第十五話
澄んだ水は、心の臓が縮んでしまいそうに冷たかった。片手で鼻をつまんで、もう片手でヘヨカにしがみつく。ヘヨカは水に入ると同時に、ふっ、と息を吐き出した。生まれた大きな泡は歪みながら水面へと向かい、ばらけて同じ大きさの粒へと変化した。やがて小さな泡の粒は大きな二つの円を描き、交差して二人を囲むように回転した。
ヘヨカに頭を軽く叩かれ、ミカは恐る恐る目を開く。冷たい水に一瞬目が痛んだが、慣れると澄んだ湖の中がよく見えた。深い湖の底へと降りていくと、水が深くなるにつれ日の光が薄れていった。水底は白い砂で埋まり、水草が揺れていた。息が苦しくなり、ミカは詰めていた息を吐き出す。
「……?」
息苦しさを感じず、ミカはヘヨカを見上げた。ヘヨカは軽く頷いて見せる。二つの泡の輪は二人に合わせてゆっくりと移動している。
竜は水の中をゆっくりと進み、壁面へと近付いて行った。湖底近くには巨大な穴があり、竜はそこへと入っていく。ヘヨカはミカを抱き寄せ、片手で大きく水を掻いた。水の輪に囲まれながら、二人は竜の後を追って巨大な穴へと向かう。
暗い穴の先に、ぼんやりと淡い光が見えた。見れば、竜が通った後の壁面が青白く光っている。ミカはヘヨカにしがみついたまま、その淡い光へ視線を向けた。
ヘヨカは、とん、と指先をミカの額に当てる。
『竜苔だ』
ヘヨカの声がミカの頭の中で響いた。ミカは驚いて顔を上げる。
『竜は人とは違う種類の魔力をまとっている。それに反応して光るんだ』
ミカは残っていた最後の息を吐き、光を失い始めた壁面へと手を向ける。ふおっ、とその指先の近くから光が広がった。
水を吸った服と荷物が重くなり、ヘヨカとミカはゆっくりと、穴の底へと近付いていく。足先に触れた地面を蹴ると、白い砂が舞い上がった。竜が上へと向かい始め、水の先に光が差す。竜苔のそれとは違う、真っ直ぐに差し込んでいる光だ。竜はそれに吸い込まれるように、上へ上へと昇っていく。
長い横穴の終わる場所に、水面が見える。さざ波の立つ境界面はまるで揺らめく鏡のようで、目が痛いほどに光っていた。ヘヨカが強く水を蹴って、水面へ向かう。ミカもヘヨカに掴まりながら、見よう見まねで足を動かした。
「――――ぷはっ!」
水面から顔が出て、ミカは口を開く。息苦しくなかったとはいえ、水中ではやはり無意識に口を硬く閉じてしまう。大きく息を吸うと、ほっと肩の力が抜けた。ヘヨカはミカを抱え上げ、浅瀬へと向かった。
竜の巣は、大きな山を内側からくりぬいたような形をしていた。入り口の湖をぐるりと壁が囲っており、地面や岩肌には花が咲いている。天井の中心部に小さな穴が空き、そこから陽の光が差し込んできていた。草の生えていない岩肌は竜苔で覆われ、それが淡く巣の中を照らしている。
『――――客人か』
降ってきた重々しい声に、ヘヨカは顔を上げる。案内をした竜よりやや大きい竜が、二人を覗き込んでいた。案内した竜が唸り、大きな竜はそれに応える。案内をした竜は再び湖へと入り、別方向へと泳いでいった。大きな竜は頭を振り、前足を二人の両脇に付く。ぐぐ、とその体の輪郭が歪んだ。
「……おお」
ヘヨカが驚嘆したような声を出す。大きな竜の姿はみるみる縮み、一人の少女の姿となった。絹のような白い布を体に纏い、長い水色の髪を地面まで垂らしている。すっ、と立ち上がると、ミカによく似た深い蒼の瞳をしていた。
「……さて。私は若長のラクスだ。人間ならこの姿の方が話しやすいか?」
少女が言い、胸元に手を当てて見せる。
「……そうだな、助かる」
「やれやれ。相変わらず人間というのは小さいな。まるで、幼い頃の巣穴に潜り込んだような気分だ」
少女、ラクスは肩を竦めた。
「さて、それで」
ラクスの視線が、ミカ、ヘヨカと順番に向く。ミカは体を硬くし、ヘヨカの服を掴んだ。
「人の子が、この場所に何の用だ? 見たところ二人共半分しか人間ではないようだが」
「この子の父親を探している」
ヘヨカがミカの背を押して、「ほう」とラクスはミカを見下ろす。
「成程、皆に聞いてみよう。お前、歳は」
「へっ……、あ、今年で、十四になります」
「分かった。人と子をなすにも長く巣穴を出なければいけないからな。割合すぐに親は見つかるかも知れん」
ラクスは竜の姿へと戻り、湖に潜る。巣穴に二人取り残され、ヘヨカは息を吐いて髪を掻き上げた。ミカも、ぼたぼたと雫を落としている服を絞り、長い髪をまとめている。陸に上がった二人の足元には、既に水たまりができていた。
「………………」
ミカの足元で、竜苔が淡い光を放つ。それを見下ろし、ヘヨカは仮面の奥で目を細めた。
二人の前で、湖の水面が泡立つ。現れたのは、すんだ水色の鱗を纏った、巨大な竜だった。角は太く、曲がっている。
『……半神……』
「……長殿か」
ヘヨカは竜を見上げ、水の滴る襟元を正す。
『そちらの娘の親は、我が娘が探している。お主はこちらへ来い』
竜が顎で湖の方を示す。ヘヨカは荷物を置き、上衣を脱いだ。
「ミカはここで待て」
ミカは頷き、ヘヨカの上衣を受け取る。ヘヨカは竜に続いて湖へと飛び込んだ。
ヘヨカの影が見えなくなり、ミカは草の上に座った。放置されたヘヨカの荷物を引っ繰り返して、服や布きれを絞っていく。
「ところで、なあ」
ひょいっ、とそのミカの顔を、ラクスが覗き込んできた。ミカは驚いて尻餅をつく。
「い、いつの間に……」
「今し方、人型だったら通れる道から戻ってきたんだ。お前、名は何と言う?」
「あ……申し遅れました、ミカと申します」
「ふうん。お前、あの半神の恋人か?」
「へっ!?」
気負いのないラクスの質問に、ミカは素っ頓狂な声を上げた。
「だって、何だか特別な感じだろう」
「違います、実は、えっと……ヘヨカ様とは、不思議な縁がありまして」
「へえ、縁、ねえ。……その堅苦しい話し方をやめてくれないか。息が詰まってしまう」
「でも……」
「私だって竜じゃ若輩だ。見た目もさして変わらないだろう?」
ラクスがにっと笑って見せて、ミカも控えめに笑った。
「それで、縁があるから何なんだ」
「その……えっと、恋人じゃないと思いま……思う。ヘヨカ様は、特別、だけど、そういうのじゃ……」
改めて口にすると、喉の奥が何やら痒くなった。
「ヘヨカ様は、私の、父に……なろうとして、くれているんじゃないかと……」
もごもごと口ごもり、ミカは俯く。ラクスは濡れていた髪を掻き上げると、どさりとミカの隣に座った。
「父、なあ。どれくらい共にいるか知らんが、男女で共に旅をしていれば、親子になるより、恋人になる方が先だろう。竜だって、気付けば恋をしていたなどよくあることだ」
「そうな……の?」
驚いたように見上げてきたミカの額を、ラクスは指先で弾いた。
「腑抜た顔をして。その歳で恋の一つも知らないのか」
「……、」
ミカは額をさする。
「恋っていうのは、近しい誰かにするものでしょう。そんなの知らないし、分からないよ」
やや陰った表情に、ラクスは鼻を鳴らす。そして、ぐいっと胸倉を掴んでミカを引き寄せた。驚いたミカを睨みつけ、ラクスは息を吸って犬歯を見せる。
「あのなあ小娘。たかが十四年の命で何を悟ったか知らないが、下ばっかり向いていると老けるのが早くなるぞ」
ラクスは苛々とした口調で言った。ミカは目を丸く開いたまま、固まっている。
「恋を知らない? 分からない? したことがないならば当然だろうが。今まで近しい誰かがいなかったのを、まさかその鱗のせいにしていないだろうな。自分は生まれた時から他の人間とは違うなどと諦めていないだろうな。自分を特別扱いするあの半神に、依存していないだろうな」
じわりと服から水がにじみ、二人の間に雫を垂らす。
「お前、まさかあの半神の為なら死ねるなど、考えていないだろうな」
竜の長の向かいに座り、ヘヨカは仮面を外す。そして両の拳を地面に着き、頭を下げた。
「まずは礼を言う。竜の巣穴に入るのは初めてのことだった」
『何、侵入者を拒むほど我々は貧弱な種ではない。名乗っておらんだな。儂はディーエクタスと言う』
「ヘヨカと呼ばれている」
『そうか。それで、名は何と言う』
竜の長、ディーエクタスは組んだ前足に頭を乗せた。ヘヨカが唇を曲げ、ディーエクタスの目が面白そうに笑う。
『ほら小僧、言ってみろ。名は何と言う』
「……己れのことを知っているのなら、ひとが悪い」
ヘヨカは苦々しい顔になった。
「……母から貰った名は、レサル・メーロという」
『そうか、レサル。どれ、もてなしの茶を淹れよう』
「そうか」
ディーエクタスはがらがらと笑い声を上げた。
『そこは、『どうやって茶を淹れるのだ』と言うところだ』
「……そうか」
ヘヨカは苦々しい顔のまま、溜息を吐いた。
「大体なあ、好きな相手の為に死ねると言う人間は確かに私も昔は見た。その気概は大いに結構だが、もし好き合った同士で相手に死なれたらどうする」
「……はあ」
「ほら、手に持ってるその紐を寄越せ。綺麗にしてやる」
ラクスは櫛を口に咥え、まとめたミカの髪を紐で束ねる。ミカは草の上に座って照れたように頬を染めていた。
一つに束ねたミカの長髪を、ラクスは手早く三つ編みにしていく。そして先端をもう一度束ねると、根元に月と星のチャームを差し込んだ。
「どれ、水に濡れて体が冷えているだろう。生憎だが服の替えがない。火を焚いて茶を淹れようか。こっちに来い」
ラクスが立ち上がり、ミカは荷物を抱えてその後に続いた。
岩に囲まれた竜の巣の端に、人一人がようやく通れる程度の穴があった。ラクスがもそもそとその中へ入る。ミカもその穴をくぐると、まばゆい日の光に照らされる野原に出た。
「……ここって」
「あんな狭い巣穴に、皆が入れるわけはないからな。あそこは客人を待たせる入り口だ」
ラクスが手を上げて、子犬ほどの大きさの竜が草の間から顔を出す。ぴいぴい、と甲高い泣き声を上げながら、竜達がラクスの周りに集まってきた。
「お前達、おやつにするぞ。火を焚くから岩場へおいで」
ラクスが言うと、仔竜はとすとすと足音を立てながら、野原の端へと向かって行った。
「お前も。すぐにおやつを取ってくるから待っていろ」
「えっ? あ、……うん」
焚火跡がある岩場によじ登ると、先に来ていた仔竜達がミカの足元に群がった。
「わっ?」
足を取られて転ぶと、待っていたと言わんばかりに腹の上に仔竜が乗ってくる。髪を噛んで引っ張られ、ざらついた舌で手の甲を舐められた。
「ちょっと、くすぐった……」
わらわらと仔竜にもみくちゃにされ、ミカは苦笑する。腹に乗ってきた仔竜の頭を撫でるとぴいと鳴いた。
「……ははっ。お前が竜の血が入っていると分かって、甘えているんだな」
戻ってきたラクスが笑う。その手には、籠に山盛りの魚が入っていた。
「あ、甘えて……?」
「遊んで欲しいのさ。生まれたばかりで、何にでもとにかく触りたがる時期でな。危なっかしくてこの原から出せないんだよ」
「そうなんだ……」
ミカは視線を遠くへ向ける。自分が座っている岩肌の反対側は、広い野原が広がっていた。その向こうには小川が流れ、また深い森になっている。
「大人の竜は、何処に?」
「まあ色々さ。あの巣穴でくつろぐこともあれば、各々持っている巣穴に入ることもある。好き好きだな。この竜の巣は広いから」
薪を積み上げて、ラクスは火を点けた。ミカに群がっていた仔竜達が、一斉にその背後に隠れる。ラクスは苦笑して、魚の籠を火から離した。
「あの……」
「うん?」
「何か……その、」
「礼なら要らない。客人のもてなしだ」
ラクスがひらひらと手を振って、ミカは口ごもる。
「……そうだな、旅の話を聞かせてもらえればそれでいい」
「えっ……」
「半神とここまで旅をしてきたんだ。何か、面白い話くらいあるだろう?」
ラクスが言い、仔竜の一匹を膝に乗せた。ミカは、濡れたヘヨカの上衣を火にかざしながら、曖昧に頷く。
「それじゃ、えっと……私とヘヨカ様が出会った時のことから、で、いい、かな?」
ミカが首を傾げ、ラクスは笑みを浮かべて頷いた。




