第十三話
ルーナの笑い声が部屋に響く。ソールは唇を曲げ、床にどさりと胡坐をかいた。
「テッラの説教か……成程。それで俺の所に来たのか」
天上の、一番大きな島。そこにある神殿の奥の間で、ルーナは椅子に座って頬杖を付いた。辺りはぐるりと本棚に囲まれており、その中央に、机と椅子だけがある部屋だ。ルーナの周囲には本がいくつも、開いたままで浮いている。膝の上の本から顔をあげ、ルーナはソールを見下ろして微笑む。
「兄さんは昔からヘヨカ贔屓だから。そのせいで、他の神々にまで睨まれてたのにさ」
ルーナの向かいで頬杖を付き、ソールは言った。ルーナはまた小さく笑って、膝の上の本を閉じる。本はひとりでに浮かび上がり、壁の本棚に収まった。
「まあ……何だ。存外、成長が必要なのは俺達の方かも知れないということだ」
「……僕達は、神だよ」
「神故の傲慢だ。人も神も、完成された存在ではないだろう」
「でも」
「ヘヨカに関わるときだけ、お前は子供になるな。なあソール」
ルーナの言葉に、ソールは言葉に詰まる。
「嫉妬か?」
「誰が。何であいつに嫉妬しなきゃいけないんだい」
「さてな」
「……とにかく、何か助言を貰えないかって思ったんだよ。あいつが理解できないっていうことは分かった。だけど、だからといって理解できないままだと気持ちが悪いんだ」
「……また喧嘩して来ればいいだろう」
「喧嘩?」
ソールは顔をしかめる。ルーナは口元に手を当て、しまったと言うように顔を逸らした。
「僕は一回も喧嘩したつもりなんか無いんだけどな」
「はいはい分かった分かった俺の失言だ。それと、俺から言えることは一つ。神の本分は、信仰している人の背を押してやることだ」
ルーナが手を振り、周囲に浮ぶ本が壁の本棚へと収まる。
「全く、親離れの次は兄離れが必要か? 生憎俺は忙しい」
「……分かったよ」
ソールは不機嫌な表情のまま立ち上がり、踵を返した。ルーナは息を吐いて、ひらひらとその背に手を振る。間も無くソールの眼前に門が現れ、その向こうへとソールは消えた。
「……俺にしたら、二人共可愛い弟なんだがな」
膝の上に立てた本に顎を乗せて、ルーナは微苦笑を漏らした。
間も無く、今日のヘヨカの仕事が終わる。一足先に、書き損じの紙と空になったインク壺を持ってミカは神殿の奥へと引っ込んだ。
「……?」
ふと、視界の端で何かが光ったような気がしてミカは足を止める。振り返った先には、神殿の別の方向――――神との謁見ができる部屋に通じる通路があった。ソールの神殿では、ソールがいない謁見の間にも、そこへの通路にも人がいた。だがテッラの神殿は、通路の前に立つ番兵すらいない。通路の入り口に布が降ろしてあるだけで、気付かなければただの奥への廊下かと思ってしまう。
テッラの神殿に逗留して数日、礼拝堂や神官達の仕事場、司祭の控室なども見てきたが、あの部屋だけはまだ踏み入っていなかった。テッラの神殿はどこも飾り気がなく、最も豪奢な、あの食事をする広間も、壁に飾り彫りが施されている程度だ。テッラの気質なのか、この神殿だけなのかは分からないが。
「………………」
ふらり、と吸い寄せられるように、ミカはその廊下へ足を向ける。布をずらして薄暗い廊下の先に視線を向ければ、柔らかな日の光に浮かび上がる謁見の間が見えた。
日の光が遮られ、暗くなりがちな神殿の奥。そこにありながら、その部屋は光に満たされている。まるで、そこだけが別の世界であるかのように。
ミカは、ゆっくりと廊下に踏み込む。背後で布が揺れ、ミカの姿を薄暗闇に隠した。光に引き寄せられるように謁見の間に入ると、すっと空気が澄んだように感じる。
謁見の間は、六角形の部屋だった。入り口以外の五つの壁には、それぞれ色鮮やかな布がかかっている。布に織り込まれているのは、神々やそれにひれ伏す人々、竜など、神話の物語の一場面だ。
竜は、人々を襲い、全てを奪うものとして描かれている。そして時に人に化け、人と子を成してその爪痕を残していく。その子供が人として生きるならば、竜の子である証のその鱗は、取り去りたい刻印だろう。ミカはその布を見上げながら、頬の鱗に触れる。
「――――やあ、ミカちゃん」
とっ、とミカの顎の下に指が当てられたのは、次の瞬間だった。
「ひっ!?」
声は耳元に囁かれていた。その声が誰か、ミカはよく知っている。しゃらんと鳴る金属音も、視界を覆う、ひらめく白い布も。
逃げ出そうとする体を、両腕で捕まえられる。視界が真っ白に染められ、ミカは目を瞑って体を硬くした。
「――――怖がらないで、目を開いて」
声が囁いて、ミカは首を横に振る。
「大丈夫、危害は加えない。……さあ」
優しく促されて、ミカは僅かに片目を開く。そこに、テーブルと椅子が見えて、ミカはきょとんとした。声の主――――ソールは既にミカから離れ、椅子に座っている。
白い八本の柱に支えられた、東屋のような場所だった。周りの風景は白に飲まれている。テーブルの上には白いポットが一つ、ガラスのカップとソーサーが二つある。その間に、籠に入った焼き菓子が置かれていた。
「驚かせて悪かったよ。さあ、人間用のお茶をたっぷり用意した。お菓子もあるよ」
「……何のつもりですか」
ぐっ、とミカは拳を握る。ソールはガラスのカップに紅茶を注いだ。
「……気が変わったんだ」
頬杖をつき、ソールは椅子を示してミカを見遣る。その顔に浮ぶのは、穏やかで優しい笑みだ。ミカは立ったまま、スカートをぐっと握り締めて唇を噛んだ。
「取引とは言わない。ミカちゃん、僕は君が望むヘヨカの情報を君に与えよう」
「……え」
「君とヘヨカの因果でも、あいつの過去でも。僕が知っている全てを」
「……私が、ヘヨカ様の子供になるはずだった魂だとは、もう知っています」
「それで満足かな」
「……いいえ。でも」
「僕は全てを知っている」
ソールの言葉に、ミカの瞳が揺らぐ。
知りたいのは事実だ。ヘヨカが語ることは断片的で、全てを知ることは叶わないだろう。
例えばヘヨカが自分に、無知であることを望んでいたとしても。ただ庇護される存在であることに甘んじることは、自分が許せない。自分を救ってくれたヘヨカに、少しでもその恩返しがしたい。その為に、ヘヨカを理解する為に、知りたいと、願った。
「……君は立派な子だね」
ソールが言い、はっとしてミカは顔を上げた。
「……ソール様は」
「ああ。僕は君の考えは全てを知っている。でも、本心と言葉が変わるのが人間だからね。今回僕は、僕の都合で、君のことを尊重する」
ソールの言葉に、ミカは大きく一つ、息を吐いた。
「目的は何ですか?」
「うん?」
「私にヘヨカ様の情報を渡して、何をしようと?」
ソールは頬杖を付き、目を瞬かせてミカを見上げる。
「……目的、かあ。明確には考えていないよ。ただ僕は」
ソールは視線を落とし、手を組んだ。
「少し、君と話がしたいんだ」
ソールの顔がほころんで、癖のある金髪がふわりと揺れる。ミカは口元を緩め、硬く握っていた拳を開いた。強張っていた頬が弛緩し、肩から力が抜ける。
ヘヨカのことを知りたいと思う気持ちと、それをソールから聞くのは卑怯だと言う気持ちが拮抗する。ミカは一度、ゆっくりと瞬きをした。そうして真っ直ぐな視線をソールに向けると、ソールはやはり柔らかな笑みを返した。ミカは小さく一つ頷く。
ミカは椅子に座り、ガラスのカップを取る。そこに、琥珀色の紅茶が注がれた。
ばたばたと、神殿の中を慌ただしく人が走り回っていた。床は軋み、ドアの代わりの布が絶えず揺れている。
「いらっしゃったか?」
「いいえ、浴場にも、奥の間にも」
「メーロ様は?」
「じきに、お仕事から戻られます。どうしましょう、ミカ様がいらっしゃらないなんて」
女官は困ったように爪を噛む。神官も不安げな顔になった。
「もしかしたらお外へ行かれたのかも知れない。人をやって探そう。あの人は目立つから」
「でも……容姿のことを気にされているようでした。外に出られるでしょうか?」
「可能性がある以上探すんだ」
「……はい」
女官は踵を返し、辺りを走り回っている小間使いや見張りの兵達を呼ぶ。
「……どうした、騒がしいな」
「あっ……メーロ様」
神官は振り返り、青い顔になる。
「あの……司祭は」
「司祭なら午後の説教の準備をしている。……折角テッラがいるというのに、司祭は休めないのだな」
ヘヨカは布の面を外し、仮面をつけて息を吐いた。
「それで、何の騒ぎだ」
「いえ……実は、ミカ様が……」
神官が身を縮め、ヘヨカは唇を曲げる。
「申し訳ありません、神とお客人のお世話は我々神官の仕事、だのにこのような失態を……」
「申し開きはいい。……何処まで探した」
「神殿内はくまなく。今外に人をやるところです」
「……そうか」
ヘヨカは壁に背を当て、俯いて長い息を吐いた。
「……あの、」
「己れが探す」
仮面を外し、ヘヨカは左目を片手で覆う。神官は唾を飲み込み、数歩後ずさった。青白く輝くヘヨカの右目がゆっくりと閉じられ――――髪が、風もないのに僅かに揺れる。
ゆらゆらと、浮き上がるように揺れた髪が一度収まり、ヘヨカの周囲に漂っていた空気が一瞬弛緩する。だがヘヨカが目を開くと、その足元から光が立ち、真下から風を受けたかのように髪が逆立った。
「……!」
息を飲んで腰を抜かす神官には目もくれず、ヘヨカは右目に集中する。床を睨みつけていた目は外へと飛び出し、街の中を縦横に駆け巡った。一瞬でいくつもの通りを抜け、人ごみをすり抜ける。やがてその目は俯瞰の位置へと昇り、柵で囲われた街を一望する。
「……いないか」
目を閉じると、足から力が抜けた。ヘヨカは壁に寄りかかったまま座り込み、仮面で目元を覆う。
「……メーロ様?」
「街にはいない」
「えっ……ですが、神殿内にもいらっしゃいませんし……」
「ヘヨカ!」
ばさっ、と布を上げてテッラが部屋に入ってくる。
「嬢ちゃんがいねぇって?」
「ああ。……街にも見つからなかった」
「俺の目でも見たが土の上にゃいねぇようだ。……お前の星の目で見えねぇってことは、建物の中か?」
「いいや。日や月と違って星は大概の建物の中まで見通せる。少なくともこの街にはいない」
「だが……」
「神が関わっているとしたら、闇雲に探すのは甲斐が無い」
ヘヨカは座ったまま、口元に手を当てて考え込む。
「精霊を呼ぶか? 一人くらい見ている奴がいるだろ」
「………………」
「嬢ちゃんに用があるならお前の兄貴かモルスだろう。何だったら今から神殿に行ってやろうか?」
「………………」
「おいヘヨカ、案出してやってるんだから反応しろや」
「……すまん。少々平静を欠いた」
ヘヨカはゆっくりと立ち上がり、仮面を押さえる。
「髪留めを早く直してやるんだった」
「後悔してもおせぇよ。で? 手を貸すかって聞いてるんだ」
「いらん」
ヘヨカはつかつかと客間の方へ向かう。テッラは眉宇をひそめた。
「だがヘヨカ。もしあの嬢ちゃんに手を出してるのがモルスだったら」
言葉が終わらない内に、ヘヨカは足を止めてその指先をテッラに突き付ける。
「……その時は己れが何としてでも連れ戻す」
冷ややかな声でヘヨカは言った。鋭い指先に、テッラは言葉を切る。
「一度ならず、二度までも……三度目の正直だ。みすみすあの死の神に己れの大切を渡してたまるか。まさかあの神も、ミカに手を出せばどうなるか理解していない訳ではないだろう」
「……それは、死んでいたらお前は本当に大暴れするってことか?」
「……己れとて無駄に千年生きた訳ではない。今更幼稚な行動はしないさ」
ヘヨカは手を降ろし、口の中で短く呪文を唱えながら歩き出した。
「……だと、いいがね」
テッラは溜息を吐く。
客間の扉を開き、ヘヨカはベッドに座って仮面を掴んだ。その視線が、机の上のチャームに向く。飾りがばらばらになり、割れた星は継ぎ合わせている途中だった。
「………………」
ぐっ、とヘヨカは唇を噛む。
手をかざすと、青白い光が柔らかくチャームの残骸を包んだ。掌の下でそれは浮き上がり、かちん、と元の形に戻って机に落ちた。魔法を使わなかった星の継ぎ目が、いかに下手なものかが浮き彫りになる。
「……絶対に見付ける」
ヘヨカはチャームを握り、目を閉じた。
三杯目の紅茶を、ソールは静かに飲み干す。そうして喉を湿らせてから、また口を開いた。
「ま……エスメラルダちゃんの話はこんな所かな。特に面白みもないけれど」
もそもそと焼き菓子を頬張り、ミカは「そうですか」とだけ返す。
「……彼女は、もし生きていたらきっといいお母さんになっただろうにね」
「……でも、そうして生まれた子供は、私ではありませんから」
「そう。……ミカちゃん、ヘヨカと随分打ち解けたんだね。ここまで聞いて、心が穏やかだ」
「……ヘヨカ様がおっしゃっていたんです。過去は変わらぬ事実、現在はその残響……気付いたんです。ヘヨカ様の過去を知りたいと思いましたし、知ったことを後悔はしていません。ですが、だからといって現在のヘヨカ様に対する私の気持ちが変わる訳でもありません」
ミカは俯いたまま、僅かに口元を笑わせた。ソールは「ふぅん」とつまらなそうに言う。
「随分はっきり、物を言うようになったね。……それもヘヨカのお蔭か」
四杯目の紅茶を注ぎ、ソールが籠を叩くと、空になっていたそれに新たな焼き菓子が追加される。新しい焼き菓子は、ふかふかとしたミカの拳大のケーキだった。
「……ソール様は、今も、ヘヨカ様をお認めにならないのですね」
「……まあね。正直、今も昔もあいつのことは理解ができないんだ。だから君と。ヘヨカの傍らにいることを選んだ君と話をしたかった。例え生まれ変わりだとしたって、どうして君がヘヨカと一緒にいたいのか」
「……そんなに、難しい話ではありません」
ミカは焼き菓子を取った。指が沈み込み、ふんわりと甘い香りが漂ってくる。見たことのない菓子だった。
「でも、あいつは君の目の前で何人も人間を殺しただろう。昔も今も、褒められた人間じゃあないと思うんだけどな。そりゃあ、人間のことは僕だってそれなりに分かっているつもりだけど、怖い相手について行くことを選ぶのは、分からないよ」
ソールは頬杖を付く。
「……ソール様は、きっと」
幾分緊張が和らいだのか、ミカは穏やかな口調で言った。
「とてもお力がある方ですから。それに、神様に時間の限りはないでしょう。私達人間は、違うんです」
「……ヘヨカは不死だよ」
「ヘヨカ様は不死ですけれど、私達は、そんなに長い時間を持ってはいないんです。……ヘヨカ様は私に、居場所をくださいました。……私は今まで、そこにいていいんだと言われたことが無かったんです。ヘヨカ様は、私を必要だと言ってくださいました」
だから。ミカはカップを握り、真っ直ぐにソールを見つめた。
「私を必要として下さる方がそこにいるのなら、私は、私の持ちうる短い時間を、差し上げようと思ったのです」
「……ふぅん」
ソールは口元に手を当て、静かな視線でミカを観察する。
嘘は一つも言っていない。裏表のない、単純で幼いが真摯な言葉だ。自らの存在を卑下しつつも、それを必要とするヘヨカの為に、自分ができることを探している。その最も単純な答えが、「傍に居る」ということだったのだろう。
『―――それでも、傍に居たいんだ』
嘗て、レサルがモルスに対して言った言葉だ。例え患っていなかったとしても、エスメラルダはいずれレサルより先に死んだ。人に情を移してしまえば、長く共に居ればそれだけ辛くなるだろうに。傷の浅いうちに去ることよりも、エスメラルダの最期を見届け、埋葬までをその手ですることをレサルは選んだ。
自分に屈しないと言い、エスメラルダを愛し、あくまで神々に、与えられるさだめに抗ってきた。自らを茨の道に放り込んでそこを生きる決意をしながら、名を棄てて、現在を惰性で生きている。ヘヨカはそんな、世辞にも『立派』には見えない人間だ。
そう――――人間だから、人間の傍に居たいと願うのだ。
「やっぱり僕には、理解できないよ」
少しばかり晴れ晴れとした様子で、ソールはそう言った。
「……半分神だといっても、あいつはあくまで人間なんだね。考えは読める。どんな決意をしているかも分かる。でも、どうしてそれを選んだのか、理解ができない。……君と話をすれば少しは分かるんじゃないかって思ったけど、やっぱり無理だ」
ソールは体をそらし、天井を見上げる。頬が内側から押されるように、ふっと緩んだ。
「……うん、それでいいのかも知れないな」
「?」
「僕は、理解ができないことが嫌だった。テッラや、兄さんとも話をしたけど、やっぱり理解をできないっていうことが許せなかったんだ。……でも、君と話してみて思ったんだよ。僕が見てきたレサルと、君が見ているヘヨカは、違うんだ。僕は人間にはなれない。神だから。神としての感覚しか持っていないんだ。誰かを大切だと思う気持ちは勿論分かる。でも、百年もしないうちに死んでしまう人間のために心を砕くことも、自分の意地のために無様を晒すことも、理解できなかった。……でも、分からなくてもいいんだ」
ソールは前髪を掻き揚げて、微苦笑を零した。
「あいつはきっと、これから先も自分の大切なものを守っていくよ。人間としてね。死ななくても、年老いていくことがなくても。もうきっと、神の末席に加わる気すらないんだろうね。あいつは人間でいることを選んだんだ。高潔な神じゃなくて、不完全で不可解な、人間を。そのせいで自分自身が呪いに苛まれることになってもね」
穏やかなソールの口調に、ミカは短く息を吐いた。
「……それでもいつか、あいつが自分自身を許せる日が来たら、きっと僕の呪いも解けるだろう。その日が来るまでは、あいつと僕は会わないほうがいいかな」
「………………」
「だからさ。きっと僕より、君のほうがヘヨカを救えるよ、ミカちゃん」
「えっ?」
「だって、あいつがずーっと欲しがっているものは、僕じゃ与えられないから」
自分達は神だから。人間のままのヘヨカが真に欲しているものとは、食い違う。ソールは目を細め、口元を寂しげに笑わせた。
「……欲しがっている、もの、ですか?」
「それは、人間にしか与えられないものなんだよ。……ミカちゃん。あの、不器用で、でも馬鹿みたいに真っ直ぐな弟を、よろしくね」
ソールは立ち上がり、掌をミカの額にかざした。
「きっとあいつも、まだ、飢えているんだろうから」
ソールの声が遠くなり、視界がゆっくりと白に染まってゆく。手の中のカップの感触がなくなり、ふっ、とミカは気を失って倒れこんだ。
「――――君と、同じようにね」
ゆっくりとミカの意識を地上へと降ろしながら、ソールは呟いた。
胸元に手を当てて、不思議だ、とソールは目を閉じる。
一度も、ヘヨカを――――レサルを、憎いと思ったことはない。だが、何百年と経っても、レサルがその心を変化させても、神々に見向きもしなくなっても、許せなかった。
それはきっと何処かで、自分はレサルを弟として見ていて、期待していたのだろう。兄貴風を吹かせたがっていたのかも知れない。「理解できない」と切り捨てて、神ではなく人間として見ることを、何処かで忌避していたのかも知れない。
「兄さんの言うとおりだったね。レサルがそうだったみたいに、僕達だって、変わるべきだったんだ」
視線を空に向ける。胸がすっと軽くなった気がした。
気付くと、ミカは謁見の間に立っていた。両手には書き損じの紙と、空のインク壺がある。
気を失う寸前、ソールが囁いた言葉が、耳にはっきりと残っていた。
「ミカ!」
よく知った声に呼ばれてミカは振り返る。メーロとしての服装から着替えないままで、ヘヨカが息を切らせて立っていた。
「ヘヨカ様……」
「ようやく戻ってきたか、どれだけ探したと――――どうした」
ミカは、大きな蒼色の双眸いっぱいに涙を溜めていた。ヘヨカの姿を見て、急に糸が切れてしまったかのようだ。自分の涙に驚いて、ミカは俯く。
「……ミカ、ほら」
ヘヨカは身を屈め、両手を広げて見せた。ミカは荷物を捨ててそこに飛び込む。途端、溜まっていた涙が一気に溢れ出した。
嬉しいのか、安堵したのか、分からない。今更のように足が震えてきていた。ヘヨカは息を吐き、ぽんぽんとミカの頭を優しく叩く。
細い体を震わせ、ミカはヘヨカの服を掴んで泣いていた。だがしばらくして、はっとしたように顔を上げる。
「す、すみません、ヘヨカ様……」
「……ミカ」
「はい?」
「お前は、己れに甘えていいんだ」
ミカの前にしゃがみ、ヘヨカはミカの両手を掴んでミカを見上げる。
「己れはお前を大切に思う。だから、お前は、今までできなかった分だけ、甘えろ。お前が大人になるまで、必要なものは、己れがきっと与えるから」
「……でも、」
「今まで、ずっと我慢してきたんだろう? だったら、もう我慢しなくていいだろう」
ヘヨカの手に力がこもる。ミカは涙を拭った。
ずっと、我慢してきた――――そのとおりだ。いつの間にか、自分の思うままに、怒ることも、泣くことも、笑うこともなくなっていた。心を殺してしまうのは、時にはとても楽なことだから。
嬉しいなら笑えと、哀しかったら泣けと、それは誰にも邪魔されないものなのだと、言ってくれたのはヘヨカだ。ヘヨカの両手はいつでも自分に向かって開いている。それでいいのだと肯定してくれている。必要なのは、そこに入り込む、ほんの少しの勇気だ。
「……ヘヨカ様」
服を掴み、その優しい温もりの中に体を埋める。引き寄せる腕の力は、いつもより強く感じられた。
やはり――――自分とヘヨカは、似ているのだ。
自分がずっと欲しかったものが、ヘヨカも同じだとしたら。ヘヨカがとうにそれに気付いて、自分に与えようとしてくれていたのだとしたら。
ぎゅう、とミカはヘヨカの服を掴んで鼻先を胸元に埋めた。
――――なんて、不器用で優しい人だろうか。




