エピローグ
「お母さん、今日は帰りが遅くなるよ」
ダイニングで、いつものように向かい合って座る母に話しかける。最近、帰りが遅くなる日が増えて、母と話す時間が減った。だから、こうやって、朝食を囲みながら会話するのは、母とのつながりを確認する大切な時間だった。
「あら、今夜も予備校なの。あんまり頑張り過ぎないようにね」
「うん、私なら大丈夫。勉強は大変だけど、大きな目標ができて、毎日が充実しているよ」
母が、コーヒーを啜りながら言った予備校とは、資格の学校のこと。実はこの春から、大学の教員養成コースを受講するのに加えて、本を買ったときにスマホにクーポンが届いた、あの資格学園に通い始めている。通っているのは、『教員採用試験一発合格コース』と名づけられた講座。祖母が、そこで『社会保険労務士講座』を受講していた後を継いで、三回生に上がったのをよい機会に、私も通い始めたという訳だった。
文学部に在籍している私が、どうして学校の先生を目ざそうと思ったかというと、小学生のときに祖母が優しく見守りながら、私の背中を押してくれたことがあったことを、思い出すことができたから。台詞を忘れて、舞台の上で固まっていた私に、祖母はそっと手を差し伸べてくれた。それによって、私は自分に与えられたナレーターの役を無事にこなすことができたし、そのときの経験が、その後の人生の中で私が何か新しいことを始めようとするときの勇気に繋がった。
そういう意味で、祖母は、私のおばあちゃんでもあり、先生でもあった。今は、祖母のような、困難を目の前にして立ち止まっている生徒たちの背中を、ポンと押してあげられるような、そんな先生になることを夢見て、私は毎日頑張っている。
「あっ、そうそう、あのね、お父さんとも話し合ったんだけど、やっぱりおばあちゃんの家、手放そうと思うの。今のまま誰も住んでいない状態で放っておくのは忍びないし、維持費だって馬鹿にならないのよ。莉乃には辛いかも知れないけど……」
「えっ、そうなんだ……」
母が何げなく言った『手放す』という言葉が、矢のように私の胸に刺さったが、私は不思議にも狼狽えなかった。確かにあの家は、私が幼い頃から、大好きだった祖母と一緒に過ごした思い出の場所だった。だけど、その祖母はもういない。それに、母が言ったように、誰も住まなくなった家は、傷むのが速いとどこかで聞いたことがあった。
祖母が、大事にしていた家だからこそ、これからは知らない誰かがそこに住んで、私が通りかかったときにいつもと変わらない姿を見せて欲しい。祖母も、きっとそれを望んでいるだろうし、思い出の場所に行けなくなっても、私はいつだって祖母に会いたいと思えば会える。そう、私のここに、祖母から受け継いだバトンが確かに宿っているのだから。
「莉乃、どうしたの。胸なんか抑えて、どこか具合でも悪いの?」
ふと我に返ると、母が心配そうに私の顔を見ていた。
「えっ、あっ。大丈夫、ちょっと考えごとをしていただけだよ。それよりも、おばあちゃんの家、いい人に巡り合えるといいね」
私の口から思わぬ言葉が出て、母はきょとんとした表情を浮かべていたが、家を手放すことを私が気にしていないことに安心したのか、すぐにもとの表情に戻って、
「えっ、あっ、そうね。いい人が買ってくれるといいんだけど……」
と、コーヒーをまた一口啜った。
大学の勉強は、一気に忙しくなった。考えてみれば、他の学生たちが四年かけて履修する教員養成課程の講義を、私はたった二年で受けないといけなくなったのだから。
そんな私が座っている隣には、志穂が座っていて、さっきから『生徒指導論』と背表紙に書かれている分厚い教科書を、黙々と読んでいる。私が、教員養成課程を受講することを志穂に話すと、なんと志穂も一緒に受講すると言い出したのだ。それにはさすがに私は止めた。いくら仲がいいからと言っても、志穂を巻き込むべきではないと思ったから。志穂には志穂の人生があるし、教員養成課程を受講する代わりに、他の資格を取ったり、就職した後に役立つ知識を身に着けたりすることだってできる。
だけど、志穂は、私の話を聞かなかった。聞こうとはしなかった。不思議に思って、後になってその理由を聞いてみたことがあった。
「おばあちゃんがね、子供の頃から私の夢の中に出てきて、引っ込み思案だった私の背中を押してくれていたの」
志穂が語った言葉に、私は閉口した。志穂は、自分が生まれる前に祖母が病気で亡くなったと聞かされていたはず。だから、祖母と直接かかわった経験はないはずだし、祖母がどんな人であったかも知らなかったはず。だけど、その後に志穂が語った、毎晩のように夢の中に出てきたという祖母の姿は、私が知っている祖母の姿とぴったり一致した。
どうやら、志穂も、夢の中で祖母に背中を押された経験から、学校の先生を目ざそうと、密かに考えていたようだった。だから、私は、それ以上、志穂には何も言わなかった。
やがて、講義が始まった。今日一日で、五つ目の講義。さすがに眠気に襲われそうになるけれど、私は自分の頬を軽く叩いて、自分を奮い立たせる。
ふと、隣の席に視線を向けた。そこには、私とそっくりな輪郭の志穂がいて、真剣な眼ざしで講義を聞いていた。私は、そんな志穂の横顔に、ニッコリと笑みかけると、前を向いた。
「私も、頑張ろう」
そう自分に言い聞かせて、祖母からもらったペンを走らせ始めた。
注)本作品はフィクションであり、実在の場所及び人物とは、一切関係がありません。




