第108話:騎士と針子の日常
北方の離宮で過ごす、甘やかな朝と穏やかな午後。
主としての重責を背負うリュカが、アイリスの前でだけ見せる「ただの男」の顔を描きます。
北方の朝は早い。
窓の外、白銀に染まった針葉樹林から、冷たく澄んだ空気が離宮の寝室へと忍び込んでくる。
だが、私の周囲だけは、冬の寒さを忘れるほどの熱に包まれていた。
「……ん。……リュカ様、もう朝ですわ」
背後から回された逞しい腕。リュカ様は私のうなじに顔を埋めたまま、独占欲を隠そうともせず、さらに強く私を抱き寄せた。魔法という奇跡がないこの地で、男の腕の強さは、そのまま愛の深さとして私の肌に刻まれる。
「……あと少し。この部屋から出れば、俺はヴォルテールの主として、お前を狙う不埒な公務や来客と戦わねばならん。ここだけが、俺がただの男でいられる場所だ」
騎士として戦場を駆けてきた男の、あまりに甘い我慢。
私は彼の手の上に自分の手を重ね、手のひらに残るあの「傷跡」をそっとなぞった。
朝食の後、リュカ様は執務室へ、私は工房へと向かうのが、私たちの新しい日常だ。
けれど、リュカ様はことあるごとに理由をつけては工房を訪れる。
「アイリス、糸を切らしたのではないか?」「その針は研がなくていいのか?」
不器用な問いかけと共に、彼は私の作業を中断させ、しばしば私を膝の上に座らせる。針子の仕事は繊細なもの。けれど、彼の大きな掌に包まれていると、不思議と一針の迷いも消えていく。
「リュカ様、これでは仕事になりませんわ。……皆様、北方の主がこれほどまでに甘えたがりの騎士だとは、夢にも思っていないでしょうね」
「……お前にだけだ。他の誰に、俺のこの喉元を晒すというんだ」
リュカ様はアイスブルーの瞳を細め、私の指先に、かつての戦場を思わせる熱情を込めて口づけた。
王都のような豪華な宝石も、偽りの称賛もない。
けれど、私の針が紡ぎ出す一本の糸。リュカ様が振るう一本の剣。
それらが交差するこの場所こそが、世界で最も気高く、そして愛おしい私たちの「日常」だった。
騎士と針子。
異なる生き方を持つ二人は、今、一つの家の中で、決して解けない結び目で縫い合わされていた。
第108話をお読みいただきありがとうございます。
執務の合間にアイリスの様子を見に来るリュカ様、独占欲が日常に溶け込んでいますね。
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次話、逃げ出す隙もないほどに深い、愛の重さ。第109話「愛という名の檻の中で」へ。




