続けた。
「これは、止まれなくなった授業です」
真壁は江口を見る。
その言葉は、自分自身にも向けられているようだった。
*
遥の自白により、事件の大部分は解けた。
だが、最後の核心はまだ残っていた。
薫の遺体はどこにあるのか。
環はどうなったのか。
誰が墓を空にしたのか。
遥は知らないと言った。
それは嘘ではないように見えた。
笹原トメも知らない。
佐貫は「わしらは事故を一つにした」と言ったが、遺体の行方については意識が途切れて聞けていない。
戸倉は死んだ。
柿沼、大内、白石、宮原も死んだ。
答えを知る大人たちは、もうほとんどいない。
真壁は佐貫の回復を待つしかないと考えた。
だが、江口は違った。
彼は、旧職員室の窓から雪桜を見ていた。
「たぶん」
江口が言った。
「薫さんは、まだ学校にいます」
真壁が顔を上げる。
「なぜそう思う」
「環が言っていました」
「何と」
「薫は、先生を待ってるって」
遥が立ち上がりかけた。
二階堂が制する。
「どこで」
真壁が問う。
江口は、窓の外を指した。
雪桜ではない。
その奥。
旧校舎と校庭の境目。
今は雪に覆われている場所。
「旧百葉箱の下です」
「百葉箱?」
「昔、理科の観測用に使っていた箱がありました。今は撤去されている。でも基礎だけ残っているはずです」
「なぜそこに」
「環と薫の秘密の場所だった」
江口は言った。
「二人は、そこに手紙を隠していた」
遥が息を呑む。
「薫が……?」
「はい」
「知らなかった」
「僕も、今思い出しました」
江口は苦しそうに笑った。
「遅すぎますね」
真壁は即座に立ち上がった。
「確認する」
*
旧百葉箱の跡は、雪に埋もれていた。
江口の記憶だけが頼りだった。
校庭の端。
雪桜から少し離れた場所。
そこに、低いコンクリートの基礎が残っている。
雪を掘る。
真壁、二階堂、施設職員。
江口も掘ろうとしたが、真壁が止めた。
「下がっていろ」
「でも」
「お前は見ていろ」
それは罰ではなかった。
江口には、見る義務がある。
そう思った。
雪の下から、木の蓋が出てきた。
腐食している。
だが、意図的に塞がれている。
真壁は慎重に開けた。
中には、小さな金属箱があった。
菓子缶のようなもの。
錆びついている。
九条が受け取り、ゆっくり開ける。
中には、紙が入っていた。
何枚も。
子どもの字。
古い手紙。
そして、小さな布袋。
遥が震える声で言った。
「薫の字……」
手紙には、拙い字で書かれていた。
――環ちゃんへ。
――だいじょうぶ。
――先生に言えば、なんとかなるよ。
――わたしもいっしょに行くから。
別の手紙。
――薫ちゃんへ。
――先生は、いい大人かな。
――わたしの名前、ちゃんと呼んでくれるかな。
江口は、その場に立ち尽くしていた。
雪が肩に積もる。
二階堂が、彼を見る。
「桜次郎」
江口は返事をしない。
真壁は布袋を見た。
中には、骨ではなかった。
小さなヘアピン。
桜の形をした、子ども用のヘアピン。
そして、血のついたハンカチ。
名前が刺繍されている。
麻生薫。
九年前、江口が見たもの。
それがここにあった。
「薫の遺体ではない」
九条が言った。
「だが、ここが二人の最後の接点だ」
遥は膝から崩れ落ちた。
泣き声は出なかった。
ただ、雪の上に手をつき、肩を震わせた。
「薫……」
江口は、動かない。
真壁は彼に近づいた。
「江口」
彼は、かすかに答えた。
「はい」
「見つかったぞ」
「はい」
「薫の名前は、ここにあった」
江口の目から、初めて涙が落ちた。
彼はそれを拭かなかった。
雪の上に落ちた涙は、すぐに見えなくなった。
「遅い」
江口は言った。
「遅すぎる」
真壁は何も言わなかった。
確かに遅すぎる。
九年遅い。
しかし、見つかった。
完全には消えなかった。
薫の名前は、ここにあった。
環の問いも、ここにあった。
先生に言えば、なんとかなるのか。
その問いに、九年後の江口がようやく立っている。
*
校舎へ戻る途中、江口はふいに立ち止まった。
雪桜の下だった。
真壁も止まる。
二階堂も。
遥は、手紙を抱いて少し離れたところにいる。
江口は、桜を見上げた。
「僕は、先生じゃなかった」
誰に言うでもなく、呟いた。
「でも、先生って呼ばれた」
雪が降る。
桜が落ちる。
江口は、目を閉じた。
「答えます」
その声は、かすかだった。
だが、はっきり聞こえた。
「薫さんは、ここにいました。環も、ここにいました。誰の子でもない子なんて、いなかった」
遥が顔を上げる。
江口は続ける。
「薫さんは麻生薫です。環は桐生環です。二人は、友達でした。大人の都合で、一人にされたり、消されたりしていい子じゃなかった」
声が、少し震える。
「そして僕は、それを九年前に言うべきでした」
真壁は、その言葉を聞いていた。
それは自白ではない。
告白だった。
罪の。
しかし、同時に、名前を戻すための。
二階堂が静かに言う。
「遅いな」
江口は頷く。
「うん」
「でも、言った」
「うん」
「なら、次は生きて償え」
江口は二階堂を見た。
少しだけ笑った。
「厳しいな」
「優しくしてほしいなら、まず寝ろ」
「そこ?」
「そこだ」
そのやりとりは、ひどく場違いだった。
だが、江口は少しだけ息を吐いた。
九年ぶりに、呼吸をしたように。
だが、事件はまだ終わっていなかった。
旧校舎へ戻った直後、佐貫源蔵の意識が再び戻った。
九条が真壁を呼ぶ。
佐貫は、乾いた唇で何かを言おうとしている。
真壁が耳を近づけた。
「薫は……」
「薫の遺体はどこです」
真壁が聞く。
佐貫の目が泳ぐ。
「違う……薫は……」
「何が違う」
「薫は、水路で死んだんじゃない」
真壁の体が固まった。
「何?」
「水路で死んだのは……」
佐貫の呼吸が乱れる。
九条が処置をしながら言う。
「短く」
佐貫は、最後の力で言った。
「環だ」
部屋の時間が止まった。
「環が……死んだ。薫は、生きていた」
真壁は、言葉を失った。
構造が、再び反転した。
江口が話した記憶。
遥が信じていた真実。
佐貫が隠した事実。
そのすべてが、またずれる。
「薫はどこです」
真壁が問う。
佐貫は、涙を流した。
「連れて……いかれた」
「誰に」
佐貫の唇が動く。
ほとんど聞き取れない声。
「先生に」
真壁は、江口を見た。
江口は蒼白になっていた。
「違う」
彼は呟いた。
「僕じゃない」
佐貫の目が、江口へ向く。
「戸倉が……薫を……」
そこで、佐貫の意識が落ちた。
真壁は動けなかった。
戸倉。
死んだ父。
最初の被害者。
環の父。
彼が、薫を連れて行った。
なら、薫は死んでいない可能性がある。
いや。
九年。
生きているのか、死んでいるのか。
分からない。
ただ一つ、事件の中心がまた変わった。
遥が探していた妹は、本当に水路で死んだのではない。
環が死に、薫が連れ去られた。
そして村は、死んだ子と消えた子を入れ替えた。
江口は、震える声で言った。
「僕は……見たのに」
二階堂が彼の肩を掴む。
「何を見た」
「戸倉先生が、薫の手を引いているところを」
雪が、窓の外で降っていた。
江口の記憶の底で、もう一つの扉が開いた。
事件は、まだ最深部に届いていない。
薫はどこですか。
その問いは、まだ終わっていなかった。




