姫様の休日は信用されていない
星見の神殿から王都へ戻って三日後。
レシティア・パープルには、珍しく何の予定もなかった。
正確には、何の予定も入れさせてもらえなかった。
朝食を終え、自室で着替えを済ませたレシティアは机の上に置かれた一枚の紙を眺める。
『本日の姫様の予定』
その下には大きな文字で、
『休養』
とだけ書かれていた。
「……雑ね」
予定表を持って部屋を出る。
廊下には剣士騎士が立っていた。
「おはようございます、姫様」
「おはよう。今日の予定表を作ったの、あなた?」
「いいえ」
「じゃあ誰?」
「騎士団全員です」
余計に悪かった。
「休養って具体的に何をすればいいの?」
「お休みください」
「だから、それは何をするの?」
剣士騎士が僅かに考える。
「……何もしない?」
「疑問形じゃない」
どうやら騎士団にも、レシティアを休ませた経験がほとんどないらしい。
とりあえず庭を散歩することになった。
これなら休養の範囲だろう。
王宮の庭園は穏やかだった。柔らかな陽射しが花壇を照らし、小鳥が木々を行き来している。
レシティアは久しぶりに何も考えず歩いた。
後ろには騎士が四人。
「……多くない?」
「通常です」
「散歩よ?」
「存じております」
「王宮の庭よ?」
「存じております」
「魔物もいない」
「確認済みです」
「じゃあ一人でよくない?」
「駄目です」
即答だった。
レシティアは諦めた。
少し歩くと、木陰に見慣れない白い頭が見えた。
星見の神殿からついてきた一つ目の少女だった。
芝生に座り、蟻を見ている。
「何してるの?」
「見てる」
レシティアも隣にしゃがんだ。
「蟻を?」
「うん」
二人で見る。
蟻が小さなパン屑を運んでいた。
「面白い?」
「分からない」
「じゃあ、どうして見てるの?」
少女は少し考えた。
「見ても、何も変わらないから」
レシティアは一瞬だけ黙った。
少女はもともと、観測された世界から生まれた存在だ。見ること、見られること。それ自体に特別な意味があった。
けれど今は。
蟻を見る。
ただそれだけ。
「いいでしょう?」
「うん」
少女は小さく頷いた。
「好きかも」
「蟻が?」
「見るだけ」
「そっちね」
十分ほど蟻を眺めた。
レシティアが立ち上がる。
「じゃあ行きましょうか」
剣士騎士が尋ねる。
「どちらへ?」
「厨房」
「なぜでしょう」
「お腹空いた」
「先ほど朝食を召し上がりました」
「蟻がパン運んでるの見てたら食べたくなった」
騎士団が顔を見合わせる。
女性騎士が言った。
「厨房からお持ちします」
「自分で行く」
「休養中です」
「厨房へ行くのも駄目なの!?」
「姫様の場合、厨房へ行った結果なぜか事件が起こる可能性があります」
「厨房で何が起きるのよ」
三十分後。
起きた。
「火事です!」
料理人の叫びが響いた。
「水!」
「水は駄目! 油よ!」
「砂を!」
厨房の一角から黒煙が上がっている。
レシティアは即座に魔法を使い、燃えている鍋の周囲から酸素を遮断した。
火が消える。
「大丈夫!?」
「ありがとうございます、姫様!」
幸い怪我人はいない。
原因は古くなった調理器具だった。
レシティアは剣士騎士を見る。
剣士騎士もレシティアを見る。
「……偶然よ」
「はい」
「私が来たから起きたわけじゃない」
「もちろんです」
「その顔やめて」
昼。
レシティアは自室へ戻された。
机の上の予定表を見る。
『休養』
その下に新しく文字が追加されていた。
『厨房への立入禁止』
「誰が書いたの?」
諜報騎士。
「私です」
「仕事早いわね」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
仕方なく読書をすることにした。
椅子へ座り、本を開く。
静か。
とても静か。
十ページほど読んだところで。
窓。
コン。
音がした。
レシティアは顔を上げる。
コン。
もう一度。
窓の外。
小さな鳥がいる。
嘴に紙をくわえていた。
「手紙?」
窓を開ける。
鳥が入ってくる。
紙を受け取る。
『姫様へ。王都東区の井戸から変な音がします』
レシティア。
「……」
後ろを見る。
騎士団。
全員いる。
「行かないわよ?」
誰も何も言っていない。
「本当に」
剣士騎士が頷く。
「安心しました」
レシティアは手紙を机へ置いた。
三秒。
「でも井戸から変な音って気にならない?」
「なりません」
「即答!?」
「専門部署へ連絡します」
「ちょっと見るだけ」
「駄目です」
「王都の中よ?」
「駄目です」
「変な音よ?」
「駄目です」
「……分かった」
レシティアは再び本を開いた。
一分。
「何の音か分かったら教えて」
「承知しました」
それで我慢した。
午後。
何も起こらなかった。
レシティアはお茶を飲んだ。
昼寝もした。
一つ目の少女と菓子を食べた。
影とは「名前をつけるかどうか」について話したが、影はまだ「いらない」と言ったので、そのままにした。
夕方。
庭の椅子に座って空を見る。
綺麗な夕焼けだった。
「……休むのも悪くないわね」
剣士騎士が隣に立っている。
「ようやくお気づきになりましたか」
「たまになら」
「毎週お願いします」
「多い」
「月に二度」
「考える」
「月に一度」
「それなら」
「交渉成立ですね」
レシティアは気づく。
「待って。最初から月一回が目的だった?」
剣士騎士は答えない。
「あなた、交渉覚えたわね」
「姫様を見ておりますので」
「誰に似たのかしら」
「姫様です」
「そうでしょうね」
夕日が沈む。
今日は世界も壊れなかった。
神代の遺跡も現れなかった。
外部存在も来なかった。
誰にも命を狙われなかった。
ただ散歩して、火事を消して、本を読んで、お茶を飲んだ。
「平和だったわね」
「厨房で火事がありました」
「小さいことよ」
「姫様の基準がおかしくなっております」
レシティアは笑った。
その時、諜報騎士が庭へやってきた。
「姫様」
「何?」
「先ほどの井戸について報告が」
レシティアの目が輝く。
「何だった!?」
「猫です」
「猫?」
「井戸の途中にある窪みに入り込んで鳴いていたようです。無事救出されました」
「よかった」
「はい」
レシティアは安心して空を見る。
本当に。
何も起こらない日だった。
そんな日が、妙に嬉しかった。
「ねえ」
「はい」
「明日は何するの?」
剣士騎士が答える。
「通常業務へお戻りいただきます」
「やった」
「喜ぶところでしょうか」
「休むのもいいけど、ずっとは退屈だもの」
剣士騎士は小さくため息をついた。
レシティアは立ち上がる。
「じゃあ今日はもう寝るわ」
騎士団が一瞬固まった。
「……どうしたの?」
「いえ」
「姫様が自ら休まれると仰ったので」
「私だって寝るわよ」
「もちろん存じております」
「信用されてない気がする」
「気のせいです」
絶対に気のせいではない。
レシティアは笑いながら王宮へ戻っていった。
その後ろを騎士団がついていく。
そして、そのさらに後ろを一つ目の少女と、小さく伸びた影が追いかける。
誰かが見れば、ずいぶん奇妙な一団に見えただろう。
けれどレシティアにとっては。
いつの間にか、それがいつもの景色になり始めていた。
今日は何も起きなかった。
それでいい。
明日のことは、明日決めればいいのだから。




