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雪桜の教室は、誰の子を埋めたのか  作者: 綾見 恋太郎


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第十一章 先生は、見ていた

 江口桜次郎の顔から、色が消えていた。

 旧保健室の暖房は強く入っている。

 窓は閉じられ、毛布も湯たんぽも集められている。

 それでも、部屋の中心だけが凍っているようだった。

 佐貫源蔵は、ベッドの上で意識を失っている。

 かろうじて呼吸はある。

 九条雅紀が処置を続けていた。

 真壁彰は、佐貫の言葉を頭の中で反芻していた。

 ――環が死んだ。薫は、生きていた。

 ――戸倉が、薫を。

 九年かけて隠された真相が、ここに来てまた反転した。

 水路で死んだのは麻生薫ではなかった。

 桐生環だった。

 薫は死んでいない。

 少なくとも、その場では。

 そして、戸倉誠一が薫を連れて行った。

 江口が、震える声で呟く。

「僕は、見た」

 二階堂壮也が、彼の肩を掴んでいた。

「何を」

「戸倉先生が、薫の手を引いているところを」

「どこで」

「雪桜の奥」

 江口は目を閉じる。

「旧百葉箱の近くです。雪が降っていて、桜が散っていて、足跡がいくつもあって……僕は、環を探していた。戻ったら環がいなくて、戸倉先生を追いかけようとして」

 言葉が途切れる。

 二階堂は手を離さない。

「続けろ」

「戸倉先生が、女の子の手を引いていた」

「それが薫か」

「たぶん」

「たぶん?」

「顔が見えなかった。フードを被っていて、泣いていた。でも、ハンカチを握っていた。麻生薫って刺繍されたハンカチ」

 真壁は、前章で見つけた血のついたハンカチを思い出す。

 麻生薫。

 雪桜の下に残されていたはずのもの。

 だが、江口の記憶では、薫自身がそれを握っていた。

「ハンカチは、その後、旧百葉箱の箱から見つかった」

 真壁が言う。

「はい」

「なら、薫はそこに一度戻ったか、誰かが置いた」

「そうです」

 江口は目を開けた。

 その目は、九年前の雪を見ている。

「僕は声をかけようとしました。でも戸倉先生がこっちを見た。怖い顔でした。普段の、神経質で大人しい先生じゃなくて」

「お前は?」

「隠れました」

 二階堂の手に力が入る。

「なぜ」

「怖かったから」

 江口は、吐き出すように言った。

「僕は二十歳を過ぎていました。でも、怖かった。先生に逆らうことが。村の大人たちに睨まれることが。自分が見たものの意味を、考えることが」

 旧保健室に沈黙が落ちる。

 江口は、もう言い訳をしていなかった。

 自分が怯えたことを、そのまま差し出している。

「そのあと、どうした」

 真壁が聞く。

「職員室に戻りました」

「なぜ」

「大人に言おうと思った」

「誰に」

「戸倉先生以外の誰かに。でも、そこには佐貫さんと柿沼さんがいた。大内先生も、宮原もいた。みんな、同じ顔をしていた」

「同じ顔?」

「もう決めたあとの顔です」

 江口は言った。

「環が死んだこと。薫がいなくなったこと。二人の名前をどう処理するか。全部」

 真壁は息を吐いた。

 九年前、江口は見た。

 だが、その意味を最後まで受け止めなかった。

 子どもの言葉より、大人の沈黙を選んだ。

 それが江口の罪だった。

 だが、まだ足りない。

 薫の行方が分からない。

 戸倉がなぜ薫を連れて行ったのかも。

「戸倉はなぜ薫を連れて行った」

 真壁が問う。

 江口は首を振った。

「分かりません」

「環の父親だったからか」

 二階堂が低く言う。

「環が死んだ以上、薫が真相を話せば自分の立場が危うくなる」

「そうかもしれない」

 江口の声は小さい。

「でも、もっと別の理由があった気もする」

「別の理由?」

「薫は、環が戸倉先生の子だと知っていた」

 真壁の目が動く。

「誰から聞いた」

「環からです。二人は手紙のやりとりをしていた。薫は、環を助けようとしていた」

「つまり薫は証人だった」

「はい」

「戸倉にとって邪魔だった」

 江口は答えなかった。

 答える必要はなかった。

 九条が佐貫の処置を終え、立ち上がる。

「佐貫はしばらく話せない。だが、命はつながっている」

「警察と救急は」

 二階堂が聞く。

「連絡は入った。除雪は進んでいる。昼過ぎには到着できる可能性がある」

 昼過ぎ。

 初めて、外が近づいた気がした。

 だが、その前に事件を止めなければならない。

 麻生遥は、まだいる。

 彼女は自白した。

 しかし、薫が死んでいない可能性が出た今、彼女が何をするか分からない。

 真壁は顔を上げる。

「遥は」

 二階堂が答える。

「旧職員室。施設職員が見てる」

「彼女に今の話を伝える」

 江口が動いた。

「僕が」

「駄目だ」

 真壁が即座に言う。

「でも」

「お前は感情の中心にいる。二人だけでは会わせない」

 二階堂も頷く。

「俺も行く」

 江口は二階堂を見た。

 何か言おうとして、やめる。

「分かった」

 その返事は、今までよりずっと素直だった。

      *

 旧職員室に入ると、麻生遥は椅子に座っていた。

 背筋を伸ばし、手を膝の上に置いている。

 見張りの施設職員が扉の近くに立っている。

 遥は、江口を見た。

「薫は、見つかりましたか」

 その問いは静かだった。

 しかし、静かすぎた。

 真壁は彼女の向かいに座る。

「佐貫さんが意識を取り戻し、証言しました」

 遥の指が動く。

「何を」

「水路で死んだのは、麻生薫さんではない可能性が高い」

 遥の表情が止まった。

 目だけが、わずかに揺れる。

「何を言ってるんですか」

「佐貫さんは、死んだのは桐生環さんだと証言しました」

「嘘です」

「さらに、薫さんは戸倉さんに連れて行かれた可能性がある」

 遥は立ち上がろうとした。

 施設職員が緊張する。

 二階堂が一歩前へ出る。

 遥は椅子の背を掴んだまま、震えていた。

「嘘です」

 もう一度言う。

 今度は、声が壊れていた。

「そんなの、嘘です。だって、薫は死んだって。私は九年、薫が死んだと思って」

 言葉が続かない。

 江口が、低く言う。

「遥さん」

 遥の目が、江口へ向く。

 怒りと恐怖が混ざった目だった。

「先生は黙っててください」

「はい」

 江口は頷く。

「でも、これは黙りません」

「何を」

「僕は見ました。戸倉先生が、薫さんらしき子を連れて行くところを」

 遥は、息を止めた。

「なぜ、今」

「思い出しました」

「今?」

 遥の声が鋭くなる。

「今、思い出した? 五人死んで、私が戻ってきて、薫の名前を出して、ようやく?」

「はい」

「ふざけないで」

 遥が叫んだ。

「ふざけないでよ!」

 旧職員室の空気が震えた。

 廊下の向こうで子どもが反応する声がした。

 江口が一瞬そちらを見る。

 しかし、逃げなかった。

 遥は涙を流していない。

 その代わり、全身が震えている。

「私は、薫が死んだと思って生きてきた。なのに、今さら、生きていたかもしれない? 戸倉に連れて行かれた? じゃあ、私は何をしたの」

 真壁は沈黙した。

 それは、警察が答えられる問いではなかった。

 遥は自分の両手を見た。

「私は……何のために」

「遥さん」

 江口が言う。

「あなたがしたことは、消えません」

 遥の顔が上がる。

「分かってます」

「人を殺した」

「分かってます!」

「でも、薫さんの真実も、まだ消えていません」

 江口の声は静かだった。

「今なら、探せる」

「九年経ってます」

「それでも」

「先生が言うんですか」

「僕が言います」

 江口は、まっすぐ遥を見た。

「僕は遅かった。九年遅かった。それでも、今ここでまた黙ったら、今度こそ本当に先生じゃなくなる」

 遥は、声を失った。

 二階堂が、ほんの少し視線を伏せる。

 真壁は立ち上がった。

「戸倉の所持品、部屋、資料をもう一度確認する」

「戸倉の部屋は、第一の事件以後、保存しています」

 二階堂が言う。

「そこに薫の手がかりがあるかもしれない」

 九条が頷く。

「戸倉が薫を連れて行ったなら、何らかの痕跡を残している可能性はある」

 遥が、かすれた声で言う。

「私も」

「あなたはここに」

 真壁が言う。

「でも」

「あなたはすでに犯行を認めています。自由行動は認められません」

 遥は唇を噛む。

 江口が、静かに言った。

「見つけます」

 遥は彼を見る。

「信じろとは言いません」

 江口は続けた。

「でも、今度は探します」

 遥は、何も言わなかった。

 ただ、椅子に座り込んだ。

 力が抜けたように。

      *

 戸倉誠一の部屋は、旧理科準備室だった。

 第一の死のあと、立ち入りは制限されている。

 荷物はほぼそのままだ。

 ベッド。

 鞄。

 古い手帳。

 薬。

 着替え。

 真壁は手袋をはめ、鞄の中を確認する。

 教員らしく、書類が多い。

 古い名刺。

 教育関係の資料。

 雪桜村の観光パンフレット。

 その中に、小さな封筒があった。

 差出人はない。

 宛名だけが書かれている。

 戸倉誠一様。

 中には、写真が一枚。

 雪桜の下。

 子どもが二人写っている。

 一人は環。

 もう一人は薫。

 写真の裏に、文字。

 ――父親なら、答えてください。

 二階堂が低く言う。

「遥が送ったのか」

「可能性は高い」

 江口は写真を見ていた。

 顔が青い。

「見覚えがあるか」

 真壁が聞く。

「この写真、僕が撮りました」

「お前が?」

「教育実習の最終日です。二人に頼まれて」

「なぜ戸倉が持っていた」

「分かりません」

 九条が封筒の中をさらに確認する。

「もう一枚ある」

 小さな紙。

 古い紙ではない。

 最近書かれたもの。

 そこには短い文章。

 ――薫を返してください。

 ――返さないなら、先生にも聞きます。

 遥の字か。

 江口の手が震える。

「先生にも聞きます」

 二階堂が言う。

「七つ目の歌につながる」

 真壁は戸倉の手帳を開いた。

 十年前の日付。

 多くは空白。

 だが、事故の日の前後だけ、乱れた字で書き込みがある。

 読みづらい。

 だが、いくつかの言葉が見える。

 真砂。

 環。

 麻生。

 佐貫。

 そして。

 ――北浜。

「北浜?」

 二階堂が覗き込む。

「地名か」

 江口が顔を上げた。

「古い漁港です。この村の外れにある」

「今は?」

「ほとんど使われていません。雪の日は、近づけない」

「戸倉は、そこへ薫を連れて行った?」

 九条が言う。

「可能性はある」

 真壁は施設職員を呼び、村の地図を出させた。

 北浜。

 雪桜小中学校から、山道を下り、古い漁村の方へ抜けた先。

 海沿いの小さな入り江。

 現在は廃漁港。

 倉庫がいくつか残っている。

「外か」

 二階堂が言う。

「今は行けるのか」

 施設職員は首を振る。

「車は無理です。除雪も入っていません。ただ、古い作業道なら徒歩で……でも危険です」

 真壁は地図を見る。

 徒歩。

 雪。

 古い作業道。

 九年前、戸倉が子どもを連れて行くには、どれくらいかかるか。

 今、そこに何が残っているか。

「警察が到着してから向かうのが本筋だ」

 二階堂が言う。

「だが、遥が動く可能性がある」

 真壁が答える。

 遥は北浜の名を知らないかもしれない。

 だが、もし知れば、止まらない。

 真壁は地図をたたむ。

「先に確認する」

 二階堂が眉を寄せる。

「今から?」

「最小人数で行く」

「危険だ」

「分かっている」

「俺も行く」

「お前は中に残れ」

「またか」

「遥と子どもたちを見ろ」

 二階堂は反論しかけて、口を閉じた。

 江口が言った。

「僕が行きます」

「駄目だ」

 真壁と二階堂が同時に言った。

 江口は二人を見る。

「場所を知ってます」

「施設職員に案内させる」

「北浜の倉庫のどれかまでは分からないでしょう」

「お前は分かるのか」

「戸倉先生が昔、使っていた倉庫があります。教育実習のとき、教材を取りに行かされました」

 二階堂が険しい顔になる。

「桜次郎、お前は今、自分を罰するために行こうとしてる」

「違う」

「違わない」

「違う」

 江口の声が強くなる。

「薫さんを探しに行くんだ」

 その言葉で、二階堂は黙った。

 江口は続ける。

「九年前に行かなかった場所へ、今行くだけです」

 真壁は彼を見た。

 危険だ。

 だが、江口が必要な可能性はある。

 そして今の江口は、逃げるために動こうとしていない。

 ようやく、向き合うために動こうとしている。

「真壁」

 九条が言った。

「江口先生を連れて行くべきだ」

 二階堂が九条を見る。

「おい」

「彼の記憶が必要になる」

「危険だろ」

「だから我々が行く」

 真壁は決めた。

「俺、九条、江口で行く。二階堂は残れ」

 二階堂は唇を結ぶ。

 しばらく黙り、江口を見た。

「戻ってこい」

 江口は少し笑った。

「命令?」

「命令だ」

「広報に命令権あったっけ」

「黙れ」

「はい」

 二階堂は近づき、江口の胸元を軽く掴んだ。

「本当に戻ってこい。お前が勝手に終わるのは許さない」

 江口の顔から笑みが消える。

 代わりに、少しだけ目を細めた。

「分かった」

 その返事は、軽くなかった。

      *

 北浜へ向かう道は、想像以上に悪かった。

 雪は深い。

 山道は細く、片側が斜面になっている。

 真壁が先頭を歩き、江口が中央、九条が後方につく。

 施設職員から借りたロープで互いをつないでいる。

 風は海に近づくほど強くなった。

 雪の匂いに、少しずつ潮の匂いが混ざる。

「大丈夫か」

 真壁が江口に聞く。

「フィジカルは終わってます」

「戻るか」

「戻りません」

 即答だった。

 足元は覚束ない。

 だが、江口は止まらない。

 息が荒い。

 顔色は悪い。

 それでも進む。

「九年前も、ここを通ったのか」

 真壁が聞く。

「一度だけ。戸倉先生に、倉庫から理科教材を取ってこいと言われて」

「何があった」

「古い標本とか、壊れた顕微鏡とか」

「子どもを隠せる場所か」

 江口は、唇を噛んだ。

「はい」

 やがて、木々が切れた。

 海が見えた。

 冬の日本海。

 鉛色の波が、低く唸っている。

 その手前に、小さな漁港があった。

 使われていない船着き場。

 錆びた鉄柵。

 崩れかけた倉庫。

 雪と潮で、すべてが灰色に見える。

「北浜」

 江口が言った。

 声が震えていた。

「倉庫は」

 真壁が問う。

「あそこです」

 江口が指した。

 港の端にある、古い木造倉庫。

 扉は半分壊れている。

 だが、鍵がかかっていた。

 新しい鍵だった。

 真壁は眉をひそめる。

「最近誰かが来ている」

 九条が言う。

「鍵を壊す」

 真壁は工具を取り出し、施設から借りたバールで慎重にこじ開けた。

 扉が開く。

 中は暗い。

 潮と黴の匂い。

 古い網。

 木箱。

 錆びた道具。

 懐中電灯の光が、奥を照らす。

 そこに、小さな部屋があった。

 倉庫内を仕切った空間。

 扉はない。

 中に、古い毛布。

 小さな机。

 錆びたカップ。

 そして、壁に貼られた紙。

 子どもの字。

 ――かおる。

 江口が、息を止めた。

 真壁は壁へ近づく。

 紙は古い。

 だが、保存状態は悪くない。

 その下に、背丈を測ったような線がいくつもある。

 日付。

 九年前から、数年間。

「ここにいたのか」

 九条が言った。

「薫さんは、しばらく生きていた」

 真壁は机の引き出しを開けた。

 ノートが入っていた。

 古い学習帳。

 表紙に名前。

 麻生薫。

 江口が膝をついた。

 震える手で、ノートに触れようとして止める。

「触るな」

 真壁が言う。

「はい」

 江口は手を引いた。

 真壁がページをめくる。

 最初の方は、子どもの字で日記が書かれている。

 ――先生は、来ない。

 ――戸倉先生は、ここにいなさいと言う。

 ――環ちゃんは、死んだのかな。

 ――お姉ちゃんに会いたい。

 ――雪桜が見たい。

 途中から字が変わる。

 年齢が上がっている。

 背丈の記録とも一致する。

 薫は、この倉庫で少なくとも数年、生きていた。

 真壁はページをめくる手が重くなった。

 最後の方。

 字は大人びている。

 ――私は、麻生薫です。

 ――誰かがこのノートを見つけたら、姉に伝えてください。

 ――私は、ここにいました。

 ――環ちゃんは、水路で死にました。

 ――先生は、見ていました。

 ――でも、私は先生を恨んでいません。

 ――先生は、大人になりきれていなかったから。

 ――本当に悪い大人は、もっと上手に嘘をつく。

 江口は、両手で口元を押さえた。

 声が出ていない。

 泣いているのかも分からなかった。

 真壁はさらにページをめくる。

 最後のページ。

 ――戸倉先生が死んだら、私は名前を返しに行きます。

 ――でも、もし私が行けなかったら、姉が行くと思います。

 ――姉は、私より強いから。

 ――先生へ。

 ――もしこれを読んだら、今度は返事をください。

 ――私は、ここにいます。

 日付は、三年前だった。

「三年前」

 九条が言う。

「それ以降の記録がない」

「薫はどうなった」

 真壁は倉庫内を探す。

 奥の床が、不自然に新しい板で覆われている。

 真壁は息を飲んだ。

 バールで板を外す。

 下に、浅い空間。

 そこには、布に包まれたものがあった。

 人骨。

 小柄な成人女性と思われる骨。

 九条が膝をつき、慎重に確認する。

 長い沈黙。

「正式な鑑定が必要だ」

 九条は言った。

「だが、年齢的には十代後半から二十代前半。三年前に死亡したなら、麻生薫さんの可能性はある」

 江口は、その場に崩れた。

 膝をつき、動かない。

 真壁は、彼のそばに立った。

 言葉がなかった。

 薫は生きていた。

 ここにいた。

 九年のうち、何年も。

 そして、三年前に死んだ。

 誰にも見つけられずに。

 名前を返してほしいと願いながら。

「死因は」

 真壁が聞く。

 九条は首を振る。

「ここでは分からない。ただ、外傷の有無はあとで確認する」

「戸倉は三年前までここに来ていた?」

「ノートを見る限り、その可能性がある」

 真壁は倉庫を見回した。

 新しい鍵。

 残された食器。

 生活の跡。

 これは監禁だ。

 九年に及ぶ。

 江口が、低く言った。

「僕は」

 声が掠れている。

「僕は、三年前まで、薫さんが生きていたのに」

 真壁は何も言わない。

「僕は教師をしていた。子どもに、困ったら大人に言えって言っていた。先生に言えって」

 江口の肩が震える。

「薫さんは、ずっと先生の返事を待ってた」

 真壁は、ノートを見た。

 ――今度は返事をください。

 それは七つ目の問いと同じだった。

 先生、答えなさい。

 問いを出していたのは、麻生遥だけではない。

 薫自身だった。

 彼女は生きている間に、もう問うていた。

 そして、その答えは届かなかった。

      *

 倉庫からの帰路は、重かった。

 薫の遺骨とノートは慎重に保全し、警察到着後に搬送することにした。

 真壁たちは最低限の現場保存を行い、施設へ戻った。

 江口は一言も話さなかった。

 途中、何度か足を滑らせた。

 それでも立ち上がった。

 真壁は手を貸さなかった。

 江口も求めなかった。

 旧校舎へ戻ると、二階堂が玄関で待っていた。

 江口の顔を見て、何かを察したのだろう。

 軽口はなかった。

「見つかったのか」

 江口は頷いた。

「薫さんは」

 声が詰まる。

 二階堂はそれ以上聞かなかった。

 ただ、江口の肩に手を置いた。

「戻ってきたな」

 江口は、小さく笑った。

 泣きそうな笑いだった。

「命令だったんで」

「そうだ」

 二階堂の声も、少し掠れていた。

      *

 麻生遥に、薫の発見を伝えるのは残酷だった。

 それでも、伝えないわけにはいかなかった。

 旧職員室で、真壁が事実だけを説明した。

 北浜の倉庫。

 ノート。

 遺骨。

 三年前までの記録。

 遥は、最初、何も反応しなかった。

 ただ、机の木目を見ていた。

 やがて、ゆっくり顔を上げる。

「薫は」

 声が小さい。

「生きていたんですね」

「はい」

 真壁は答えた。

「私は」

 遥は、自分の手を見る。

「九年、死んだと思っていた」

 誰も言葉を挟めない。

「私は、薫のためだと思って、人を殺しました」

 彼女の声は、壊れていく。

「でも、薫は生きていて、三年前まで、私を待っていた」

 江口は、目を閉じた。

 遥は彼を見る。

「先生」

「はい」

「薫は、先生を恨んでましたか」

 江口は、ノートの一節を思い出したように、唇を噛んだ。

「恨んでいませんでした」

 遥の顔が歪む。

「そんなの」

「でも、待っていました」

 江口は言った。

「返事を」

 遥の目から、ようやく涙がこぼれた。

 一粒だけ。

 そのあと、止まらなくなった。

「薫、ごめん」

 彼女は机に額をつける。

「ごめんね、薫。私、間違えた。全部、間違えた」

 真壁は、彼女を見ていた。

 罪は消えない。

 殺された五人は戻らない。

 だが、その根にあったものが、ようやく姿を現した。

 薫の名前。

 環の死。

 戸倉の罪。

 村の隠蔽。

 江口の沈黙。

 遥の復讐。

 すべては、名前を失った子どもから始まっていた。

      *

 夕方、地元署と救急が到着した。

 雪に閉ざされた村に、ようやく外の時間が流れ込んできた。

 警察車両。

 救急車。

 鑑識。

 救助隊。

 旧校舎は一気に現実へ引き戻された。

 麻生遥は身柄を確保された。

 笹原トメと佐貫源蔵は搬送された。

 子どもたちは、保護者や自治体職員に付き添われ、順次村外へ避難することになった。

 江口は、多目的室の前で子どもたちを見送った。

 新葉が最後に振り返る。

「先生」

「何」

「今度は、早く来てね」

 江口は一瞬、言葉を失った。

 それから、頷いた。

「うん」

「約束?」

「約束」

「先生、嘘つく?」

「つかない」

「ほんと?」

 江口は少しだけ笑った。

「今度は、つかない」

 新葉は、小さく頷いて出ていった。

 その背中が見えなくなるまで、江口は立っていた。

 二階堂が隣に来る。

「終わったな」

 江口は首を振る。

「終わってない」

「何が」

「僕の返事」

 二階堂は彼を見る。

 江口は、雪桜の方を見ていた。

「薫さんに、まだ返事してない」

 真壁も、その声を聞いていた。

 事件の法的な処理は始まった。

 犯人は確保された。

 遺骨も見つかった。

 真相も、ほぼ解けた。

 だが、物語はまだ終わっていない。

 先生は、答えなければならない。

 九年前の子どもに。

 三年前まで待っていた子どもに。

 そして、今を生きる子どもに。

 江口桜次郎は、雪桜の方へ歩き出した。

 二階堂が止めようとして、やめた。

 真壁も止めなかった。

 九条だけが、静かに言った。

「一人にはするな」

 二階堂が頷く。

「分かってる」

 雪は止んでいた。

 桜は、まだ少しだけ残っている。

 江口はその下に立った。

 九年前、彼が子どもを置いていった場所。

 九年後、彼が子どもを見つけた場所。

 そして、薫の手紙が眠っていた場所。

 江口は、桜を見上げて言った。

「遅くなりました」

 声は小さい。

 けれど、確かだった。

「麻生薫さん。桐生環さん」

 名前を呼ぶ。

 正しく。

 二人の名前を、別々に。

「僕は、あなたたちの先生ではありませんでした。でも、先生と呼ばれました」

 花弁が一枚、落ちた。

 雪の上に。

「だから、返事をします」

 真壁は、その背中を見ていた。

 江口は続ける。

「あなたたちは、いました」

 声は震えていた。

「誰の子でもない子なんて、いませんでした」

 もう一枚、花弁が落ちる。

「薫さん。あなたは麻生薫です。環さん。あなたは桐生環です」

 江口は、目を閉じる。

「遅くなって、ごめんなさい」

 その謝罪は、誰にも届かないかもしれない。

 だが、言わなければならない言葉だった。

 二階堂が、少し離れたところで立っている。

 真壁も。

 九条も。

 誰も口を挟まない。

 雪桜の下で、江口桜次郎はようやく返事をした。

 それは、事件の解決ではなかった。

 けれど、真相よりも先に必要だった。

 名前を返すこと。

 誰かがいたと、声に出すこと。

 この村が十年かけて消したものを、もう一度、世界に置くこと。

 江口は、最後に言った。

「今度は、忘れません」

 桜が散る。

 雪はもう降っていない。

 白い地面の上に、淡い花弁だけが残っていた。

 消えずに。

 誰かが見つけるまで、そこに。


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