第十二章 雪桜
雪桜の村に、外の時間が戻ってきた。
それは救いというより、遅れて届いた現実だった。
警察車両の赤色灯が、雪に濡れた校庭を淡く染める。救急隊員の声、鑑識員の足音、無線の短い応答。昨日まで閉じていた村に、急に人の気配が増えた。
だが、旧雪桜小中学校の空気は、すぐには変わらなかった。
五人が死んだ。
戸倉誠一。
柿沼康夫。
大内修。
宮原司。
白石理佳。
佐貫源蔵と笹原トメは搬送された。
麻生遥は逮捕された。
北浜の古い倉庫から、麻生薫と思われる遺骨と、九年分の孤独を閉じ込めたノートが見つかった。
水路で死んだのは、桐生環だった。
環は、戸倉誠一と桐生真砂の子だった。
麻生薫は、環を助けようとして事件に巻き込まれた。
そして、戸倉によって北浜へ連れ去られ、長い年月を、名前のない場所で生きた。
それが、この村の真実だった。
*
真壁彰は、旧職員室の机に置かれた資料を見ていた。
焦げた紙片。
古い写真。
麻生薫のノート。
桐生環と麻生薫が交わした手紙。
その一つ一つに、子どもの字が残っている。
拙くて、曲がっていて、ところどころ漢字が間違っている。
けれど、どの字も必死だった。
誰かに届くと思って書かれた字だった。
真壁は、そのうちの一枚を見た。
――先生は、いい大人かな。
その一文だけが、どうしても目に残った。
江口桜次郎は、その問いに九年遅れて答えた。
だが、答えたからといって、罪が消えるわけではない。
それでも、答えないよりは、ずっといい。
真壁はそう思った。
*
江口は、廊下の端にいた。
警察官の指示に従い、事情聴取を待っている。
目の下のクマは濃く、頬は青白い。
事件の犯人ではない。
だが、無関係ではない。
九年前、彼は見た。
そして黙った。
それは刑事責任として裁けるものではないかもしれない。
だが、彼自身は一生、それを裁き続けるだろう。
二階堂壮也が、江口の隣に立った。
「寝ろ」
最初の一言が、それだった。
江口は少し笑った。
「警察の事情聴取前に?」
「その顔で喋ると、犯人に見える」
「ひどいな」
「事実だ」
江口は廊下の窓へ視線を向けた。
校庭の雪桜が見える。
花はかなり散っていた。
雪の上に、淡い花弁が点々と落ちている。
「なあ、にか」
「何だ」
「俺、教師続けていいと思う?」
二階堂はすぐには答えなかった。
江口も、答えを急がなかった。
その問いが軽くないことを、二人とも分かっていた。
やがて二階堂は言った。
「知らない」
「広報っぽくない答え」
「広報なら、もっと綺麗に言う」
「じゃあ、同級生としては?」
二階堂は、少しだけ江口を見た。
「お前が逃げるために辞めるなら、やめろと言う」
「続けるなら?」
「罰として続けるなら、やめろと言う」
「じゃあ、何ならいいんだよ」
「子どもに呼ばれたら行くために続けるなら」
二階堂は、窓の外を見た。
「好きにしろ」
江口は黙った。
長い沈黙。
そのあと、彼は小さく息を吐いた。
「厳しいな」
「優しくしてほしいのか」
「いや」
江口は、疲れた顔で笑った。
「そのくらいでいい」
*
麻生遥は、校舎を出る前に一度だけ江口を見た。
手錠はかけられていなかった。
任意同行から、正式な手続きに移る。
彼女は逃げなかった。
逃げる場所など、もう残っていなかったのかもしれない。
「先生」
遥が呼んだ。
江口は振り返る。
「はい」
「薫のノート」
「はい」
「読んでくれますか」
江口は、答えるまでに少し時間をかけた。
「読みます」
「全部」
「はい」
「返事も」
江口は、ほんの少しだけ目を伏せた。
「書きます」
遥は頷いた。
泣かなかった。
もう泣くものが残っていないような顔だった。
「薫、待つの得意だったから」
そう言って、彼女は警察官に促され、校舎を出ていった。
江口は、しばらくその背中を見ていた。
真壁は、何も言わなかった。
*
午後になって、雪は完全に止んだ。
空はまだ灰色だったが、雲の切れ間から薄い光が落ちていた。
旧校舎の前で、子どもたちの最後の避難準備が進められている。
新葉が、江口のところへ走ってきた。
「先生」
「走るな」
「もう帰るからいいじゃん」
「帰るまでが遠足です」
「遠足じゃないよ」
「じゃあ、帰るまでが事件です」
「それは嫌」
「先生も嫌です」
新葉は、江口をじっと見た。
「先生、また学校来る?」
江口は少しだけ目を細めた。
「たぶん」
「たぶん?」
「先生にも、反省文とか、事情聴取とか、いろいろあるので」
「怒られる?」
「怒られますね」
「誰に?」
「大人に」
新葉は首を傾げた。
「子どもには?」
江口は、言葉を失った。
新葉は、真剣な顔で言った。
「ぼくは、ちょっと怒ってる」
「はい」
「でも、来てくれたから、ちょっと許す」
「はい」
「でも、次はもっと早く来て」
江口は膝を折って、新葉と目線を合わせた。
いつものように軽口を言おうとして、やめた。
「約束します」
新葉は頷いた。
「じゃあ、いいよ」
それだけ言って、彼は走って戻った。
江口はその背中を見ていた。
小さな背中が、迎えに来た大人のもとへ消えていく。
その光景を見て、江口の顔が少しだけ歪んだ。
たぶん、泣きそうだった。
けれど泣かなかった。
泣く資格を、自分に与えていないのかもしれない。
*
夕方、真壁たちは雪桜の下に立った。
九条が、花弁の落ちた雪面を見ている。
「奇妙な木だな」
二階堂が言った。
「何が」
「こんなに散っているのに、まだ咲いてる」
九条は答えた。
「散ることと、咲いていたことは別だ」
二階堂が彼を見る。
「たまに、いいこと言うよな」
「事実だ」
「知ってる」
真壁は、二人のやりとりを聞きながら、木の根元を見た。
ここで環は泣いていた。
ここで江口は「大丈夫」と言った。
ここで薫は友達を探した。
ここで名前が入れ替えられた。
そして、ここでようやく、二人の名前が戻された。
遅すぎた。
あまりにも遅すぎた。
だが、それでも名前は戻った。
真壁は、それだけを小さく受け止めた。
事件には、解決しても救えないものがある。
真相を明らかにしても、死者は戻らない。
奪われた九年は返らない。
麻生遥の罪も消えない。
江口桜次郎の沈黙も消えない。
それでも、誰かが名前を呼ばなければ、死者は二度消える。
真壁は、雪の上の花弁を見た。
淡い桜色が、白の中に沈まずに残っている。
小さな証拠のようだった。
*
江口が、少し離れたところに立っていた。
彼は桜を見ていた。
九年前と同じ場所で。
けれど、もう同じ顔ではなかった。
二階堂が歩み寄る。
「行くぞ」
「どこに?」
「事情聴取」
「現実に戻すの早いな」
「現実は待ってくれない」
「知ってる」
江口は頷いた。
そして、雪桜へ向かって、もう一度だけ頭を下げた。
深くはない。
長くもない。
けれど、軽くもなかった。
「また来るのか」
二階堂が聞く。
江口は顔を上げる。
「来ますよ」
「なぜ」
「宿題が残ってる」
「誰の」
「先生の」
二階堂は、少しだけ笑った。
「今度は提出しろ」
「期限、九年過ぎてるけど」
「遅延理由書も書け」
「鬼か」
「広報だ」
江口は、ほんの少しだけ笑った。
それは、事件が始まってから初めて見せた、無理の少ない笑みだった。
*
校舎を出る前、江口は旧職員室に戻った。
机の上には、麻生薫のノートのコピーが置かれていた。
原本は証拠として保全される。
彼に渡されたのは、読むことを許された写しだった。
江口は、その最後のページを開いた。
――先生へ。
――もしこれを読んだら、今度は返事をください。
――私は、ここにいます。
江口は、しばらく文字を見ていた。
それから、職員室の隅に置かれていた古い便箋を一枚取り、ペンを握った。
真壁は入口から見ていた。
邪魔はしなかった。
江口は、ゆっくり書き始める。
字は少し震えていた。
だが、一文字ずつ丁寧だった。
――麻生薫さんへ。
――返事が遅くなりました。
――遅すぎました。
――あなたは、ここにいました。
――環さんも、ここにいました。
――僕は、それを見ていませんでした。
――見ようとしませんでした。
――ごめんなさい。
そこでペンが止まる。
長い時間、止まった。
やがて、江口は続きを書いた。
――先生と呼んでくれて、ありがとう。
――今度は、返事をします。
――あなたの名前を、忘れません。
便箋に、インクが滲んだ。
涙かもしれない。
江口は、それを隠さなかった。
*
夜になる前に、真壁たちは村を出た。
除雪された道を、車がゆっくり下っていく。
後部座席に九条。
助手席に真壁。
運転席に二階堂。
江口は、地元署の車で別に移送される。
窓の外に、旧雪桜小中学校が遠ざかっていく。
校庭の桜は、もう小さくしか見えない。
それでも、白い景色の中に、淡い点のように残っていた。
「終わったと思うか」
二階堂が聞いた。
真壁は少し考えた。
「事件はな」
「事件は、か」
「ああ」
九条が後ろから言った。
「名前は戻った。だが、時間は戻らない」
二階堂が小さく笑う。
「お前、本当にたまに刺すよな」
「事実だ」
「知ってる」
車はカーブを曲がる。
校舎が見えなくなった。
それでも真壁の頭には、雪桜の光景が残っていた。
雪の上に落ちた桜。
消えない花弁。
誰かが見つけるまで、そこにあり続けるもの。
*
翌日。
麻生薫と桐生環の名前は、正式な記録の中に戻される手続きが始まった。
それには時間がかかる。
法的な確認も、鑑定も、証言整理も必要だった。
けれど、もう二人は「誰か」ではなかった。
麻生薫。
桐生環。
二つの名前が、それぞれの場所に置かれた。
麻生遥は、取り調べで詳細を語り始めた。
戸倉誠一を最初に殺した理由。
父親として答えなかった男を、雪に隠した理由。
柿沼を水路へ流した理由。
大内を枝に結んだ理由。
宮原を炉にくべた理由。
白石を母に返した理由。
佐貫に父を問うた理由。
そして、江口に答えを求めた理由。
どの証言も、罪を軽くするものではなかった。
むしろ、重くした。
それでも彼女は話した。
薫をもう一度消さないために。
*
江口桜次郎は、長い事情聴取を受けた。
九年前の証言。
見たもの。
見なかったふりをしたもの。
受け取った手紙。
返さなかった返事。
彼の証言は、事件の補助線になった。
だが、彼自身の罰にはならなかった。
法は、沈黙のすべてを裁けない。
それを真壁は知っている。
江口も、おそらく知っている。
だから彼は、別の場所で裁かれ続ける。
教室で。
子どもの前で。
誰かに「先生」と呼ばれるたびに。
*
数週間後。
旧雪桜小中学校には、まだ雪が残っていた。
桜はすでに散っている。
枝だけになった木は、事件のころよりもずっと静かに見えた。
江口桜次郎は、一人でそこに立っていた。
正式な処分はまだ決まっていない。
学校へ戻れるかどうかも分からない。
それでも彼は、手に封筒を持っていた。
麻生薫へ宛てた返事。
桐生環へ宛てた返事。
二通。
誰にも届かない手紙。
それでも、書かれなければならなかったもの。
江口は、雪の残る根元に封筒を置いた。
「遅くなりました」
前にも言った言葉を、もう一度言う。
風が枝を揺らした。
花はない。
桜は散った。
それでも、そこには確かに、春の気配が残っていた。
江口はしばらく立っていた。
やがて、背後から声がした。
「帰るぞ」
二階堂だった。
黒いコートの襟を立て、寒そうに眉をひそめている。
江口は振り返る。
「迎え?」
「監視」
「ひどい」
「逃げそうな顔してる」
「逃げませんよ」
「知ってる」
二階堂は、桜の根元に置かれた封筒を見た。
「返事か」
「うん」
「読んだら、二人は怒るかな」
「怒るだろ」
「即答」
「九年遅い」
「だよな」
江口は少し笑った。
切ない笑みだった。
「でも、怒ってくれるなら、まだましだ」
二階堂は何も言わなかった。
ただ、江口の隣に立った。
二人で、花のない桜を見上げる。
春なのに寒い。
冬なのに、どこか春だった。
季節が混ざった村。
死者と生者が混ざった学校。
罪と赦しが、決して一つにならないまま並んでいる場所。
江口は、ぽつりと言った。
「なあ、にか」
「何だ」
「俺、まだ先生って呼ばれていいのかな」
二階堂は、しばらく黙っていた。
そして言った。
「呼ぶのは子どもだ」
江口は彼を見る。
二階堂は続けた。
「お前が決めることじゃない」
江口は、少しだけ目を伏せた。
「厳しいな」
「二回目だ」
「何が」
「その台詞」
「そうだっけ」
「ああ」
二階堂は歩き出す。
「行くぞ、桜次郎」
江口は、もう一度だけ桜を見た。
そして、封筒に向かって小さく頭を下げた。
その背中に、雪解けの雫が落ちる音がした。
ぽたり。
ぽたり。
水の音は、もう誰かを流すためのものではなかった。
冬が終わる音だった。
*
雪はすべてを隠す。
火は形を奪う。
水は遠くへ流す。
けれど、桜だけは落ちる。
落ちて、そこに残る。
誰かが見つけるまで。
誰かが名前を呼ぶまで。
その春、雪桜の村では、花のない桜の下に二通の手紙が置かれた。
風が吹いても、封筒は飛ばなかった。
雪解け水に少し濡れながら、ただ静かにそこにあった。
まるで、十年遅れの返事を、二人の子どもが黙って読んでいるかのように。
(了)
江口桜次郎 出演作品
「片翼の蝶」
雨の夜、教師・江口桜次郎は、かつての教え子・榛名蛍に呼び出され、京東大学の古い温室で死体を発見する。遺体のそばに残されていたのは、片羽だけの蝶の標本。それは十三年前、蛍の家族が惨殺され、ただ一人生き残った事件の現場にもあったものだった。
新任教師だった江口と、欠席だらけの少年だった蛍。二人が積み重ねてきた七年の記憶が、現在の殺人と過去の真相を結びつけていく。
片方の羽を失った蝶は、誰の罪を示しているのか。これは、傷を抱えた少年と、彼を見捨てなかった教師が、消された真実にたどり着く物語。
note:https://note.com/accomplice3/n/ne48de879f488
なろうでも5月末~6月頭に掲載予定
「青鱗荘の十三番目」
6月頭~連載予定




