第十七話
空の向こうに憧れた。
幼い頃、お前の父は空の向こうに居るのだと言われていた。そこできっとお前を待っているから、と。だから、恵まれた才能以上に努力を重ねて、空の向こうに手を伸ばした。
そうして返されたのは、余りに残酷な代償だった。
自分の身勝手さを、愚かしさを、浅ましさを突き付けられた。行き場も帰る場所もない、大嫌いな世界に落とされた。死ぬことも許されず、醜いと切り捨てた人を、愛せと首を絞め続けられた。
笑えるほど簡単に、幼い頃の憧憬は覆された。
心を砕いて、愛してくれと喘ぎながら、その声を飲み込んで、砕いた心を愛だと言ってばら撒いた。嫌った自分を壊すことなど、何でも無いとばかりに。
時間をかけて少しずつ、自分が落としていったもの。それをようやく拾い集めた。
「――――ぷはっ!」
湖から顔を出し、レサルは濡れた髪を掻き上げる。見上げた竜の巣穴の内側は、苔が発光しておらず、薄暗い。
「しまったな……目標地点がずれたか」
レサルは濡れた服を絞り、巣穴の先へと向かった。野原に出ると、濃い橙色の日は山の稜線にかかっていた。夕日の色に染まっている野原の先に、ちょこんと並んだ二つの水色の影がある。その片方――――ミカが振り返る。銀色のチャームが夕日に光った。
嗚呼、とレサルは目を細める。
たくさんのものを落とした自分を癒してくれたのがエスメラルダなら、落としたものを拾う手掛かりとなったのは、間違いなくミカだ。
傍に居たいと願われることが、どれ程幸福だったか。
まるで夜空にぽつりと浮んだ星のように、拠り所の無かった自分。その自分を拠り所とする誰かがいれば、そこが自分の居場所となる。
「ヘヨカ様っ!」
声を弾ませて、ミカがレサルに駆け寄った。
まるで人形のようだった頬には赤みが差し、浮かべているのは無邪気な笑顔だ。歩み寄ろうとして踏み出した足から力が抜けて、レサルはその場に膝を付いた。濡れた服が張り付いて、体が冷える。
「ヘヨカ様……? あの、お面は」
「……もう平気なんだ」
怪訝な顔になったミカを見上げ、レサルは微笑んで見せる。ミカはレサルの前に膝を付くと、ぎゅっ、とレサルの手を握った。張り付いた手袋越しでも、ミカの手の温かさは伝わってくる。
「凄く冷えています……」
「……大丈夫だ」
「でも」
「ミカ」
レサルは手を抜きとり、指先を咥えて手袋を脱ぐ。そして、驚いた顔をしているミカの頬に、恐る恐る手を触れさせた。
「ヘヨカ……様……?」
そのまま耳、髪へと手を滑らせ、ミカの頭を引き寄せた。驚いたままのミカの額と、ヘヨカの額が重なる。
「お前に会えてよかった」
「……へっ?」
レサルは立ち上がり、やや遠くで立っていたラクスに駆け寄る。ミカはその場にへたり込んだまま、頬を撫でて口元をもごもごと動かす。「可愛い」と言われた時のような、くすぐったさがあった。
「遅くなった」
「全くだ。……積もる話もあるだろう。寝床は古い巣穴を一つ貸してやる。私は退散する」
「ああ、礼を言う」
ラクスはひらひらと手を振って離れると、竜の姿に戻って去っていった。その背に小さく頭を下げ、レサルは振り返る。立ち上がっていたミカが、両手を胸元で握って待っていた。
「父親には会えたのか?」
「えっ? あ……いえ。誰かは分かったそうですが、今はまた旅に出ているそうです」
「……そうか」
「ヘヨカ様、あの、寝床を貰っていますから、まずは火を熾して体を温めましょう。夜は冷えますから」
「……そうだな」
ミカはレサルの服の裾を掴み、「こちらです」と引っ張った。
心臓が、落ち着きなく脈打っている。ミカは左胸に手を当てた。焚火を挟んだ先にいるのは、仮面をつけていないヘヨカだ。見慣れていないその顔を見つめていると、普段以上に緊張してくる。
「……ミカ?」
ヘヨカが顔を上げる。色の違う双眸は、相変わらず息も止まるほどに美しかった。膝の上で手を握り、ミカは姿勢を正す。
「あ……あの、ヘヨカ様、お面はもう、必要無いのですか?」
「……まあ。だが捨てるつもりもない。これも、積み重ねてきた大事な『俺』だ」
ヘヨカが、腰に吊るしている仮面に触れる。
「それと、俺はもう『ヘヨカ』とは名乗らない」
「え……」
「だから、ミカ。お前も、俺を俺の名前で呼んでくれ」
ヘヨカの視線が、炎からミカへと滑った。
「な……名前、ですか」
「ああ。……きっともう知っているだろう?」
火に手をかざし、ヘヨカ……レサルは濡れた手袋を乾かす。
「そうですね……レサル、様」
躊躇いがちにミカが言い、頬を染める。
「な……何でしょう、えへへ、ちょっと、その、照れますね」
「……?」
じっとりと濡れた上衣も乾かしながら、レサルは怪訝な表情になった。
「そうだ、レサル様は、何処に行ってらしたのですか?」
「まあ色々だ。随分と長い間彷徨っていたからな……その途中で落としてきた大切なものを、拾い集めてきた」
「……大切な物、ですか」
「ああ」
「それは……例えば、首飾りのような?」
ミカが首を捻り、レサルは小さく笑う。
「目に見える物じゃない。例えば、冷えた体を温めること」
乾いた手袋を折り畳み、鞄に入れる。レサルはそれから、焚火から生まれる煙を見上げた。
「例えば、腹が空いた時に美味いものを食べること」
レサルが手を差し出し、煙を煽る。煙がふわりと形を変え、パンや魚、果物などの形になった。ミカは目を丸くしてそれを見上げる。
「例えば、自らの心を癒すこと」
煙が、割れたハートの形となった。レサルが手をくるりと回すと、それはハートの形に戻って包帯が巻きつけられる。
「例えば、誰かを許すこと」
煙は二つの人の形となった。二人は向かい合って手を取り合っている。
「……例えば、自らを……愛すること」
二つの煙の人形は一つとなり、レサルの手に乗って掻き消える。
「簡単なようで難しい。だが、とても大切なことだ」
「……自分を、愛する」
ミカは自らの胸に手を当てる。
「俺は、随分前にそれを棄ててしまっていたんだ。自らの名前と一緒に……もうずっと、何を棄てたかすら忘れていた。どうでもいいと思っていたんだ」
だが。レサルは苦笑を漏らす。そして新たな薪を焚火にくべると、ミカに優しい笑顔を向けた。
「お前を大切だと思えば思うほどに、棄ててしまったものがもう一度必要になった。それが必要なものなんだと突き付けたのは竜の長だが、きっかけは、お前だ」
「……レサル様のお役に立てたのなら、嬉しいです」
ミカは僅かに目を伏せて笑った。
「良かった。レサル様は、救われたのですね」
「……ああ。お前が傍に居ると言ってくれたあの時……いや、きっと、俺のことを知りたいとお前が言ったあの時から、救われていたんだ。何もかも棄ててしまっていた己れに意味が与えられた。俺が俺自身を取り戻す道標となった。……自分でも呆れる程に、時間は掛けたが」
だがそれでいい、とレサルはまた笑った。出会った頃の無表情が嘘のように、優しい笑みをしている。
「俺は五百年、いや、千年も前から少しずつ間違ってきたんだ。今更一朝一夕で取り戻せもしないだろう。きっと、また自分が憎らしくなる時もある。逃げてしまいたいと思う時もある。……だが、時間を掛けただけ、その選択の代償も苦々しさも分かっているつもりだ。ゆっくり取り戻していけばいい」
そう言ったレサルを見上げて、嗚呼、とミカは目を細めた。
きっとようやくこの人は、自分自身から自由になれたのだろう。
ソールから話を聞いて、泣けてしまうほどに優しい人だと思った。自分と同じように飢えているのに、与えることだけに終始しようとしている。自分が何よりも欲していたもの――――誰かからの愛を、ただひたすらに、外へ向けていた。誰よりも自分自身がその愛を欲しがって、その心が泣き叫んでいても、それを無視して。それが自らの義務だと言って。
ようやく、そんな自分自身に課した重荷を降ろすことができたのだろう。
「レサル様」
救いたいと思った。だがその方法など見当もつかずにいた。だがレサルは、自分に救われたと言う。――――ならば。
「それじゃあこれからは、救われるだけじゃなくて、目いっぱい、幸せになる時間ですね」
ミカは唇に手を当てて、にっこりと笑って見せた。レサルは目を瞬かせ、それから手を伸ばしてミカの頭を撫でる。
「……お前は凄いな」
「へっ?」
「いや」
レサルも、不器用な笑みを浮かべて見せた。
「そうだな。自分の幸せが、受け入れられるようになるといいと思う……誰かに笑われるようなものでなくなればいいと、思う」
優しく撫でられた頭が熱くなり、ミカは笑みを引っ込めて俯いた。
レサルの幸せ。それはどんな形なのだろう。
乱れた前髪の間からレサルを見上げると、レサルは優しく目を細めていた。
――――きっと、この人は幸せになれる。そんな確信がミカにはあった。では、それが実現した景色は? その中に、自分はいるだろうか。
何の後ろめたさも影も遠慮も無く味わえる幸せを、誰と共に得るのだろうか。
「……レサル様」
頭に乗っていた手を掴んで、ミカはそれを自分の頬に当てる。驚いたようなレサルの顔が、くすぐったく感じた。
「一つだけ、我儘を言ってもいいでしょうか」
「ああ、何だ」
きゅっ、とミカはレサルの手を握る。
「口づけをして欲しいです」
そして、思い切ったように言った。
「……、」
レサルが目を瞬かせる。ミカは真っ直ぐにレサルを見上げていたが、沈黙が続くごとに頬をみるみる赤く染めた。
「……ミカ?」
「あっ……その、」
「珍しいな、そんな可愛らしい我儘は」
「はえっ!? あ、いや、その……ふ、深い意味は無いですけれど」
レサルの手が触れている頬が、燃えるように熱く感じられた。ミカは顔を伏せて、視線を落ち着きなく泳がせる。
「えっと……その、ラクスが言っていたんです。近しい男女は好き合うようになりやすくて、それで……好き合った相手とは、口づけをするものだって」
「………………」
レサルは、ミカの頬から手を離す。そして口元にその手を当てると、しばし考え込むように黙った。
「わ、私それで、レサル様がいらっしゃらない間考えて……」
ぎゅっ、とミカは両手を握って顔を上げた。
「わっ、私も多分これから、分かりませんけど、恋はすると思います。でも、出来るならその一番最初は、レサル様がいい……ん……です……」
勢い込んで言った言葉は尻すぼみになり、ミカはまた俯く。
「……なるほど」
レサルは苦笑をこぼすと、立ち上がってミカの隣へと移動した。
「へっ?」
そして、驚くミカの肩に手を回し、自分の方を向かせる。ミカはぎゅっと胸の前で両手を握り、目を瞑った。
「……ココは、いずれの時に取っておけ」
レサルはミカの唇に指を当て、頭をそっと引き寄せる。そして、熱いミカの額に口づけをした。レサルの腕の中で、ミカは強張っていた体を弛緩させる。
「……これでいいか?」
「……は、はいっ!」
ミカは両手で、レサルの唇が当たっていた額を押さえ、顔を緩ませる。
「――嗚呼、お前から恋の話を聞くとはな」
ミカの頭を撫でて、レサルは地面に上衣を広げた。床に寝転んだレサルに寄り添って横になり、ミカは「そうだ」と口を開く。
「レサル様は、恋をしたことが?」
「……まあ、人並にはな。最後に恋をしたのは随分と昔だが」
「……聞いてもよろしいですか? レサル様の、過去の話を」
地面の上で両腕を組んで、ミカは首を傾げてレサルを見上げる。レサルは頬を掻いて視線を逸らした。
「構わない……が、別に楽しいとは思わないが」
「……ふふっ」
ミカは笑い声を漏らして目を細め、小さく首を横に振る。
「レサル様がお話してくれることが、嬉しいんですよ」
以前は、過去の話を聞きたいと言っても気が進まないと言っていたのに。だが、それを言えばきっとレサルは口を閉じてしまうだろう。
視線を炎へと向けながら、何処か照れているように話すレサルを見上げる。
出会った頃は、お伽噺の死神だった。その印象は、今でも間違っていたとは思わない。
それでも――――こうして向かい合っているレサルは、もう死神ではない。作り物のような目も、道化の仮面ももう無い。
こうして向かい合って、遠い昔の話をする。それだけで幸せなのだと、過去の自分に教えてやりたい気分だった。愛想笑いすら忘れていた自分が、思いもしなかったような幸福な現在。
自分に救われたと言うレサルは、それでも間違いなく自分にとっては、出口のない暗闇から連れ出してくれた救いの手なのだ。
寝息を立てているミカの背を撫で、レサルは頬杖を付いた。
「……もう迷うものか」
滑らかなミカの髪を一房取り、軽くキスをする。
「誰に何と言われようと、俺はお前を手放さない。……例え自己満足だと嗤われようが」
レサルは目を細め、微笑む。
「お前が自ら去ることを選ぶその日まで」
僅かに上下する細い肩を抱き、レサルは体を丸めて目を閉じた。
懇ろに竜達に礼を言い、巣穴から森へと戻ったのは翌日の昼過ぎだった。またずぶ濡れになった衣服を乾かそうと、薪を集めて火を熾す。
「何だか最近、濡れてばかりですね」
「全くだ」
レサルは苦笑した。冷たい風で服が体に張り付き、ぐんぐんと体が冷えていく。
「服が乾くまで待つか。熱い茶を淹れよう」
「はい。それじゃあ、私はお水を汲んできますね」
レサルがカップと茶葉を出し、ミカは手鍋に一杯の水を汲んで戻ってくる。レサルがテーブルを準備している間に、手早く二杯の紅茶が完成した。
「もう冬だというのに、こう何度も水浴びをするとは」
「でも、竜の巣穴に来られたのはよかったです。……父には、いつか会えたら嬉しいですけれど。何だか……気を遣わなかったようで」
ミカは顔をほころばせる。
「もしレサル様に逢っていなかったら、私はきっと、竜の中で生きることを選んでいたと思います。この鱗は大切ですし……人は……あまり、いい思い出がありませんから」
ミカは、顔の鱗に触れて笑顔を曇らせた。
「……長く生き、故に気高く美しい水の竜と、数十年しか生きられない人間を比べるのは酷だろう。人には人の、竜には竜の苦労がある」
「……レサル様は、人が好きなのですか?」
「……ああ」
ふう、と熱い紅茶に息を吹きかけて、レサルは微笑んだ。
「ようやく、ソールが言っていた意味が分かった気がする」
「?」
「醜いと思うこともある。愚かだと思うこともある。だが……それでも、長く見ていると、愛おしく思わずにはいられないんだ」
顔を緩ませて、レサルは紅茶を啜る。
「この世界に存在するあらゆる生き物の中で、他に勝るのは数だけだというのに。何年も、何十年も、何百年も……果ては千年先までその命を紡いていく。壊したら直し、失ってはまた得る為に努力する。……廻る世界の中で、ずっとそうして生きていく人間達が、愛おしいと思うんだ」
だから、その人間達を愛し、神々はその願いを聞く。時に人に混じり、時には神として君臨して。決して深く関わることの無い両者だが、確かに人々は神を信じ、神々は人を愛している。
「……私は、そこまで大きく見ることはできません」
「それでいいだろう。これは神の考え方だ。そして、長く生きた俺の考え方だ」
唇を尖らせたミカの頭を撫でて、レサルは苦笑を漏らした。
「お前はお前の見方で生きればいい。ただ、そういう見方もあるというだけだ」
「はあ……」
「――さあ。服が乾いて、茶を飲み終わったら、何処へ行こうか」
レサルは鞄から、ずぶ濡れになっている地図を引っ張り出す。それから、思いだしたように顔を上げた。
「……ただ、ミカ」
「はい?」
「一生でどれだけの人間に会えるかは分からないが、今まで会ってきたばかりが人間の全てではない。勿論悪い人間はいる。だが良い人間だってたくさんいる。そうしてたくさん知れば、きっとお前も人が好きになる」
レサルの言葉に、ミカは目を瞬かせた。
たくさん知ればきっと、好きになる。それは、自分も知っていた気がした。
「それじゃあ、出来るだけ沢山の人に会いたいです」
ミカはそう言って、顔をにっこりと笑わせた。
カップが空になるころには、服もいくらか乾いていた。レサルはまだ濡れている服を枝に通して、旗のように担いで歩く。ミカもそれを真似て、短い枝の先に靴下を差した。
どちらからともなく手を繋いで、森の道を進んでゆく。木の葉に覆われていた空が開ければ、そこには高い蒼天があった。何処までも遠く、飛んでしまえそうな蒼空だ。
遮るもののない日の光と青空が、その先の道を照らしていた。
* * *
抜けるような晴天だというのに、それが見えない程に木々の葉が辺りを埋め尽くしていた。
フードを目深に被り、旅人は道なき道を進んでいく。手元には、色あせた地図があった。旅人は頬を掻き、周囲を見回す。
視界の端に、煌めくものが見えた。旅人はそちらへ視線を向けて、茂みへと踏み込む。枝の隙間から見えたのは、小さな泉だった。
「ありがたい」
旅人は、荷物に吊るしている水筒を降ろす。揺らすと、中から心許ない水音がした。背の高い草を分け、その泉の前にようやく出る。
「……あっ」
旅人は思わず声を出した。
泉の中に、人がいた。後ろ姿で顔は見えないが、髪は肩にかかるかかからないか程度の、青みがかった銀髪。細い体にはいくらか傷跡があった。岸に置いてあるのはその先客の荷物だろうか。質素な服が幾つかと、やたら大きな、赤銅色のシャベルがあった。
「?」
先客が振り返る。旅人は顔を見ると、思わず体へと視線を落とした。そして男であると確認し、ほっと息を吐く。女かと思うほどに、先客の顔は美しかった。
「……すまん、水を汚したな」
「えっ? あ……いいえ」
「少し先に、雪解け水の滝がある。水ならそこで汲めるだろう」
「はあ……」
先客は布で頭を拭いて陸に上がる。
「……あ、そういえば、この先に小さい村があったと思うんですが、こちらで合っていますかね? いつも開けた街道ばっかりで、こういう森は慣れていなくて」
旅人は頬を掻いて地図を見せる。ぼさぼさの茶髪はあちこち整わず跳ねており、前髪だけを雑にピンで留めていた。やや童顔の大きい目は、日の光が当たると僅かに水色が差す茶色だ。
「……もう村は無いぞ」
「へっ?」
「無くなっていた」
先客は、あっさりとそう言って服を着る。旅人はぽかんと口を開けていた。
「あの……どういう?」
「……病だ。街も遠く医者もいない村だったらしい。流行病でも来たんだろう」
「……じゃあ、全員」
「ああ」
ぞっ、と旅人の背筋を悪寒が走る。先客は全身を拭いた布を泉ですすぐと、シャベルを担いで立ち上がった。
「あ……あの、あなたは、大丈夫なんですか?」
「……全滅して日にちも経っていたようだし、俺は平気だ。荷物はこれから煮沸する」
「ぜ……」
旅人は顔色を失い、ふらふらとその場に座り込んだ。
「……今から戻れば、夜になる前に街に着くだろう。埋葬はしてきたが村にはしばらく近寄らない方がいい。それに、夜の森はあまり良くないぞ」
「はあ。……ま、埋葬!?」
旅人は先客の言葉に、驚いたように身を乗り出した。
「ああ。昔から性分でな。埋める者がいない遺体は放っておけない。……まあ本当は、鳥獣の餌にでもした方がいいのだろうが、いたたまれなくてな」
「……まるで、お伽噺の墓守様ですね」
旅人の言葉に、先客は振り返る。紅の小さな耳飾りが揺れ、髪の間から覗いた。
「墓守……?」
「ご存知ないですか? 結構有名なお伽噺みたいで……ほら、何百年か前までは、神様って地上によくいらしていたとかで、信じている人も多かったでしょう?」
「そうだな」
「その頃、神様の世界を追放された死神……だったかな? その神様が、地上を彷徨っていたそうです。でも、長い彷徨の末に、竜の少女にその心を救われて、それからは地上で、人々を救う神様になったとか……それで、その人が、身寄りがなかったり行き倒れたりした人の墓を作ってくれるそうで、墓守様って呼ばれているんですよ」
旅人は、思い出すように視線を彷徨わせる。
「……そうか。今はそう呼ばれているのか」
「へっ?」
「いや。こちらの話だ。……そのお伽噺の墓守、実在すると思うか」
「……いいえ。だって、お伽噺によればその死神様は、千……三百年か四百年、この世界にいるってことになるんです。自分は、神様に会ったことも無いし、そもそも信じていませんし」
旅人の言葉に、先客は小さく笑う。
「はあ……それにしても、ここまで来てもと来た道を戻るとは……とはいえ、流石に病の村には行く気になれませんし……」
「……茶でも淹れるから、飲みながら考えたらどうだ。その様子だと急ぎの用もないだろう」
「いいんですか?」
「水浴びで、俺も体が冷えている。ついでだ」
それじゃあ遠慮なく、と旅人は立ち上がった。
泉の横にある獣道を通り、先客の案内で茂みを抜ける。そこから獣道を外れて、木々の隙間に見える岩に向かって進んだ。まもなく、小さな滝が見えてくる。
「自分は、オニキスと言います。あなたは?」
「レサルだ」
大きな木の根を一つ飛び越えると、さっと視界が開けた。滝の下は小さな池と川になっているが、先程の泉とは別の方向へと伸びている。
レサルが火を熾し、オニキスは鞄から組み立て式の椅子を出して座った。木製のカップに、琥珀色の茶が注がれる。
「良い香りですね」
「以前兄に貰ってな。一人で飲むには贅沢品で困っていたところだ」
「お兄さんが。仲がいいんですね」
「どうだか」
レサルは苦笑する。
「上の兄とは随分会っていないし、この茶をくれた兄とも……。会っては向こうの気晴らしの喧嘩に付き合わされている。歳も随分離れているし話も合わん」
「……そうですか」
オニキスは表情を曇らせた。レサルは首を振り、顔を上げる。そこで初めて、レサルの左右の瞳が異なる色をしていることに、オニキスは気が付いた。
「……ところで」
レサルは、にわかに声音を変えて視線を逸らした。
「オニキス、と言ったな。どうして旅に出ているんだ?」
「ああ。実は人を……というか、物を、というか。探しているんです」
オニキスは頬を掻き、苦笑をこぼす。
「と言っても、自分の旅は逃避みたいなもので……。うちのご先祖が、大切な人から貰ったっていうお守りの片割れを探しているんです。何でも、二つ一組で、相手の無事を願うものだとか……金色で、丸っこくて、三日月型の切れ込みが入っているんです」
「……ほう」
レサルは逸らしていた視線を戻す。
「あっ、これなんですけど」
オニキスは、腰帯に吊るしていたその金のアクセサリーを持ち上げてみせた。
「……ご先祖が、初恋の人から貰ったそうです。その初恋の人は星の神様だとも言っていました……自分は、神様は信じていないですけど、初恋の人っていうのは素敵じゃないですか。もしかしたらこのお守りの片割れを見付けられたらなーとか……無理だろうとは思っていますけど。旅の言い訳にはなるかなって」
照れたように笑って頬を掻く、その仕草にレサルは目を細めた。それから、長く、深く息を吐く。
「ミカの……」
そう、ぽつりと呟いて、レサルはカップを置いた。オニキスは首を捻る。
「神を信じていないのか」
「ええ。会ったことも無いですし……神殿には、小さい頃よく行きましたけど」
オニキスは苦笑して頬を掻いた。レサルは「そうか」とだけ言い、静かに茶を啜る。
「……そういえば、さっきのお伽噺ですけれど」
「ああ」
「この国だったらどこの神殿でも教えていることですし、絵本にもなっています。ご存知でないということは、異国の方なのですか?」
「いいや、生まれも育ちもこの国だ」
「はあ……」
「ただ、俺の知っているお伽噺は少し古い」
レサルはカップを口に当てる。オニキスは鞄を漁って、袋詰めのクッキーを取り出した。
「よかったらどうぞ。その古いお伽噺を教えてください」
「……ああ、頂こう」
レサルはクッキーを一つ取り、茶をもう一度啜って口を湿らせた。
「俺が昔聞いたお伽噺では、死神は救われていなかった。仮面をつけた道化師となり、永久に、醜い姿でこの世界を彷徨うことを義務付けられていた。そして、時に人を襲って救いのない国へ連れて行くという、恐ろしい存在だった。……だが」
さくりとクッキーをかじり、レサルは目を伏せる。そして、小さく笑い声を漏らした。
「今墓守と呼ばれていることは知らなかったが、少しだけこの死神の話には詳しい。神を信じなくなった人間はずいぶん増えた。人間が増えて、神々が地上に降りることも減って、信仰という形だけが残った。……だが、その墓守は未だ密やかに、何も変わらずにこの世界にいる」
「……えっ?」
「見えない物を信じろとは言わないが、神々は確かに存在しているし、お伽噺はほぼ真実だ。嘘は二つ……死神は本来、死神ではなかった。いや、神ですらなかった」
レサルは視線を落とし、琥珀色の茶を見つめた。それから、しばらく黙って息を吐く。オニキスは口を開きかけたが、視線を落として言葉を飲み込んだ。焚火の中で木が爆ぜる音と、煮沸の為に沸かされた湯がぼこぼこと沸騰する音が、妙に響く。
「死神は人間だった」
やや長い沈黙を破って、静かにレサルは言った。
「人間として育てられて、人間になろうとしていた。だが、星の神の血が半分入っていて、それが人生を狂わせた。そして、人間であることから逃げ出して、神々に罰せられた……そして死神になってしまった。それがお伽噺の源だ」
レサルはふっと口元を笑わせ、立ち上がる。オニキスはレサルを見上げ、困惑したような顔になる。
「堕ちた星の神は長く彷徨った。多くのものを棄てて、また多くのものを壊してきた。それが間違いだったと気付いてから、再び人になろうとした。その手助けをしたのが、竜の少女だ」
レサルはオニキスに背を向けると、小さな滝を見上げて腰に手を当てた。雪解け水の滝は澄んでいて、枝葉の隙間から差す日の光をきらきらと反射している。
「可憐で賢く、強い、水の竜の血が入った少女だった」
「……竜と人の間に、混血が?」
「ああ。今ではもう過去の話か。随分と時間が経ったものだ」
レサルの言葉に、オニキスは眉根を寄せる。レサルは腰帯に手をやり、帯と服の間に入れていたものを取り出した。
「その少女の名はミカという。人になろうとした星の神の背を押した存在だ。その星の神は少女に救われ、そして祝福を与えた」
レサルはオニキスを振り返り、腰帯から取り出したものを突き出して見せた。
それは、オニキスの持つ金の飾りに酷似していた。形は丸く、腰帯に括りつけられる金具がついている。だが、オニキスの持つものの三日月の切れ込みが下向きなのに対して、レサルのそれは上向きであった。
「……同じ……対の、」
「……面白い巡り会わせもあったものだな」
オニキスは言葉を失い、レサルを見上げる。レサルは金の飾りを腰帯の間に戻し、静かに腰を降ろした。
「大方、その話を野次馬な神々が見聞きして、噂をして、人の耳に入ったんだろう。人のお伽噺は大抵そうして始まる」
「………………」
まだ湯気の立つ茶に息を吹いて、レサルは静かな笑みを浮かべた。
「……ただの、お伽噺ですよね?」
そう、自分に言い聞かせるように呟くオニキスの声は震えていた。レサルはやはり静かな笑みのまま、ゆっくりと一度頷く。
「ああ、ただのお伽噺だ」
レサルはカップを傾けて、「ただ」と言葉を続けた。
「言っただろう。このお伽噺は、ほぼ真実だ。俺が嘘を吐く理由もない」
「………………」
オニキスは茶に視線を落としたまま、口をつぐんだ。
レサルはカップを空にすると、立ち上がって煮沸していた荷物を枝に引っ掛ける。湯気が立つそれにレサルが息を吹きかけると、皺が伸び、湯気も止まった。レサルが荷物とカップを片付ける間に、オニキスも茶を空にした。
「信じなくていいと思うが」
「えっ?」
「今までずっと、神はいないと信じてきたんだろう。ならそれを今更覆す必要もないだろう。今後余程のことが無い限り、神と直接会うということなど無いのだから」
レサルは焚火を消し、鞄に荷物を詰め直す。緩く羽織っていた上衣に袖を通し、腰帯を締め直すと、金色の飾りは腰帯の外側で揺れた。
「……信じますよ」
オニキスがぽつりと言い、レサルは片眉を上げる。オニキスの手の中には、金の飾りがあった。握るとほのかに温かく、まるで昨日作られたかのように艶やかなそれは、オニキスの顔をその表面に映していた。
「だって、その方が素敵じゃないですか」
へにゃっ、と緩んだ笑みを浮かべてオニキスはレサルを見上げた。
「……そうか」
レサルは口の端を上げた。
「あっ……もう移動しますか?」
「ああ。俺は街に向かうが」
「……じゃあ自分も、今日は街に戻ることにします」
オニキスは、空になったカップを拭いて荷物に押し込む。
「迷いそうだったんですよ。ご一緒しても?」
「構わない。が……」
レサルは口元に手を当てると、笑いまじりに言った。
「まさか、どうせ当てもないのは一緒と、ついてこないだろうな」
「……まさかあ」
オニキスは露骨に視線を逸らす。
レサルが荷物とシャベルを持って歩き出し、オニキスはその後に続く。見上げたレサルの後ろ姿は、銀髪が日の光を反射して煌めいて見えた。
銀色の髪は、老人の白髪とも、色の薄い金髪とも違う。月のように澄んでいて、それなのに冷たくはない――――世界を見守る月の神ルーナの色なのだと、幼い頃に教わった。銀髪の人間は、旅先で一人二人は見たことがある。だが、レサルのそれはまるで別物のように澄んでいて、美しかった。本当に、星や月の光をそのまま形にしたような――――
「……嗚呼」
レサルに聞こえないように、オニキスは息を吐く。
もしこの人が本当に、お伽噺の墓守なら。そして、自分の先祖が恋をした星の神なら、それは、きっと素敵なことだろう。
もう目的を失ってしまった旅路でも、そんな不思議な巡り会わせの先にあるのならば、続けられそうだった。
「――――まったく」
背後を歩くオニキスの気配に、レサルは小さく溜息を吐く。
縁があると喜べばいいのか、笑えばいいのか。僅かな間でも、道連れが出来たことを嬉しく思えばいいのか。
複雑ではあったが、これも、きっと決まっていたことなのだろう。出来ればこの青年がこの先ついて来るかも知りたいところだったが、モルスのように未来の断片を知る術を、レサルは知らなかった。
これを見た金髪の兄は、笑うだろうか。孤独な旅でなくなったろうとからかいに来るかも知れない。神殿に降りなくなったことを良いことに、あの太陽神はやたらと自分に会いに来る。
そしてまた、噂好きな女神達の話のたねにされるのだろう。
それもいいか、とレサルは深く息を吸った。草花の匂いが、体の奥まで入り込んで来る。
例え地上には一人でも――――踏みしめる大地も、照らす太陽も、風も、雨も、夜に昇る月も、そして絶え間なく出会うことになる死すらも、全て、その向こうには神々がいる。地上に打ち捨てられた無残な死は、自分が埋めよう。そうして死の神のもとで清らかな無となり、また命は廻る。
この、限りなく祝福に満ちた世界で、自分は生きていく。少しばかりの神の力と、積み重ねてきた過去を抱いて。
永久に、ただ一人の、人として。
(了)




