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立入検査

非常口の取っ手が、ゆっくりと下がった。


「開けるな!!」


黒髪の女が叫ぶ。


「開けてない!」


レシティアも負けじと叫び返した。


誰も触れていない。そもそもレシティアは扉から数歩離れている。それなのに取っ手は完全に下がり、白い扉がわずかにこちら側へ開いた。


隙間から白い光が漏れる。


剣士騎士が即座にレシティアの前へ出た。女性騎士、魔法騎士、諜報騎士も迷いなく周囲を固める。セラフィナとルミエルが翼を広げ、ガルドは六本の腕を構えた。


「姫様、後ろへ」


「分かった」


レシティアが素直に下がる。


ガルドがちらりと見る。


「今日はやけに素直だな」


「今日は変なのが多すぎるのよ」


「今日“も”じゃね?」


「黙って」


扉が、もう少し開いた。


そして――黒い革靴が一足、こちら側へ踏み込んだ。


最初に見えたのは、ごく普通の男だった。


年齢は四十前後。灰色の髪を綺麗に撫でつけ、黒い服の上から濃紺の長衣を羽織っている。右手には黒い鞄。左手には何枚もの紙を挟んだ板。


見た目だけなら、王宮の役人と言われても信じられる。


ただし。


顔がなかった。


目も鼻も口もない。肌色の平らな面があるだけだった。


「……」


レシティアが黙る。


男も黙る。


数秒。


男の顔に、一本の横線が入った。


それが口のように開く。


「こんばんは」


「こんばんは……」


反射的に挨拶を返してしまった。


剣士騎士が小声で言う。


「姫様」


「何?」


「挨拶を返さないでください」


「でも挨拶されたら返すでしょう?」


「相手を選んでください」


男は紙を一枚めくった。


「レシティア・パープル様でお間違いありませんか?」


「そうだけど」


「本人確認完了」


「今ので?」


「はい」


「雑じゃない?」


「ご本人が肯定されましたので」


諜報騎士が頭を抱えた。


「姫様……」


「私、何かまずいことした?」


「今のところは」


「今のところ?」


「今後は質問に答える前に一度こちらをご覧ください」


「分かったわ」


男が次の紙を見る。


「では、生年月日を」


レシティアが諜報騎士を見る。


「回答不要です」


「回答を拒否します」


男。


「承知しました」


レシティア。


「話が早いわね」


黒髪の女だけが笑っていなかった。


「お前、何者?」


男の顔が黒髪の女へ向く。


「先ほど申し上げました通り、観測管理局の者です」


「そんな組織、知らない」


「正常です」


「何?」


「通常、世界内部の存在が当局を認識することはありません」


男は淡々と続ける。


「世界外部の存在であっても、管理対象でない限り認識する必要はありません」


ガルドが眉をひそめる。


「俺も知らねえぞ」


「あなたはガルド様ですね」


ガルドが固まった。


「……なんで知ってる?」


男は紙を見る。


「外部存在。分類不能。世界間移動歴二千八百七十一回。世界構造破損七件。無許可侵入四百二件。無銭飲食――」


「待て」


「百九十八件」


「それ関係ある?」


「記録ですので」


レシティアがガルドを見る。


「無銭飲食」


「そこ拾う?」


「百九十八回」


「数字まで言うなよ」


騎士団の視線が冷たい。


ガルドは目を逸らした。


「昔の話」


男。


「直近は三日前です」


「お前嫌い」


黒髪の女が一歩前へ出た。


「で? 何の検査?」


「当該世界において、重大な観測異常が発生しました」


男が紙をめくる。


「未登録の外口。不正な世界廃棄処理の中断。境界侵食体の隔離不備。観測対象による観測結果への干渉。世界そのものによる自己観測および自己定義」


さらに一枚。


「その他、軽微な違反が七百三十二件」


黒髪の女が目を逸らした。


レシティアは気づいた。


「あなた、心当たりあるでしょう」


「ない」


「ある顔してる」


「顔で決めつけないで」


「じゃあ七百三十二件について」


「たぶん半分くらい私」


「半分もあるじゃない」


男。


「六百九十一件です」


黒髪の女。


「ほぼ私じゃん」


「何したのよ……」


「若かったんだよ」


「何年前?」


「千年以上前」


「十分反省できる時間あったでしょう?」


男は淡々と紙を揃えた。


「なお、過去の違反については今回の検査対象外です」


黒髪の女が露骨に安心する。


「助かった」


「ただし記録は残っています」


「消して」


「できません」


「そこを何とか」


「できません」


「融通利かないなあ」


「規則ですので」


レシティアが男を見る。


「あなたたちって、観測者の仲間なの?」


男の顔がこちらを向いた。


「いいえ」


「じゃあ敵?」


「いいえ」


「では何なの?」


「管理する者です」


「観測者を?」


「観測という行為を」


男は紙の端を指で揃える。


「観測者は世界を発見し、記録し、確定させる。当局は、その観測によって世界間に重大な矛盾が生じないよう管理する。それだけです」


リベルが尋ねた。


「先ほど観測者が、この世界の未来を固定しようとしていました。それは規則上、問題ではないのですか?」


「通常の観測行為であれば問題ありません」


剣士騎士の目が鋭くなる。


「姫様を殺そうとした行為が?」


「正確には殺害ではありません。死亡する可能性が存在する未来を選択し、確定させようとしただけです」


「同じだ」


「結果としては」


剣士騎士の手が剣へ伸びる。


レシティアが袖を掴んだ。


「駄目」


「しかし」


「今は友達じゃなくて騎士に戻ったんだから、言うこと聞いて」


剣士騎士は数秒黙った。


「……御意」


ガルドが小さく笑う。


「便利だな、騎士」


「黙れ」


レシティアは男を見る。


「だったら、どうして今さら来たの?」


「観測者の行為自体は規定内でした。しかし途中から異常が発生した」


「世界が自分を観測したこと?」


「それも一つです」


男がレシティアを指した。


「最大の異常は、あなたです」


騎士団が一斉に武器へ手を伸ばす。


レシティアが慌てる。


「待って待って。まだ何もされてないから」


男はまったく動じない。


「レシティア・パープル。人類種。女性。二十歳。第三王女。ここまでは問題ありません」


「そこから?」


「観測不能」


「またそれ?」


「正確には、観測結果が安定しません」


男が紙を一枚取り出した。


そこにはレシティアの名前。


その下に。


《人類種》


文字が滲む。


《外部存在》


消える。


《人類種》


また変わる。


《扉》


《王族》


《未登録構造》


《一般人》


《観測対象》


《――》


次々に書き換わる。


レシティアは嫌そうな顔をした。


「一般人と扉が同じところに並んでるの嫌ね」


「そこなんですか?」


リベルが思わず言った。


「だって私、人よ?」


「はい」


「扉じゃないわ」


黒髪の女が小さく手を挙げる。


「一部、扉」


「あなたのせいでしょう」


「ごめん」


男が続ける。


「本来、一つの存在には観測上の基準点があります」


「基準点?」


「その存在が何であるか。どこから始まり、どこで終わるか。それを観測するための中心です」


レシティア。


「私にはない?」


「あります」


「じゃあ何が問題なの?」


「移動します」


沈黙。


「……何が?」


「基準点が」


男は紙を見る。


「肉体に存在する時もあれば、魂に存在する時もある。世界内部に存在する時もあれば、非常口の外側に存在する時もある。騎士団との関係性を基準にする場合もあれば、本人の自己認識を基準にする場合もある」


ガルド。


「そんなことある?」


「ありません」


即答。


「じゃあ何で?」


男はレシティアを見る。


「本人が、自分を一つに決めていないからです」


レシティアは少し考えた。


「普通じゃない?」


「通常は世界が決めます」


「私は?」


「世界による定義を拒否できる構造が埋め込まれています」


全員の視線が黒髪の女へ。


「……」


「あなたね」


「はい」


黒髪の女が素直に手を挙げた。


「非常口を作った時に、世界から役割を押しつけられないようにした」


男が続ける。


「さらに本人が、アリア、契約王、神代、その他の既存定義を拒絶している」


レシティア。


「だって私じゃないもの」


「はい。その結果です」


男は紙を裏返す。


真っ白。


「当局にも、あなたを何として登録すればいいのか分かりません」


「人でいいでしょう?」


「人として登録すると非常口が説明できません」


「じゃあ人で、非常口付き」


「規格がありません」


「作れば?」


男。


止まった。


黒髪の女も止まった。


ガルド。


吹き出した。


「っはははは!」


レシティア。


「何?」


「いや、お前ほんとそれ好きだな」


「何が?」


「ないなら作る」


男はしばらく動かなかった。


やがて紙に何かを書く。


「……提案として記録します」


「通る?」


「分かりません」


「そう」


「ただし、今回の問題はそれだけではありません」


男が黒い鞄を開いた。


中から出したのは、小さな透明の箱。


その中に――黒い点。


レシティアの影が突然震えた。


「嫌」


レシティア。


「どうしたの?」


「それ、嫌」


影がレシティアの足元へ隠れる。


エリシアも箱を見る。


「……何、それ」


男。


「回収物です」


「どこから?」


「この世界の外周」


透明な箱の中。


黒い点。


よく見ると。


動いている。


いや。


何かが。


こちらを。


見ている。


「先ほどの観測者が残したもの?」


黒髪の女が聞く。


「違います」


「じゃあ掃除屋?」


「違います」


「境界喰い?」


「違います」


ガルド。


「じゃあ何だよ」


男は答える。


「世界片です」


誰も分からない。


レシティア。


「世界の欠片?」


「はい」


「どの世界?」


「当該世界です」


沈黙。


レシティアは足元を見る。


「……ここ?」


「はい」


男は箱を持ち上げる。


「正確には、この世界から分離した可能性世界」


リベル。


「可能性世界……」


「先ほど、観測結果を飽和させるため大量の未来分岐が生成されました」


黒髪の女の顔色が変わる。


「まさか」


「はい」


男。


淡々。


「その一部が、未来の可能性ではなく――独立した世界として成立しています」


レシティア。


「……何個?」


男。


紙を見る。


「現在確認されているだけで」


一拍。


「八百七十一万四千二百六十二世界」


誰も。


喋らない。


ガルド。


ゆっくり。


黒髪の女を見る。


黒髪の女。


ゆっくり。


白いものたちを見る。


白いものたち。


一斉に。


レシティアを見る。


「未来」


「いっぱい」


レシティア。


「いっぱいどころじゃないわよ!」


白いもの。


「ごめん」


「謝れるの!?」


男は淡々と続ける。


「なお、現在も増殖中です」


「止められる?」


「そのための立入検査です」


「じゃあ早く止めて」


「できません」


「なんで!?」


「所有権が不明です」


レシティア。


「……世界に所有権なんてあるの?」


「通常はありません」


「じゃあ問題ないでしょう?」


「今回発生した可能性世界の全てに、同一の所有者情報が記録されています」


嫌な。


予感。


レシティア。


「誰?」


男。


紙。


確認。


「レシティア・パープル」


レシティア。


目を閉じた。


「……いらない」


「所有権放棄ですか?」


「できるの?」


「手続き上は」


「する」


「ただし」


男。


紙をめくる。


「内部に存在する生命について、所有者による確認が必要です」


レシティア。


目を開く。


「生命?」


「はい」


「可能性だけの世界じゃないの?」


「独立した時点で、内部時間が開始されています」


男は透明な箱をレシティアへ向ける。


黒い点。


拡大。


景色。


見える。


星見の神殿。


レシティア。


いる。


別の。


レシティア。


「……私?」


箱の中。


もう一人のレシティアが。


騎士団と。


話している。


ただし。


少し違う。


髪。


長い。


服。


破れている。


左目。


包帯。


そして。


隣。


剣士騎士。


いない。


レシティアの顔から。


表情。


消える。


男。


「可能性世界第六十三万二千九百一号」


箱の中。


レシティア。


こちらを。


見た。


あり得ない。


こちらから。


観察しているだけ。


向こうからは。


見えないはず。


なのに。


もう一人のレシティアが。


ゆっくり。


顔を上げる。


そして。


口。


動く。


『見つけた』


黒髪の女。


「箱を閉じろ!」


男が即座に蓋を閉じる。


黒。


戻る。


レシティア。


「今」


「見えました」


「向こうの私」


「私たちを見た」


「はい」


男の声。


初めて。


少しだけ。


硬い。


「それが今回、私が直接訪問した理由です」


「どういうこと?」


「分岐した可能性世界のうち、少なくとも十三世界が」


一拍。


「こちらの世界を観測しています」


ガルド。


「……逆観測?」


「はい」


「できるのか?」


「通常は不可能です」


黒髪の女。


「でも」


レシティアを見る。


「基準点が同じ」


男。


「その可能性が高い」


レシティア。


頭。


痛くなる。


「つまり」


指。


一本。


「私たちの世界がある」


「はい」


二本。


「未来がいっぱい増えた」


「はい」


三本。


「その未来が世界になった」


「はい」


四本。


「そこにも私がいる」


「はい」


五本。


「その私たちが」


「こっちを見てる」


「はい」


レシティア。


手。


下ろす。


「嫌」


ガルド。


「分かりやすいまとめだった」


「嬉しくない」


剣士騎士。


男へ。


「それらの世界から、こちらへ干渉できるのか」


「現時点では不明です」


「最悪の場合は?」


「世界同士が接触します」


エリシア。


「接触すると?」


男。


少し。


間。


「同一人物が、同一世界に複数存在する可能性があります」


レシティア。


「私が増える?」


「はい」


ガルド。


「何人くらい?」


男。


「最大で八百七十一万――」


騎士団。


全員。


「駄目です」


即答。


レシティア。


「そこまで嫌!?」


女性騎士。


「一人でも目を離すと危険なのです」


魔法騎士。


「二人以上は管理不能です」


諜報騎士。


「八百万を超えれば国家災害です」


レシティア。


「私、災害扱い?」


剣士騎士。


「姫様」


「何?」


「一人で十分です」


「……それ」


「褒めてる?」


剣士騎士。


少し考える。


「はい」


「今考えたでしょう」


コン。


音。


透明な箱。


内側。


全員。


見る。


コン。


もう一度。


箱の中から。


ノック。


男。


「……」


黒髪の女。


「おい」


コン。


コン。


そして。


箱の表面。


文字。


浮かぶ。


『開けて』


レシティア。


「開けない」


文字。


消える。


次。


『私だよ』


「知ってる」


『レシティアだよ』


「私もレシティアよ」


箱。


沈黙。


ガルド。


「姫同士の会話、面倒くせえな」


騎士団。


「黙れ」


次。


箱。


文字。


『そっちには』


間。


『まだ』


間。


『みんないる?』


レシティア。


顔。


変わる。


剣士騎士も。


箱を見る。


『騎士団』


『全員』


『生きてる?』


レシティア。


答えない。


男。


「返答しないでください」


レシティア。


「分かってる」


箱。


『いいな』


文字。


少し。


震える。


『こっちは』


『私しか』


『残ってない』


沈黙。


レシティアは拳を握った。


答えたい。


でも。


答えれば。


向こうとの繋がりが。


強くなる。


分かっている。


箱。


『お願い』


『開けて』


『一人は』


『嫌』


レシティア。


目を閉じる。


剣士騎士。


隣。


立つ。


何も。


言わない。


ただ。


そこにいる。


レシティア。


小さく。


息を吐く。


「……開けない」


箱。


文字。


止まる。


「あなたが私でも」


レシティア。


箱を見る。


「開けない」


『どうして』


「こっちを」


「危険にするから」


『私なのに』


「だから」


一拍。


「分かるでしょう?」


箱。


長い。


沈黙。


そして。


『うん』


文字。


出た。


レシティア。


少し。


顔。


歪む。


『でも』


次。


『遅いよ』


黒髪の女。


「何?」


箱。


突然。


ひび。


一本。


男。


「離れてください!」


騎士団。


レシティア。


囲む。


箱。


亀裂。


増える。


中。


黒い点。


膨らむ。


男が鞄へ戻そうとする。


だが。


入らない。


空間。


歪む。


『私が』


文字。


箱いっぱい。


『開けるんじゃない』


レシティア。


「……?」


『そっちの私が』


『もう』


『開けた』


レシティア。


胸。


激痛。


「っ!」


剣士騎士。


「姫様!」


非常口。


第一。


白い扉。


第二。


胸の奥。


そして。


そのどちらでもない。


三つ目。


音。


コン。


レシティア。


顔。


青ざめる。


「……また?」


黒髪の女。


「違う!」


レシティアの。


背後。


何もない空間。


一本。


縦線。


走る。


「それは」


黒髪の女。


叫ぶ。


「お前の扉じゃない!」


縦線。


左右。


開く。


向こう。


星見の神殿。


同じ場所。


同じ景色。


そして。


紫色の服を着た。


女。


一人。


立っている。


レシティアと。


同じ顔。


ただし。


左目に包帯。


女は。


こちらの騎士団を見た。


一人。


二人。


三人。


四人。


全員。


いる。


それを確認して。


笑った。


泣きながら。


「……よかった」


レシティア。


剣。


抜く。


もう一人のレシティア。


同じように。


剣。


抜く。


二人。


まったく同じ構え。


そして。


もう一人のレシティアは。


震える声で。


言った。


「ごめんね」


一拍。


「一人だけ」

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