第十六話
竜の長との長話を終え、ヘヨカは差し出された茶を手に取った。木をくりぬいて磨いただけの器に、琥珀色の液体が注がれている。ヘヨカが顔を上げると、ディーエクタスはがらがらと笑った。
『どうやって淹れた、という顔だな』
「……まあ」
『お前の連れのように、竜の血が入って人に馴染めず、結局この巣を訪ねてくる者もいる』
「成程……」
ヘヨカは茶を啜る。
『それで、お前はあの連れの父親になろうとしているのか』
ディーエクタスの尾が左右に揺れる。
「ああ……娘だと思っている。ミカも傍に居ると言ってくれた」
ヘヨカは膝の上に器を乗せ、ふっと微笑んだ。
「その一言で、己れはどれだけ救われたか」
『……妙な話だな』
ディーエクタスが鼻を鳴らす。ヘヨカは顔をあげ、眉根を寄せた。
『お前の話を聞くと、父であろうとしてるくせに、娘に甘えている』
「……甘えている? 己れが?」
ヘヨカの口調に剣呑なものが混じる。
「……確かに己れはミカに救われた。だが」
『父親と言うのは』
ヘヨカの言葉を遮り、ディーエクタスは体を起こして鼻先をヘヨカに近付ける。
『娘に、傍に居たいと言わせるものなのか』
ヘヨカは言葉に詰まる。
『確かに無償の愛は親のそれだろう。だが親というのは娘が傍に居ることを宣言させるものか? あの娘が傍に居るのが、お前を気遣ってのことでないと何故言える』
「……、」
『真に娘を思うならば、人の世にも、ましてや竜の世にも馴染まぬお前の元から解き放て。お前がしていることは、お前の想い故にだろう……だが、あの娘は、五百年の昔に生まれてくるはずだったお前の娘ではないのだ』
「そんなことは――――」
分かっている、と言えなかった。ヘヨカは仮面を掴み、唇を噛む。
『……あの娘は自分の足で進んだのだろう。ならばお前も、それ以上に進むべきだろう』
「……そう、だろうな」
名を棄ててまで逃げようとした自分でも、ミカのためならば逃げなかった。賊と争うことも、ソールと対立することも、避けなかった。
だがそれはやはりミカを拠り所にしているということで、ディーエクタスに言わせれば甘えなのだろう。
『……まあ、なあに、お前達のことに無駄に口は出すまい。ただ、思ったことを言ったまでだ……人間の父子と竜とはまた異なろう』
がらがらとディーエクタスは笑うが、ヘヨカは視線を落としたまま黙っていた。
『……どうした』
「……いや」
茶を啜り、ヘヨカは目を瞑る。貧血のような眩暈がして、背中を冷たいものが伝った。
「そうだな……甘えているのかも知れないな」
そう呟くと、もう一度硬く、仮面を握る。指の付け根が痛み、それが少しだけ、眩んでいた意識を呼び戻した。
ヘヨカは静かに立ち上がる。尻に張り付いていた砂を払うと、仮面を目元に押し当てた。
「失礼する」
『む?』
ディーエクタスが前足を解いて体を起こす。ヘヨカはざばざばと水に入っていった。
『どうした』
「――――忘れ物を思いだした」
『ほう?』
水面に手を当てて、ヘヨカは仮面の奥で目を細めた。
「俺が己れ自身から隠そうとした欺瞞と、見ないふりをしてきた矛盾を」
ミカのチャームの気配を追うと、野原に出た。巣穴の先にこんな場所があったのかと、ヘヨカは辺りを見回す。岩場に、小さな焚火が見えた。
「ミカ」
ヘヨカは焚火に駆け寄る。仔竜に囲まれ、ミカは寝息を立てていた。ヘヨカに気付いたラクスが、唇の前に指を立てる。
「……寝ているのか」
「ああ。体も冷えたし、足を見るに随分歩いてきたんだろう。用か?」
「……ああ……いや、少し行くところが出来た。三日以内に戻るが、ミカを頼めるか」
「我々は構わない。……どうした。妙に焦った顔をして」
「……何でもない。頼む」
ヘヨカは腰帯から、金の飾りを一つ外す。それを眠っているミカの手に握らせて、踵を返した。ラクスの呼び掛けにも応えず、仮面を外して徐々に足を早める。川が近付いてきて、口の中で唱えていた呪文が形を取った。
「――――テッラの街へ!」
眼前に現れた魔法陣に、ヘヨカは迷いなく飛び込んだ。ぐん、と体が持ち上げられる感覚がする。世界がぐにゃりと歪んだ。湯に全身が包まれたような生暖かさがあり、伸ばした指先に別の壁が触れる。そのままその壁を突き破ると、周囲の景色がざあっと切り替わった。
着地した地点は、家々が建ち並ぶ街、その家の一つの、屋根の上だった。木の柵で囲われた街は間違いなく、テッラの神殿があるそれだ。
「っ……、」
心臓が嫌に脈をうち、ヘヨカは自らの胸を拳で打った。
ディーエクタスの言葉が、自分に突き刺さったのは確かだ。自分はミカの父親になろうとしてきた。見守り、いずれの巣立ちを見送ろうとした。だがその意識とは裏腹に、自分はミカを縛り付けている。その存在が傍らにあることに甘えている。
ミカの傍らにいて、共に穏やかな時間を過ごす。その幸福を噛み締めていた。それでいいのだと思っていた。
だのに何故、竜の言葉一つでこれほど胸騒ぎがするのか。
自分は何かを忘れている――――否、必死に目を逸らしてきていた何かが、見えなくなっている。それが、自分がミカに執着した根源の理由だ。
反論できなかったのは、図星だったからだ。
何処かで分かっていた矛盾を、突き付けられた。だがその矛盾を、その裏に自分自身が隠した大いなる欺瞞を、思い出せない。ならば、その根源たる五百年前まで、戻らなければいけないだろう。
まずは、自分を棄ててきたエスメラルダの墓だ。いつしか足を運べなくなっていたその場所は、今では墓標も失われて隠れてしまっている。
仮面をつけ直すのも忘れて、ヘヨカは屋根から飛び降りる。仕事を終えて家へと向かう人々が、落下してきたヘヨカに驚きの声を上げた。だがそれに一瞥もくれず、ヘヨカはテッラの神殿へと向かう。
「テッラ!」
階段を駆け上がり、礼拝堂に入るなりそう叫んだ。中に信者はちらほらしかいない。司祭が驚いたようにヘヨカを振り返る。ヘヨカはずかずかと礼拝堂に入ると、その先に吊るされているテッラの紋章を見上げた。
「テッラ、力を貸してくれ。忘れているものがあるんだ。己れが俺を棄ててきた場所へ、メルの墓へ連れて行ってくれ!」
くすんだ紋章に、そう請いる。まだ濡れている服が冷えて、身震いがするほどに寒くなってきていた。
「頼む……思い出さなければいけないんだ、己れが捨てたがった何かを!」
体が冷えて、吐き出す息が震えていた。足元に水滴がしたたり落ち、肩でしていた息がゆっくりと整っていく。
「……どぉしたヘヨカ。随分と余裕がねぇじゃねえか」
紋章が煌めき、テッラがふわりと舞い降りてきた。ヘヨカは安堵の息を吐く。
「悟ったフリはやめたのか?」
「……何とでも言え。忘れ物を拾いにいくんだ」
「今の内に警告するが、やめておいた方がいいぜ。自分の時間を五百年巻き戻すってことは、五百年間で忘れていた嫌なことも全部戻ってくるってことだ」
「……そうか、あんたは知っているんだな」
「そりゃあこれでも神様だからなあ」
腕を組んで、テッラは息を吐く。ヘヨカは一度目を伏せると、長い息を一つ吐いて首を横に振った。
「それでも己れは、忘れたままではいられないんだ」
「……そうかい」
ヘヨカは、自嘲気味に口元を歪めて笑った。
「かつての己れが己れに課した生き方を曲げるつもりは微塵もない。だが、そのために捨ててきたものの中に、きっと忘れ物がある」
「……良いだろう。まあ連れて行くだけなら構わねぇさ」
テッラは微苦笑を浮かべると、腕をほどいてヘヨカの額に指先を当てた。
「そら、目ぇ瞑れ。三つ数えたらお前はあの竜のお嬢ちゃんの墓にいる」
ヘヨカがぎゅっと目を瞑ると、テッラの口元がほころんだ。
寒風吹く山肌は相変わらずだったが、山の端には、家も、鳥小屋も、井戸も、可愛らしい菜園も無かった。振り返って丘をずっと下った先には、小さな家が固まった村がある。
ヘヨカは胸元で、橙色の首飾りを握る。手袋を外した掌は、冷たい汗で濡れていた。
アレグリアの墓と、エスメラルダの墓は違う。アレグリアの墓は長い年月守り続けてきた。だが、エスメラルダの墓は――――
「……久し振り」
墓標も無い、僅かな土の盛り上がりすらない茂み。そこに向かってヘヨカはそう呼びかけた。膝を折って地面に座ると、喉の奥が締まるような息苦しさがする。吐き出す息が震えているのは、体が冷えているせいだけではないだろう。
「……メル」
意識してその名を呼び、鼻の奥がつんとしてヘヨカは唇を噛む。地面に仮面を置くと、草が生えたその場所に手をついた。
――――ここには、エスメラルダの亡骸しかない。エスメラルダはここにはいない。あるのは残骸だ。自分が愛したあの少女は、とうにこの世界の何処にもいなくなっている。
「…………己れに、何が足りていない?」
目を閉じると、滲んでいた涙が頬を伝う。
山肌を撫でた風が、俯いた項に吹き付ける。それに身震いをして顔を上げた。開いた双眸に風が沁みる。視線をそのまま遠くへ向けると、すっかり変わっていたその景色が、見慣れたものに見えてくる。草ごと握った拳に血管が浮き、喉が痛んだ。
モルスと――――あの死の神と会って、ミカを待つと誓った。エスメラルダを埋葬して、自分もそこに棄てた。
「……、」
『……何千年先だろうが、俺は待っている』
そう言った自分は。
『まあ、良い未来も見えていたようだ。それが来るまで待つと良い』
そう、モルスに言われたのは。
「……俺だ」
ふらつきながら立ち上がって、眩暈に襲われる。数歩進んだ足から力が抜けて、またがくりと膝を付いた。
「……あ、」
ミカを待つと誓ったのは、彷徨わせてしまったミカの魂に報いるためだと言った。
では何故、父親としての名を棄てた?
「……あ、あ……」
決まっている。まだ自分は逃げたがったのだ。
どうしようもない自分を置いて、棄てて、前に進んだつもりだったのか。違う。
ミカを待つと誓って、それを自らの矜持として、父親になったつもりだったのか。違う。
自分は弱いと自覚した。自分の中にあった物を棄てようとした。憎んだ自らを、殺そうとした。何度も、何度も、何度も、何度も。
それでも自分は、結局何一つ捨てきれていなかったではないか。
エスメラルダから貰った鎖と、エスメラルダの遺品の首飾り。母に与えられていた金の腰の飾り。そしてエスメラルダの血の耳飾り。呆れる程に自らを過去に縛り付けておきながら、口では名を、自らを棄てたという。
まるで本物の道化だ。
「……全部自分の為だったんじゃないか」
吐き捨てるようにそう呟いて、ヘヨカはもう一度立ち上がった。
死を奪われて千年。
百年も経たない内に終わりを迎え、その短い生を謳歌する人々を羨んだ。ずっと、その中で生きたいと、叶わないことを願っていた。
自分を置いて行ったのは、過去に背を向けたかったから。
待つと誓ったのは、生きる意味を欲しがったから。
そんな自らを否定して、ミカの為だと、父親になるのだと嘘を吐いた。だがそれも不完全だったから、その欺瞞を自らから隠していた。
成長などしていない。ソールの言う通り、逃げ続けてきた。
「……棄てていいものなど」
本当に自分が望んだものを、手に入れたかったのならば。
「何一つ……本当は、なかったんだな」
殺し続けた自分を受け入れなければならなかったのだ。
「メル、お前がいない世界で生きていくという事実を、俺はちゃんと認めなければいけなかったんだな」
地面に置いた、道化の仮面を拾い上げる。形ばかりの涙の絵に、「嗚呼」とヘヨカは微苦笑を漏らした。
ざあっ、と風がまた吹き抜ける。振り返ると、見覚えのある女神がそこに立っていた。白い外套が風に靡いている。目深に被ったフードの奥で、紅い艶やかな唇は笑っていた。
「ようやく帰ってきたか」
「……モルス」
「どれだけ時間をかけたら気が済むのやら、全く……千年も前に、未来を見せてやっただろうに」
呆れたようにモルスは溜息を吐いた。
「まあどうせ忘れていたんだろう。神が見せた夢やら神との会話は人の頭に残りにくい。だが今なら、意味が分かるだろう?」
モルスはフードを降ろす。癖のある黒髪が肩にかかり、現れた切れ長の目は、吸い込まれるような黄金色をしていた。
「過去、現在、未来。全て一続きになっているそれの一端は、世界の監視者たる神々ですらその片鱗を見ることしかできん。だが、時にその片鱗は何よりも鮮やかに、人には見えぬ未来を照らす……それが何百年、何千年先の未来かなど重要ではない。それを千年前のお前が既に見ていたということが大事なのだ」
モルスの指先が、ヘヨカの額を小突く。
「戦神の息子……いや。星を司る半神、レサル。逃げようとした苦痛も、嫌った自らも全て取り戻して、さあ、お前はどうする」
「………………」
額に手を当てて、ヘヨカは俯いた。
「……千年前に、俺はミカに逢っていたんだな」
ぽつりと呟く。
「メルの娘だとか、そういうのを抜きに……あいつは俺と出会う未来に、もういたんだな」
揺れた髪が、首筋にあたってこそばゆい。顔を上げると、すっと広がる世界が見えた。
「何も変わらないさ」
自然と頬が緩んだ。頑なに、折られまいと支えていた自らの心が軽くなる。
「己れがしてきたことは、何一つ変える気はない。ただ、自らに課されていた重荷が、重荷でなくなるだけだ」
千年、ソールに対して意地を張った。五百年、自らを欺いて意固地になった。自分はミカを待ち、その父親になるのだと、そうならなければいけないのだと、自らを縛り付けた。
だが、それを自覚して自らを取り戻したところで、何が変わる訳でもない。結局自分はソールに謝る気はさらさら無いのだし、ミカが大切だというのも変わりはしない。
「幼い意地だろうが、縋りついた希望だろうが、何年も経って、それでも守りたいと思えたら、それはもう、誇りと呼んでいい代物だろう。過去の残響だろうと、それが今の己れを作った。捨てきれないで足掻いた己れもまた、棄てられない何某かになってしまった」
仮面を胸元に当てると、強張っていた体から力が抜けた。
「ならば、今度こそ俺は、全てを抱えて生きていく」
そう、死の神に告げた。
「……若造が」
モルスは笑う。
風に靡く髪を押さえ、モルスは再びフードを被った。
「そう言うならば見届けてやろう。お前が何処まで、自分自身と生きて行けるか」
モルスの服の装飾が、しゃらしゃらと風に揺れて音を立てた。それと共にモルスの姿は薄まり、声だけが響いてくる。
「二度とお前自身の墓を作る日が来ないことを、期待する」
モルスの姿が完全に消えると、ヘヨカは――――レサルは、視線をまた、エスメラルダの墓があった茂みへと向けた。
「自分の墓を作るなぞ、二度としないさ」
レサルは目を細める。
「ここはメルと、その子の墓なんだ」
仮面を腰帯に吊るし、茂みの前にしゃがんで草を摘む。
もう一度、きちんとした墓を作ろう。石を二つ墓石にして、一つにはエスメラルダの名を刻もう。もう一つには名は刻めないが、それでも二つを並べて置こう。
ここは自分を棄てた墓ではないのだから。
自分を変えてくれた彼女を、そして悠久の時を生きる希望となってくれた命を、忘れない為の墓なのだから。
澄んだ小川の流れをぼんやりと見詰め、ミカは溜息を吐いた。
「そうつまらなそうな顔をするな。そろそろ晩飯だぞ」
ミカの傍らに立ち、ラクスがその顔を覗き込む。ミカは僅かに唇を尖らせた。
「だって、旅に出てからずっと、ヘヨカ様と一緒じゃない日なんてなかったもの。それに、三日目だし、今日には帰ってくるはずでしょう」
「どうだか」
「……ラクスはヘヨカ様が嫌い?」
「あまり好かないな。昔から、銀髪の半神といえばあまり良い噂は聞かなかった。……人の間でも、ヘヨカという死神の話は有名だろう」
「うん」
ミカは目を伏せ、金の飾りを見詰める。日の光を反射して光るそれは、ヘヨカの左目のように澄んでいた。見た目は金属のようだが、握るとほのかに温かく感じる。
「でも、あの人はお伽噺みたいに、怖いだけの人じゃない」
ミカが言うと、ラクスは唇を曲げた。
「確かに、ちょっと怖いところもあるよ。……でもね」
ミカは握った飾りを懐に入れ、両手の指先を合わせてそれを唇に当てた。
「あの人のお伽噺が、あの人の全てじゃない。勿論私だって全てを知っている訳じゃない。だけど……だけどね」
照れたように頬を染めて、ミカは不器用に笑って見せる。
「美味しいものを食べて上機嫌になったり、疲れて居眠りをしてしまったり。そういう姿を見る度に、ああこの人は、私と何にも変わらないんだって感じてね。それが嬉しくて……また大切になる。お伽噺以上のあの人のことを知ったら、きっとあの人を好きになる」
怪訝な表情をしているラクスを見上げ、ミカは手を握った。
「だって、私はあの人と出会わなかった未来なんて想像できないんだから」
あの日、あの晩。いつもと同じように宿に来た旅人が、自分の理解できない力を持っていると知ったとき。自分を囲っていた行き場のない牢獄に、風穴が開けられた。
あのまま宿屋でずっと働いていたとしたら、今も自分は笑えていなかっただろう。あの町は賊に支配されたまま、どうなっていたか分からない。
「……全く」
ラクスはミカの様子に苦笑をこぼし、その場に座った。
「?」
「日没までなら付き合ってやる。今しばらく、外であいつを待っていよう」
「……! うん!」
ミカも柔らかい草の上に座り、膝を抱えた。




