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姫様の代償

星見の神殿を出た時。


空は夕焼けに染まり始めていた。


山々の向こうへ沈んでいく太陽が、白い神殿を淡い橙色に染めている。


レシティアは掌を開いた。


そこには、小さな光の雫が浮かんでいた。


星の雫。


フィオナを救うための、たった一つの希望。


「これで助けられるのね?」


リベルは頷いた。


「はい。」


「星の雫を呪いの核へ触れさせれば、生命侵食呪術は消滅します。」


「よかった。」


レシティアは心から安心したように笑った。


それを見ていた騎士たちも、ようやく少しだけ緊張を解く。


ただ一人。


魔法騎士だけは、レシティアを見ていた。


「……姫様。」


「なあに?」


「少々、よろしいでしょうか。」


「もちろん。」


「右手を。」


レシティアは首を傾げながら右手を差し出す。


魔法騎士がその手首を取る。


魔力を流す。


数秒。


その表情が変わった。


「……。」


「どうしたの?」


返事がない。


女性騎士も異変に気づく。


「何か?」


魔法騎士はもう一度確認した。


そして。


「姫様。」


「はい。」


「魔力が減っています。」


全員が止まった。


レシティアだけが不思議そうな顔をする。


「使ったからじゃない?」


「違います。」


即答だった。


「一時的な消耗ではありません。」


「魔力総量そのものが減少しています。」


空気が変わる。


剣士騎士がレシティアへ近づいた。


「どれほど。」


魔法騎士は答えにくそうに沈黙した。


やがて。


「およそ十分の一。」


誰も言葉を発しなかった。


セラフィナが青ざめる。


「それって……。」


ルミエルも険しい表情になる。


「自然回復は?」


「しません。」


レシティアが自分の手を見る。


「……あら。」


女性騎士が思わず声を上げた。


「『あら』ではありません!」


「ご、ごめんなさい。」


珍しくレシティアが怒られた。


「泉は『不要』と言ったのでしょう!?」


「そうなのだけど。」


「ではなぜ姫様の力が失われているのです!」


「私に聞かれても……。」


本当に分からない。


リベルも困惑していた。


星泉は確かに言った。


『不要』


そして。


『既に受領済み』


ならば。


これは代償ではない。


では。


なぜ。


レシティアの力が減っている?


「……戻ります。」


剣士騎士が言った。


全員が見る。


「神殿へ。」


その声は低い。


かなり怒っている。


「事情を説明していただきます。」


レシティアが慌てる。


「待って。」


「でもフィオナが。」


「……。」


剣士騎士が止まった。


「フィオナを助ける方が先。」


「時間がないでしょう?」


誰も反論できない。


レシティアは少しだけ笑う。


「十分の一くらい大丈夫よ。」


騎士団全員が同時に言った。


「大丈夫ではありません。」


「……はい。」


また怒られた。


帰路。


フェンリオは神殿の前で彼らを見送った。


しかし。


レシティアが離れていく背中を見ながら。


その黄金の瞳が細くなる。


『……おかしい。』


誰にも聞こえない声だった。


『星泉よ。』


フェンリオは神殿を見る。


『お前は何をした。』


返事はない。


ただ。


神殿の奥で。


水面が一度だけ揺れた。


アステリアへ戻った頃には、完全に夜になっていた。


城門が開く。


兵士たちが一斉に駆け寄ってくる。


「姫様!」


「ご無事でしたか!」


「星の雫は!?」


レシティアは笑顔で掌を見せる。


銀色の光。


歓声が上がった。


「取れたぞ!」


「王女様が助かる!」


「フィオナ様が!」


城中へ知らせが広がっていく。


レシティアはその声を聞きながら、嬉しそうに笑っていた。


騎士団だけは笑っていない。


彼らにとって。


一人の王女を救うために。


もう一人の王女が何かを失った。


それを素直に喜ぶことはできなかった。


フィオナの部屋。


侍医。


神官。


魔導師。


全員が集まっていた。


レシティアは寝台の横へ座る。


フィオナの呼吸は、さらに弱くなっていた。


「間に合った。」


レシティアは星の雫を手に取る。


リベルが指示する。


「胸元へ。」


「呪いの核は心臓付近です。」


「わかった。」


レシティアはフィオナの胸元へ雫を近づける。


すると。


星の雫が自然に浮かび上がった。


銀色の光。


ゆっくりと。


フィオナの身体へ吸い込まれていく。


一秒。


二秒。


変化はない。


セラフィナが不安そうに見守る。


そして。


五秒後。


フィオナの身体が大きく跳ねた。


「っ!」


黒い煙が胸元から噴き出す。


「離れて!」


魔法騎士が結界を張る。


煙が人の形になる。


顔。


腕。


口。


『返せ。』


低い声。


『その命は我らのものだ。』


女性騎士が剣を抜く。


「ふざけたことを。」


黒い影がレシティアへ向かう。


しかし。


剣士騎士が間へ入る。


一閃。


影が真っ二つになる。


だが。


消えない。


二つになった影が再びフィオナへ向かう。


「物理攻撃では駄目です!」


リベルが叫ぶ。


「呪術そのものです!」


魔法騎士が術式を展開する。


光の鎖。


影を拘束。


だが。


すぐに千切れる。


『返せ。』


『返せ。』


『返せ。』


影が増えていく。


二つ。


四つ。


八つ。


部屋を埋め尽くす。


セラフィナがレシティアの前へ立った。


羽を広げる。


「近づけさせません!」


ルミエルも翼を広げた。


「浄化術を!」


白い光。


影が焼かれる。


悲鳴。


だが。


消えない。


「強すぎる……!」


ルミエルの額に汗が浮かぶ。


リベルが青ざめた。


「これは第三式ではありません。」


「改造されています。」


「誰かが……。」


「フィオナ王女の呪いそのものを、観測している。」


その瞬間。


諜報騎士が窓を見る。


「外。」


全員が振り向く。


城から遥か遠く。


山の上。


小さな光。


誰かがいる。


こちらを見ている。


古代研究機関。


地下研究所。


巨大な水晶に。


フィオナの部屋が映し出されていた。


白銀の仮面をつけたアークが、その光景を見つめている。


隣に研究者が立っていた。


「院長。」


「呪いが解除されます。」


「構わない。」


「ですが。」


「フィオナ王女は重要な検体では?」


アークは首を横へ振る。


「最初から違う。」


「彼女は餌だ。」


研究者が黙る。


アークの視線。


その先に映っているのは。


レシティア。


「見せてもらおう。」


「星泉は、彼女から何を奪った。」


王城。


影がさらに増える。


十六。


三十二。


壁。


床。


天井。


至るところから現れる。


『返せ。』


『返せ。』


『返せ。』


レシティアはフィオナの手を握った。


冷たい。


「……嫌。」


小さな声。


影が止まる。


「この子は返さない。」


レシティアが立ち上がる。


騎士団が一斉に反応した。


「姫様。」


「大丈夫。」


「でも。」


「今回は。」


レシティアは影を見る。


「私がやらないと駄目みたい。」


右手を上げる。


魔力が集まる。


だが。


以前より明らかに弱い。


十分の一を失った影響。


それでも。


膨大だった。


魔法騎士が思わず息を呑む。


十分の一を失って。


これほど?


影が一斉に襲いかかる。


「姫様!」


レシティアは指を鳴らした。


パチン。


それだけ。


何も起きない。


一瞬。


アークが水晶の向こうで笑う。


「失敗か。」


しかし。


次の瞬間。


影の動きが止まった。


一体。


また一体。


黒い身体に。


小さな白い亀裂が入る。


ピシッ。


ピシッ。


ピシピシピシ――。


三十二体すべて。


そして。


一斉に。


砕けた。


音すらなく。


黒い粒子となって消えていく。


部屋に静寂が戻った。


セラフィナが口を開けたまま固まっている。


ルミエルも。


リベルも。


侍医たちも。


誰も理解できない。


騎士団だけは。


少しだけ違った。


「……姫様。」


剣士騎士が尋ねる。


「何をされたのですか。」


レシティアは少し困った顔をした。


「呪いとフィオナの繋がりを切っただけ。」


「だけ……。」


女性騎士が遠い目をする。


レシティアは寝台を見る。


フィオナの顔色。


少しずつ。


血色が戻っている。


呼吸も。


安定していく。


「……よかった。」


レシティアは笑った。


その直後。


身体が傾いた。


「姫様!」


剣士騎士が支える。


「大丈夫?」


「それはこちらの台詞です!」


珍しく本気で怒られた。


「ちょっと疲れただけ。」


「座ってください。」


「はい……。」


レシティアは素直に椅子へ座った。


そして。


寝台から。


小さな声。


「……お姉……様?」


全員が振り向く。


フィオナの瞼が。


ゆっくりと開いた。


「フィオナ!」


レシティアが立ち上がろうとする。


「姫様は座っていてください。」


「でも。」


「座っていてください。」


「……はい。」


騎士団には勝てなかった。


フィオナはゆっくり周囲を見る。


そして。


レシティアを見つける。


涙が浮かぶ。


「本当に……。」


「来て……くれたんですね。」


レシティアは優しく笑う。


「ええ。」


「約束したもの。」


「……約束?」


「助けるって。」


フィオナは泣きながら笑った。


「ありがとうございます。」


その夜。


アステリア公国第一王女フィオナは。


三か月続いた死の呪いから解放された。


同じ頃。


地下研究所。


水晶が真っ黒になっていた。


通信が切れている。


研究者たちは慌てていた。


「観測術式が破壊されました!」


「どうやって!?」


「不明です!」


アークだけは黙っていた。


「院長?」


返事はない。


やがて。


アークは小さく笑った。


「……なるほど。」


「何か分かったのですか?」


「いや。」


仮面の奥。


その瞳が細くなる。


「逆だ。」


「分からなくなった。」


研究者が困惑する。


アークは静かに続けた。


「神代の術式を理解しているわけではない。」


「古代魔法を使っているわけでもない。」


「契約王の力でもない。」


「彼女はただ。」


少し間を置く。


「仕組みを見て。」


「そこへ手を入れている。」


研究者の顔色が変わる。


「そんなこと、人間に……。」


「できるはずがない。」


「だから面白い。」


アークは立ち上がる。


「星泉が彼女から何を奪ったのか。」


「調べる必要がある。」


しかし。


その頃。


星見の神殿では。


もっと奇妙なことが起きていた。


フェンリオが星泉の前に立っている。


『答えよ。』


水面は沈黙。


『なぜ、あの娘の力が減った。』


沈黙。


『お前は対価を求めなかったはずだ。』


長い沈黙の後。


水面に文字が浮かんだ。


『奪っていない。』


フェンリオの瞳が細くなる。


『ならばなぜ。』


新しい文字。


『返した。』


『誰に。』


星泉が揺れる。


そして。


一つの名前が浮かび上がった。


フェンリオの六枚の翼が。


ゆっくりと震えた。


『……馬鹿な。』


星泉に浮かんだ名前。


それは。


アリアではなかった。


レシティアでもなかった。


もっと古い。


神代よりさらに前。


歴史から完全に消された名前だった。


フェンリオはその名を見つめ。


初めて。


恐怖した。


『まだ……存在していたのか。』


水面から名前が消える。


代わりに。


最後の一文が浮かんだ。


『返還は始まった。』


そして。


遥か遠く。


誰も知らない場所。


大陸の地下深く。


光すら届かない空間で。


巨大な何かが。


ゆっくりと。


片目を開いた。

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