地の底から来た子
「……今、何か切れた?」
レシティアの言葉に、部屋の全員が沈黙した。
剣士騎士がすぐに周囲を確認する。
「何か聞こえましたか?」
「聞こえた……というより」
レシティアは床を見つめた。
「感じたの」
「どこから?」
「下」
「この城の地下でしょうか」
「ううん」
レシティアは首を横に振る。
自分でも説明できない。
ただ。
妙に確信があった。
「もっと、ずっと下」
リベルの表情が強張った。
神代図書館へ接続してきた何者か。
大陸地下。
深度推定不能。
何万もの鎖に縛られた、正体不明の存在。
そして今。
黒い鱗に浮かんでいる数字。
《封印残存率 99.9995%》
「……偶然とは思えません」
リベルが呟いた。
女性騎士がフィオナを守りながら尋ねる。
「この程度の低下で、問題になるのですか?」
「分かりません」
「ですが」
リベルは数字を見つめる。
「もし、この封印が大陸規模のものであれば」
言葉を切った。
誰も続きを急かさない。
「〇・〇〇〇一%ですら、何を意味するか分からない」
その時だった。
コンコン。
扉が叩かれた。
全員が一斉に振り向く。
「誰だ」
剣士騎士の声が低くなる。
扉の向こうから。
「失礼いたします!」
兵士の声。
「緊急報告です!」
剣士騎士が扉を開く。
若い兵士が飛び込んできた。
顔色が悪い。
「何があった」
「北部監視塔より伝令!」
兵士は息を整える。
「魔物です!」
「数は?」
「……いません」
「は?」
「魔物が」
兵士自身も混乱していた。
「いなくなりました」
アステリア北部。
そこには広大な森林地帯が存在する。
ゴブリン。
オーク。
魔狼。
大型昆虫種。
危険な魔物が数多く生息し、普段なら兵士ですら不用意には近づかない。
その魔物たちが。
消えた。
討伐されたのではない。
死骸もない。
争った痕跡もない。
ただ。
いない。
「逃げたのでは?」
レシティアが尋ねる。
兵士は首を振った。
「それが……」
地図を広げる。
「北部森林から西へ」
「さらに西部山岳から南へ」
「魔物の群れが移動しています」
魔法騎士が地図を見る。
「方向は?」
兵士が指を置いた。
レシティアたちは、その先を見る。
一方向ではなかった。
北から。
南から。
東から。
西から。
魔物たちは。
まるで何かを避けるように。
大陸中央から離れていた。
フィオナが小さく呟く。
「……壁画」
全員が見る。
先ほどの模写。
古代生物たちも。
同じだった。
何かから。
逃げていた。
その日の午後。
さらに報告が入った。
西部鉱山。
坑道に棲息していた地底魔物が、一斉に地上へ出現。
東部湿原。
大型魔獣が縄張りを捨てて移動。
南方では。
竜種まで巣を放棄した。
ただし。
妙なことが一つあった。
魔物たちは人間を襲わなかった。
逃げている。
人間など気にしている余裕すらないほどに。
「大規模な天変地異の前兆か?」
老騎士が呟く。
「地震」
「火山」
「あるいは魔力脈の異常……」
「違います」
リベルだった。
「彼らは災害から逃げているのではありません」
「では?」
「捕食者です」
部屋が静まり返る。
「生物が縄張りを捨てる最大の理由は二つ」
「環境の変化」
「そして」
「自分より上位の生物の出現」
セラフィナが青ざめる。
「でも……」
「竜まで逃げてるんですよ?」
誰も答えられなかった。
その夜。
アステリア王城には厳戒態勢が敷かれた。
レシティアは自室にいた。
当然。
外出禁止。
窓の外を見る。
「……。」
城下町には灯り。
人々はまだ何も知らない。
昨日まで戦争。
今日は魔物の大移動。
「休養日だったはずなのに」
レシティアが呟く。
後ろで女性騎士が答える。
「まだ休養日です」
「これで?」
「これでもです」
「私、役に立てると思うのだけど」
「ですから休んでいただきます」
「でも」
「姫様」
「はい」
負けた。
レシティアはベッドへ腰掛ける。
「じゃあ」
「せめて報告だけは教えて」
「承知しました」
女性騎士はそこまでは止めなかった。
深夜。
レシティアは眠っていた。
騎士団は交代で警護。
城内も静まり返っている。
午前二時過ぎ。
レシティアの瞼が開いた。
「……?」
何か。
聞こえた。
コツ。
コツ。
コツ。
足音。
廊下?
違う。
窓の外?
違う。
もっと近い。
コツ。
コツ。
レシティアは身体を起こす。
「姫様?」
扉の前にいた騎士がすぐ反応した。
「どうされました」
「何か聞こえない?」
騎士が耳を澄ます。
「……何も」
コツ。
また。
レシティアには聞こえる。
そして気づいた。
「下だわ」
ベッドから降りる。
「床の下」
騎士が剣を抜いた。
すぐに他の騎士も呼ばれる。
魔法騎士が床を調べる。
「反応なし」
諜報騎士も確認。
「隠し通路もありません」
コツ。
コツ。
レシティアだけが聞いている。
その音が。
止まった。
ちょうど。
彼女の真下で。
「……そこ」
レシティアが指差した。
次の瞬間。
コン。
床の下から。
ノックされた。
全員が剣を抜いた。
コン。
コン。
コン。
三回。
そして。
声。
「すみませーん」
子どもの声だった。
「出口って、こっちですかー?」
沈黙。
女性騎士が剣を構えたまま、珍しく困惑している。
「……姫様」
「何?」
「床下から子どもが道を尋ねています」
「聞こえてるわ」
「どうしましょう」
「私に聞かれても……」
すると。
床下からもう一度。
「聞こえてますー?」
妙に明るい。
「聞こえてるわよ」
レシティアが答えた。
騎士団が一斉に振り返る。
「姫様!?」
「無視するのも可哀想でしょう?」
「相手が何者か分かりません!」
「でも子どもよ?」
「床の下にいる時点で普通の子どもではありません!」
もっともだった。
「ねえ」
レシティアが床へ話しかける。
「あなた、誰?」
少し間。
「忘れました!」
元気な返事。
「どこから来たの?」
「下!」
「どれくらい下?」
長い沈黙。
「いっぱい!」
何一つ分からない。
諜報騎士が小声で言う。
「尋問には向かない相手ですね」
「まだ子どもだもの」
「そういう問題でしょうか」
その時。
床から。
ズボッ。
手が出た。
「!」
騎士団が一斉に動く。
しかし。
本当に。
小さな手だった。
土まみれ。
床の石材を。
まるで柔らかい泥のように突き抜けている。
もう一本。
ズボッ。
両手が床を掴む。
「よいしょ」
床から。
頭が出た。
「ふぅ」
少女だった。
十歳くらい。
黒い髪。
ぼろぼろの白い服。
頬には土。
頭に小さな角が二本。
「出られた!」
少女は嬉しそうに笑った。
騎士団は完全包囲。
少女は周囲を見回す。
「わ」
「人いっぱい」
そして。
レシティアを見た。
笑顔が消えた。
「……あ」
レシティアも少女を見る。
妙な感覚。
初対面。
間違いなく初対面。
なのに。
少女は。
泣きそうな顔になった。
「ほんとにいた」
「私?」
少女は頷く。
「紫の子」
騎士たちの殺気が強くなる。
少女は慌てる。
「待って待って!」
「私、敵じゃないよ!」
剣士騎士が尋ねる。
「証明しろ」
「え?」
「敵ではない証拠だ」
少女は困った。
腕を組む。
考える。
そして。
「あ!」
何か思いついた。
服の中へ手を入れる。
騎士団が身構える。
取り出したものは。
一本の鎖だった。
黒い。
太い。
少女の身体より遥かに太かったものを、無理やり引き千切ったような破片。
リベルが部屋へ駆け込んできた。
そして。
鎖を見た瞬間。
止まった。
「……それ」
少女が笑う。
「お土産!」
リベルの顔から血の気が引く。
「どこで……」
「下」
「どこです!」
珍しくリベルが叫んだ。
少女は床を指差す。
「ずーっと下」
そして。
何でもないことのように言った。
「大きいおじさんが縛られてるところ」
静寂。
レシティアが聞く。
「その人は?」
「知らない」
「話した?」
「うん」
「何て?」
少女は少し考える。
「『鎖を壊すな』って」
全員が固まる。
「……壊したの?」
「うん!」
満面の笑顔。
「なんで?」
「邪魔だったから!」
女性騎士が額を押さえた。
レシティアまで困った顔になる。
「人の鎖を勝手に壊したら駄目でしょう?」
「ごめんなさい」
少女が素直に頭を下げる。
叱るところが少し違った。
魔法騎士が鎖へ近づく。
「触れないでください」
リベルが止める。
「これは神代の物ではありません」
「それ以前?」
「おそらく」
リベルの手が震えている。
「この鎖一本に」
「現在の王都結界を数百回維持できるほどの魔力が込められています」
少女が首を傾げる。
「そうなの?」
「どうやって切ったのです?」
「噛んだ」
「……はい?」
「ガジガジって」
全員が少女を見る。
小さな口。
普通の歯。
「美味しくはなかった」
誰も聞いていない。
レシティアが少女の前へしゃがむ。
騎士団が止めようとする。
だが。
少女に敵意はない。
少なくとも。
今のところは。
「あなた」
「名前、本当に覚えてないの?」
「うん」
「家族は?」
「分かんない」
「どれくらい地下にいたの?」
「分かんない」
「どうして出てきたの?」
少女は。
今度はすぐ答えた。
「あなたに会うため」
レシティアの表情が変わる。
「どうして?」
「大きいおじさんが言ってた」
「何を?」
少女は真似をするように低い声を出した。
「『紫の娘を地の底へ近づけるな』」
フィオナが聞いた言葉と同じ。
「それを聞いて」
少女は笑う。
「どんな子かなって」
「見に来た!」
「……。」
「……。」
「……。」
リベルが呆然とする。
剣士騎士ですら言葉を失っている。
レシティアは頭を抱えた。
「それ」
「来ちゃ駄目って意味じゃない?」
少女が固まった。
「……あ」
気づいたらしい。
「そうかも」
「そうよ」
「どうしよう」
「私に聞かれても」
少女は少し考える。
そして。
「まあいいや!」
切り替えが早かった。
その瞬間。
城全体が揺れた。
ドン。
「!」
地震ではない。
一度だけ。
下から突き上げられた。
少女の顔から笑顔が消えた。
「あ」
レシティアが見る。
「どうしたの?」
少女は床を見る。
「怒った」
「誰が?」
「大きいおじさん」
再び。
ドン。
窓が震える。
少女が床へ耳を当てる。
「……違う」
「何が?」
少女の表情が変わった。
初めて。
恐怖。
「おじさんじゃない」
床から離れる。
「じゃあ何?」
少女は答えなかった。
ただ。
小さく呟いた。
「追いついた」
その瞬間。
遠くから。
鐘。
ゴォォォン!
警鐘だった。
廊下を兵士が走る。
「緊急事態!」
「城外に魔物!」
女性騎士が扉を開ける。
「数は!」
「一体です!」
「種族は?」
兵士は震えていた。
「分かりません!」
「ですが――」
窓の外。
城下町のさらに向こう。
夜の平原。
そこに。
何かが立っていた。
巨大ではない。
人間ほど。
細長い四肢。
白い身体。
顔がない。
ただ。
こちらを向いている。
少女が震えた。
「あいつ」
「知ってるの?」
レシティアが尋ねる。
少女は頷く。
「ずっと下にいたやつ」
「何なの?」
「知らない」
「でも」
少女は自分の腕を抱いた。
「みんな、あいつから逃げてた」
魔物も。
竜も。
そして。
古代生物さえ。
レシティアの表情が変わる。
壁画。
古代生物たちが逃げていた。
黒い何か。
「まさか……」
その時。
平原に立つ白い存在の頭部が。
ゆっくりと裂けた。
口。
顔全体が口だった。
そして。
城まで届く声で。
一言。
「返せ」
少女が後退する。
「何を?」
レシティアが尋ねる。
少女は。
自分を指差した。
「たぶん」
少し間を置いて。
「私」
剣士騎士が剣を抜いた。
女性騎士が盾を取る。
魔法騎士の周囲へ術式が展開。
諜報騎士の姿が消える。
眠っていたはずの騎士たちまで。
次々と集まってくる。
少女は目を丸くした。
「何するの?」
レシティアは窓の外を見た。
「決まってるでしょう?」
少女を見る。
「あなたを連れていかせない」
「でも」
「あなたのことは何も知らないわ」
レシティアは笑った。
「だから、これから聞くの」
少女が呆然とする。
その前へ。
騎士団が並ぶ。
敵が何者なのか。
どれほど強いのか。
関係ない。
姫が。
守ると言った。
ならば。
彼らの仕事は一つだけ。
剣士騎士が静かに剣先を下げる。
「姫様」
「はい」
「御命令を」
レシティアは答えた。
「追い返して」
「承知しました」
城門が開く。
騎士たちが夜の平原へ歩き出す。
対するは。
古代生物すら捕食対象とする。
神代以前の生物。
そしてこの夜。
後世の歴史家が頭を抱えることになる記録が。
また一つ。
アステリアに刻まれる。
――《正体不明の災厄、一体出現》。
――《迎撃戦力、姫直属騎士団》。
――《交戦時間》。
――四十七秒。
ただし。
その記録には続きがあった。
――《災厄、討伐には至らず》。
――《四十七秒後》。
――災厄側が、騎士団との戦闘を放棄した。
そして。
逃げる直前。
それは騎士たちではなく。
城の窓辺に立つレシティアを指差して。
こう言ったという。
「違う」
「返すのは、その子じゃない」
「――お前だ」




