表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雪桜の教室は、誰の子を埋めたのか  作者: 綾見 恋太郎


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

12/12

第十二章 雪桜

 雪桜の村に、外の時間が戻ってきた。

 それは救いというより、遅れて届いた現実だった。

 警察車両の赤色灯が、雪に濡れた校庭を淡く染める。救急隊員の声、鑑識員の足音、無線の短い応答。昨日まで閉じていた村に、急に人の気配が増えた。

 だが、旧雪桜小中学校の空気は、すぐには変わらなかった。

 五人が死んだ。

 戸倉誠一。

 柿沼康夫。

 大内修。

 宮原司。

 白石理佳。

 佐貫源蔵と笹原トメは搬送された。

 麻生遥は逮捕された。

 北浜の古い倉庫から、麻生薫と思われる遺骨と、九年分の孤独を閉じ込めたノートが見つかった。

 水路で死んだのは、桐生環だった。

 環は、戸倉誠一と桐生真砂の子だった。

 麻生薫は、環を助けようとして事件に巻き込まれた。

 そして、戸倉によって北浜へ連れ去られ、長い年月を、名前のない場所で生きた。

 それが、この村の真実だった。

      *

 真壁彰は、旧職員室の机に置かれた資料を見ていた。

 焦げた紙片。

 古い写真。

 麻生薫のノート。

 桐生環と麻生薫が交わした手紙。

 その一つ一つに、子どもの字が残っている。

 拙くて、曲がっていて、ところどころ漢字が間違っている。

 けれど、どの字も必死だった。

 誰かに届くと思って書かれた字だった。

 真壁は、そのうちの一枚を見た。

 ――先生は、いい大人かな。

 その一文だけが、どうしても目に残った。

 江口桜次郎は、その問いに九年遅れて答えた。

 だが、答えたからといって、罪が消えるわけではない。

 それでも、答えないよりは、ずっといい。

 真壁はそう思った。

      *

 江口は、廊下の端にいた。

 警察官の指示に従い、事情聴取を待っている。

 目の下のクマは濃く、頬は青白い。

 事件の犯人ではない。

 だが、無関係ではない。

 九年前、彼は見た。

 そして黙った。

 それは刑事責任として裁けるものではないかもしれない。

 だが、彼自身は一生、それを裁き続けるだろう。

 二階堂壮也が、江口の隣に立った。

「寝ろ」

 最初の一言が、それだった。

 江口は少し笑った。

「警察の事情聴取前に?」

「その顔で喋ると、犯人に見える」

「ひどいな」

「事実だ」

 江口は廊下の窓へ視線を向けた。

 校庭の雪桜が見える。

 花はかなり散っていた。

 雪の上に、淡い花弁が点々と落ちている。

「なあ、にか」

「何だ」

「俺、教師続けていいと思う?」

 二階堂はすぐには答えなかった。

 江口も、答えを急がなかった。

 その問いが軽くないことを、二人とも分かっていた。

 やがて二階堂は言った。

「知らない」

「広報っぽくない答え」

「広報なら、もっと綺麗に言う」

「じゃあ、同級生としては?」

 二階堂は、少しだけ江口を見た。

「お前が逃げるために辞めるなら、やめろと言う」

「続けるなら?」

「罰として続けるなら、やめろと言う」

「じゃあ、何ならいいんだよ」

「子どもに呼ばれたら行くために続けるなら」

 二階堂は、窓の外を見た。

「好きにしろ」

 江口は黙った。

 長い沈黙。

 そのあと、彼は小さく息を吐いた。

「厳しいな」

「優しくしてほしいのか」

「いや」

 江口は、疲れた顔で笑った。

「そのくらいでいい」

      *

 麻生遥は、校舎を出る前に一度だけ江口を見た。

 手錠はかけられていなかった。

 任意同行から、正式な手続きに移る。

 彼女は逃げなかった。

 逃げる場所など、もう残っていなかったのかもしれない。

「先生」

 遥が呼んだ。

 江口は振り返る。

「はい」

「薫のノート」

「はい」

「読んでくれますか」

 江口は、答えるまでに少し時間をかけた。

「読みます」

「全部」

「はい」

「返事も」

 江口は、ほんの少しだけ目を伏せた。

「書きます」

 遥は頷いた。

 泣かなかった。

 もう泣くものが残っていないような顔だった。

「薫、待つの得意だったから」

 そう言って、彼女は警察官に促され、校舎を出ていった。

 江口は、しばらくその背中を見ていた。

 真壁は、何も言わなかった。

      *

 午後になって、雪は完全に止んだ。

 空はまだ灰色だったが、雲の切れ間から薄い光が落ちていた。

 旧校舎の前で、子どもたちの最後の避難準備が進められている。

 新葉が、江口のところへ走ってきた。

「先生」

「走るな」

「もう帰るからいいじゃん」

「帰るまでが遠足です」

「遠足じゃないよ」

「じゃあ、帰るまでが事件です」

「それは嫌」

「先生も嫌です」

 新葉は、江口をじっと見た。

「先生、また学校来る?」

 江口は少しだけ目を細めた。

「たぶん」

「たぶん?」

「先生にも、反省文とか、事情聴取とか、いろいろあるので」

「怒られる?」

「怒られますね」

「誰に?」

「大人に」

 新葉は首を傾げた。

「子どもには?」

 江口は、言葉を失った。

 新葉は、真剣な顔で言った。

「ぼくは、ちょっと怒ってる」

「はい」

「でも、来てくれたから、ちょっと許す」

「はい」

「でも、次はもっと早く来て」

 江口は膝を折って、新葉と目線を合わせた。

 いつものように軽口を言おうとして、やめた。

「約束します」

 新葉は頷いた。

「じゃあ、いいよ」

 それだけ言って、彼は走って戻った。

 江口はその背中を見ていた。

 小さな背中が、迎えに来た大人のもとへ消えていく。

 その光景を見て、江口の顔が少しだけ歪んだ。

 たぶん、泣きそうだった。

 けれど泣かなかった。

 泣く資格を、自分に与えていないのかもしれない。

      *

 夕方、真壁たちは雪桜の下に立った。

 九条が、花弁の落ちた雪面を見ている。

「奇妙な木だな」

 二階堂が言った。

「何が」

「こんなに散っているのに、まだ咲いてる」

 九条は答えた。

「散ることと、咲いていたことは別だ」

 二階堂が彼を見る。

「たまに、いいこと言うよな」

「事実だ」

「知ってる」

 真壁は、二人のやりとりを聞きながら、木の根元を見た。

 ここで環は泣いていた。

 ここで江口は「大丈夫」と言った。

 ここで薫は友達を探した。

 ここで名前が入れ替えられた。

 そして、ここでようやく、二人の名前が戻された。

 遅すぎた。

 あまりにも遅すぎた。

 だが、それでも名前は戻った。

 真壁は、それだけを小さく受け止めた。

 事件には、解決しても救えないものがある。

 真相を明らかにしても、死者は戻らない。

 奪われた九年は返らない。

 麻生遥の罪も消えない。

 江口桜次郎の沈黙も消えない。

 それでも、誰かが名前を呼ばなければ、死者は二度消える。

 真壁は、雪の上の花弁を見た。

 淡い桜色が、白の中に沈まずに残っている。

 小さな証拠のようだった。

      *

 江口が、少し離れたところに立っていた。

 彼は桜を見ていた。

 九年前と同じ場所で。

 けれど、もう同じ顔ではなかった。

 二階堂が歩み寄る。

「行くぞ」

「どこに?」

「事情聴取」

「現実に戻すの早いな」

「現実は待ってくれない」

「知ってる」

 江口は頷いた。

 そして、雪桜へ向かって、もう一度だけ頭を下げた。

 深くはない。

 長くもない。

 けれど、軽くもなかった。

「また来るのか」

 二階堂が聞く。

 江口は顔を上げる。

「来ますよ」

「なぜ」

「宿題が残ってる」

「誰の」

「先生の」

 二階堂は、少しだけ笑った。

「今度は提出しろ」

「期限、九年過ぎてるけど」

「遅延理由書も書け」

「鬼か」

「広報だ」

 江口は、ほんの少しだけ笑った。

 それは、事件が始まってから初めて見せた、無理の少ない笑みだった。

      *

 校舎を出る前、江口は旧職員室に戻った。

 机の上には、麻生薫のノートのコピーが置かれていた。

 原本は証拠として保全される。

 彼に渡されたのは、読むことを許された写しだった。

 江口は、その最後のページを開いた。

 ――先生へ。

 ――もしこれを読んだら、今度は返事をください。

 ――私は、ここにいます。

 江口は、しばらく文字を見ていた。

 それから、職員室の隅に置かれていた古い便箋を一枚取り、ペンを握った。

 真壁は入口から見ていた。

 邪魔はしなかった。

 江口は、ゆっくり書き始める。

 字は少し震えていた。

 だが、一文字ずつ丁寧だった。

 ――麻生薫さんへ。

 ――返事が遅くなりました。

 ――遅すぎました。

 ――あなたは、ここにいました。

 ――環さんも、ここにいました。

 ――僕は、それを見ていませんでした。

 ――見ようとしませんでした。

 ――ごめんなさい。

 そこでペンが止まる。

 長い時間、止まった。

 やがて、江口は続きを書いた。

 ――先生と呼んでくれて、ありがとう。

 ――今度は、返事をします。

 ――あなたの名前を、忘れません。

 便箋に、インクが滲んだ。

 涙かもしれない。

 江口は、それを隠さなかった。

      *

 夜になる前に、真壁たちは村を出た。

 除雪された道を、車がゆっくり下っていく。

 後部座席に九条。

 助手席に真壁。

 運転席に二階堂。

 江口は、地元署の車で別に移送される。

 窓の外に、旧雪桜小中学校が遠ざかっていく。

 校庭の桜は、もう小さくしか見えない。

 それでも、白い景色の中に、淡い点のように残っていた。

「終わったと思うか」

 二階堂が聞いた。

 真壁は少し考えた。

「事件はな」

「事件は、か」

「ああ」

 九条が後ろから言った。

「名前は戻った。だが、時間は戻らない」

 二階堂が小さく笑う。

「お前、本当にたまに刺すよな」

「事実だ」

「知ってる」

 車はカーブを曲がる。

 校舎が見えなくなった。

 それでも真壁の頭には、雪桜の光景が残っていた。

 雪の上に落ちた桜。

 消えない花弁。

 誰かが見つけるまで、そこにあり続けるもの。

      *

 翌日。

 麻生薫と桐生環の名前は、正式な記録の中に戻される手続きが始まった。

 それには時間がかかる。

 法的な確認も、鑑定も、証言整理も必要だった。

 けれど、もう二人は「誰か」ではなかった。

 麻生薫。

 桐生環。

 二つの名前が、それぞれの場所に置かれた。

 麻生遥は、取り調べで詳細を語り始めた。

 戸倉誠一を最初に殺した理由。

 父親として答えなかった男を、雪に隠した理由。

 柿沼を水路へ流した理由。

 大内を枝に結んだ理由。

 宮原を炉にくべた理由。

 白石を母に返した理由。

 佐貫に父を問うた理由。

 そして、江口に答えを求めた理由。

 どの証言も、罪を軽くするものではなかった。

 むしろ、重くした。

 それでも彼女は話した。

 薫をもう一度消さないために。

      *

 江口桜次郎は、長い事情聴取を受けた。

 九年前の証言。

 見たもの。

 見なかったふりをしたもの。

 受け取った手紙。

 返さなかった返事。

 彼の証言は、事件の補助線になった。

 だが、彼自身の罰にはならなかった。

 法は、沈黙のすべてを裁けない。

 それを真壁は知っている。

 江口も、おそらく知っている。

 だから彼は、別の場所で裁かれ続ける。

 教室で。

 子どもの前で。

 誰かに「先生」と呼ばれるたびに。

      *

 数週間後。

 旧雪桜小中学校には、まだ雪が残っていた。

 桜はすでに散っている。

 枝だけになった木は、事件のころよりもずっと静かに見えた。

 江口桜次郎は、一人でそこに立っていた。

 正式な処分はまだ決まっていない。

 学校へ戻れるかどうかも分からない。

 それでも彼は、手に封筒を持っていた。

 麻生薫へ宛てた返事。

 桐生環へ宛てた返事。

 二通。

 誰にも届かない手紙。

 それでも、書かれなければならなかったもの。

 江口は、雪の残る根元に封筒を置いた。

「遅くなりました」

 前にも言った言葉を、もう一度言う。

 風が枝を揺らした。

 花はない。

 桜は散った。

 それでも、そこには確かに、春の気配が残っていた。

 江口はしばらく立っていた。

 やがて、背後から声がした。

「帰るぞ」

 二階堂だった。

 黒いコートの襟を立て、寒そうに眉をひそめている。

 江口は振り返る。

「迎え?」

「監視」

「ひどい」

「逃げそうな顔してる」

「逃げませんよ」

「知ってる」

 二階堂は、桜の根元に置かれた封筒を見た。

「返事か」

「うん」

「読んだら、二人は怒るかな」

「怒るだろ」

「即答」

「九年遅い」

「だよな」

 江口は少し笑った。

 切ない笑みだった。

「でも、怒ってくれるなら、まだましだ」

 二階堂は何も言わなかった。

 ただ、江口の隣に立った。

 二人で、花のない桜を見上げる。

 春なのに寒い。

 冬なのに、どこか春だった。

 季節が混ざった村。

 死者と生者が混ざった学校。

 罪と赦しが、決して一つにならないまま並んでいる場所。

 江口は、ぽつりと言った。

「なあ、にか」

「何だ」

「俺、まだ先生って呼ばれていいのかな」

 二階堂は、しばらく黙っていた。

 そして言った。

「呼ぶのは子どもだ」

 江口は彼を見る。

 二階堂は続けた。

「お前が決めることじゃない」

 江口は、少しだけ目を伏せた。

「厳しいな」

「二回目だ」

「何が」

「その台詞」

「そうだっけ」

「ああ」

 二階堂は歩き出す。

「行くぞ、桜次郎」

 江口は、もう一度だけ桜を見た。

 そして、封筒に向かって小さく頭を下げた。

 その背中に、雪解けの雫が落ちる音がした。

 ぽたり。

 ぽたり。

 水の音は、もう誰かを流すためのものではなかった。

 冬が終わる音だった。

      *

 雪はすべてを隠す。

 火は形を奪う。

 水は遠くへ流す。

 けれど、桜だけは落ちる。

 落ちて、そこに残る。

 誰かが見つけるまで。

 誰かが名前を呼ぶまで。

 その春、雪桜の村では、花のない桜の下に二通の手紙が置かれた。

 風が吹いても、封筒は飛ばなかった。

 雪解け水に少し濡れながら、ただ静かにそこにあった。

 まるで、十年遅れの返事を、二人の子どもが黙って読んでいるかのように。


(了)


江口桜次郎 出演作品


「片翼の蝶」

 雨の夜、教師・江口桜次郎は、かつての教え子・榛名蛍に呼び出され、京東大学の古い温室で死体を発見する。遺体のそばに残されていたのは、片羽だけの蝶の標本。それは十三年前、蛍の家族が惨殺され、ただ一人生き残った事件の現場にもあったものだった。

 新任教師だった江口と、欠席だらけの少年だった蛍。二人が積み重ねてきた七年の記憶が、現在の殺人と過去の真相を結びつけていく。

 片方の羽を失った蝶は、誰の罪を示しているのか。これは、傷を抱えた少年と、彼を見捨てなかった教師が、消された真実にたどり着く物語。


note:https://note.com/accomplice3/n/ne48de879f488

なろうでも5月末~6月頭に掲載予定


「青鱗荘の十三番目」

6月頭~連載予定

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ