第十四話
客間で荷造りを終え、ミカはケープを羽織った。今日、ヘヨカのメーロとしての仕事が終わり次第、この街を出ることになっている。
十日近い逗留で、すっかり世話になってしまった。せめて女官に礼を言おうと、ミカは客間を出た。
「メーロ様!」
背後から声をかけられ、ヘヨカは振り返る。赤黒い髪でオッドアイの少女が、胸元に手を当てて笑みを浮べていた。左目を覆っていた鱗は無くなり、布で顔を隠すこともなくなっている。先日、魔術によって竜の鱗を消した少女だ。
「本日までと伺ったので、お声をかけさせていただきました」
「……そうか」
「お慈悲を、ありがとうございます。母も喜んでくれました」
少女は顔いっぱいに笑みを浮かべ、両手をぎゅっと握る。
「夢だと思っていたんです。鱗が消えて、他の人と同じように生きられるようになるなんて……やっぱり、人の中で生きるには、竜の鱗なんか要りませんから」
「満足ならいい」
ヘヨカが踵を返し、少女は深々と頭を下げた。
神殿の奥へと戻り、頭の布を取る。神の真似事に慣れることはなかったが、多少は、それらしく騙っていられただろうか。
「ヘヨカ様」
荷物を抱えたミカが、部屋に入ってくる。ヘヨカが仮面をつけ直して顔を上げると、ミカは笑みをこぼしてヘヨカに近付いた。
「荷造りも挨拶も、終えてきました。お着替え、お手伝いします」
「……いや、大丈夫だ。すぐに終わる」
「そうですか……」
「街で買い物をしたら、しばらくの長旅になる。覚悟だけしておくといい」
「はい。……今度は、何処へ?」
ミカは首を捻ってヘヨカを見上げた。ヘヨカはもそもそと着替えをしながら、ずれた仮面を直す。
「ずっと南の方へ行く。人の手が入っていない大きな森と、澄んだ水がある場所だ」
胸元の飾りに触れ、ヘヨカは口元に手をやって笑わせた。
「竜の棲む場所へ……お前の父親を、探しに行こう」
ヘヨカの言葉に、ミカは目を瞬かせ――――ぎゅっと荷物を掴んで唇を噛んだ。
「……ミカ。嬉しかったら、」
「笑うんですよね」
ヘヨカの言葉を遮り、ミカは荷物を足元に置く。そして両手を頬に当てて、それを持ち上げて下手な笑みを作った。
「ヘヨカ様が、教えてくださいました。……私、これからは嬉しかったら笑います。だから、ヘヨカ様も、嬉しかったら、笑ってください。きっと、ヘヨカ様が笑っていた方が、先に逝ってしまった人達も、喜びますから」
ミカの言葉に、ヘヨカは仮面の奥で瞬きをする。
「……ミカ……」
笑って見せるミカは、俯きがちで自分の後ろにいた、ひ弱な少女ではない。その体はまだ痩せていて、表情も格段に明るくなった訳ではないが、確かに、その大きな蒼い瞳は、真っ直ぐな光を宿していた。
「……そうだな、己れも、笑うようにしよう」
ミカの頭を撫で、ヘヨカは不器用に口元を笑わせる。意識すると口元が引き攣って、上手く笑えなかった。それでもミカは、ヘヨカを見上げて口元をほころばせる。
嗚呼、とその笑顔を見つめてヘヨカは目を閉じた。
自分にもっと力があって、彼女からその子供を奪うことがなければ。三人で、笑っていられたのだろうか。そんな幻想を抱いては、自分を嗤っていた。
自分さえいなければと自らを疎み、憎み――――殺してしまいたいと願った自分が、愛しい相手と笑い合っている。ただそれだけで幸福なのだと、彼女に言ったら笑うだろうか。
自分に光を与えてくれた、あの黒い竜を背負った少女は。
「世話になった」
謁見の間に立ち、ヘヨカはテッラに頭を下げる。テッラは盃を傾け、ふはっ、と笑って見せた。ヘヨカが顔を上げると、テッラは空の盃をヘヨカに投げる。
「餞別だ、持っていけ」
「……悪いな」
「良い顔になったぜ、少しは。ただの休息も悪かねぇだろ」
「まあ……たまにはな」
「生き急ぐな。嬢ちゃんの時間はお前にとっちゃ短かろうが、嬢ちゃんにとっては目一杯なんだからよ」
テッラは盃を傾け、慈しむように目を細めた。
「嬢ちゃんはお前が思ってるより、ずっと早く大人になっちまうだろうが。それでも、二度と戻らねぇ今を生きてるんだ。少しは、嬢ちゃんに合わせてやってもいいんじゃねえか」
「……善処する」
「ま、俺も人の親になったこたぁねえから何とも言えねぇがな」
テッラが笑い、ヘヨカも微苦笑を浮かべて踵を返した。
外で待っていたミカの前髪に、直したばかりのチャームを付ける。フードを被って鞄を持つと、ミカが遠慮がちにヘヨカの袖を引いた。
「あの……これ」
「?」
ミカは、くたびれた紙袋の中から、銀色の羽の髪飾りを取り出す。
「以前の街で買っていたのですけど、その、渡せなくて……安物ですみません。でも、その……きっと、お似合いになるかと」
「………………」
ヘヨカは髪飾りを見詰め、それからフードを降ろしてそれを髪に付けた。
「……こんなところか」
右耳の後ろで、銀の羽が揺れる。青みがかった銀髪に、金属の銀はよく映えた。
「街を出るまでは髪を隠す。それまでは我慢しろ」
「あ……はい!」
一瞬ぽかんと口を開けていたミカは、はっとして頷いた。
「街では、何をお買いに?」
「お前の寝袋と、冬用の外套……それから食料を少しだ」
ミカが手を伸ばし、ヘヨカはその手を握る。ミカに合わせてゆっくりと歩きながら、ヘヨカはフードの奥で髪飾りを握った。
午後の市場を歩いていると、屋台から香ばしい匂いが漂ってきた。買った寝袋と外套を入れた袋を担ぎ、ヘヨカはミカを見下ろす。ミカはヘヨカの手を繋いだまま、周囲の屋台をきょろきょろと見回していた。くん、と鼻を鳴らせば甘い匂いに包まれる。
「何か食べるか?」
「えっ……ええと」
ミカは遠慮がちに、屋台の一つを指差した。鉄鍋の中で、きつね色の団子が揺れている。
「揚げ団子だな」
「すみません……」
「そういうときは礼を言えと、テッラが言っていた」
「あ……ありがとうございます」
「……ああ」
ヘヨカが団子を買い、串に四つずつ連なったそれが二つ渡される。その串の一つをミカに渡し、ヘヨカは団子を咥えて歩き出した。
揚げたての団子は、まだ衣の表面で油がしゅわしゅわと鳴っていた。ミカは湯気の立つそれを吹いて冷まし、口に入れる。内側には芋を練った餡が入っていた。
ふにゃりとミカの顔が緩む。ヘヨカに手を引かれるまま歩きながら、ミカは団子で頬を膨らませた。ヘヨカはそれを見下ろし、ふっと口元を笑わせる。その視線に気付き、ミカはっとして口元を手で覆った。口いっぱいの団子を飲み下して、油で光る唇を擦る。
「美味しいですね」
「ああ。……久し振りに食べたな」
ヘヨカも団子を口に入れる。その横顔を見上げて、ミカは首を捻った。
「……ヘヨカ様、上機嫌ですか?」
「……まあ。恐らくな」
ミカに言われて、初めて気づいたようにヘヨカは仮面の奥で視線を逸らす。
「そうですか」
ミカが笑い、ヘヨカは訝しげに唇を曲げた。
「どうしてお前が笑う」
「え? ……えっと、何ででしょう。分からないですけど、ヘヨカ様が今を楽しいと思っているんだったら、私も嬉しいんです」
ミカが照れたように頬を掻く。
「私は、ヘヨカ様と一緒にいられる時間は少ないですけれど、その分、出来るだけ、笑っていたいですから」
ミカの手に力がこもる。ヘヨカの手に比べれば小さく、細い。しかしその手は、しっかりとヘヨカの手を握っていた。
強いな、とヘヨカは目を細めた。先日姿を眩ませたとき、何処で何を得てきたのかは分からない。分からないが――――あの日から突然に、ミカの時間は進み始めた。自分が背中を押しても、必要だと言っても、手を伸ばしても、自分からは動かなかったミカが。自分自身で前を向き、手を握り、心内を語るようになった。
必要とされてこなかったと言っていた。誰かに甘える仕方も知らないでいた。だから、自分が目一杯甘やかそうと、せめて、形だけでも父親らしくと取り繕っていた。
「……敵わないな」
そんな必死な自分も、あっという間に飛び越えてミカは成長していく。たったの二十日で、まるで十年の時を超えたかのように。気付けば、手を引っ張られるのは自分の方だ。
ミカの持っている残りの時間が、自分にとってはあまりに短いことも。遠くない未来でまた苦々しい別れを迎えるであろうことも。今は、今だけは目を瞑っていよう。
賑やかな市場を歩きながら、ヘヨカは只その、繋がった手の幸福を噛み締めた。
尖った岩の上に立ち、雲を貫く峰を仰ぐ。遥か上空を、鳥のように竜が舞っていた。日の光を反射する鱗の色は紅だ。
「……テッラ様の街に、紅い鱗の人がいましたね」
「ああ。結局あいつは、鱗を捨てることを選んだが」
ヘヨカの傍らで、ミカは両手を目の上に当てて空を仰いだ。
「……人の中で生きたいなら、それも一つかもしれませんけど」
ミカの不満げな声音に、ヘヨカは微苦笑を漏らす。
「人それぞれだ、言ってやるな」
「……そうですね」
ミカは視線を降ろして、岩から草むらへと飛び降りた。
「あれは、飛竜ですよね」
「ああ。紅竜は気高い飛竜だ。黒竜よりも高い峰を好むらしい」
「……ヘヨカ様、竜にお詳しいのですね」
「……長く生きていれば、それだけ世界を知る。黒い竜と昔取引をして以来、たまに会っているからな」
ヘヨカも岩を降り、フードを被る。
「沢を下れば森に入る。そちらに行くぞ」
「はい」
ヘヨカが手を差し出し、ミカはその手を握る。手袋越しに握りあった手を軽く揺らしながら、二人は山沿いの川へと向かった。
花の時期を過ぎてはいたが、川原にはまだ白い花が幾つか咲いていた。ミカは視線を落とし、花を踏まないように爪先で歩く。水草が揺れる川は澄んでいて、ミカの背丈ほどの幅だった。淡い銀色に光る魚達が、透明な水の中で並んで泳いでいた。
次第に草の背が高くなり、川の幅も広くなる。紅竜が鋭い爪を岩壁に食い込ませ、遥かな上空で翼を休ませていた。川沿いから逸れると、徐々に増え始めた木々がざわめき、鳥の声が降ってくる。ミカの足元を掠めて、ウサギが茂みへと飛び込んだ。
ミカの視線は、絶えず周囲を見回していた。それに気付いてヘヨカは足を止める。
「休むか」
「えっ……」
「周りが気になるんだろう」
ヘヨカは近場の石に座り、鞄を降ろす。ミカは目を瞬かせ、それからヘヨカの隣に鞄を置いた。ヘヨカはフードを降ろして、僅かに汗がにじんだ髪を掻き分ける。銀の髪飾りが、木漏れ日に光っていた。
「小休だ。己れはこの辺りにいる」
「……あ、ありがとうございます」
ミカは笑みをこぼし、道をやや戻って川の方へと走っていった。
ヘヨカは手袋を外し、足元に咲いていた花を一つ摘む。茎は細く長く、花は白く小さい。既に花は少なくなっていたが、葉をつけた長い茎はまだ沢山あった。
木陰から日向へと視線を向ければ、草の中にしゃがみ、茂みへと手を伸ばすミカがいる。結い上げた水色の髪が、日の光に透けて見えた。恐る恐る差し出された手の先には、一匹のウサギがいる。
花と茎で冠を編みながら、ヘヨカは小さく一つ、息を吐いた。そしてゆっくりと、草木の青臭さに満たされた空気を吸い込む。少し、瞼が重くなってきた。
ミカはごくりと唾を飲み込んで、両手でウサギを持ち上げた。ふわふわとした感触と、ずっしりとした重みが手に乗る。ウサギは大きな耳をあちこちに向けながら、ふこふこと鼻を鳴らしていた。
首筋を撫でる風に身震いをして、ミカは顔を上げる。降ってくる日の光はまばゆく、鮮やかに草花を照らしていた。そっとウサギを降ろし、地面に座る。柔らかな草は冷たかった。鳥が鳴き、白と黒の小鳥が枝葉の間から覗いている。
「……綺麗……」
ゆっくりと息を吸い込んで、鮮やかな木々を見上げる。風がゆっくりと草花を揺らしていた。鳥の鳴き声と、葉のこすれる音。川の流れる音が、それに混じっていた。このままここで眠ったら、さぞ心地いいだろう。
座って空を仰いだまま、目を閉じる。瞼越しでも、日の光は眩しかった。両手に触れる草の感触が、頬を撫でる風が、何処までも、何処までも繋がっているように感じる。今自分は限りなく広い草原に座っているのではと錯覚する。狭い使用人部屋ではない。飛び跳ねたら抜けてしまいそうな床の上でもない。
この限りなく広い大地を司っているのは、あの大地の神テッラだ。
この、自分に降り注ぐ優しい日の光を司っているのは、あの太陽の神ソールだ。
矮小だった自分の世界は、こうして果てしなく広がった。そしてそれを守る神々に背を押されて、自分はここにいる。
ゆっくりと目を開くと、鼻の奥がツンとする。ミカは慌てて両手で目を覆った。以前まで我慢していた反動のように、近頃はよく涙が出る。
とすっ、と何かが落ちる音がして、ミカは振り返った。木陰の薄暗がりで、ヘヨカが俯いている。その手から落ちた花冠が、草の上を転がって倒れた。
「ヘヨカ様?」
ミカは立ち上がってヘヨカ近付く。ヘヨカは座ったまま、口を半開きにして首を傾けていた。もしや、とミカはそっとその仮面に手をかける。紐をほどいて仮面を外すと、睫の長い双眸は閉じられていた。その無防備な寝顔に、ミカの口元が緩む。落ちた花冠を拾ってヘヨカの膝に乗せると、ミカは静かにその場を離れた。
小さな花を幾つか摘んで、細長い茎で縛る。そうして出来た小さな花束を花冠の中に置き、ミカはヘヨカの傍らに座って目を閉じた。
「……ん……?」
何かが頬に触った気がして、ヘヨカ目を醒ました。肩にとまっていた小鳥が飛んでいき、当たった羽の感触が頬に残る。ヘヨカは頬を撫で、膝に乗っていた仮面を掴む。
「…………ミカ」
ヘヨカに寄りかかって、ミカは寝息を立てていた。ヘヨカは膝の上に乗った花束を見、口元をほころばせた。
徐々に広くなった川の先には湖があった。森に囲まれた澄んだ湖には、鹿や鳥などが集まっている。その中に、すらりと長い尾を持った、翼の無い竜がいた。
大きさは獅子よりいくらか大きい程度か。水色の鱗は滑らかで、したたる水が日の光に煌めいていた。長い首をもたげて、竜はゆっくりと振り返る。その視線の先には、茂みを抜けて現れたミカとヘヨカがいる。細長い虹彩の双眸は深い蒼色だった。
「……竜」
ぽつりとミカは呟き、ヘヨカの服を握る。竜はゆっくりと前足をついて体を持ち上げた。小さな頭には二本の角があり、口には細かな牙がずらりと生え揃っていた。
ヘヨカは静かに水辺へと近付き、荷物を降ろした。周囲の水鳥がヘヨカを振り返る。ヘヨカは竜を見上げ、後ろに隠れているミカの背を押す。
『――――見慣れない顔だな』
鈴を転がすような音と共に、竜が口を開く。ミカは息を飲んでヘヨカに体を寄せた。
「人の言葉を話せるか、ありがたい。この子の父親を探している」
ヘヨカはミカの頭に手を乗せ、ぽんぽんと優しく叩いた。竜は首を伸ばし、前足を湖へと伸ばす。ふぉっ、と足先から風が生まれて湖の表面にさざ波が立った。竜はそのまま、水面を歩いて二人へと近付いてくる。ミカは丸い目を更に真ん丸に見開いた。
竜は二人の前まで来ると、水辺にゆっくりとその体を下ろした。長い尾は湖に浸かり、底の砂が舞い上がって水を濁す。竜の鼻先が近付き、ミカは体を硬くした。
『……人の血が入った、竜の子か』
「ああ。父は水の竜のはずだ」
『ふむ……』
竜の鼻先が、ミカの額に触れる。ミカはぎゅっと目を瞑り、ヘヨカの服を握り締めた。
『……いいだろう、ついて来るがいい』
竜が顔を上げて立ち上がった。鼻先が離れる一瞬、ミカは体を震わせる。
竜がゆっくりと、湖の先へ視線を向けた。広い湖の向こうには、また森が広がっている。だが、竜の視線は森の更に先へと向かっていた。
竜は静かに湖の畔を進み、ヘヨカはミカの手を引いてその後に続く。竜の接近で遠ざかっていた動物達が、また水辺へと戻り始めた。
ゆっくりと上下に揺れる竜の肩に小鳥が乗る。よくよく見れば、美しく水色に光る竜の体、その鱗の隙間などには苔が生えていた。持ち上げられた尾は左右に揺れながら、含んでいた水を草地へ落とす。ミカはその姿を見上げながら、大きな目を瞬かせた。
水色の鱗――――自分の髪と同じ色だ。空の色とは違う。行商人が売りに来る、どの服とも違う水の色だ。光の当たり方によって、深い蒼にも、白にも見える。自分の頬や腕、背中に生えている鱗。あれを持った竜が、今目の前にいる。
期待と不安に胸が潰れそうになった。ヘヨカの手がミカの背に添えられて、ミカは長い息を吐く。ヘヨカを見上げると、ヘヨカはミカに頷いて見せた。銀色の髪飾りが、揺れて光る。
『人の子よ。血を分けた兄弟姉妹よ。我ら水の竜の巣へ入ることを許そう』
湖の終わる場所で、竜が振り返った。
森の木々の奥は暗く、生い茂った草木によって道は塞がれている。竜は湖へと入り、『こちらだ』と二人を振り返った。
「……湖の中に道があるのか」
ヘヨカは呟き、フードを目深に被る。ミカもそれに倣って髪をフードに押し込んだ。
「鼻をつまんでおいた方がいいぞ」
「は、はいっ」
竜が湖の中へと潜る。ヘヨカはミカを抱き寄せると、そのまま湖へと飛び込んだ。




