窓の向こう側
《観測者数:4,096》
数字はそこで止まらなかった。
《8,192》
《16,384》
《32,768》
増えるたび、星見の神殿がわずかに軋む。石造りの壁や床が揺れているのではない。もっと大きな――この場所を包んでいる世界そのものが、見えない重みに耐えかねて悲鳴を上げているようだった。
レシティアは壁に浮かぶ数字を見つめた。
「窓って、どういうこと?」
黒髪の女はすぐには答えなかった。いつもなら冗談の一つでも挟む彼女が、今は唇を固く結んでいる。
「私たちが観測者だと思っていた巨大な目。あれは本体じゃなかった。向こう側にいる何かが、この世界を見るために開けた穴だったんだよ」
「じゃあ、今増えてる数字は?」
「窓を覗いてる奴らの数」
レシティアはもう一度数字を見る。
《観測者数:65,536》
「……人気ね」
「喜ぶところじゃない」
「分かってるわよ」
そう答えたものの、実感が湧かなかった。六万という数字ですら、人間が一度に想像できる範囲を超えている。
だが、黒髪の女には分かっているらしい。その異常さが。
「一つの世界を、これだけの外部存在が同時に観測するなんて普通はない。誰かが呼んでる」
「誰が?」
「分からない」
「また?」
「分からないものは分からないんだよ!」
黒髪の女が珍しく声を荒らげた。
その直後、地下から大きな振動が響いた。
星泉の表面に浮かんでいた《封印残存率20%》という文字は、まだ変化していなかった。
壊れかけていた第二の扉が、何者かによって押さえ込まれている。
地下の大きいおじさんが低い声を響かせた。
『……白い奴らが静かになった』
「九億いるのよね?」
『たぶん』
「たぶんで済ませていい数じゃないでしょう」
『数えてみるか?』
「嫌」
『俺も嫌だ』
妙なところで意見が一致した。
だが、その声にも普段の余裕はない。
『全員、同じ方向を見ている』
黒髪の女が顔を上げる。
「どこ?」
『上だ』
全員の視線が天井へ向かった。
正確には、その向こう。
空。
そして、さらに外。
『怯えてる』
大きいおじさんの声が低くなる。
『こいつら、境界喰いから逃げてきた時より怯えてるぞ』
その言葉で、空気が変わった。
白いものたちは第二の扉の向こうにいる境界喰いを恐れて、この世界へ逃げ込んできた。それほどの存在を前にしても生き延びようとしていたものたちが、今は九億揃って怯えている。
レシティアは壁の数字を見る。
《観測者数:131,072》
「……そんなに怖い?」
足元の影が答えた。
「怖い」
レシティアは視線を落とす。
影はいつもより小さく、彼女の靴のすぐ下へ縮こまっていた。
「あなたも?」
「見られてる」
「今までも見られてたでしょう?」
影が少しだけ揺れる。
「違う」
「何が?」
「今までのは、目」
影は床へ溶け込むように小さくなった。
「今は、いっぱい」
その時、白い一つ目の少女がふらりと倒れた。
「危ない!」
レシティアが抱き留める。
少女の身体は驚くほど冷たかった。一つしかない目は大きく見開かれ、何もない空間を凝視している。
「聞こえる……」
「何が?」
「声」
少女は震える指で、自分の頭を押さえた。
「いっぱい質問してる」
「質問?」
「これは何。誰が作った。いつ始まった。どうしてある。中には何がいる。終わりはある。続きを見たい。もっと見たい――」
少女の声が次第に早くなる。
「待って」
レシティアが両肩を掴んだ。
「全部聞かなくていい」
「でも、聞こえる」
「じゃあ私の声を聞いて」
少女の一つ目がレシティアへ向く。
「ここを見て。私だけ見てればいいから」
しばらくして、少女の震えが少し収まった。
剣士騎士がその様子を見て、静かにレシティアの前へ立つ。少女を守るためでもあり、レシティア自身を外から隠すためでもあった。
「姫様。これ以上、外から見られない方法はないのですか」
黒髪の女が答える。
「ある」
「ならば」
「世界を閉じる」
誰も言葉を続けなかった。
「完全に閉じれば、外からは見えなくなる。観測もできない。掃除屋も入れない。管理局も入れない。境界も固定できる」
「それでいいんじゃない?」
レシティアが言うと、黒髪の女は首を横に振った。
「外へ出られなくなる」
「別に――」
「永遠に」
その一言で、レシティアも黙った。
「世界間だけじゃない。外部へ繋がる全ての可能性を切る。非常口も消える。外から来た存在は追い出されるか、この世界に固定される。そして何より、一度閉じた世界は二度と開けられない」
ガルドが鼻を鳴らした。
「俺、閉じ込められるの嫌なんだけど」
「あなたはまず無銭飲食をやめなさい」
「今それ関係ある?」
レシティアは考えた。
世界を守る。
そのために世界を閉じる。
確かに安全になるのかもしれない。
けれど、それはどこか違う気がした。
「嫌」
黒髪の女が見る。
「だと思った」
「まだ何も言ってないのに」
「顔で分かるようになった」
レシティアは少しだけ笑い、それから空を見上げた。
「見たいなら、見ればいいと思う」
「姫様?」
剣士騎士が振り返る。
「もちろん、勝手に未来を決められるのは嫌。でも、見ることまで禁止するのは違う気がするの」
黒髪の女が目を細める。
「見られることで世界が変わっても?」
「人に見られたら変わるのって、普通じゃない?」
誰かに褒められれば嬉しい。悪く言われれば腹が立つ。期待されれば頑張ろうと思うこともあるし、逆に逃げたくなることもある。
それでも。
「見られたからって、その人の言う通りになる必要はないでしょう?」
黒髪の女は答えなかった。
レシティアは続ける。
「見る側がいる。見られる側がいる。でも、決めるのは私たち。それじゃ駄目なの?」
観測管理局の男が、初めて紙から顔を上げた。
「理論上は可能です」
「本当?」
「ただし前例がありません」
「最近そればっかりね」
「当該世界において前例のない事象が多発しておりますので」
「私のせい?」
男は紙を見る。
「約六割」
「思ったより多いわね……」
黒髪の女が何かに気づいたように非常口を見る。
「待って。もしかしたら……」
白い扉へ近づき、手を触れる。
「非常口は本来、逃げるための扉だった。でも今は違う。可能性世界を繋いだことで、構造が変わってる」
「どう変わったの?」
「行き来するためだけじゃない」
女が振り返った。
「内と外を分ける境界になってる」
エリシアが息を呑む。
「境界……」
「そう。閉じる必要はない。境界を作ればいいんだ」
レシティアはまだ分からない。
「何が違うの?」
エリシアが答えた。
「家と同じよ」
「家?」
「壁があるから家になる。でも、窓も扉もある。外から見えることもあるし、中から外を見ることもできる。でも、勝手に入っていいわけじゃない」
レシティアは納得した。
「鍵を作るのね」
黒髪の女が笑う。
「そういうこと」
問題は誰が鍵を掛けるかだった。
非常口を作ったのは黒髪の女。境界を固定できるのはエリシア。そして、その非常口の所有者はレシティア。
三人が揃って初めて成立する。
「何をすればいい?」
「簡単」
黒髪の女が扉へ手を置く。
「外を見る自由と、外から見られる自由を残す。その代わり、観測された情報が勝手に現実を決めないようにする」
エリシアも反対側へ手を置いた。
「見ることと、決めることの間に境界を作る」
レシティアは取っ手を握る。
「つまり?」
「見られても、好きに生きられるようにする」
「それなら分かる」
三人。
同時に力を込めた。
白い扉が光った。
世界中で、一瞬だけ風が止まった。
《観測者数:1,048,576》
数字の増加が止まる。
代わりに新しい文字が浮かぶ。
《観測》
《許可》
《干渉》
《拒否》
黒髪の女が息を吐いた。
「できた」
その瞬間、世界を覆っていた圧迫感が消えた。
見られている。
それは変わらない。
だが、ただそれだけになった。
空は空のまま。山は山。海は海。
未来も、誰かに決められることなく無数に枝分かれしている。
レシティアは胸に手を当てた。
「……なんか変な感じ」
「まだ見られてるからね」
「何人?」
管理局の男。
「現在、百四万八千五百七十六」
「そんなに?」
「増加しています」
「止まってないじゃない!」
「干渉は遮断されています」
「そういう問題じゃなくて、恥ずかしいのよ!」
ガルドが笑った。
「今さら?」
「今さらって何よ!」
その時。
地下から。
ズン。
大きな音がした。
全員が黙る。
星泉を見る。
《第二隔離扉》
《封印残存率:20%》
変わらない。
「今度は何?」
レシティアが恐る恐る尋ねる。
大きいおじさんの声が返ってきた。
『……姫』
「何?」
『白い奴らが』
「また増えた?」
『違う』
しばらく間があった。
『全員、座った』
「……座った?」
『九億全部』
想像したくない光景だった。
『それで』
大きいおじさんが困惑した声を出す。
『空を見てる』
黒髪の女が眉を寄せる。
「何してるの?」
地下から別の声。
助手だった。
『観測してる』
その言葉に、全員が固まった。
『今まで逃げることしか知らなかった連中が、外を見始めた』
白いものたち。
境界喰いから逃げ続けた存在。
ずっと。
見られる側だった。
追われる側だった。
逃げる側だった。
それが今。
初めて。
向こう側を。
見返している。
レシティアの足元で影が動いた。
「ねえ」
「何?」
「私も見ていい?」
レシティアは少し考えてから答える。
「見たいなら」
影が床から伸び、壁を這う。小さな黒い目のような形になって、外を向いた。
白い一つ目の少女も恐る恐る顔を上げる。
エリシアも。
ガルドも。
黒髪の女も。
騎士団も。
最後にはレシティア自身も。
空を見た。
そこには何もない。
巨大な目も。
文字も。
怪物も。
ただ、青い空が広がっている。
けれど。
確かに。
向こうに。
誰かがいる。
レシティアはしばらく空を見つめたあと、小さく笑った。
「見てる?」
返事はない。
「まあ、いいわ」
剣士騎士が怪訝そうに見る。
「何をなさっているのです?」
「挨拶」
「誰に?」
レシティアはもう一度空を見る。
「知らない誰かに」
その瞬間だった。
星見の神殿の最深部。
誰もいないはずの部屋で、古びた石板に文字が刻まれた。
誰も触れていない。
誰も書いていない。
一文字ずつ。
ゆっくりと。
『観測開始』
少し間を置いて、その下にもう一文。
『第一記録――星見の神殿』
そして最後に。
今まで一度も、この世界に存在しなかった言葉が刻まれる。
『観測禁止区域 候補指定』
誰もまだ。
その文字を見ていなかった。




