竜胆
「支度は済んだか」
「はい、響さん」
ホテルのフロントで、響と花野は言葉を交わす。いよいよ日本を離れる時が来たのだ。会計を済ませ、キャリーバッグを引き摺る花野から、響がそれを引き取った。礼を言っても知らぬ顔だ。こういうところが響の響らしいところだった。
冷房の効いたホテルの外に出ると蝉の声が一気に押し寄せ、暑さも共に押し寄せる。空はすっかり夏のそれだ。それでも花野は首に巻いたストールを取ろうとはしない。その頑固さに、響は呆れた顔をする。
「あ……」
花野の漏らした声に、いち早く響が反応する。彼は花野の守護者であり、花野の感覚に共鳴するのだ。
「飛行機の時間がある。行くぞ」
「待ってください、響さん。もう少しだけなら大丈夫でしょう?」
必死に縋る花野を響は無言で見ていたが、やがて大きな溜息を落とす。
「……近くの空き地に竜胆が咲いていた」
「ありがとうございます!」
「俺も一緒に行くぞ」
響のその言葉は守護者としてのものであり、お目付け役としてのものであるのだろう。
連れ立って歩くと、響の引き摺るキャリーバッグのゴロゴロという音が賑やかだ。響自身の荷物はそれ程ないらしい。
空き地に着いて、竜胆に詫びて手折ろうとすると、響が横から剪定鋏でしゃくりと切った。
「このほうが花の苦しみも少ないだろう。……行くぞ。高校だな?」
花野は頷く。響とバスに乗り、ある高校に辿り着いた。人目につかないように階段を上がって上がって、やがて屋上に出た。屋上に通じるドアは施錠されている筈だった。なぜか、開いている。
屋上に出た花野たちを、今にもフェンスを越えて蒼穹に飛ぼうとしていた少年が、驚いた目で見た。
「やめてっ」
「何だ、あんたら」
少年は明らかに狼狽えた表情で手元が危なっかしくて、見ているほうがはらはらする。
「苛めに遭って自殺か。お決まりだな」
「響さん!!」
花野は非難の声を上げ、少年に駆け寄った。その手には竜胆。
根は薬用にも使われる、花療法に相応しい花だ。花野は少年の心を救いに来た。命を救いに来た。
「待って、逝かないで。これから、まだ、これからだから」
少年は呆気に取られたような顔をすると、すぐ眉尻を吊り上げた。
「あんたに何が解るっ。これから? これから? これからが何だってんだ。俺はこれまで死ぬような思いで生きて来たんだ。邪魔するな!」
花野は事態の切迫を悟った。
手に持っていた竜胆を、フェンスの向こうに放り投げた。どうしても。花だけでは足りない時がある。宙に青紫の点が遠くなる。
「なら、私も一緒に逝く」
「花野!」
「――――見ず知らずのあんたが、どうして」
「貴方一人救えないのなら、私は花療法士ではない」
花野はフェンスに近づくと、よじ登り始めた。それを少年が止める。
「やめろ、やめろよっ。あんた狂ってる。……俺も、狂ってた」
ぽつり、とコンクリートに少年の涙が吸い込まれる。
花野は少年を抱き締めた。共に涙を流した。そうして長い時が過ぎた。
「お前のせいで飛行機の予約をし直すことになったんだからな」
「はい。申し訳ありません」
結局、あの後、駆け付けた高校の教諭たちから不審者として詰問されることになった花野たちは、予定していた飛行機に乗ることが出来なかった。少年の口添えもあり、やっと解放された頃には、とうにフライト時刻は過ぎていた。
今、花野と響は次の便を待つべく空港の椅子に座っている。
「……お前が花を放り投げるとはな」
誰より花を愛おしみ慈しむ花野の気性を知る響には驚きだった。
「あのままだとあの子は絶望のまま死んでいました。私は、冷酷と言われようと、竜胆の命を無駄にしようとあの子を救いたかった」
「結果、お前の思惑通りになったな」
「辛うじて。ねえ、響さん。世の中には花の数では補えない苦しみがあるんですね。私の手は、とても小さい……」
それでも、諦めたくないんですと言って、花野は微笑んだ。
フライトの時間が迫っている。
また、人と花との出逢いが花野を待っている。
<完>