第三章 おばあちゃん
「あら、莉乃、どうしたの、熱心に本を読んで……」
お風呂上がりに、ダイニングテーブルで買ってきた本を読んでいると、母が不思議そうに声をかけてきた。ダイニングと続きのリビングには、さっきまで父が全国ネットのニュース番組を見ていたが、「先に寝てくる」と言って、寝室へと上がっていった。
ここのところ、父はずっと仕事が忙しそう。課長になってからは、帰りが遅い日が増えたし、休みの日も仕事に出かけたりしている。「お父さん、仕事、楽しいのかな?」と、さっきも父の小さくなった背中を眺めながら、心の中で呟いたばかりだった。
「えっ、ちょっとね……資格の本を買ってきたんだ。こないだ行った合同説明会で、資格を持っているとよいように聞いたから、どんな資格があるのかを、調べてみようと思って」
『資格』と聞いて、気になることでもあるのか、私が開いているページをのぞき込む母。
「『ファイナンシャルプランナー』に『公認会計士』……へぇ、資格っていろいろあるのね。莉乃、何か、取りたい資格は見つかったの?」
「うんん、さっき読み始めたところだから、それはまだ。大学の残りの時間で、役に立ちそうなものを取れればなって、思っているんだけどさ」
「そうなの。お母さんなんて、運転免許しか持っていないけど、莉乃の将来に役に立つ資格が取れればいいわね」
そう、あまり感心がないように母が言ったタイミングで、私は読んでいた本を逆さに向けて、コップに入っていた残りの生姜葛湯を飲む。もともと胃腸が弱かった私が、祖母に教えてもらってからずっと欠かさずにやってきたこと。気休めかも知れないけど、祖母に言われたことはなんとなく途中でやめづらくて、他にもお腹を壊したときは緑茶にはちみつを混ぜて飲んだり、眠れないときはお風呂上がりにふくらはぎを揉んで、血行をよくさせたりしている。よく言うおばあちゃんの知恵袋ってところかな。
「あっ、そうそう、莉乃に手伝ってもらいたいことがあるんだけどね」
思い出したように母が言ったので、私は思わず身構えてしまった。
「私に、手伝って欲しいことって?」
「莉乃のおばあちゃんの家のことよ。おばあちゃんが亡くなってから、ずっとそのままになっているでしょ。そろそろ、家の中を片づけないといけないと思ってね」
「えっ、おばあちゃんの家を片づけるの?」
大好きな祖母の家を片づけると聞いて、私はだいぶ前に見たドキュメンタリー番組のことを思い出していた。遺品整理を専門にする業者の苦悩を取り上げた番組で、亡くなった人の想いが詰まった家の整理は、単なる不用品の整理とは違った難しさがあると伝えていた。
祖母の家は、私にとっては、子供の頃を過ごした思い出の場所だった。住む人がいなくなって、整理しないといけないのはわかるけれど、なんだか自分の居場所が一つなくなってしまうみたいで、心の中は複雑だった。
私のそんな心配を察したのか、母は、祖母の写真や生前大切にしていた物などを、とりあえずこっちの家に運ぶだけだと言った。だけど、私にとっては見慣れた物が元あった場所から一つ消えてなくなるだけでも、祖母の生きた軌跡が見えなくなってしまうみたいで、心の中は複雑だった。
「お父さんは仕事が忙しいから頼めないし、お母さん一人だけじゃ、大きな物を動かすのもままならないでしょ。だから悪いんだけど、莉乃、今度の休みの日にお願いね」
「うっ、うん……」
しぶしぶと言った感じで、私は首を縦に振った。
祖母が住んでいた家は、駅前の商店街の中にある。一階の店舗に残っていた婦人服や小物類は、祖母が亡くなってすぐに、祖母の知人の同業者の人に引き取ってもらっていた。裏の玄関からではなくて、正面のシャッターを開けて入ると、わずかにハンガーや洋服掛けなどが忘れ去られたように置かれているだけで、所狭しに洋服がかけられていた、かつての洋品店としての面影はなかった。
だけど、店舗と住居とをわける暖簾をくぐって、一歩奥に足を踏み入れてみると、部屋の中の匂いまでもが祖母が暮らしていたときのまま残されていて、思わず私は足を止めて感傷に耽ってしまった。
「お母さんは二階を整理してくるから、莉乃は一階の居間をお願いできる? おばあちゃんが大事にしていたものを、箱に詰めて持って帰ろうと思うの」
母から渡されたのは、使い古しの段ボール箱三つ。祖母が大事にしていたものって、写真とか届いた手紙とか、お土産に誰かにもらったものとか、そんなところだろうか。子供の頃は、自分の家同然に、部屋の中の物を触っていたけれど、今となってはどこに何が入っているのかはわからない。
そう言えば、こんな本棚、あったかな。簡易な造りの三段ボックスで、一番上の段には、何やら本がぎっしりと並んでいる。『社会保険労務士』と大きく書かれた背表紙が目に入ってきた。おばあちゃん、こんな難しそうな本を読んでいたのかなと、首を傾げてみる。
「わかった。それじゃあ、私、一階を見てみるね」
そう答えた私は、とりあえず目についた場所から片づけていこうと思った。
初めに手をつけたのは、今は回線を切ってある固定電話を置いている収納棚。電話をかけるときや、友達から手紙が届いたときなどに、よく祖母が棚の抽斗を開けていたので、そこにはきっと祖母の思い出が詰まっているだろう。
連絡先を書いた、住所録が出てきた。郵便番号が三桁の時代から使っていそうな、手垢であちらこちら汚れたもの。なんだか、他人のプライベートを覗くみたいで気が引けてしまったけど、祖母がどんな人たちと付き合っていたのかが気になって、真ん中あたりのページを開いてみる。転居の知らせを受ける度に書き換えていたのだろうか、赤や黒の二重線がいたるところに書き込まれている。残念ながら、そこに書かれた人の名前に心当たりはなかった。
続いて出てきたのは、届いた手紙の束。輪ゴムで止めていたのだろうが、その輪ゴムが劣化して切れてしまっていて、持った瞬間に床に散らかしてしまった。
慌てて、それらを拾い集める。はがきサイズのものや、風景画がプリントされた封筒など、様々だった。「『吉田早苗』さんかぁ……」たまたま見た差出人の名前を声に出してみる。ほんの一瞬、知っている人の顔が思い浮かんだが、すぐにそれを頭の中から消し去る。『吉田』なんて苗字の人は、日本全国にいくらでもいるだろうし。住所録と手紙の束を手際よく箱に詰める。
写真が出てきた。アルバムに綴じられているのではなくて、バラバラの状態で、ビニール袋に入れられた写真。一番上の写真の中の祖母と目が合ってしまって、私ははっと肩を上げる。白のワンピースを着た祖母は、こちらを見ながらにっこりと微笑んでいる。最後に会ったときよりも、だいぶ肌艶がよさそうに見える。私が小学生の頃に、祖母は好んでワンピースを着ていたので、その頃にどこか旅行先で撮ってもらったのだろうか。
二枚目は、このお店の前で、真新しい中学校の制服を着た私と並んで写ったもの。その次は、商店街の忘年会か何かの席で、友人と並んで写っているもの、そんな感じで、次々に大好きだった祖母の表情が目の前に浮かび上がってくるので、整理を始めた私の手は、止まってばかりいる。こんな調子では、早々と二階の整理を終えた母から、愚痴を言われてしまいそう。
とりあえず、電話の下の抽斗は空っぽにした。次に取りかかったのは、整理ダンスの抽斗。大きな抽斗の中には、祖母が着ていたものが入っていたので、そのままにしておくとして、気になっていたのは一番上の小さな抽斗だった。
祖母はそこに、財布などの金品をしまっていた。幼心ながら、そんなわかりやすい場所にしまっていて大丈夫だろうかと心配していたが、祖母は「何度も出し入れするから、ここに入れておくと取り出しやすくて便利でしょう」と言って、決して変えようとはしなかった。
そう言えば、お正月に遊びに行ったときも、そこからポチ袋を取り出して、お年玉をくれていたかな。「このお金を貯金して、いつかおばあちゃんを温泉に連れて行ってあげるね」と約束したのに、遂に果たせなかった。祖母からもらったお年玉は、今でも使わずに貯金している。
「えっ、何、このレシートの束……」
抽斗を開けて、最初に見つけたのが、大量のレシートだった。祖母は、お金には几帳面な方だったので、家計簿でもつけるために残していたのだろうか。
『金森洋菓子店』と印字されたものが、一番上に重なっている。『バースデーケーキ3400円』の文字と9月15日の日付を見た私は、誕生日の日の夜のことをとっさに思い出していた。
日曜日だったので、家で家族揃って夕飯を食べていたら、一本の電話がかかってきた。母が出ると、駅前のケーキ屋さんからだった。なんでも、その日付で、ケーキの予約が入っていて、予約した人が取りに来ないから困っているのだという。その予約した人というのが祖母で、約束の時間になっても店に現れず、仕方なく予約票に書いてあった番号に電話をかけてきたのだった。祖母の家にかかってきた電話が、どうして私の家の電話に繋がったかというと、電話を転送していたから。祖母が亡くなってからも、祖母の洋品店の取引先の人との連絡がまだ残っていたので、祖母宛の電話に出る必要があったのだ。
私が、ケーキを取りに走った。店主の奥さんから見せてもらったのは、『莉乃ちゃん、お誕生日、おめでとう』と、チョコペンで書かれたプレートが飾られているホールのケーキ。予約したときに代金は支払われていたみたいで、店主の奥さんから、「お誕生日、おめでとう。莉乃さん、もう二十歳なんだね。早いわねぇ」と言ってもらって、顔を赤らめながら家に帰ってきたのだった。
そのケーキは、家族三人で食べた。祖母がお店の人にお願いしてくれていた二十本のローソクを立てて。祖母が遺してくれた最後のケーキだと思うと、いたたまれない気持ちになってしまって、美味しいはずのケーキが涙で味がしなかった。
とりあえず、出てきたレシートの束も、段ボール箱に入れておこう。だって、そこには祖母の優しさが込められているのだから。
二枚目のレシートに印字されていた『ペン 2500円 文芸堂』の文字の意味は、抽斗の中を整理していてすぐにわかった。プレゼント用のラッピングが施された、細長い包みが見つかった。包装紙に差し込まれていたメッセージカードに、『莉乃ちゃん お誕生日、おめでとう。大学の勉強、頑張ってね。陰ながら応援しています おばあちゃんより』と筋の通った字で書かれているのを見つけた。祖母が私の誕生日のために買ってくれたものだったのだ。
包みの中から出てきたのは、三色のボールペンとシャープペンシルが一体になったもの。きっと、大学の講義でノートを取っている私の姿を想像して、祖母が買ってくれたのだろう。
「おばあちゃん……こんなの、辛くて使える訳ないよ。でも、ありがとう。私、勉強頑張るからね」
そう心の中で祖母に話しかけると、出したペンを包みに戻して、大事そうに鞄の中に入れた。
そうやって、なんとか抽斗の中のものを段ボール箱に詰めたところで、母が二階から重そうな段ボール箱を提げて下りてきた。
「どう、少しは片づいた?」
そう言って、重そうな箱を床に落とすように置く母。真冬にもかかわらず暖房を入れていないので寒いはずだが、汗ばむほどの重労働をしてきたと言わんばかりに、母は額の汗を拭おうとしている。
「うん……どれもおばあちゃんが大切にしていたものばかりだから、そう簡単には捨てられないよ」
私が眉をひそめながら答えたのを聞いて、「一体、どんなものが見つかったと言うのよ」と、私がまとめた箱の中を怪訝そうに眺める。
「なんだ、莉乃はまだ一箱しかできていないのね。それにしても、おばあちゃん、よくこんな古いものを今まで大事に取っていたわね」
母が手に取ったのは、整理ダンスの奥から出てきた小物。掌に乗りそうなミニこけしや、竹細工の人形など、どれも抽斗の中に大切にしまってあったくらいだから、旅先で見つけたり、誰かのお土産にもらったりしたものに違いなさそうだった。
「あれ、これ何かしら?」
母が指さしたのは、三センチメートル四方の箱の包み。包装紙が日焼けしたり破れたりしていないところを見ると、ごく最近、買ったかもらったかして、抽斗にしまったようにも見える。
「これのこと? それだったら私も気になったから、見つけたときに箱を振ってみたんだけど、カシャカシャと音が鳴るだけで、何が入っているのかわからなかったんだ。勝手に開ける訳にはいかないから……」
祖母はもういないんだから、遠慮せずに開けて確かめればいいものを、何となく勝手に見てはいけないような気がして、開けられなかった。
こういうときに、母は遠慮しないというか、大胆というか、開けて中身を見てみようと言う。
私は、少し戸惑いながらも、母が言うならばと、包装紙を破ってしまわないように慎重に開けた。
「お母さん、ほら見て。キーホルダーだよ」
チェーンの部分をつまんで、母の目の前で揺らして見せたのは、何かの花の形を模したキーホルダー。一本の細長い金属を、曲げて作っただけの簡単な造りだったが、シンプルさの中にも、それをデザインした人のこだわりのようなものが感じられる。
「あら、可愛らしいキーホルダーじゃないの。それにしても、どうしてそんなものを、おばあちゃんが箪笥の抽斗に入れっ放しにしていたのかしら。誰かにプレゼントするのなら……」
母が言いかけてやめた『誰か』とは、私のことを指しているのだろう。私が祖母のことを大事に思っていたことを知っていた、母なりの配慮からだと思ったが、その祖母からの誕生日プレゼントなら、さっき電話の下の抽斗の中から見つけたばかりだった。
「そうだね。なかなか凝ったデザインだし、おばあちゃん、誰かに渡すつもりだったのかな」
「それなら、莉乃がもらっておいたら」
母の口から突拍子もない言葉が飛び出したので、私は思わず目を丸くした。
「えっ、私がもらうって?」
「いいじゃないの。莉乃が見つけたんだし、おばあちゃんも、莉乃に使ってもらう方が、きっと安心すると思うわ」
「えっ、うん……そうかなぁ……」
そう呟くように返事して、私は再び、自分の指で挟んだキーホルダーに視線を遣った。
「あれっ?」
意識とは関係なく、声を出してしまった。
「どうしたのよ。急に変な声を出して……」
母が、訝しげに見つめてくる。
「うん……このキーホルダーね、どこかで見たような気がして……。でも、それがどこでのことだったか、思い出せないんだ」
「莉乃、それならあれでしょ。大量に出回っているものだとしたら、どこかのお店で売られているのを、たまたま見かけたんじゃないの」
「うん……そうだったかなぁ……」
頬に掌を当てて、首を傾げる私。どうも、そんなのじゃない。最近、誰かが鞄につけていて、似合っているように思ったような……。
「あっ」
今度は、さっきよりも数倍、大きな声を出してしまった。
「どっ、どうしたのよ。そんなに大きな声を出すと、びっくりしちゃうじゃないの」
飛び跳ねるように驚く母の顔に、ふと我に返った私は、母に驚かせてしまったことを謝ってから、思い出したことを打ち明けた。
「志穂が、同じものを鞄につけていたんだ。確か、少し早い誕生日プレゼントに、お母さんの知り合いからもらったように話していたけど……」
それを聞いた母は、事情がわかったと言わんばかりに、強張っていた頬を緩める。
「だから、お母さんが言った通りじゃないの。やっぱりこのキーホルダーは、いろいろなお店で売られているものなのよ。志穂ちゃんだけでなく、莉乃のおばあちゃんも持っていたくらいだからね。あら、だいぶ時間が過ぎちゃったわ。整理の続きはまた今度にして、とりあえず片づけましょ」
「えっ、うん……」
どうも釈然としない。キーホルダーが入っていた箱を包装紙に包み直しながら、花柄の明るい感じの包装紙を調べてみる。よく見れば、スタンプが押されていることに気づいた。子供の頃によくやっていたような、消しゴムはんこで押されたような手作りのスタンプ。『ハンドメイド工房みらい』とはっきり読める文字は、あのお店のものだった。そう、私が、志穂に誕生日プレゼントのペンダントを作ってもらったお店。
あのお店の商品は、すべて注文を受けてから作っている、いわゆる一点もの。母が言ったような、どこのお店でも売られているような既製品ではなかった。
それはそうとして、どうして莉乃の鞄についていたものと同じキーホルダーが、祖母の家の抽斗にしまってあったのだろうか。しかも、丁寧に包装までしてもらって……。
「莉乃、何しているの。早く帰るわよ。その箱を持って」
母が急かすように言ったので、私は慌てて抽斗の中の物を詰めた段ボール箱を持ち上げた。ズシリと重たかったが、このくらいの重さなら、なんとか家までたどり着けるだろう。
段ボールを両手で抱えながら歩く。歩きながら、私の頭の中は、さっきのキーホルダーのことで一杯だった。
私は、部屋の天井をぼんやりと見つめている。亡くなった祖母のこと、私の将来のこと、最近こうやって、ぼんやり過ごすことが多くなった。
そうだった、あのキーホルダーの花のことを、志穂はスターチスだと言っていた。それが、十一月の誕生花だとも。たまたまかも知れないが、私の誕生日は志穂と一日違い。そう考えると、祖母の家にあったキーホルダーは、やはり私のために作ってくれたのだろうか。
今日の帰り道、風邪薬を切らしているので薬局に寄りたいと、母が言った。ドラッグストアのような大きなお店ではなくて、昔から細々と営業している街の薬屋さん。店主の男性と親しげに話しながら、母は慣れた手つきでスマホの決済画面を見せていた。それをうまく読み取ることができずに、慌てながら何度もスキャンを試みていた店主の男性。
そのやりとりをはた目に見ていて、ふと気づいたことがあった。それは、私のスマホの決済完了画面に表示されたクーポンのこと。文芸堂や金森洋菓子店、ハンドメイド工房みらいや資格学園、それらのすべてが祖母に関係しているのだ。
祖母は文芸堂で、私の誕生日にペンを買って用意してくれていたし、金森洋菓子店では、誕生日ケーキを予約してくれていた。箪笥の抽斗の中で見つけたスターチスのキーホルダーは、ハンドメイド工房みらいで作ってもらったものだったし、祖母の家の本棚に入っていた社会保険労務士講座のテキストは、電車で二駅乗った先の駅近くにある資格学園のロゴが入っていた。
祖母が資格の予備校に通っているのは少し意外だったが、今日の帰りにテキストを見つけたことを話すと、母は穏やかな表情を浮かべながら、こう答えた。
「おばあちゃんね、おじいちゃんを早くに亡くして、一人で駅前の商店街でお店を切り盛りしてきたでしょ。一人で商売するのはいろいろ大変だったみたいで、まわりのお店の人たちに随分助けてもらったみたいなの。それでね、そうした人たちに恩返しがしたいと思ったみたいで、資格を取ってまわりの人たちの役に立とうとしていたみたい」
それを聞いた私は、
「へぇ、おばあちゃんがそんなことを考えていたんだ」
と、驚きながらも、おばあちゃんらしいなと、思っていた。
私が大学での勉強のことを話したときに、
「人生、まだまだ勉強。莉乃ちゃんのような若い人たちには、まだまだ負けないよ」
なんて話していたから。
それはそうとして、どうして私のスマホの決済画面に、まるで私が買い物をしたかのように、祖母が通っていたお店のクーポンが配信されたのだろう。
「あっ、もしかして」
不意に、ある考えが、目の前に浮かんだ。
「まさか、お母さんが……でも……」
それを確かめるべく、私はベッドから飛び起きると、駆けるように階段を下りて、キッチンで料理の仕込みをしている母のもとに向かった。
「ねぇ、お母さん。前に私があげたポイントカードって、まだ使ってる?」
振り向いた母の顔は、「えっ?」と不意を突かれたように、固まったように静止している。それから、視線を宙に浮かべて、考える素振りを見せた。
「あのポイントカードは、今は使っていないわよ。だって、お母さん、スマホのバーコード決済を始めて、そっちの方でポイントを貯めているから」
そのポイントカードとは、もともと私が使っていたものだったが、志穂からバーコード決済を勧められてスマホにアプリをインストールしたときに、持っていたポイントカードを決済アプリと連携させていたのだ。連携すると、スマホでもポイントカードでもどちらでもポイントが貯まるみたいだったから、母にポイントカードを渡して、母が普段の買い物をするときに、ちゃっかり使ってもらっていたのだった。
「それじゃぁ、そのポイントカードはどうしたの?」
「あれねぇ、どうしたのかしら……あっ、そうそう、おばあちゃんに渡したのだったわ。だって、買い物をするときにあのカードを見せると、ポイントが貯まるんでしょ。おばあちゃん、そういうカードは使ったことがなかったみたいだったから、せっかくポイントが貯まるのにもったいないじゃない」
「そっ、そうだけど……」
困惑気味に言い返したのは、母も私と同じ考えをして祖母にカードを使わせようとしていたことに、後ろめたさを感じたことと、私のカードを母が勝手に祖母に渡していたことに、軽い憤りを感じたから。それに関しては、母に文句は言えなかったけど……。
「あっ、そっかぁ。だからかぁ……」
私は、何かを閃いたときのように、右手をグーにして左手の掌を叩く。
祖母が買い物をしたお店のクーポンが、私のスマホに届いた理由がわかった。母が渡した私のポイントカードを、祖母は買い物をする度に使っていたのだ。それで、たまたま私が同じ店で買い物をしたときに、あたかも私がそのお店で前から買い物をしていたかのように、クーポンが届いたと言うこと。考えてみれば、実に簡単なことだったけど、あれらのクーポンが祖母からのプレゼントされたものだと思うと、なんとなく複雑な気持ちになってしまう。
「莉乃、さっきから、ポイントカードがどうとか、あれがどうかしたの?」
母は、怪訝そうに訊いてきたので、私は、
「うんん、なんでもない。お母さん、ごめんね、手を止めちゃって」
と、返事して、再び自分の部屋へと戻った。
「残るは、どうして志穂が持っているのと同じキーホルダーを、おばあちゃんがしまってあったのかということ」
再び、部屋の天井を見つめながら、そう呟いてみる。
ぼんやり見つめる天井のシミが、人の顔に見えてくる。確か心理学の教授が、『パレイドリア』と呼ぶ現象だと、話していたかな。そう、私が天井のシミから連想していたその人の顔とは志穂の顔。
初めて、大学の講義室で会ったときから不思議だった。前から知っていたような、そんな感覚で、すぐに仲良しになった。
卵型の顔に、胸のあたりまで伸ばしたセミロングの黒髪、背の高さも私とほとんど変わらない。好んで着ているのは、あまり目立たない感じのワンピース。同じゼミ生たちからは、「なんだか姉妹のようだね」なんて親しみを込めて言われたけど、そう言われてもなぜか嫌な気持ちはしなかった。むしろ、一人っ子として育った私にとっては、その言葉通りに妹ができたみたいで、志穂と一緒にいると心が弾んだし、辛いことがあったときは、一緒にいて心が落ち着いた。
志穂は、鞄につけていたキーホルダーを、母親の知り合いからもらったと話した。その話しぶりからは、その知人が誰であるのかはよくわからなさそうだった。
一方で、祖母が大事なものをしまっていた箪笥の抽斗から出てきたのは、誰かにあげようとして、きれいにラッピングされたもの。もしかして、その渡す相手が私だったとしたら……。誕生日プレゼントのようなものとしてではなく、別の形として……。
驚いたように、はっと肩を上げた私は、気になることがあって、隣の部屋に向かった。物置として使っている部屋で、祖母の家から持ち帰った段ボール箱を、とりあえずしまっていた。
ガムテープをビリっと破って、箱の中を見てみる。
「あった、これだ」
そう呟きながら、取り出したのは、電話を置いた収納棚の中から出てきた手紙の束。その中から、裏に『吉田早苗』と差出人の名前が書かれているものを手に取ってみる。
前に見つけたときは、祖母の秘密を覗いてしまうみたいに思えて、中身を読まなかったが、どうしても確認したいことがあった。だから、心の中で、
「おばあちゃん、ごめんね。少しだけ読ませてね」
と、話しかけると、手の震えを抑えながら便せんを取り出した。
入っていた便せんは、全部で二枚。使っている花柄の便せんといい、丸みを帯びた文字といい、祖母よりも年下の人が綴ったように思えた。
読み終えてみて、やはり思った通りだった。そこに綴られていたのは、娘が生き別れた母のことを思って、書いたと思しき内容だった。
かすかに心臓が高鳴り、頬が熱くなった。さっきまで、一階から母が忙しなく家事をこなす音が聞こえていたが、今は何も耳に入ってこない。
「志穂、志穂って……」
私は、読んだばかりの便せんを手に持ったまま、呆然と冷たいフローリングの床に座り続けていた。
「あれ、滝川さんに吉田さんじゃないか」
講義の合間に、大学のベンチで志穂と並んで座っていると、ゼミの担当教授が話しかけてきた。
「あっ、先生、こんにちは」
志穂が慌てて返事したので、私も、
「こんにちは」
と言って、軽く会釈する。
「おっ、滝川さんたち、講義の教科書を読んでいるのか。なかなか感心なことだ」
私が手に持っている『日本文学史』と書かれた本のタイトルを見て、教授がいつも強張らせてばかりいる表情を緩めたので、
「この本、とっても面白いです。今も、次のレポートにどのページのことを書こうかと、吉田さんと話し合っていたところです」
と、笑顔を作る。
「そうだったか。それなら、次のレポート、楽しみに待っているよ」
教授はそう言い残すと、足早に歩いて行った。
若干、髪が薄くなり始めたその後ろ姿を眺めながら、志穂と顔を見合わせる。「うふふ」と、どちらからともなく笑ったのは、いつものこと。こうして、志穂と一緒にいると、辛いことがあっても、自然に心が落ち着いていく。
そうやって、いつものように二人並んで教科書を読んでいたのだが、志穂が顔を上げたタイミングで、私は思い切って志穂に切り出した。
「ねぇ、志穂。あのね、私が家庭教師をしながら勉強を見ている女の子が、無事に志望校に合格できたんだ。それで、その子、今まで育ててくれたお母さんに、感謝の気持ちを伝えたいって言うんだけど、何をあげたらいいかがわからないって悩んでいるの。その子のお母さん、『美香』さんって呼ぶらしいんだけど、志穂は何がいいと思う?」
そう訊いたのは、志穂が名前占いに興味があることを知っていたから。
志穂は、「ちょっと待ってね」と言うと、鞄の中からハンディサイズの辞書のようなものを取り出して、ページをめくり始める。探していたページで手が止まり、少しの時間読んでいたかと思うと、何かに思い当たって、
「お花がいいんじゃないかな」
と、言った。
「お花かぁ。ありがとう。さっそく、その子に伝えてみるね。それにしても、名前でその人の好きなことがわかるんだね」
そのまま、その話題を続ける私。
「うん、名前からその人の性格とかがわかるの。私のお母さん、『早苗』って言うんだけど、私もお母さんへのプレゼントに迷ったときは、いつもこの本で調べることにしているんだ」
「へぇ、そうなんだ……私も、次の母の日の前に調べてもらおうかな……」
そう言ってごまかしながらも、私の心の中には波風が立っていた。祖母のもとに届いた手紙を書いたのは、志穂の母親だった。しかも、実の娘が、離ればなれになった母に宛てたような手紙を。もしも、その事実が本当だったとしたら、私と志穂は、血が繋がっていることになる。そのことを、志穂に打ち明けるべきか、私は真剣に悩んだ。
そんな私の心の内を知らずに、志穂はさっき鞄の中から取り出した名前占いの本を読み耽っている。自分の名前の由来に、思いを馳せているのだろうか。
そんな、穏やかな表情を浮かべる志穂の横顔を見ていたら、とても打ち明けられそうになかった。いや、打ち明けるべきではないと思った。
私には私の家族がいるし、志穂にも志穂の家族との大事な時間がある。一体、どんな事情があって、お互いの母親が離ればなれになってしまったのかはわからない。だけど、こうやって、志穂と一緒にいるだけで十分な気がして、私は口をつぐむことに決めた。
「あれ、莉乃。どうしたの、そのキーホルダー?」
私の紺のトートバッグを見ながら、志穂が口を開いたので、私はとっさに息をのんだが、すぐに平静を取り戻すと、落ち着いた口調で答えた。
「あっ、これのこと? こないだね、志穂がこれと同じものを鞄につけているのを見て、私も欲しくなったんだ。だから、私も同じものを買っちゃった」
志穂は、それを聞いて目を丸くしたが、すぐにいつもの優しい顔に戻った。
「そっ、そうなんだ。それじゃ、私たち、お揃いだね。莉乃と同じものを持っていて、なんだか私、幸せな気分だよ」
「うん、私も」
いつしか、私たちは見つめ合っていた。
そのとき、ふと、私のそばに誰かが立っている気配を感じた。気になって、それとなくまわりを確かめてみたが、春の明るい日ざしが私たちのまわりを照らしているだけで、他に人影はなかった。
「ねぇ、莉乃。これからもずっと一緒にいてくれる?」
急に声を弱める志穂に、私は、とびきりの笑顔を作って、
「うん、もちろんだよ。これからもずぅ~っとずっと一緒」
と、返事した。
それから、私たちは、お互いを抱きしめた。いつまでも、ずっと。
「私、莉乃とこうしていると、なんだか不思議な気持ちがするんだ。懐かしいような、ずっとどこかで繋がっていたような、不思議な気分」
「うん、私も同じだよ。私たち、どこかで繋がっていたのかも知れないね」
そのとき、風が舞った。春の優しい風。
近くのケヤキの木の幹に隠れて、誰かが見守ってくれているような気がした。
「おばあちゃん?」
私が声にならない声で呟くと、その幹から人影がうっすらと現れた。白のワンピースに身を包んだその姿は、私がまだ小さかったときにいつも見ていた人だった。
私に優しく接しながらも、その人はいつかこんな日が来ることを願っていたのだろうか。
ニッコリと微笑むと、その人は私に何かを言おうとした。
「スターチス」
と、唇の形が語っているようだった。
また、風が吹いた。まるで風に乗って空に舞い上がっていくかのように、その人は空高く、昇っていった。
『スターチス』祖母が遺してくれたキーホルダーの花。後で、花言葉を調べてみた。
『変わらぬ心』『幸福の訪れ』……スマホの画面には、そう表示された。
祖母が、キーホルダーに託した、二人の娘や孫たちを想う変わらぬ思いと、それぞれの幸せな未来を願って止まない心。
大好きだった祖母が遺してくれたそんな想いを胸に、私は明るい未来へと踏み出していこうと、心に決めた。




