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名前のない世界

「自分が何なのか、ちゃんと考えなさい」


怪物の無数の目がレシティアを見る。


「私は……」


言葉が止まった。


今までなら即座に答えられた。世界。観測者。レシティア。記録されたもの。


だが、その全てを否定された。


レシティアは剣を向けたまま待つ。


黒髪の女が小声で聞いた。


「斬らないの?」


「考えてる途中でしょう?」


「敵だよ?」


「考えてる途中で斬るのは卑怯じゃない?」


「戦いにそのルールある?」


「私はある」


黒髪の女はため息をついた。


「ほんと面倒な子になったなあ」


「誰のせい?」


「騎士団じゃない?」


「あなたもでしょう」


怪物の身体から伸びていた黒い糸が、一本ずつ落ちていく。


周囲では八百万人を超えるレシティアたちが、それぞれ自分の扉を守っている。


誰も同じではない。


同じ名前。同じ始まり。


それでも、歩いた道が違えば別の人間になる。


怪物はそれを理解できずにいた。


「私は、観測された」


「うん」


「だから存在する」


「そうかもしれないわね」


「観測されなければ?」


怪物の声が小さくなる。


「私は、いない?」


レシティアは少し考えた。


「知らない」


「……知らない?」


「だって、誰にも見られてないものが存在してるかなんて、確認できないでしょう?」


怪物が黙る。


黒髪の女も黙った。


「でも」


レシティアは続ける。


「今は私が見てる」


怪物の目が一斉にレシティアへ向いた。


「あなたも私を見てる。だから今ここにいる。それじゃ駄目?」


「……」


「ずっと存在する理由まで、今決めなくてもいいと思う」


怪物の身体が少しだけ縮んだ。


空間に文字が浮かぶ。


《一括登録処理》


《開始》


無数の扉が光り始めた。


《世界000001 独立》


《世界000002 独立》


《世界000003 独立》


猛烈な速度で数字が進む。


一つの可能性だったものが、一つの世界になっていく。


そして独立した世界から順番に、レシティアたちの姿が薄くなった。


十二歳のレシティアが手を振る。


「じゃあね」


「うん」


女王のレシティアも笑う。


「そっちの世界、ちゃんと守りなさいよ」


「あなたもね」


筋肉質なレシティア。


「鍛錬は裏切らない」


「それはちょっと考える」


「何で!?」


無職のレシティア。


「私も明日から頑張る」


「今日は?」


「今日は休む」


「それは大事」


次々に扉が閉じていく。


それぞれの世界へ。


それぞれのレシティアが帰っていく。


やがて、残ったのは現在のレシティアと黒髪の女、足元の影。


そして怪物だけになった。


怪物は周囲を見る。


「……私の扉がない」


レシティア。


「そうね」


「私の世界も」


「ないわね」


「私は」


怪物は自分の身体を見る。


「帰る場所がない」


その言葉に。


レシティアは少しだけ困った顔をした。


黒髪の女がすぐに察する。


「駄目だよ」


「まだ何も言ってない」


「連れて帰ろうとしてる顔」


「そんな顔ある?」


「ある。すごくある」


「でも」


「でもじゃない。神殿にもう変なの何人いると思ってるの?」


足元の影。


「私も変?」


黒髪。


「かなり」


影。


「……」


レシティア。


「落ち込ませないで」


「ほら! もう一人面倒見てるじゃん!」


怪物はその会話を見ていた。


やがて、身体がさらに縮む。


無数の目が消えていく。


口も消える。


黒い塊は少しずつ人の形になった。


最後に残ったのは、十二、三歳ほどの少女だった。


髪も肌も真っ白。


顔には目が一つだけ。


少女は自分の手を見る。


「これが、私?」


レシティア。


「自分で決めたの?」


「……うん」


「なら、あなたね」


黒髪の女が頭を抱えた。


「受け入れるの早いって」


「だって本人が決めたのよ?」


「そういう問題かなあ」


少女がレシティアを見る。


「名前」


「欲しい?」


以前の影と同じ問い。


少女は考える。


「分からない」


「じゃあ、まだいらないわね」


「名前がないと困らない?」


「必要になったら、その時考えればいいでしょう?」


少女は頷いた。


その瞬間。


空間に文字が出る。


《未登録存在》


《名称:未設定》


《分類:未設定》


《所属世界:未設定》


《処理:保留》


レシティア。


「保留でいいの?」


どこからともなく、観測管理局の男の声。


『規定上問題ありません』


黒髪。


「聞いてたの!?」


『業務ですので』


「怖いなあ、あいつ」


最後の扉が光る。


現在世界への出口。


《一括登録完了》


《登録世界数:8,714,262》


《異常混入:分離済》


《所有権:解除》


《各世界:独立》


レシティアはほっと息を吐いた。


「終わった?」


黒髪の女。


「この件はね」


「その言い方嫌」


「だってまだ地下があるし」


「……忘れてた」


「忘れないで!?」


第二の扉。


境界喰い。


助手。


大きいおじさん。


十二万どころではなくなった白いものたち。


問題はまだ残っている。


レシティアは額を押さえた。


「帰ったら寝たい」


黒髪の女。


「それは騎士団も喜ぶ」


現在世界へ戻る。


扉を抜けた瞬間。


「姫様!」


剣士騎士が飛んできた。


「ただい――」


両肩を掴まれる。


「お怪我は!?」


「ない」


「増えていませんか!?」


「何が?」


「姫様が」


「増えてないわよ!」


女性騎士が後ろを見る。


「……一人増えています」


レシティア。


「あ」


白い一つ目の少女。


ついてきていた。


黒髪の女。


「ほらぁ!」


レシティア。


「私が連れてきたんじゃない!」


少女。


「ついてきた」


「ほらぁ!!」


「私のせいじゃないでしょう!?」


観測管理局の男が少女を確認する。


「未登録存在の同行は規則上禁止されていません」


黒髪。


「禁止しといてよ!」


「必要性が確認できません」


少女は騎士団を見る。


剣士騎士。


女性騎士。


魔法騎士。


諜報騎士。


そしてレシティアを見る。


「これが」


少女は首を傾げる。


「あなたの帰る場所?」


レシティアも周囲を見る。


壊れた神殿。


疲れ切った仲間たち。


問題だらけ。


地下にはまだ化け物。


外にも変なのがいる。


それでも。


「うん」


レシティアは笑った。


「帰る場所」


少女。


「……いいな」


小さな声だった。


その時。


神殿全体が大きく揺れた。


ドンッ。


全員の表情が変わる。


地下。


何かが。


ぶつかった。


ドンッ!


二回目。


星泉の表面に文字が浮かぶ。


《第二隔離扉》


《封印残存率》


《31.882%》


レシティア。


「……」


黒髪の女。


「……」


剣士騎士。


「姫様」


「分かってる」


《28.104%》


急激に減る。


地下から、大きいおじさんの声。


『おい!!』


神殿が震える。


『上で何をしていた!!』


レシティア。


「色々!」


『こっちも色々だ!!』


《23.001%》


黒髪の女。


「まずい。助手は?」


地下から返事。


『修理している! だが追いつかん!』


「白いのは!?」


長い沈黙。


大きいおじさん。


『……増えた』


黒髪。


「どれくらい?」


『分からん』


「大体!」


『最後に数えた時点で』


一拍。


『九億』


全員。


「……」


ガルド。


「増えすぎだろ」


だが。


本当に危険なのは。


そこではなかった。


《第二隔離扉》


《封印残存率》


《20.000%》


突然。


止まる。


減らない。


黒髪の女。


「……?」


地下。


大きいおじさんも黙る。


『止まった』


助手の声が遠くから響く。


『僕じゃない! まだ修理できてない!』


では。


誰が。


第二の扉を。


止めた。


レシティアの足元。


影が震える。


白い一つ目の少女も、突然その場にしゃがみ込んだ。


「どうしたの?」


少女は頭を押さえる。


「声」


「何の?」


「いっぱい」


「どこから?」


少女はレシティアを見た。


「外」


黒髪の女。


「観測者?」


少女は首を横に振る。


「もっと」


「遠い」


そして。


神殿の壁。


何もない場所に。


文字が浮かんだ。


観測者の文字ではない。


管理局でもない。


古代文字でもない。


なのに。


全員。


読めた。


『観測を確認しました』


黒髪の女の顔から血の気が引く。


次。


『当該世界を発見しました』


レシティア。


「……誰?」


最後。


一文。


『こちらからも、あなたたちが見えています』


神殿の中。


誰も動かなかった。


そしてレシティアだけが気づく。


その文章の下。


小さな数字が。


増えている。


《観測者数:1》


《観測者数:2》


《観測者数:3》


《観測者数:4》


止まらない。


《11》


《28》


《103》


《491》


黒髪の女が、震える声で呟いた。


「……違う」


レシティア。


「何が?」


「あれは」


巨大な瞳。


観測者。


一つの存在ではなかった。


黒髪の女は数字を見つめたまま言った。


「今まで来てたのは――」


一拍。


「観測者じゃない」


《観測者数:1,024》


「観測するための」


《2,048》


「ただの」


《4,096》


「窓だったんだ」


数字が。


さらに増えた。

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