姫様は休めない
異変が収まった星見の神殿には、久しぶりの静けさが戻っていた。
空は青く、星泉の水面も穏やかだった。地下には九億を超える白いものがいるし、第二隔離扉の封印残存率は二十パーセントで止まったまま。非常口の向こうには世界の外があり、どこかから百万人以上の何者かに見られている。
それでもレシティアは、神殿の階段に腰を下ろしながら思った。
「平和ね」
「姫様」
隣に立つ剣士騎士の声が低い。
「何?」
「今、何と?」
「平和ねって」
「どの辺りがでしょうか」
レシティアは周囲を見た。壊れた柱。ひび割れた床。倒れた壁。疲れ果てて座り込む仲間たち。遠くではガルドが観測管理局の男から無銭飲食について何か書類を書かされている。
少し考える。
「昨日より?」
「比較対象がおかしいのです」
もっともだった。
地下では助手が第二隔離扉の修復を続けていた。
完全な修復には時間が必要らしい。それでも封印は二十パーセントから減っていない。境界喰いも、今のところは動きを止めている。
白いものたちも妙に大人しくなった。
九億全部が座っているという事実だけは怖いが。
「これからどうするの?」
レシティアが観測管理局の男に尋ねると、男は相変わらず無表情――そもそも顔がないのだが――のまま紙を確認した。
「当該世界に対する立入検査は終了します」
「帰るの?」
「はい」
「思ったより早かったわね」
「本来は三十分程度の予定でした」
黒髪の女が目を逸らした。
「何時間いた?」
「十九時間四十二分です」
「誰のせい?」
レシティアが尋ねる。
管理局の男は紙を見る。
「六割ほど――」
「もういい」
黒髪の女が止めた。
男は最後の書類を取り出した。
「検査結果を申し上げます」
全員がなんとなく姿勢を正す。
「未登録外口については、非常口として暫定許可。第二隔離扉については修復完了まで継続監視。境界侵食体の分離個体については――」
男がレシティアの影を見る。
影が小さくなる。
「独立意思を確認。処分対象から除外します」
影がぴくりと動いた。
「……処分されない?」
「はい」
「私、いていい?」
男は少しだけ間を置いた。
「当局が決定する事項ではありません」
影が戸惑う。
「じゃあ誰が決めるの?」
「あなたです」
レシティアは笑った。
影はしばらく黙っていたが、やがて小さく答えた。
「……いる」
「そう」
「ここにいる」
「うん」
それで十分だった。
次に男はエリシアを見る。
「境界固定体エリシア」
エリシアの表情が硬くなる。
「何?」
「登録情報を修正します」
紙の文字が変わった。
《境界固定体》
その文字に一本の線が引かれる。
新しく記されたのは。
《独立知性個体》
エリシアは何も言わなかった。
ただ、その文字を長い間見つめていた。
黒髪の女も黙っている。
やがてエリシアが尋ねた。
「それだけ?」
「はい」
「私は、もう道具じゃないの?」
男は淡々と答えた。
「少なくとも当局の記録上は」
エリシアは黒髪の女を見る。
黒髪の女は困ったように笑った。
「私の中では、とっくに違うよ」
「……遅い」
「ごめん」
「本当に遅い」
「うん」
エリシアは顔を逸らした。
けれど、もう怒ってはいなかった。
「最後に」
男がレシティアを見る。
「当該世界についてです」
空気が少し変わった。
「自己観測の発生。外部観測との相互接続。観測と干渉の分離。複数可能性世界の独立。そして、世界自身による自己定義拒否」
「問題?」
「極めて異例です」
「最近その言葉にも慣れてきたわ」
「慣れないでください、姫様」
剣士騎士に怒られた。
男は続ける。
「この世界は現時点で、外部からの観測によって未来を固定することが困難になっています」
黒髪の女が眉を上げる。
「つまり?」
「観測しても、観測結果が確定情報にならない」
レシティアは首を傾げた。
「それ、困るの?」
「観測する側にとっては」
「じゃあ別にいいじゃない」
「姫様らしいですね」
リベルが苦笑した。
男は書類の一番下を見た。
「そのため当局は、この世界を暫定的な観測制限対象として登録します」
黒髪の女の表情が変わる。
「待って。それって――」
「はい」
男は告げた。
「将来的に《観測禁止区域》へ指定される可能性があります」
レシティアは初めて聞く言葉だった。
「観測禁止区域?」
「外部からの直接観測が禁止された世界、領域、または存在を指します」
「どうして禁止するの?」
「観測することで、観測者側にも影響が生じるためです」
今度はレシティアも黙った。
「普通は見る側が、見られる側を変える。しかし、ごく稀に逆転する世界が存在します」
男の顔のない頭部が、レシティアへ向く。
「見ることで、見た者が変わる世界です」
黒髪の女が低く呟いた。
「だから禁止する……」
「はい。危険なのは世界ではありません」
男は言った。
「その世界を知ることです」
誰もすぐには言葉を返せなかった。
やがてレシティアが尋ねる。
「ここは、もうそうなってるの?」
「いいえ」
「よかった」
「候補です」
「候補にはなってるのね……」
「ただし正式指定には審査が必要です。現段階で気にする必要はありません」
レシティアは少し安心した。
「じゃあ、しばらく普通に暮らせる?」
「普通の定義によります」
「嫌な返し方ね」
男は書類を鞄へしまった。
「以上をもって立入検査を終了します」
白い非常口が開いた。
男は扉の前で一度だけ振り返る。
「レシティア・パープル様」
「何?」
「最後に一つ、個人的な質問をしても?」
全員が驚いた。
この男が業務以外のことを言うのは初めてだった。
「いいけど」
「なぜ、世界を閉じなかったのですか?」
レシティアは少し考えた。
安全だけを考えるなら閉じればよかった。
外から見られない。
誰にも干渉されない。
未来を決められることもない。
それでも。
「外に何があるか、気になるから」
男は黙った。
「怖いものもいるけど、面白いものもいるでしょう? 全部閉じちゃったら、見つけられないじゃない」
「危険でも?」
「危険なら、その時考える」
黒髪の女が笑った。
「それで今回こうなったんだけどね」
「うるさい」
男はほんの少しだけ頭を下げた。
「記録しておきます」
「それも記録するの?」
「個人的な記録です」
そして彼は非常口の向こうへ消えた。
扉が閉じる。
しばらくしてガルドが言った。
「最後だけちょっと人間っぽかったな」
黒髪の女が肩をすくめる。
「人間じゃないと思うけどね」
それから数時間後。
地下から助手が戻ってきた。
服はぼろぼろ。髪は焼け、残っている片腕には大量の包帯が巻かれている。
「終わった……」
床へ倒れた。
「第二の扉は?」
黒髪の女が駆け寄る。
「閉じた。完全じゃないけど、もう勝手には開かない」
星泉に文字が浮かぶ。
《第二隔離扉》
《封印状態:安定》
レシティアは大きく息を吐いた。
これでようやく。
本当に。
終わった。
「じゃあ帰りましょう」
立ち上がろうとした。
両肩を掴まれた。
剣士騎士と女性騎士。
「姫様」
「何?」
「どちらへ?」
「帰るのよ?」
「その前にお休みください」
「帰ってから寝る」
「駄目です」
「馬車で寝る」
「駄目です」
「歩きながら」
「論外です」
逃げようとする。
魔法騎士が前を塞いだ。
後ろには諜報騎士。
「……囲んだ?」
「はい」
「私、姫よ?」
「存じております」
「命令するわ。道を開けなさい」
誰も動かない。
「命令よ?」
剣士騎士が真顔で答えた。
「陛下より、姫様の健康に関しては我々の判断を優先してよいとの許可を頂いております」
「いつ!?」
「かなり前です」
「お父様!」
結局。
星見の神殿の一室に寝台が用意された。
レシティアは毛布の中から騎士団を睨んでいる。
「眠くない」
「お休みください」
「まだ話したいこといっぱいある」
「明日にしてください」
「地下の大きいおじさんは?」
「寝ました」
「九億の白い子たちは?」
「座っています」
「ガルドは?」
「食事中です」
「お金は?」
「払わせました」
「完璧ね……」
もう言うことがなかった。
エリシアが入口から顔を覗かせる。
「おやすみ」
「……おやすみ」
セラフィナも手を振った。
影は寝台の下へ潜り込んでいる。
白い一つ目の少女は床で丸くなっていた。
「そこじゃ寒いでしょう」
レシティアが毛布を持ち上げる。
少女が少し迷ってから入ってきた。
剣士騎士。
「姫様」
「何?」
「増やさないでください」
「一人くらいいいでしょう!」
「今後も一人ずつ増えるのが問題なのです」
否定できなかった。
夜。
みんなが眠った頃。
星見の神殿の最深部では、古い石板だけが淡い光を放っていた。
『観測禁止区域 候補指定』
その文字の下に、新しい一文が刻まれる。
『第一記録完了』
そして。
『観測継続』
誰も見ていない。
誰も知らない。
それでも記録は続いている。
やがて石板に、最後の一文が現れた。
『観測対象:レシティア・パープル』
少し間を置いて。
その文字は消えた。
代わりに。
『訂正』
『観測対象――この世界を知った者すべて』
石板の光が消える。
星見の神殿は、完全な闇に包まれた。
その頃レシティアは、そんなことなど何も知らずに眠っていた。
翌朝になれば、また騎士団に囲まれて、また誰かに頼られて、また面倒事に首を突っ込むのだろう。
世界の外には、まだ知らないものがいる。
地下にも謎は残った。
黒髪の女の正体も。
非常口の本当の行き先も。
観測禁止区域という言葉の意味も。
何一つ、完全には終わっていない。
けれど今夜だけは。
誰にも未来を決められることなく。
レシティア・パープルは、自分の意思で眠っていた。




