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非常口の向こう

「――非常口」


レシティアがそう読み上げた瞬間。


扉の向こうから吹いてきた風が、全員の髪を揺らした。


冷たい。


けれど。


魔力がない。


精霊の気配もない。


神気も。


呪力も。


何もない。


魔法騎士が目を細める。


「……無属性?」


リベルが首を横へ振る。


「違います」


「これは」


「この世界のものではありません」


ゼフィールが扉を見る。


「開ける?」


「駄目です」


リベルが即答した。


レシティアも頷く。


「開けない方がいい気がするわ」


騎士団全員が少し安心した。


姫様が。


珍しく。


自分から危険を避けた。


しかし。


次の瞬間。


扉の取っ手が。


カチャ。


勝手に下がった。


「……。」


「……。」


レシティアが一歩下がる。


女性騎士が即座に前へ。


「姫様のせいではありませんね?」


「触ってないわよ」


「確認です」


扉が。


ゆっくり。


開いた。


向こう側。


何もない。


真っ白な空間。


地面も。


空も。


境界もない。


ただ。


ずっと。


白い。


セラフィナが恐る恐る覗く。


「……部屋?」


リベルが答える。


「いいえ」


「空間として成立していません」


ゼフィールが眉を寄せる。


「どういう意味?」


「距離がない」


「方向もない」


「時間も」


そこで。


リベルが止まった。


扉の向こう。


白い空間の中央。


何かが。


立っている。


人影。


小さい。


子どもほど。


黒い髪。


白い服。


後ろ姿。


レシティアの胸の奥。


ドクン。


また。


あの感覚。


「……あの人」


誰かが振り返る。


顔。


見えない。


白い靄。


でも。


レシティアには分かった。


夢で見た。


赤ん坊へ何かを入れた女。


同じ人物。


星泉の女が。


絶叫した。


「閉じなさい!」


初めて。


完全に取り乱している。


「今すぐ閉じて!」


レシティアが驚く。


「知ってるの?」


「いいから!」


星泉全体が荒れ狂う。


黒い腕が伸びる。


扉へ。


しかし。


触れる直前。


黒い腕が消えた。


燃えたわけでも。


切れたわけでもない。


存在しなくなった。


星泉の女が後退する。


「……まだ」


「まだ有効なの」


地下から。


大きいおじさんの笑い声。


『当然だ』


女が睨む。


「黙れ!」


『あいつは』


『お前たちより』


『ずっと執念深い』


少女が床へ向かって言う。


「おじさん楽しそうだね」


『楽しい』


「ずっと怒ってたのに」


『今は面白い』


「よかったね」


妙に平和な会話だった。


レシティアは。


扉の向こうにいる女を見る。


「あなた」


呼びかける。


返事はない。


一歩。


扉へ近づく。


騎士団が即座に止める。


「姫様」


「入りません」


「本当ですか?」


「本当よ」


「約束を」


「最近、約束が多くない?」


「必要です」


「……入らないと約束するわ」


剣士騎士がようやく腕を下げる。


レシティアは扉の前に立つ。


境界。


こちら側。


向こう側。


その距離。


数十センチ。


でも。


直感では。


果てしなく遠い。


「聞こえる?」


レシティアが尋ねる。


白い空間の女が。


ゆっくり。


顔を上げた。


声。


小さい。


「聞こえてる」


全員の空気が変わった。


リベルが震える。


「意思疎通……」


女は。


レシティアだけを見ている。


「大きくなったね」


レシティアは。


困った顔をした。


「私を知ってるの?」


「知ってる」


「どこで?」


女は少し考え。


「生まれる前」


答えた。


沈黙。


レシティアは。


すぐに聞き返した。


「それって」


「私じゃないんじゃない?」


女が。


笑った。


「いいね」


「何が?」


「そこ」


「ちゃんと違うって言えるところ」


レシティアはますます分からない。


女は続ける。


「昔はね」


「みんな同じものにしたがった」


「魂」


「血」


「記憶」


「運命」


「誰かに似ていたら」


「その誰かにしたがった」


少し。


寂しそうな声。


「だから」


「全部切った」


レシティアの表情が変わる。


「あなたが?」


「うん」


「アリアとの繋がりも?」


「切った」


リベルが息を呑む。


女は続ける。


「契約王とも」


「神代とも」


「私とも」


星泉の女が。


低く呟く。


「嘘よ」


白い空間の女は。


初めて。


星泉の方を見る。


顔は見えない。


それでも。


笑ったのが分かった。


「まだいたんだ」


星泉の女の表情が歪む。


「あなた……!」


「しつこいね」


「あなたのせいで!」


「うん」


軽い。


あまりにも軽い。


「ごめん」


星泉の女が。


言葉を失う。


「でも」


白い女は続ける。


「必要だったから」


リベルが。


震える声で尋ねた。


「あなたは」


「最初の客人なのですか」


長い沈黙。


そして。


「その名前」


「嫌い」


女が答える。


「私は客じゃなかった」


地下から。


声。


『侵入者だ』


女が笑う。


「そう」


「勝手に入った」


「勝手に住んだ」


「勝手に弄った」


ゼフィールが呟く。


「ろくでもないな」


女。


「よく言われた」


ゼフィールが固まる。


「聞こえるんだ」


「全部聞こえる」


「……すみません」


また謝った。


レシティアは。


一番気になっていたことを聞いた。


「どうして」


「私にこれを入れたの?」


胸へ。


手を置く。


黒い光。


女の声が。


少しだけ真面目になる。


「逃げるため」


「誰が?」


「あなたが」


「何から?」


女は。


星泉の女を見る。


空の向こうの存在を見る。


そして。


地の底。


さらに。


もっと遠い何かを見るように。


「全部から」


レシティアが黙る。


「あなたは」


「何かになるために作ったんじゃない」


女は言う。


「王になるためでも」


「契約を継ぐためでも」


「世界を救うためでもない」


騎士団が静かに聞いている。


「ただ」


「誰にも使われないように」


「誰にも戻されないように」


「誰にも役目を押しつけられないように」


一拍。


「逃げ道を入れた」


レシティアは。


背後の扉を見る。


「これが?」


「そう」


「非常口」


女が。


少し嬉しそうに言う。


「嫌になったら」


「逃げていい」


レシティアは目を瞬かせた。


「世界から?」


「うん」


「そんな気軽に?」


「気軽でいいよ」


女は答えた。


「世界って」


「案外」


「しつこいから」


その言葉を聞いた瞬間。


星泉の女が。


笑った。


いや。


笑おうとした。


「そう」


「なら」


水面から。


身体が出てくる。


頭。


肩。


胸。


腕。


完全に。


こちら側へ。


女の姿。


長い銀髪。


白い肌。


赤い瞳。


そして。


顔。


リベルが凍りついた。


「……。」


女は。


確かに。


アリアに似ている。


レシティアにも。


そして。


扉の向こうの黒髪の女にも。


少しずつ。


「非常口があるなら」


銀髪の女が言う。


「奪えばいい」


白い空間の女が。


ため息。


「あー」


「やっぱりそうなるか」


レシティアが尋ねる。


「奪えるの?」


「普通は無理」


「普通じゃない場合は?」


「頑張れば」


「曖昧ね」


「私、そういうの苦手だったから」


妙に親近感が湧きそうになる。


銀髪の女が。


レシティアへ手を伸ばした。


「あなたは」


「器じゃない」


一歩。


「後継者でもない」


もう一歩。


「なら」


笑う。


「ただの容器ね」


騎士団の空気が。


変わった。


剣士騎士。


「訂正しろ」


女は笑う。


「何を?」


「姫様を」


「物のように呼んだ」


「だから?」


一瞬。


剣士騎士が消えた。


銀髪の女の首元。


刃。


だが。


止まる。


女の指二本。


剣を摘んでいる。


「速い」


剣士騎士が目を細める。


女は。


そのまま。


剣を折ろうとする。


しかし。


折れない。


「……?」


女性騎士が。


横から盾。


直撃。


ドォォン!!


銀髪の女が。


星泉へ叩き戻される。


「姫様」


女性騎士は。


淡々と。


「少々お待ちください」


レシティアが。


困ったように笑う。


「今日はよく待たされるわね」


星泉が爆発。


銀髪の女が。


再び出てくる。


頬に。


小さな傷。


彼女は。


自分の頬を触った。


血。


赤い。


「……傷?」


その顔。


驚いている。


ルミエルが気づく。


「実体化したことで」


「こちら側の法則に縛られています」


リベルも。


「倒せる?」


ゼフィールが聞く。


「分かりません」


「でも」


魔法騎士が構える。


「傷はつきます」


剣士騎士が。


剣を構え直す。


「十分だ」


その時。


空から。


巨大な手。


再び。


動き始めた。


銀髪の女が上を見る。


「邪魔」


空の存在も。


声。


『返せ』


二つの敵。


互いに。


敵意。


銀髪の女。


「これは私のもの」


空の存在。


『違う』


『こちらのもの』


少女が。


レシティアの服を引っ張る。


「ねえ」


「なあに?」


「なんか」


「あなた」


一拍。


「取り合いされてるよ」


レシティアは。


ちょっと嫌そうな顔をした。


「嬉しくないわね」


「私も」


地下。


大きいおじさんが。


笑う。


『だから』


『逃げろと言った』


レシティアが。


床を見る。


「でも」


初めて。


地下の存在へ。


直接答えた。


「逃げたら」


『……』


「この人たち」


騎士団を見る。


「置いていくことになるでしょう?」


剣士騎士が。


少しだけ。


目を伏せた。


地下から。


長い沈黙。


そして。


『そういうところが』


『似ている』


レシティアの表情が変わる。


だが。


地下の存在は。


すぐ続けた。


『しかし』


『違う』


『あいつなら』


『全員殴ってでも逃げた』


扉の向こう。


黒髪の女が。


笑う。


「そうそう」


「逃げる時は派手だったよ」


レシティア。


「……全然似てないわね」


「うん」


即答。


なぜか。


少し安心した。


銀髪の女が。


両手を広げる。


星泉。


完全に黒く染まる。


空の裂け目も。


さらに広がる。


二つの災厄。


同時。


リベルが叫ぶ。


「来ます!」


騎士団。


構える。


レシティアも。


魔力を集める。


だが。


扉の向こうから。


黒髪の女が言った。


「レシティア」


「なあに?」


「一つだけ」


「教えとく」


「何?」


女は。


扉の枠へ手を置いた。


「非常口は」


少し笑う。


「逃げるためだけのものじゃないよ」


レシティアが首を傾げる。


「じゃあ?」


「外に出られるなら」


一拍。


「外からも」


「入れられる」


その瞬間。


レシティアの背後。


非常口の向こう。


白い空間。


遠く。


何か。


巨大な影が。


歩いてきた。


一つ。


二つ。


三つ。


どれも。


人ではない。


神でもない。


リベルが。


震える。


「何を……」


黒髪の女は。


楽しそうに答えた。


「昔の知り合い」


星泉の女の顔色が。


完全に変わる。


「閉じて!」


今度は。


本気の悲鳴。


「今すぐその扉を閉じなさい!」


レシティアは。


振り返る。


白い空間。


こちらへ向かってくる。


最初の影。


それが。


扉の向こうで。


止まった。


そして。


巨大な身体を。


無理やり。


人間ほどの大きさへ縮める。


現れたのは。


三本の角。


六本の腕。


顔に。


目が一つだけある。


奇妙な男。


彼は。


扉越しにレシティアを見る。


しばらく。


黙る。


そして。


黒髪の女へ聞いた。


「……これ?」


「そう」


「小さくない?」


「育った方だよ」


「弱そう」


レシティアの眉が。


僅かに動く。


騎士団の空気も。


少しだけ。


危なくなる。


男は。


気にせず続けた。


「まあ」


「顔は悪くない」


剣士騎士が一歩前へ出た。


「言葉に気をつけろ」


三本角の男が。


騎士を見る。


そして。


ニヤリ。


「お」


「面白そうなのいるじゃん」


黒髪の女が。


扉の向こうで。


頭を抱えた。


「……だから呼びたくなかったんだよね」


そして。


星見の神殿は。


敵二体。


正体不明の味方らしきもの一体。


地下に一体。


床から出てきた少女一人。


そして。


何も分からないまま巻き込まれ続ける姫と騎士団という。


神代史上でも。


たぶん一番。


収拾のつかない状況へ突入した。

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