第十一章 先生は、見ていた
江口桜次郎の顔から、色が消えていた。
旧保健室の暖房は強く入っている。
窓は閉じられ、毛布も湯たんぽも集められている。
それでも、部屋の中心だけが凍っているようだった。
佐貫源蔵は、ベッドの上で意識を失っている。
かろうじて呼吸はある。
九条雅紀が処置を続けていた。
真壁彰は、佐貫の言葉を頭の中で反芻していた。
――環が死んだ。薫は、生きていた。
――戸倉が、薫を。
九年かけて隠された真相が、ここに来てまた反転した。
水路で死んだのは麻生薫ではなかった。
桐生環だった。
薫は死んでいない。
少なくとも、その場では。
そして、戸倉誠一が薫を連れて行った。
江口が、震える声で呟く。
「僕は、見た」
二階堂壮也が、彼の肩を掴んでいた。
「何を」
「戸倉先生が、薫の手を引いているところを」
「どこで」
「雪桜の奥」
江口は目を閉じる。
「旧百葉箱の近くです。雪が降っていて、桜が散っていて、足跡がいくつもあって……僕は、環を探していた。戻ったら環がいなくて、戸倉先生を追いかけようとして」
言葉が途切れる。
二階堂は手を離さない。
「続けろ」
「戸倉先生が、女の子の手を引いていた」
「それが薫か」
「たぶん」
「たぶん?」
「顔が見えなかった。フードを被っていて、泣いていた。でも、ハンカチを握っていた。麻生薫って刺繍されたハンカチ」
真壁は、前章で見つけた血のついたハンカチを思い出す。
麻生薫。
雪桜の下に残されていたはずのもの。
だが、江口の記憶では、薫自身がそれを握っていた。
「ハンカチは、その後、旧百葉箱の箱から見つかった」
真壁が言う。
「はい」
「なら、薫はそこに一度戻ったか、誰かが置いた」
「そうです」
江口は目を開けた。
その目は、九年前の雪を見ている。
「僕は声をかけようとしました。でも戸倉先生がこっちを見た。怖い顔でした。普段の、神経質で大人しい先生じゃなくて」
「お前は?」
「隠れました」
二階堂の手に力が入る。
「なぜ」
「怖かったから」
江口は、吐き出すように言った。
「僕は二十歳を過ぎていました。でも、怖かった。先生に逆らうことが。村の大人たちに睨まれることが。自分が見たものの意味を、考えることが」
旧保健室に沈黙が落ちる。
江口は、もう言い訳をしていなかった。
自分が怯えたことを、そのまま差し出している。
「そのあと、どうした」
真壁が聞く。
「職員室に戻りました」
「なぜ」
「大人に言おうと思った」
「誰に」
「戸倉先生以外の誰かに。でも、そこには佐貫さんと柿沼さんがいた。大内先生も、宮原もいた。みんな、同じ顔をしていた」
「同じ顔?」
「もう決めたあとの顔です」
江口は言った。
「環が死んだこと。薫がいなくなったこと。二人の名前をどう処理するか。全部」
真壁は息を吐いた。
九年前、江口は見た。
だが、その意味を最後まで受け止めなかった。
子どもの言葉より、大人の沈黙を選んだ。
それが江口の罪だった。
だが、まだ足りない。
薫の行方が分からない。
戸倉がなぜ薫を連れて行ったのかも。
「戸倉はなぜ薫を連れて行った」
真壁が問う。
江口は首を振った。
「分かりません」
「環の父親だったからか」
二階堂が低く言う。
「環が死んだ以上、薫が真相を話せば自分の立場が危うくなる」
「そうかもしれない」
江口の声は小さい。
「でも、もっと別の理由があった気もする」
「別の理由?」
「薫は、環が戸倉先生の子だと知っていた」
真壁の目が動く。
「誰から聞いた」
「環からです。二人は手紙のやりとりをしていた。薫は、環を助けようとしていた」
「つまり薫は証人だった」
「はい」
「戸倉にとって邪魔だった」
江口は答えなかった。
答える必要はなかった。
九条が佐貫の処置を終え、立ち上がる。
「佐貫はしばらく話せない。だが、命はつながっている」
「警察と救急は」
二階堂が聞く。
「連絡は入った。除雪は進んでいる。昼過ぎには到着できる可能性がある」
昼過ぎ。
初めて、外が近づいた気がした。
だが、その前に事件を止めなければならない。
麻生遥は、まだいる。
彼女は自白した。
しかし、薫が死んでいない可能性が出た今、彼女が何をするか分からない。
真壁は顔を上げる。
「遥は」
二階堂が答える。
「旧職員室。施設職員が見てる」
「彼女に今の話を伝える」
江口が動いた。
「僕が」
「駄目だ」
真壁が即座に言う。
「でも」
「お前は感情の中心にいる。二人だけでは会わせない」
二階堂も頷く。
「俺も行く」
江口は二階堂を見た。
何か言おうとして、やめる。
「分かった」
その返事は、今までよりずっと素直だった。
*
旧職員室に入ると、麻生遥は椅子に座っていた。
背筋を伸ばし、手を膝の上に置いている。
見張りの施設職員が扉の近くに立っている。
遥は、江口を見た。
「薫は、見つかりましたか」
その問いは静かだった。
しかし、静かすぎた。
真壁は彼女の向かいに座る。
「佐貫さんが意識を取り戻し、証言しました」
遥の指が動く。
「何を」
「水路で死んだのは、麻生薫さんではない可能性が高い」
遥の表情が止まった。
目だけが、わずかに揺れる。
「何を言ってるんですか」
「佐貫さんは、死んだのは桐生環さんだと証言しました」
「嘘です」
「さらに、薫さんは戸倉さんに連れて行かれた可能性がある」
遥は立ち上がろうとした。
施設職員が緊張する。
二階堂が一歩前へ出る。
遥は椅子の背を掴んだまま、震えていた。
「嘘です」
もう一度言う。
今度は、声が壊れていた。
「そんなの、嘘です。だって、薫は死んだって。私は九年、薫が死んだと思って」
言葉が続かない。
江口が、低く言う。
「遥さん」
遥の目が、江口へ向く。
怒りと恐怖が混ざった目だった。
「先生は黙っててください」
「はい」
江口は頷く。
「でも、これは黙りません」
「何を」
「僕は見ました。戸倉先生が、薫さんらしき子を連れて行くところを」
遥は、息を止めた。
「なぜ、今」
「思い出しました」
「今?」
遥の声が鋭くなる。
「今、思い出した? 五人死んで、私が戻ってきて、薫の名前を出して、ようやく?」
「はい」
「ふざけないで」
遥が叫んだ。
「ふざけないでよ!」
旧職員室の空気が震えた。
廊下の向こうで子どもが反応する声がした。
江口が一瞬そちらを見る。
しかし、逃げなかった。
遥は涙を流していない。
その代わり、全身が震えている。
「私は、薫が死んだと思って生きてきた。なのに、今さら、生きていたかもしれない? 戸倉に連れて行かれた? じゃあ、私は何をしたの」
真壁は沈黙した。
それは、警察が答えられる問いではなかった。
遥は自分の両手を見た。
「私は……何のために」
「遥さん」
江口が言う。
「あなたがしたことは、消えません」
遥の顔が上がる。
「分かってます」
「人を殺した」
「分かってます!」
「でも、薫さんの真実も、まだ消えていません」
江口の声は静かだった。
「今なら、探せる」
「九年経ってます」
「それでも」
「先生が言うんですか」
「僕が言います」
江口は、まっすぐ遥を見た。
「僕は遅かった。九年遅かった。それでも、今ここでまた黙ったら、今度こそ本当に先生じゃなくなる」
遥は、声を失った。
二階堂が、ほんの少し視線を伏せる。
真壁は立ち上がった。
「戸倉の所持品、部屋、資料をもう一度確認する」
「戸倉の部屋は、第一の事件以後、保存しています」
二階堂が言う。
「そこに薫の手がかりがあるかもしれない」
九条が頷く。
「戸倉が薫を連れて行ったなら、何らかの痕跡を残している可能性はある」
遥が、かすれた声で言う。
「私も」
「あなたはここに」
真壁が言う。
「でも」
「あなたはすでに犯行を認めています。自由行動は認められません」
遥は唇を噛む。
江口が、静かに言った。
「見つけます」
遥は彼を見る。
「信じろとは言いません」
江口は続けた。
「でも、今度は探します」
遥は、何も言わなかった。
ただ、椅子に座り込んだ。
力が抜けたように。
*
戸倉誠一の部屋は、旧理科準備室だった。
第一の死のあと、立ち入りは制限されている。
荷物はほぼそのままだ。
ベッド。
鞄。
古い手帳。
薬。
着替え。
真壁は手袋をはめ、鞄の中を確認する。
教員らしく、書類が多い。
古い名刺。
教育関係の資料。
雪桜村の観光パンフレット。
その中に、小さな封筒があった。
差出人はない。
宛名だけが書かれている。
戸倉誠一様。
中には、写真が一枚。
雪桜の下。
子どもが二人写っている。
一人は環。
もう一人は薫。
写真の裏に、文字。
――父親なら、答えてください。
二階堂が低く言う。
「遥が送ったのか」
「可能性は高い」
江口は写真を見ていた。
顔が青い。
「見覚えがあるか」
真壁が聞く。
「この写真、僕が撮りました」
「お前が?」
「教育実習の最終日です。二人に頼まれて」
「なぜ戸倉が持っていた」
「分かりません」
九条が封筒の中をさらに確認する。
「もう一枚ある」
小さな紙。
古い紙ではない。
最近書かれたもの。
そこには短い文章。
――薫を返してください。
――返さないなら、先生にも聞きます。
遥の字か。
江口の手が震える。
「先生にも聞きます」
二階堂が言う。
「七つ目の歌につながる」
真壁は戸倉の手帳を開いた。
十年前の日付。
多くは空白。
だが、事故の日の前後だけ、乱れた字で書き込みがある。
読みづらい。
だが、いくつかの言葉が見える。
真砂。
環。
麻生。
佐貫。
そして。
――北浜。
「北浜?」
二階堂が覗き込む。
「地名か」
江口が顔を上げた。
「古い漁港です。この村の外れにある」
「今は?」
「ほとんど使われていません。雪の日は、近づけない」
「戸倉は、そこへ薫を連れて行った?」
九条が言う。
「可能性はある」
真壁は施設職員を呼び、村の地図を出させた。
北浜。
雪桜小中学校から、山道を下り、古い漁村の方へ抜けた先。
海沿いの小さな入り江。
現在は廃漁港。
倉庫がいくつか残っている。
「外か」
二階堂が言う。
「今は行けるのか」
施設職員は首を振る。
「車は無理です。除雪も入っていません。ただ、古い作業道なら徒歩で……でも危険です」
真壁は地図を見る。
徒歩。
雪。
古い作業道。
九年前、戸倉が子どもを連れて行くには、どれくらいかかるか。
今、そこに何が残っているか。
「警察が到着してから向かうのが本筋だ」
二階堂が言う。
「だが、遥が動く可能性がある」
真壁が答える。
遥は北浜の名を知らないかもしれない。
だが、もし知れば、止まらない。
真壁は地図をたたむ。
「先に確認する」
二階堂が眉を寄せる。
「今から?」
「最小人数で行く」
「危険だ」
「分かっている」
「俺も行く」
「お前は中に残れ」
「またか」
「遥と子どもたちを見ろ」
二階堂は反論しかけて、口を閉じた。
江口が言った。
「僕が行きます」
「駄目だ」
真壁と二階堂が同時に言った。
江口は二人を見る。
「場所を知ってます」
「施設職員に案内させる」
「北浜の倉庫のどれかまでは分からないでしょう」
「お前は分かるのか」
「戸倉先生が昔、使っていた倉庫があります。教育実習のとき、教材を取りに行かされました」
二階堂が険しい顔になる。
「桜次郎、お前は今、自分を罰するために行こうとしてる」
「違う」
「違わない」
「違う」
江口の声が強くなる。
「薫さんを探しに行くんだ」
その言葉で、二階堂は黙った。
江口は続ける。
「九年前に行かなかった場所へ、今行くだけです」
真壁は彼を見た。
危険だ。
だが、江口が必要な可能性はある。
そして今の江口は、逃げるために動こうとしていない。
ようやく、向き合うために動こうとしている。
「真壁」
九条が言った。
「江口先生を連れて行くべきだ」
二階堂が九条を見る。
「おい」
「彼の記憶が必要になる」
「危険だろ」
「だから我々が行く」
真壁は決めた。
「俺、九条、江口で行く。二階堂は残れ」
二階堂は唇を結ぶ。
しばらく黙り、江口を見た。
「戻ってこい」
江口は少し笑った。
「命令?」
「命令だ」
「広報に命令権あったっけ」
「黙れ」
「はい」
二階堂は近づき、江口の胸元を軽く掴んだ。
「本当に戻ってこい。お前が勝手に終わるのは許さない」
江口の顔から笑みが消える。
代わりに、少しだけ目を細めた。
「分かった」
その返事は、軽くなかった。
*
北浜へ向かう道は、想像以上に悪かった。
雪は深い。
山道は細く、片側が斜面になっている。
真壁が先頭を歩き、江口が中央、九条が後方につく。
施設職員から借りたロープで互いをつないでいる。
風は海に近づくほど強くなった。
雪の匂いに、少しずつ潮の匂いが混ざる。
「大丈夫か」
真壁が江口に聞く。
「フィジカルは終わってます」
「戻るか」
「戻りません」
即答だった。
足元は覚束ない。
だが、江口は止まらない。
息が荒い。
顔色は悪い。
それでも進む。
「九年前も、ここを通ったのか」
真壁が聞く。
「一度だけ。戸倉先生に、倉庫から理科教材を取ってこいと言われて」
「何があった」
「古い標本とか、壊れた顕微鏡とか」
「子どもを隠せる場所か」
江口は、唇を噛んだ。
「はい」
やがて、木々が切れた。
海が見えた。
冬の日本海。
鉛色の波が、低く唸っている。
その手前に、小さな漁港があった。
使われていない船着き場。
錆びた鉄柵。
崩れかけた倉庫。
雪と潮で、すべてが灰色に見える。
「北浜」
江口が言った。
声が震えていた。
「倉庫は」
真壁が問う。
「あそこです」
江口が指した。
港の端にある、古い木造倉庫。
扉は半分壊れている。
だが、鍵がかかっていた。
新しい鍵だった。
真壁は眉をひそめる。
「最近誰かが来ている」
九条が言う。
「鍵を壊す」
真壁は工具を取り出し、施設から借りたバールで慎重にこじ開けた。
扉が開く。
中は暗い。
潮と黴の匂い。
古い網。
木箱。
錆びた道具。
懐中電灯の光が、奥を照らす。
そこに、小さな部屋があった。
倉庫内を仕切った空間。
扉はない。
中に、古い毛布。
小さな机。
錆びたカップ。
そして、壁に貼られた紙。
子どもの字。
――かおる。
江口が、息を止めた。
真壁は壁へ近づく。
紙は古い。
だが、保存状態は悪くない。
その下に、背丈を測ったような線がいくつもある。
日付。
九年前から、数年間。
「ここにいたのか」
九条が言った。
「薫さんは、しばらく生きていた」
真壁は机の引き出しを開けた。
ノートが入っていた。
古い学習帳。
表紙に名前。
麻生薫。
江口が膝をついた。
震える手で、ノートに触れようとして止める。
「触るな」
真壁が言う。
「はい」
江口は手を引いた。
真壁がページをめくる。
最初の方は、子どもの字で日記が書かれている。
――先生は、来ない。
――戸倉先生は、ここにいなさいと言う。
――環ちゃんは、死んだのかな。
――お姉ちゃんに会いたい。
――雪桜が見たい。
途中から字が変わる。
年齢が上がっている。
背丈の記録とも一致する。
薫は、この倉庫で少なくとも数年、生きていた。
真壁はページをめくる手が重くなった。
最後の方。
字は大人びている。
――私は、麻生薫です。
――誰かがこのノートを見つけたら、姉に伝えてください。
――私は、ここにいました。
――環ちゃんは、水路で死にました。
――先生は、見ていました。
――でも、私は先生を恨んでいません。
――先生は、大人になりきれていなかったから。
――本当に悪い大人は、もっと上手に嘘をつく。
江口は、両手で口元を押さえた。
声が出ていない。
泣いているのかも分からなかった。
真壁はさらにページをめくる。
最後のページ。
――戸倉先生が死んだら、私は名前を返しに行きます。
――でも、もし私が行けなかったら、姉が行くと思います。
――姉は、私より強いから。
――先生へ。
――もしこれを読んだら、今度は返事をください。
――私は、ここにいます。
日付は、三年前だった。
「三年前」
九条が言う。
「それ以降の記録がない」
「薫はどうなった」
真壁は倉庫内を探す。
奥の床が、不自然に新しい板で覆われている。
真壁は息を飲んだ。
バールで板を外す。
下に、浅い空間。
そこには、布に包まれたものがあった。
人骨。
小柄な成人女性と思われる骨。
九条が膝をつき、慎重に確認する。
長い沈黙。
「正式な鑑定が必要だ」
九条は言った。
「だが、年齢的には十代後半から二十代前半。三年前に死亡したなら、麻生薫さんの可能性はある」
江口は、その場に崩れた。
膝をつき、動かない。
真壁は、彼のそばに立った。
言葉がなかった。
薫は生きていた。
ここにいた。
九年のうち、何年も。
そして、三年前に死んだ。
誰にも見つけられずに。
名前を返してほしいと願いながら。
「死因は」
真壁が聞く。
九条は首を振る。
「ここでは分からない。ただ、外傷の有無はあとで確認する」
「戸倉は三年前までここに来ていた?」
「ノートを見る限り、その可能性がある」
真壁は倉庫を見回した。
新しい鍵。
残された食器。
生活の跡。
これは監禁だ。
九年に及ぶ。
江口が、低く言った。
「僕は」
声が掠れている。
「僕は、三年前まで、薫さんが生きていたのに」
真壁は何も言わない。
「僕は教師をしていた。子どもに、困ったら大人に言えって言っていた。先生に言えって」
江口の肩が震える。
「薫さんは、ずっと先生の返事を待ってた」
真壁は、ノートを見た。
――今度は返事をください。
それは七つ目の問いと同じだった。
先生、答えなさい。
問いを出していたのは、麻生遥だけではない。
薫自身だった。
彼女は生きている間に、もう問うていた。
そして、その答えは届かなかった。
*
倉庫からの帰路は、重かった。
薫の遺骨とノートは慎重に保全し、警察到着後に搬送することにした。
真壁たちは最低限の現場保存を行い、施設へ戻った。
江口は一言も話さなかった。
途中、何度か足を滑らせた。
それでも立ち上がった。
真壁は手を貸さなかった。
江口も求めなかった。
旧校舎へ戻ると、二階堂が玄関で待っていた。
江口の顔を見て、何かを察したのだろう。
軽口はなかった。
「見つかったのか」
江口は頷いた。
「薫さんは」
声が詰まる。
二階堂はそれ以上聞かなかった。
ただ、江口の肩に手を置いた。
「戻ってきたな」
江口は、小さく笑った。
泣きそうな笑いだった。
「命令だったんで」
「そうだ」
二階堂の声も、少し掠れていた。
*
麻生遥に、薫の発見を伝えるのは残酷だった。
それでも、伝えないわけにはいかなかった。
旧職員室で、真壁が事実だけを説明した。
北浜の倉庫。
ノート。
遺骨。
三年前までの記録。
遥は、最初、何も反応しなかった。
ただ、机の木目を見ていた。
やがて、ゆっくり顔を上げる。
「薫は」
声が小さい。
「生きていたんですね」
「はい」
真壁は答えた。
「私は」
遥は、自分の手を見る。
「九年、死んだと思っていた」
誰も言葉を挟めない。
「私は、薫のためだと思って、人を殺しました」
彼女の声は、壊れていく。
「でも、薫は生きていて、三年前まで、私を待っていた」
江口は、目を閉じた。
遥は彼を見る。
「先生」
「はい」
「薫は、先生を恨んでましたか」
江口は、ノートの一節を思い出したように、唇を噛んだ。
「恨んでいませんでした」
遥の顔が歪む。
「そんなの」
「でも、待っていました」
江口は言った。
「返事を」
遥の目から、ようやく涙がこぼれた。
一粒だけ。
そのあと、止まらなくなった。
「薫、ごめん」
彼女は机に額をつける。
「ごめんね、薫。私、間違えた。全部、間違えた」
真壁は、彼女を見ていた。
罪は消えない。
殺された五人は戻らない。
だが、その根にあったものが、ようやく姿を現した。
薫の名前。
環の死。
戸倉の罪。
村の隠蔽。
江口の沈黙。
遥の復讐。
すべては、名前を失った子どもから始まっていた。
*
夕方、地元署と救急が到着した。
雪に閉ざされた村に、ようやく外の時間が流れ込んできた。
警察車両。
救急車。
鑑識。
救助隊。
旧校舎は一気に現実へ引き戻された。
麻生遥は身柄を確保された。
笹原トメと佐貫源蔵は搬送された。
子どもたちは、保護者や自治体職員に付き添われ、順次村外へ避難することになった。
江口は、多目的室の前で子どもたちを見送った。
新葉が最後に振り返る。
「先生」
「何」
「今度は、早く来てね」
江口は一瞬、言葉を失った。
それから、頷いた。
「うん」
「約束?」
「約束」
「先生、嘘つく?」
「つかない」
「ほんと?」
江口は少しだけ笑った。
「今度は、つかない」
新葉は、小さく頷いて出ていった。
その背中が見えなくなるまで、江口は立っていた。
二階堂が隣に来る。
「終わったな」
江口は首を振る。
「終わってない」
「何が」
「僕の返事」
二階堂は彼を見る。
江口は、雪桜の方を見ていた。
「薫さんに、まだ返事してない」
真壁も、その声を聞いていた。
事件の法的な処理は始まった。
犯人は確保された。
遺骨も見つかった。
真相も、ほぼ解けた。
だが、物語はまだ終わっていない。
先生は、答えなければならない。
九年前の子どもに。
三年前まで待っていた子どもに。
そして、今を生きる子どもに。
江口桜次郎は、雪桜の方へ歩き出した。
二階堂が止めようとして、やめた。
真壁も止めなかった。
九条だけが、静かに言った。
「一人にはするな」
二階堂が頷く。
「分かってる」
雪は止んでいた。
桜は、まだ少しだけ残っている。
江口はその下に立った。
九年前、彼が子どもを置いていった場所。
九年後、彼が子どもを見つけた場所。
そして、薫の手紙が眠っていた場所。
江口は、桜を見上げて言った。
「遅くなりました」
声は小さい。
けれど、確かだった。
「麻生薫さん。桐生環さん」
名前を呼ぶ。
正しく。
二人の名前を、別々に。
「僕は、あなたたちの先生ではありませんでした。でも、先生と呼ばれました」
花弁が一枚、落ちた。
雪の上に。
「だから、返事をします」
真壁は、その背中を見ていた。
江口は続ける。
「あなたたちは、いました」
声は震えていた。
「誰の子でもない子なんて、いませんでした」
もう一枚、花弁が落ちる。
「薫さん。あなたは麻生薫です。環さん。あなたは桐生環です」
江口は、目を閉じる。
「遅くなって、ごめんなさい」
その謝罪は、誰にも届かないかもしれない。
だが、言わなければならない言葉だった。
二階堂が、少し離れたところで立っている。
真壁も。
九条も。
誰も口を挟まない。
雪桜の下で、江口桜次郎はようやく返事をした。
それは、事件の解決ではなかった。
けれど、真相よりも先に必要だった。
名前を返すこと。
誰かがいたと、声に出すこと。
この村が十年かけて消したものを、もう一度、世界に置くこと。
江口は、最後に言った。
「今度は、忘れません」
桜が散る。
雪はもう降っていない。
白い地面の上に、淡い花弁だけが残っていた。
消えずに。
誰かが見つけるまで、そこに。




