第56話:王子の後悔、辺境伯の殺意
「必要だったのは君だ」というエドワードの遅すぎる後悔。
しかし、アイリスを「命」と呼ぶリュカの殺意が、王子の傲慢を粉砕します。
「待ってくれ、アイリス! 話を聞いてほしい!」
会場の喧騒を切り裂くような、エドワード様の叫び。
私たちは次なる広間へ向かおうとしていたが、王子の無様な懇願に、リュカ様が足を止めた。彼の肩が、怒りで微かに震えているのが掌から伝わってくる。
「……何の用だ。エドワード殿下」
リュカ様が振り返る。そのアイスブルーの瞳は、もはや獲物を屠る直前の獣のように冷徹で、暗い殺気を孕んでいた。
「私は……、私は、セレーナに騙されていたのだ! 君がいなくなってから、宮廷の儀礼は滞り、刺繍の一針さえも乱れきっている。私が本当に必要としていたのは、君だった。……今ならまだ間に合う。その男の手を放し、私の元へ戻ってきなさい!」
エドワード様は、あの日私を雨の中に突き捨てたことなど忘れたかのように、傲慢な手差しを向けてくる。魔法のないこの世界で、王族の言葉は絶対の力を持つ。……かつての私であれば、その重圧に跪いていたかもしれない。
けれど今、私の腰を抱いている腕の熱が、私の心を鋼よりも硬くしていた。
「……相変わらず、自分の都合しか語らぬ男だ」
リュカ様が、一歩前へ出た。
カチリ、と腰の長剣の柄が鳴る。その静かな音だけで、周囲にいた貴族たちが悲鳴を上げて後退した。魔法の光など必要ない。ただそこにある「死」の気配が、王宮を支配していた。
「殿下、今の言葉をもう一度言ってみろ。……俺の専属針子であり、俺の命よりも重いこの女性を、誰の元へ戻すと言った?」
「な、……貴公、剣に手をかけるのか!? 私はこの国の第一王子だぞ!」
「王族であろうと、俺の宝に泥を塗る者は生かしておかん。……アイリスがお前の隣にいた頃、お前は彼女を『人形』と呼んで蔑んだ。だが俺は、彼女の一針に、彼女の涙に、彼女の魂に、このヴォルテール全土を懸けて報いると決めている」
リュカ様の殺意は、もはや言葉の範疇を超えていた。
彼は私を自分の背後に完璧に隠すと、エドワード様を射殺さんばかりの瞳で見下ろした。
「……失せろ。次にお前の口から彼女の名前が漏れた時、それがお前の王室としての最期の日になると知れ」
エドワード様は、あまりの気迫に腰を抜かし、側近たちに抱えられるようにしてその場を去っていった。
静寂が戻った回廊で、リュカ様は乱暴に私の手を取り、指の一本一本に噛みつくような深い口づけを落とした。
「アイリス……。あいつの声を二度と聴くな。お前を揺らすものは、すべて俺が斬り捨てる」
嫉妬と独占欲、そして煮え滾るような愛。
魔法なき世界の冷たい夜、私はリュカ様の熱い視線に、深く深く、閉じ込められていった。
第56話をお読みいただきありがとうございます。
エドワード王子を腰抜けにさせるリュカ様の圧倒的な威圧感、スカッとしますね!
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次話、絶望する王子の影で、セレーナがアイリスのドレスに再び牙を剥きます。




