【書籍化進行中】これは絶対に婚約破棄されるパターンでは?
隣国へ一年間の留学へ行っていたはずの婚約者が、なぜか半年ほどで帰国し、本日、学院に戻ってきた。
見知らぬ美しい貴族令嬢をエスコートして。
「あー・・・これは、終わったと思います。私きっと、聞いたこともない罪で断罪されて、婚約破棄されるわ、カデル」
双子の兄カデルにそう耳打ちすれば、少し焦った声で返事が来る。
「諦めるな、マリアンヌ!もしかしたら、その、穏便な感じでの婚約解消かもしれないし・・・」
カデルもそう思ってるのなら、この婚約が無くなることはほぼ確定だろう。学院の生徒たちで賑わうお昼の食堂に訪れた私たちは、そんなやり取りをして、入り口からほど近い窓際の席に、こそこそと向かう。私は持っていたトレーをテーブルに載せながら、小さくため息をついた。
奥にある貴賓席では、私の婚約者であり我が国の王太子でもあるディラン殿下が、隣国のとても美人な貴族令嬢をもてなしている。殿下も大変麗しいお顔立ちでいらっしゃるので、絵になる二人とはまさにこのことだと思わざるをえない。
食堂のざわめきもいつも以上であるし、みなさん遠慮がちではあれども、貴賓席の美しい二人に視線を奪われ気味だ。不敬罪にならない程度のチラ見である。気持ちはとてもわかる。私も意識的に視線を窓の外へ向けているのに、気づけば二人を視界に入れてしまう。
本来ならば、婚約者の立場として殿下にご挨拶に伺うのが筋かもしれないが、それもはばかられる事情があるのだ。
「ねえ、マリアンヌのところに、殿下の帰国の知らせってきた?」
カデルが小声で尋ねてくるから、無いことを示すために肩をすくめて見せる。
そうなのだ。婚約者の私に対して殿下のご帰国のお知らせ等は、特にいただいてはいない。であれば、軽率にご挨拶に伺うわけにもいかないのである。
その時点でお察し案件なのだ。
「じゃあ、父上のところで止まってるのかな?それとも・・・」
カデルが何か思案しているけれど、私は考える気も起きない。
留学の時は、きちんと殿下からお話があったし、こちらに戻ってくるときは先に連絡が来る手はずになっていた。なのにいきなり、よその国の美人令嬢を連れて帰ってくるなんて・・・。
もう、どうしろというのだ!
そもそも私は普通の一般的な伯爵令嬢で。
かたや殿下のお側にいらっしゃる見目麗しい令嬢は、噂を信じるならば、隣国の公爵令嬢。
各要素において、すでに負け試合である。
なんでも、隣国の第一王子の婚約者でいらっしゃったとか。
しかし第一王子が男爵令嬢と恋に落ちてしまい、不幸にも婚約を破棄される事態になったそうな。その時、手を差し伸べたのがディラン殿下だったという。
「あんなに美人で地位もあるのに、そんなひどい目に遭うのね」
ため息をつきながら、カデルとともに昼食を摂る。
カデルは成長期だと言って私の2倍の量を食べている。ここ2年ほどで随分身長が伸びていて、いつもすぐそばにあったカデルの瞳を見上げるのにも慣れてきた。
「そうだな。美人でもなく、地位もないのに、マリアンヌはこれからひどい目に遭うもんな」
少し楽しそうな声に、ムッとして睨みつければそっとデザートのゼリーを私のトレーに載せてくれた。
「残念会は、開いてやるから」
ちょっと意地悪なところはあるけど、優しいカデル。
私が落ち込み過ぎないようにと、からかってくれているのだろう。
「うん、ありがとう」
お礼を言っていつも通り笑おうとしたけれど、ちょっと口元がひきつってしまう。
そんな私に、心配そうな顔をカデルがするから、軽く肩をすくめて誤魔化した。
我がクラーク伯爵家は特に大きな後ろ盾がある家系ではなく、どちらかというと権力とは縁遠く目立たない系の普通の伯爵家だ。
コツコツと領地を運営していて、特に大きな功績はないが、かといって国の援助がないと立ち行かないということもない。主要な街道が通ってるわけでもなければ、水運に恵まれているわけでもない。本当に普通の伯爵家。
そんな我がクラーク伯爵家の令嬢に、何故王太子の婚約者として指名が来たかと言えば、複雑なようで実に簡単な理由がある。
高位の貴族の皆さま方の血縁関係が、近くなりすぎちゃった問題だ。
皇太子殿下と年の近い高位の貴族令嬢もいらっしゃるのだが、母方のいとこか父方のいとこばかり。
そこで、過去にさかのぼり、王家に全く嫁いでいない血筋の貴族を探していたところ、私にお鉢が回ってきたというわけだ。
ちなみにディラン殿下とは婚約が決まった5年ほど前にお会いしている。その時から、その美貌は完成していたように感じたけれど、今思えば、あの頃はまだ幼さも内包していたように思う。
しかし、その見た目の美しさ以上に、その時に言われたことは私にとって衝撃だった。
「お前との結婚は決定事項だ。何か問題があれば文書で報告しろ。以上だ、よく励め」
父が新しく採用した書記官に、昨日同じようなことを言っていた気がする。だからその言い回し自体は問題ないのだろう。
つまり、今それを言った人物が、私と同じ12歳ということが衝撃的なだけで。
(殿下は私の婚約者ではなくて、職務上の上役なのね)
そんな風に、ストンと納得してしまった一件だった。
なので、殿下と会うときは業務の報告に伺うような緊張を感じていた。決して異性の、それも将来結婚する相手と会っているような雰囲気にはならなかったし、なりようもなかった。
会話も、私の王宮での王妃教育の進度や国内外の政治の話がメインという、色気のなさ。
とはいえ、父や母からは手紙を書くように再三言われていたので、仕方なくご機嫌伺いの手紙は送っていた。
内容は、領地の麦の育成状況の報告や語学の先生方から聞いた外国の文化の話が多い。麦は我が領地の主要産物なので。まあ・・・この国にはそんな領地が多いわけですけど。
それに対するディラン殿下からの返事はいつも絵葉書だ。
どうも視察で各地を回るときに買っているようで、そこの地名と日付、殿下の署名が走り書きされてるだけの一枚。これが返事なんて、ちょっとズルではないか?と思わなくもないけれど、その絵葉書は一度として同じのものが送られてきたことはない。それが5年も続けば、そこに殿下の誠実さを感じなくもないのだ。
つい先日、殿下の留学先からいつも通り絵葉書が届いて、なんとなく殿下は未来の夫として、そんなに悪い人ではないかもしれない、などと思っていた矢先にこの出来事である。
せっかくカデルが譲ってくれたゼリーだったが、自分の分を食べきるので精いっぱい。他の皿に手を伸ばす気力もなく、食事の載ったトレーをカデルの方へそっと押す。「え?いいの?食べちゃうよ?」と、カデルは私と食べ物を交互に見て戸惑っている。食べて欲しい気持ちで頷けば、カデルは心配そうに微笑んで「わかった。ありがとう」って受け取ってくれた。
こうして食欲が落ちてしまう程度には、殿下を思っていたのだなと、再確認してため息をついた。
それから数日、殿下は隣国の公爵令嬢にべったりだった。
公爵令嬢が殿下のクラスへ編入していたようで、その世話役を買って出たらしい。
あの殿下が?
確かに、行儀作法は完璧でいらっしゃるから、私ごときにでも、会えばきちんとエスコートしてくださる。そういう部分では年の近い男性で一番信頼できる方だが、私との会話は楽しそうに弾まないし、冗談を聞いたこともない。
そんな方が、自分から貴族の令嬢に近づいている、という現実を理解できないでいる。それとも、それほどまでに、御執心ということだろうか。
そう思い至れば、胸の奥がズキリと痛んだ。
もちろん、殿下の側には将来の側近候補や護衛のものたちがいるから、二人きりというわけではないけれど。
あの方々も、幼い頃から殿下の側近としての教育をしっかり受けられているから、良い雰囲気を殿下と公爵令嬢が出せば、それこそ一瞬で空気になって気配を消すくらいは余裕であろう。
私の場合、気配を消すことは大得意なのだが、王妃教育ではいつも駄目だしされてる。
だって、大きな後ろ盾があるわけではない、ごく普通の伯爵令嬢ですよ?
堂々としたオーラを出せだなんて、みなさん、無理をおっしゃる。
(でも、それもこれで終わりよね)
今日の昼時も、食堂の貴賓席には殿下と公爵令嬢の姿。
いつも通り、少し離れた窓際の席でカデルと食事をしていたら、殿下の言葉に公爵令嬢がクスクスと笑ってみえた。つられるように、殿下も笑っている。殿下が、笑って・・・?
急いで顔を伏せた。
心臓がドクドクと嫌な音を立てる。
「マリアンヌ、どうしたの?舌噛んだ?」
向かいに座っているカデルに心配そうに言われ、慌てて頷いて口を押えて見せた。
舌を噛むより胸が痛い。
大変麗しいお顔立ちでいらっしゃる殿下が笑うと、あんなに素敵なのかと初めて知った。
貴賓席の見える場所に座ってしまった自分を呪いたい。
でも、結局・・・。
(殿下が学院にいるというのに、そちらを見ないで過ごすなんて・・・私にはできなかったのよ)
散々予防線を張って、必死に誤魔化してきたけれど、私はいつの間にか、首までどっぷり殿下にハマっていたみたいだ。
初めて会った12歳のとき、同い年なのに殿下はもうすでに、この国を背負う覚悟を持って生きていた。
その姿がどれほど格好良かったか!
殿下が国税の監査をしていると聞いたから、いつも領地の麦の育成状況を報告した。なぜなら、余程のことがない限り、わが国内ならばどこでも麦の出来はそれほど変わらない。麦にかかる税金の目安になると思ったからだ。
殿下は外遊に行かれることも多い。だから、私は外国語を教えてくれる先生に、その国の暮らしやしきたり、流行を尋ねては殿下に報告した。
役に立てるとは思っていない。
私よりも優秀な配下のみなさんが、きっと殿下に適切な情報を届けたことだろう。
それでも、何か、お役に立ちたかったのだ。
自分の抱えていた想いを自覚してしまえば、堪えきれず涙がこぼれ落ちた。
「え!?そんなに強く舌嚙んじゃったの?マリアンヌ、大丈夫?」
向かいに座っているカデルが慌てた様子で、少し腰を浮かせた。心配かけてごめん、カデル。舌は噛んでないけど、そういうことにしておいてくれると助かる。
こぼれ始めてしまった涙は、なかなか止まらない。私は空いている方の手で、ポケットからハンカチを取り出そうと、もたもたしていたら、目の前に綺麗なハンカチが差し出された。
それには、王家の紋が刺繍で描かれている。
ギョッとして顔を上げれば、美しいご尊顔のディラン殿下が側に立っていた。
片手で口を押えていてよかったです。叫びそうになったので。
「使え」
短い命令に、反射的に頷いてハンカチを受け取れば、殿下はじっと私を見ている。
恐る恐る、濡れた頬を拭かせてもらった。
とんでもなく上質な触り心地にもかかわらず、吸水性もとても優れているそれに、殿下の身の回りを整えている方々の気合いをひしひしと感じる。おかげさまで涙は引っ込みました。
涙を拭き終えて、ハンカチをどうしようかと悩んでいたら、そっと取り上げられる。
「ゆっくり食べろ」
殿下はそう言って、貴賓席に戻っていった。
すっかり気が動転していたが、それは私だけではなかったらしい。
周りのざわめきが徐々に元に戻ってくる。
カデルもびっくり顔だ。
「殿下もよく気づいたね。マリアンヌが舌を噛んだこと」
結構遠い席に座ったと思ったんだけどな、と小声で私に言ってくる。
私もびっくりしたよ。
だって、毎日のように貴賓席を見ていても、一度も目など合わなかったのに。
(殿下が、私を気にかけて下さった。私なんかを・・・)
どうしよう。信じられないくらい嬉しい。嬉しい・・・。
胸の奥は感じたことないほどの喜びでいっぱいで、心が舞い上がってしょうがなかった。
でも、このタイミングでこれは、やめて欲しい。
こんなに舞い上がってしまっては、落ちたときのダメージが大きすぎるのですよ、殿下。
とはいえ、とても良い冥途の土産になったので、やっぱりやめないでいいです。
(殿下、最後に思い出をありがとうございました)
いただいた優しさを胸に、これからもたらされるだろう報せを頑張って受け入れようと思う。とりあえず、一晩大泣きすれば、少しは落ち着けるだろう。
そもそも、私のようなごく普通の伯爵令嬢には、未来の王妃など荷が重かったのだから。
恋を自覚し、そして失恋も同時に味わうなんて・・・と感傷に浸って数日過ごしていたら、カデルに言われてしまった。
「さすがに、落ち込みすぎ」
その通りです。
「気持ちの切り替えが、うまくできないのよ」
頭ではわかってはいるけれど、失恋は初体験なのだ。
どう復活すればいいのか、全く分からなくて。
私の思いなどまるでお見通しのように、カデルは微笑んだ。
「ねえ、次の休日に街へ出掛けようよ。マリアンヌが気にしてたカフェの予約とるから」
私は、一も二もなくその案に飛びついた。
久しぶりのお出かけは、気分転換にとても良かった。話題のカフェで美味しいスコーンを食べれば心は弾み、古書店をめぐって見知らぬ外国の書を見つけて浮かれ、最後に文具屋へ。殿下へ書く手紙用の便せんがもう無くなりそうで、新しく買わなくてはいけないのだ。
(いや、でも、買わなくてもいいのかも、もう・・・)
私が便箋を手に取ったままじっとしていると、カデルがそっと声を掛けてきた。
「ねえ、マリアンヌ。オレ、思うんだけど、婚約解消されないかもしれない」
「え?」
思わぬ言葉に顔を上げれば、カデルが売られている絵葉書を見つめていた。
私はいつも殿下から絵葉書が来るので、文具屋で売っているのは知っていても、自分では買うことも手に取ることもない。だからか、売られているそれを、初めてきちんと見た気がする。
カデルの視線の先にある絵葉書は、殿下が送ってくれる物より、美しく洗練されている気がした。そして、当たり前だがどの絵葉書にも絵の端には描いた画家のサインが・・・。
(・・・っ!)
私がハッとしてカデルを見ると、カデルは嬉しそうに笑った。
「オレはさ、殿下とマリアンヌは結構お似合いだと思ってるんだよね。真面目なところとか」
優しい言葉に、目頭が熱くなる。
「カデル・・・私、帰りたい、家に。確かめたいことがあるの」
カデルは大きく頷いた。
「いいね!オレも、一緒に確認したい」
私は手に持っていた便箋の会計を急ぎ頼み、店の側で待たせている馬車へ向かおうと店の扉を出たところで、思わぬ人と顔を合わせた。
「あら・・・あなたは・・・」
鈴を転がすような、澄んで美しい声が聞こえる。
美人なだけでなく、公爵令嬢という身分だけでもなく、声まで良いなんて・・・と一瞬呆けてしまったけれど、カデルとともにそっと道を開け、軽く頭を下げる。
隣国とはいえ、自分より高い爵位の相手なのだ。
不敬を働いて揉め事に発展しては厄介。
通り過ぎてくれるのをじっと待っていたのに、隣国から来た公爵令嬢は広げた扇子越しに、私とカデルをジロジロと見分する。
あまり居心地はよくないけれど、こういった視線は殿下の婚約者になってからは経験することも多く、やり過ごせないことはない。
まず、心を無にするのだ。
そして、先ほど食べたカフェでのメニューを思い浮かべる。
スコーンの甘さが絶妙で、ジャムとよく合っていたな。スコーンに使われている小麦はどの品種だったんだろう。気になる。それに、あれだけ雑味がないとなると、精製過程に工夫があるのかもしれな・・・。
「ねえ、私たち同い年なのでしょ?」
突然のきびしい声に、私は目を瞬かせた。声を掛けられたというのに、顔を上げなければそれはそれでよろしくないので、遠慮がちに頭を上げる。
その間も、彼女の言葉は止まらない。
「学院には所属しているというのに、あなたを教室では見かけないのだから、殿下や私のいる選抜クラスではないのね。それは・・・ディラン殿下の婚約者として、どうなのかしら?」
これは、婚約者として、ダメ出しされているということだろうか。
選抜クラスに入れない成績のくせに殿下の婚約者とは、と責められているのだと思う。答えなければと思っているのに、どう話していいかわからない。
「それに、私、この国に来てからずっと殿下とご一緒しておりますけど、その間に一度もあなたをご紹介していただけてないわ。こちらの学院では、殿下はあなたの話題すら口にされませんのよ?それで本当に・・・殿下とご婚約されているのかしら?」
公爵令嬢はどこか勝ち誇ったような声で、そんなことを言う。私はどうにも上手く説明できそうにないので、再度深く頭を下げてただじっとしていた。
すると、「つまらないわね・・・」と小さい声とともに、目の前の華やかなタウンドレスが揺れて文具店へ入っていく。
それにホッとして顔を上げようと思ったら、彼女は振り返って楽しそうに言った。
「私、殿下から王宮の晩餐会へ誘われているの。招待状のお返事に必要なものを今日は買いに来たのよ?」
彼女はそう言い終わると、やっと奥へ入っていってくれた。
文具店のドアが無事閉まったので顔を上げる。すると、カデルが私の手を引いた。
「帰ろう、マリアンヌ」
カデルの声が、珍しいことに少し怒っている。そのまま二人で馬車に乗り込んで、すぐに馬車を出させた。
「カデル、私は大丈夫だから」
馬車が走り出したことに安心して、カデルが落ち着くようにそう声を掛ける。しかし、カデルは私に向かって、天使のようにニッコリと笑った。
「オレが大丈夫じゃない。マリアンヌにあんなあからさまな嫌味を言うとか、許されると思ってるのかな?屋敷に戻ったら、どこまでやっていいか、父上に確認するね」
思いの外、怒っている様子に慌てる。
「やめてカデル!それは、国際問題待ったなしになる!」
「大丈夫大丈夫。絶対に気づかれないように出来るから」
「それは全然大丈夫じゃないでしょ!カデルならできるって知ってるから止めてるのよ!」
楽しそうに悪巧みしているカデルと、それを必死に止めている私。
そんな掛け合いをしながらも、自分に味方がいる安心を感じて、だんだん頬が緩んでくる。
「我が妹も、一枚噛みたいなら交ぜてあげるよ?」
カデルがふわりと優しく笑うから、「困ったお兄様ね」と、ついクスクスと笑った。
屋敷に戻り、まず父のところへ顔を出し、先ほどの一件を報告する。
「というわけで父上、オレはちょっと隣国公爵家のご令嬢に、ささやかな嫌がらせをしておきますね」
などと、良い笑顔でカデルが言うので私は慌てた。
「ダメよ、大したこと言われてないんだから」
私の言葉に、父が額を押さえてため息をつく。
「マリアンヌ、殿下から帰国の知らせは来たか?」
父の言葉に「いいえ」と答えれば、「二人とも、今回はそういうことだ」と短く言われる。
ハッとして私が目を瞬かせると、父が頷いた。
「つまり、殿下は帰国していない。お前たちが何かを目にし、耳にしたとしても、殿下は帰国していないし、今、学院に殿下はいらっしゃらない」
つまり殿下は、何かのために行動をとっている最中ということ。帰国の連絡がないのだから、関わらなくていいという合図。
カデルが「そんなことだろうと思ったけど・・・」とつまらなそうに言うから、私が「気づいてたなら、言ってよ」と頬を膨らませる。全然違う方に受け取ってしまっていたではないか。
私たちのやり取りに、父が少し笑った。
「少し待っているといい。そう間を置かず、殿下から帰国の知らせが来るだろう。・・・我が国の王太子殿下は、実に優秀でいらっしゃるからな」
最後がちょっと嫌そうな声であったことに苦笑すれば、父が肩をすくめて見せた。
「全く、末恐ろしい方だよ。長年の税や領地経営の資料を読み込んで、ごく普通のしがない伯爵家であるはずの私たちを見つけた。・・・過去に一度も、災害も飢饉も疫病も起こしたことがないクラーク伯爵家を」
そうなのだ。
我がクラーク伯爵家は、代々普通であり続けている。どれほど困難な状況でも打破し、しかし、決して利益を大きくは出さず、平均値を叩き出す。そういう領地経営ができてしまうほど優秀な家系なんだそうだ。
中央に目を付けられて表舞台に引っ張り出されぬよう、国内では目立たない程度の位置につけて、領民を守ってのんびりと暮らすことこそが至上。そんな変わり者の伯爵家。
領民たちもその気質なのだから、どこまで行っても普通の成果しか出さない。
それが如何に奇妙なことか、今までの王家は気づかなかったというのに、国税の監査を始めてすぐの、たった12歳のディラン殿下がその異常性に気づいた。そしてそれが何代も続いているということは、その伯爵家の血筋特有のものか、または特殊な教育方法があり優秀なのだろうと当たりをつけたのだ。
そして、下った命令が王族との婚姻だ。
表向きは血縁関係の濃さを理由に、しかし、私たち伯爵家には殿下の口から内密に本当の理由が告げられている。大々的に発表しない殿下に、感謝しつつ、しかしついに王家にバレてしまった居心地の悪さは半端なかった。いや、別に、何も悪いことはしてなかったのだけどね。
それに私は、カデル以外にそんな優秀な男の子と出会ったことがなかったから、そこにも本当に驚いたのだ。
なので、殿下との婚約の決定は、クラーク伯爵家にとっては、喜ばしいことでは決してなくて。
殿下にバレてしまったことを、本当に親戚一同みんなでしょんぼりとしたのだ。
そして領地では、犠牲になる私を領民のみんなが慮ってくれている。
その様子を知った殿下は、「意味が分からない」と小さく零していたけれど、できる限り私たちに負担がかからないよう、学院でも許可をくれた。
それは、私とカデルを貴族の普通クラスに入れること。
双子という珍しさで目立つことはあっても、それ以外は埋没するよう日々こっそりと生きている。テストの点はあえてどの科目も平均点を取り、リーダーシップなど決して発揮しない。いつも二人で行動し、私は割合的に一番多い髪型を心掛け、カデルは前髪を目がすっぽり隠れるように伸ばしている。普通に暮らすことこそが、クラーク伯爵家では一番良しとされ、楽しいことなのだ。
それに対しても、殿下は「どうしてそうなるんだ」と眉をひそめていたけれど。
そういった事情があることを、あの場で公爵令嬢に説明するには、さすがに難しかった。
とても言えない。
王妃教育や学院で学ぶ程度の内容なら、12歳までに領地で学習済みだなんて。
父の執務室を出て、カデルと二人で私の部屋へ向かった。
机の側に置いてある文箱を開ければ、殿下からいただいた絵葉書が出てくる。
やはりその絵葉書には、どれも画家のサインはない。殿下のお名前だけ。
「オレ、ディラン殿下がこんなに絵が上手いなんて知らなかったよ」
カデルが感心したように言う。私は、今まで気づけなかったことに、悔しささえ感じていた。
「悔しい。私、殿下のこと、今までよく調べもしなかった」
なぜなら、それをしてしまったら深みに嵌ってしまいそうな恐怖を感じていたからだ。自分を見失ってしまいそうな・・・。
もちろん、殿下に会って会話を重ねる中で、知ったことならいくつかある。好んで飲むお茶の銘柄、愛用している万年筆のメーカー、身につけている香水の匂い、そして、いま取り組んでいる職務内容。
どれも表面的でしかない。
私の言葉に、カデルが笑った。
「まあ、クラーク伯爵家としては、事前の打診もなく、あんなだまし討ちみたいに婚姻の命令を受けたんだ。当事者のマリアンヌが、その行動を取ったのも無理ないと思うよ。オレだって、ちょっと嫌だなって思ってたから、できる限り深くかかわらないように努力してたし」
カデルの言葉に肩を落とす。
「だよね。でも、それじゃあ、クラーク伯爵家の娘としてよりよい行動はとれてなかった・・・」
私が観念したように言うと、カデルがホッとしたように笑顔になった。
「うん、やっと気づいた?」
今までずっと私に寄り添ってくれていた双子の兄の言葉に、肩をすくめる。
「ええ、相手方をきっちり調べて、できる限りの手段を講じ、ごく普通の、全然目立たない婚約者に、私はなってみせるわ!」
「それでこそ、我が妹!」
私の決意に、カデルが嬉しそうに頷いた。
「なぜそうなるんだ」と、理解に苦しむという感じの表情の殿下が思い浮かんで、私はますますやる気に溢れたのだった。
そして数日後、父の言ったとおり、殿下から帰国したとの知らせがもたらされ、王宮へカデルとともにご挨拶に伺った。
「マリアンヌ、カデル、よく来た」
殿下がお使いになる応接室で待っていたのは、殿下だけではなく隣国の公爵令嬢と、もう一人高い地位をお持ちだと感じられる年の近い整った顔の男性。
「殿下、無事のご帰国、お慶び申し上げます」
私がそう言って礼を執れば、少し下がっているカデルも頭を下げた。
「堅苦しいのはいらない。公式なものではないからな。座れ」
促されてソファーへ向かう。
殿下と公爵令嬢、そしてもう一人の男性がソファーに掛けたところで、私が下座に座り、カデルは私のすぐ後ろに立つ。
それに公爵令嬢は首を傾げた。
「クラーク伯爵令息はお掛けにならないの?」
その言葉に、殿下が頷く。
「ああ、カデルはマリアンヌの護衛だ。気にしなくていい」
それに殿下以外の二人が驚いた顔をする。
それはそうだろう。ごく普通のひ弱そうに見える貴族の令息が、王太子の婚約者の護衛なんて。でも、カデル以上に強く、私の側に置くのに適当な者がいないので、しょうがないのですよ。殿下の婚約者という立場上、学院内であっても護衛は必須。双子という自然さもあるし、たとえ跡取り息子であったとしても、普通を貫きたいクラーク伯爵家基準では即護衛に採用なのです。
私は殿下を見た。
どこまで私たちのネタばらしをされるおつもりなのかと。
殿下はそれには答えず、軽く息をついて、私ではなくカデルを見た。
「カデル、アーデルハイド公爵令嬢の身を守ってくれたこと、深く感謝する」
その言葉に、カデルは肩をすくめた。
「殿下は不思議なことをおっしゃる。ささやかなおもてなしをした心当たりはありますが・・・・一体何のことでしょう」
ささやかなおもてなしという言葉に、公爵令嬢がキッとカデルを睨む。
「あの、馬車のトラブルは、あなたの仕業でしたのね!時間は差し迫っているというのに、観光名所ばかり連れ回されて、全然王宮に向かわない馬車なんて、最悪でしたわ!」
大層ご立腹な公爵令嬢に、カデルはうんうんと頷きながら「我が国の名所をご覧になっていただいた上、そこまでお喜びいただけるとは、恐悦至極に存じます」などとすっかりとぼけている。
そう、カデルがやると言っていた、ささやかな嫌がらせは実行されたのだ。
公爵令嬢が王宮の晩餐会へ向かう馬車の手配に、こっそりと細工。王都を一周するつもりなのかというくらい、大回りで王宮へ向かわせ、時間ギリギリに到着させたのだ。もちろん、化粧直しの時間はちゃんと確保した上で。
王宮へ真っ直ぐ向かうはずだと信じている公爵令嬢と、高貴なお方を王宮へ所定の時間までに送り届け、なおかつその時間の限り王都内の観光をして、楽しませねばならないと指示されている御者。
「ちゃんと、王宮に向かっているのよね?」と焦る公爵令嬢と「もちろんでございます!あ、あれに見えますのは、我が国のシンボルとも言えます塔でして!」と必死で観光案内をする御者。どちらも手に汗握る状態だったらしい。
カデルが「この目で焦る令嬢の様子を確認できないのが、残念だよね」なんて、生き生きと計画を立てていたなと、思い出す。
そんな二人の様子には我関せずで、殿下は淡々と言葉を挟む。
「そして、本来彼女の乗った馬車が通るルートを、王都の警備兵を使って王家の紋の入った馬車で警らさせた。おかげで我が国に不法侵入した盗賊集団を捕縛するに至ったわけだ」
そちらは多分、父の根回しですね。彼女がこの国で暗殺される恐れがあることを察知し、未然に防ぐとなると、カデルには時間が足りなかった。娘が王家に嫁ぐと決まってから、父は「余計なものは、取り除いておかないとな」と口にしていたし。隣国との火種など、無ければない方がもちろんよいので。
カデルは穏やかな笑顔のまま、沈黙で殿下に答える。自分がやったとも、やらないとも言わず。
「ふふ、キミの国にはなかなか面白い人材がいるんだね、ディラン」
ずっと様子を見ているだけだった男性が軽やかな声で、そう言う。
ディラン殿下をそんな風に呼べる人物で、この年頃なら間違いなくあの方だろう。
「私の大切な婚約者を、キミに預けてよかったよ」
やはり、隣国の第一王子フェリックス殿下。
穏やかな表情でありながら、全く隙が無い。ディラン殿下とはまた違う、敵に回してはいけないタイプの人種だ。
少し緊張していると、ディラン殿下が私を見た。
「マリアンヌは、どこまで知っている?」
そう問われて、言葉少なく答える。
「汚職を行っていたフルス男爵家が、廃爵となったこと程度です」
私の言葉に、公爵令嬢が息をのんだ。
もちろん、フルス男爵の尻尾をつかむのがなかなか難しく、婚約破棄という芝居を打たざるをえなかったことや、公爵令嬢が他の王子に嫁ぎ、王位継承権がそちらに傾くのを避けるため、公爵令嬢の命が狙われていたことぐらいは知っている。
けれど正直、隣国のゴタゴタよりも、殿下の私生活の洗い出しが忙しかったので!
ですが安心してください。すでに殿下の普段着の仕立てを引き受けてるデザイナーから、日々の就寝と起床に鍛錬のお時間、絵をお描きになるペースや最近気に入っているカラーコンテのメーカーなども把握済みです。画材ならば、もう少し東に行った国に宝石を使ったものがあるとか。次の殿下の誕生日にはそちらをプレゼントさせていただこうかなって考えています。とはいえ、これは報告しませんが。
「へえ、まだ国内でも、未発表なんだけどな。ねえ、この子のどこが普通の伯爵令嬢なの?」
フェリックス殿下がそう言って、ディラン殿下にニッコリとほほ笑む。
ディラン殿下は面倒くさそうに、口を開いた。
「知らん。本人がそう望むから、そういうことにしているだけだ」
ディラン殿下、そのようにおっしゃるのはおやめ下さい。私はいたって普通の伯爵令嬢です。と、心の中だけで反論しておく。
殿下たちのやり取りを見て、公爵令嬢は拗ねて見せた。
「なんですのそれ!街で会ったときは、軽い嫌味に返事もできなくなる、ごく普通の弱々しい伯爵令嬢でしたわ。だから・・・王妃になどなったら、この子がつらい目に遭うと心配していたのに・・・」
その言葉に、思いもよらない温かさが混じっていて、私は驚いた。
そして私がちらりとカデルを見上げると、カデルも少し驚いたように公爵令嬢を見ていて、その眼差しが柔らかく優しくなったのが伺えた。
(よかったですね、きっといいことがあると思いますよ)
カデルは、優しさには優しさを返すので。
ということで、国内が落ち着いたため、公爵令嬢を第一王子殿下自ら迎えにいらしたということらしい。
おそらく、公爵令嬢の命を守ったことに対する謝意を示すために、私たちに姿を見せて下さったのだろう。
お二人が退席されるのを、立ち上がり見送る。
公爵令嬢が去り際、カデルを睨んでフンと顔をそらした後、私をじっと見つめた。
「手紙を、書きますわ。・・・今度は、ちゃんとお返事をしてくださいね」
少し照れたようにおっしゃるから驚いた。
「はい、必ず」とお答えしたら、嬉しそうに目をキラキラさせた後、ご機嫌で立ち去られた。あの美貌でこの愛らしさは卑怯だと思う。そりゃ第一王子が自ら迎えにいらっしゃるわけだ。
お二人が去った後、殿下が小さくため息をついた。
「お前たちに説明は必要か?」
ソファーに座り直し、やっとカップを手に取った殿下がそう尋ねてくる。
私がカデルを見たら、カデルは私に軽く頷いて殿下へ向き直り「いえ。概ね把握しております」と、代表して返事をしてくれた。隣国のことに関しては、カデルの方が詳しい。気になることがあるならカデル自身が聞いた方がいい。
カデルの返事に殿下は、「そうか」と言ってお茶を口にする。
すると、殿下は何か思い出したように私を見た。
何だろうと軽く首を傾げる。
「マリアンヌ、あの時噛んだ舌は無事か?」
言われて一気に顔が熱くなった。
「は、はい!何ともありません!」
恥ずかしすぎる。そういえば私は泣くほど強く舌を噛んだことになっているのだった。とはいえ、本当の理由はもっと恥ずかしいので、誤解したままでいて欲しい。
耳まで熱くなって両手で押さえていると、殿下がフッと柔らかく笑った。
「それならいい」
そう言ってまた、ゆっくりとお茶を口にしている。
私は不意打ちの殿下の笑顔が素敵すぎて、硬直してしまい動けなくなっていた。
カデルが、そんな私を見て「ふーん」って楽しそうな顔をする。
これはきっと、後でからかわれること間違いなしだ。
気持ちを落ち着かせるため、私も一口お茶をいただく。
その間にカップをテーブルに置いた殿下は告げた。
「留学期間はまだ半年残っている。そう間を置かず、隣国へ向かう」
殿下の言葉に、カップを置いて「わかりました」と頷けば、殿下が何か思案した後、私に尋ねてきた。
「隣国で、何か欲しいものはあるか?」
これは、殿下からお土産貰えるチャンス!?
以前から誕生日のプレゼントは、婚約者の義務として贈っていただいていたけれど、こういうお土産は今までなかった。外遊に行っても忙しすぎる御身なので、おそらく個人の買い物さえできていらっしゃらなかったのだと思う。
(でも・・・)
「私は、殿下の絵葉書がいいです。もっといっぱい描いて送ってください」
もう、描いているのが誰かわかっている。だからこそ、それ以上に嬉しいものは、なかなか見つからないと思うのだ。
殿下は目をパチパチした後、ふと視線を横に逸らした。
「絵を描くなど・・・・王には必要ないことだ」
表情はそう変わらないのに、声に滲む微かな苦み。
合理的な方だからこそ、ご自分の特技も、こんな気持ちでずっと押し殺してこられたのだろうか。
婚約者への手紙という言い訳で、絵を描くことを自分に許していた後ろめたさを含んでいる気がした。
「そうですね、王の執務には必要ないかもしれませんが、私は、自分の家族に絵が上手な人がいるって、すごく嬉しいです」
なんせ、私もカデルも、絵はさっぱり描けないので。殿下はすごいのです。家族の誰かが上手に絵を描けるって、すごい素敵だと思うんですが。
殿下が微かに驚いた顔で私を見て、そして軽く目を伏せた。
「・・・そうか。わかった」
その声は、安堵が滲んでいて、私もホッと嬉しくなる。
ちょっとフワフワする気持ちを持て余していたら、カデルがクスクスと笑って口を開いた。
「殿下が隣国の公爵令嬢を連れて帰ってきたときは、驚きましたよ。我が妹も、いよいよ婚約破棄をされると、すごく落ち込んでいましたし」
私がギョッとしてカデルを振り向くと、カデルはニヤリと私を見る。
殿下に視線を戻せば、こちらの気持ちを探るようにじっと私を見ていた。これはよろしくないと感じて、慌てて弁明しようと言葉を重ねる。
「そ、それは、状況的にですね!そう思ってしまっても、しょうがなかったといいますか!」
そんな私に、殿下は眉をひそめた。
「オレは、お前との結婚は決定事項だと最初に伝えたはずだが?」
少し怒っているのか、いつもより低い声。
覚えています!覚えていますとも!!!
もちろん、王族として決定したことを簡単に翻す方ではないと、思っています!でも、でも・・・・。
「あの、そうなんですけど、その、アーデルハイド公爵令嬢は、御存じの通りとても美しく愛らしい方ですし、伯爵家より高位の方でございますし・・・・国益を考えると私よりはるかに需要がありますし・・・」
殿下の圧に必死で抗いつつ私が言い訳していると、カデルが割り込んできた。
「じゃあ殿下!もし、フェリックス王子がマリアンヌに興味を抱いて、学院にいる間ずっとマリアンヌをエスコートし、共に食事をし、楽し気に過ごしているのを、側に行くこともできず見守っていたとしたら、どう感じますか?」
具体的過ぎて、ちょっと怖い。万が一にもないけど、フェリックス王子に目を付けられるなんて、恐怖で寝れなくなりそうだ。
「何を言って・・・」と殿下は言いかけて、急に黙った。そしてぐっと眉間にしわを寄せる。どんどん不機嫌そうな表情になっていく。
これ以上殿下を怒らせたくないのに、何をしてくれるのかな、我が兄よ!
だが、殿下のその様子に、カデルは嬉しそうだ。
「はあ・・・・」
しばらくして、殿下が重くため息をついた。
眉間にしわが残ったまま、私を見る。
思わず、ピッと背筋が伸びた。
そんな私の様子をどう思ったのか、殿下が一度視線を逸らせた後、私を真っ直ぐ見て軽く頭を下げた。
「悪かった。此度は嫌な思いをさせた」
殿下からの思わぬ謝罪に、びっくりし過ぎて声が出ない。
「学院は、構造的に一番警備がしやすい。だが・・・浅慮だった」
殿下が、私の気持ちを汲んでくださっている。それに喉の奥が熱くなってしまい、顔を伏せて、必死に首を横に振った。
殿下の考えは正しいのだ。
急ごしらえで用意した屋敷より、長年、国の貴族の子息たちが通っている学院の方が、ずっと警備の穴はない。ならば昼間の間だけでも、より安全な場所にと思うのは当たり前だ。公爵令嬢を守るために、殿下が常に側に付き添ったのも、殿下自身の警備の厳重さを利用していたにすぎない。
だから、私が殿下と公爵令嬢の楽しげな様子にちょっと凹むくらい、何でもないのだ。私一人の気持ちなど、考える必要はなくて。
殿下は何も間違ってなんか・・・。
「泣くな」
そっと頬を殿下の指先が撫でていった。顔を上げれば、困った顔の殿下がすぐそばにいる。目を瞬かせたら、涙がこぼれた。
「泣くな・・・」
反対の頬も殿下が撫でる。
それに心地よさを感じながら、息を整えて落ち着こうと努力する。
「殿下は、なにも、悪くないです」
出来る限り落ち着いた声でそう答えたら、殿下が真剣な顔で私に言った。
「オレは、王族としての責務を果たさねばならない、と考えてはいるが、それによって家族を泣かせるのは、本意じゃない」
(ええっと・・・・?)
さらっと、すごいことを言っていますよ、殿下。
いつの間に、私が殿下の家族枠に登録されたのでしょう。
(確かに、結婚は決定事項ですけど・・・)
あれ?もしかして、私がさっき『私は、自分の家族に絵が上手な人がいるって、すごく嬉しいです』なんて言ったからですか?
いや、あれは、たとえ話のつもりだったんだけど、振り返ってみれば誤解される言い回しでした。すみません。私がまいた種でした。
胸がどきどきして息が苦しい。殿下はすごく近いし、言ってることは格好いいし、殿下は嘘をつく必要がないから、本当にそう思っているわけだし。
今まで当たり障りなく職務上の上役と思って距離を取ってきたから、急にこんな、本当の婚約者みたいな距離は、いえ、本当の婚約者なのですが・・・。
(どうしよう・・・嬉しいと恥ずかしいとドキドキが、いっぺんにくる・・・)
まともに思考が動かなくなってきて、私は白旗を上げた。
「す、すみません。殿下が格好良すぎて、目が回りそうです」
右手を上げて、正直に自己申告すれば、殿下が驚いたように目を瞬かせる。
カデルが「殿下、席へお戻りください。そして、我が妹が初心ですみません」と殿下をもとの位置に戻してくれた。ありがとうございます、お兄様。
ソファーに掛け直した殿下は、「意味が分からん」と言うと、微かに頬を赤くして視線をそらす。
(殿下が・・・照れていらっしゃる・・・!)
私はその殿下の様子に、初めて殿下が年相応の男の子に見えて、胸が甘く疼いてしまい大変困ったのだが、それを言ったら、すごく怒られそうな気がしたので、グッと耐えました。
その数日後、殿下は隣国へ出立された。
これからの会えない半年間を寂しく感じながらも、その一方で、次はいつ絵葉書を描いて送ってくれるだろうかと楽しみに思ってしまっている。
そのためにも、まず私が手紙を書いて送りますね。
いつも通り、我が領地の麦の生育状況と、私の外国語の先生である、各国の商人たちから聞いた色々な国のお話を。




