第9話 彼女に『今日はイチャイチャしない』と言った結果
翌朝。
いつもより人通りの少ない通学路を、俺は一人で歩いていた。
今日は日直のため、普段より早く登校しなければならない。だから菜乃花とは別々だ。
待ち合わせの約束もしていない。
というより――連絡できなかった。
昨夜から何度もスマートフォンを手に取り、菜乃花とのトーク画面を開いては閉じている。
何を送ればいいのか、分からなかったのだ。
(……最近の俺は、どうかしてる)
あれほど大嫌いだった姫城菜乃花を、少しずつ受け入れ始めている。
昨日の別れ際だってそうだ。
帰ろうとする菜乃花の手を、なぜかすぐには離せなかった。
その事実を思い出すたび、自分に対する嫌悪感が胸の奥から湧き上がってくる。
(あいつが中学のときにやったことを、忘れたのかよ)
菜乃花が俺の靴箱へチョコレートの包み紙を捨てた。
それを面白がった連中が、次々と俺の靴箱へゴミを入れるようになった。
最初はただの悪ふざけだった。
けれど、いつしか“イジリ”という名のいじめに変わっていった。
笑われて。
からかわれて。
何をされても、「冗談だろ」で片づけられた。
あの日々をきっかけに、俺は人から注目されることが怖くなった。
目立たず、誰にも関わらず、平穏に過ごしたいと思うようになった。
その原因を作ったのは、菜乃花のはずなのに。
(それなのに、どうして……)
菜乃花に触れられると、不思議なくらい怒りが薄れてしまう。
手をつないでいるとき。
抱きしめられているとき。
俺の名前を嬉しそうに呼んでいるとき。
胸の中にこびりついていたはずの負の感情が、まるで最初から存在しなかったかのように消えていく。
それどころか――心地よいとさえ思ってしまう。
(いったい、どうしちまったんだよ。俺……)
自分の感情が分からない。
考えれば考えるほど、胸の奥にあるモヤモヤが大きくなっていく。
そのときだった。
トントン。
後ろから、軽く肩を叩かれた。
振り返ると、同じクラスの宇崎が立っていた。
「よぉ、プリンス。こんな朝早くから何してんだ?」
「なんだ、宇崎か。お前こそ、こんな朝っぱらから何してるんだよ」
「図書館で朝から自習」
「優等生め」
「日頃から勉強しておかないと、試験前に泣くことになるからな」
「試験は直前に徹夜でするものだろ」
「だから毎回赤点ギリギリなんだよ。少しは彼女を見習え」
いつもの調子で呆れられる。
宇崎は俺の隣まで来ると、歩調を合わせて歩き始めた。
「それで、最近どうなんだよ?」
「何が?」
「姫城さんとの交際生活」
「どうって……」
宇崎は、妙に楽しそうな顔で俺を見ている。
(こいつ、この前から俺と菜乃花の話になると生き生きするよな)
他人の不幸は蜜の味とでもいうのだろうか。
いや――。
宇崎は、俺が知らない何かを知っているのかもしれない。
もしかすると、今抱えているモヤモヤの正体も分かるのではないか。
「なあ、宇崎」
「ん? どうした?」
「俺、この前言ったよな。菜乃花は俺をメロメロにして、あいつなしじゃ生きられなくなったところで、ゴミみたいに捨てるつもりだって」
「ああ。そんな突拍子もないこと言ってたな」
「突拍子もなくない。完璧な推理だ」
「……まあ、今はそういうことにしておくか」
「だから俺は、その嫌がらせを早く終わらせるために、菜乃花へメロメロになったふりをしてる」
「うん」
「あいつが満足して俺を振ってくれれば、誰からも注目されない平穏な日常へ戻れる。そう思ってたんだ」
「過去形なんだな」
「…………」
宇崎の指摘に、思わず言葉を詰まらせる。
「中学のときのことを考えれば、俺は菜乃花を許せないはずだった」
「はずだった?」
「でもさ……最近、おかしいんだよ」
「何が?」
「菜乃花と触れ合ってると、あいつへの怒りが消えるんだ」
口に出した途端、その事実が一層重く感じられた。
「抱きつかれたり、手をつないだりしてると……むしろ、心地いいとまで思い始めてる」
「へぇ……」
宇崎の口元が、わずかに緩む。
「おい、何笑ってるんだ」
「いや、別に。青春してるなと思って」
「俺は真剣に悩んでるんだぞ!」
「悪い悪い」
「お前なら、このモヤモヤの正体が分かるんじゃないかと思ってさ」
「俺なら?」
「心理学者の息子だろ。こういう面倒な感情にも詳しそうじゃん」
「親が心理学者だからって、息子まで人の心を何でも読めるわけじゃないぞ」
「そうなのか?」
「当たり前だ。ただ……」
宇崎は少し考えてから、人差し指を立てた。
「悠介。それ、“認知的不協和”ってやつに近い状態かもしれないぞ」
「……は? なんだ、その必殺技みたいな名前」
「自分の中に矛盾する二つの考えがあると、人間は強い不快感を覚えるって話だ」
「二つの考え?」
「お前の中には、“姫城さんは自分を傷つけた大嫌いな相手だ”という認識がある」
「ああ」
「でも今のお前は、“恋人として自分を好きだと言い、優しくしてくれる姫城さんと一緒にいるのが心地いい”とも感じてる」
「…………」
「嫌いなはずなのに、一緒にいると心地いい。許せないはずなのに、離れると寂しい。その二つがぶつかってるから、お前は混乱してるんだよ」
驚くほど、今の俺に当てはまっていた。
「つまり、お前は過去の姫城さんを許せない気持ちと、今の姫城さんに惹かれてる気持ち、その両方をどう受け止めればいいのか迷ってるんだ」
「そんなの、どうやって決めればいいんだよ」
「俺に聞くな。自分の心に聞け」
「心理学者の息子、急に役に立たねぇな!」
「最終的な答えまで他人に決めてもらおうとするな!」
けれど、俺の中で渦巻いていた感情に名前がついたことで、少しだけ胸が軽くなった。
このモヤモヤは、俺だけに起きている異常なものではない。
矛盾した感情を抱えれば、誰にでも起こり得るものなのだ。
「ありがとうな、宇崎!」
「うおっ!?」
俺は宇崎の背中を勢いよく叩いた。
「さすが心理学者の息子だ。なんだかんだ、いつも話を聞いてくれて助かってるぜ。親友!」
「…………」
宇崎の足が、一瞬だけ止まった。
さっきまでの穏やかな表情が曇る。
「……違う」
「ん?」
「あのとき俺は……親友のお前を――」
宇崎は拳をぎゅっと握り締めていた。
「どうした、宇崎?」
「――いや。何でもない」
俺が顔を覗き込むと、宇崎は我に返ったように首を振った。
「とにかくだ。その二つの気持ちとどう向き合うかは、お前自身が決めろ」
「だから、それが分からないから相談してるんだろ」
「俺はあくまで観測者だ。自分の都合で誰かの未来を変えようなんて、傲慢だからな」
「なんだよ、観測者とか傲慢とか。お前、頭がいいせいで生きるの大変そうだな」
「お前が何も考えなさすぎるんだよ」
「でもさ」
俺は前を向いたまま、何気なく続けた。
「俺、お前のそういうところ好きだぜ」
「…………は?」
「誰かのために真剣に考えて、頭を使えるところ。宇崎のいいところだと思う」
「…………」
宇崎は何も答えなかった。
隣を見ると、ひどく複雑そうな顔をしている。
「どうした?」
「いや……何でもない」
しばらく黙って歩いたあと、宇崎がおそるおそる口を開いた。
「あのさ、悠介」
「なんだ?」
「そもそもの話なんだけど……姫城さんがお前を好きなふりをしてるっていう前提が――」
ちょうどそのとき、校門へ到着した。
「悪い、宇崎! 俺、日直だから先に行くわ!」
「えっ? あ、おい!」
「話聞いてくれてありがとな!」
俺は宇崎へ手を振り、急いで校舎へ向かう。
「……何してんだよ俺は」
「ついさっき観測者だって自分に言い聞かせたばかりだろ」
背後で宇崎が何か言った気がしたが、よく聞こえなかった。
俺は振り返ることなく、昇降口へ駆けていく。
宇崎はその場に立ち尽くしたまま、固く握った拳を見つめていた。
「俺は、あのときも……今も……」
その呟きが、俺の耳へ届くことはなかった。
◇
朝早くの教室には、まだ誰の姿もなかった。
窓から差し込む朝日を浴びながら、俺は一人で日誌や配布物の準備を進めていた。
静まり返った教室で作業していると、先ほど宇崎に言われたことが頭をよぎる。
『嫌いなはずなのに、一緒にいると心地いい。許せないはずなのに、離れると寂しい。その二つがぶつかってるから、お前は混乱してるんだよ』
(……もし、菜乃花と触れ合ってるせいで、自分の気持ちが分からなくなってるなら)
一度、距離を置いてみるのもいいかもしれない。
(いったん、付き合う前の距離感に戻るってことだ)
菜乃花に抱きつかれても、受け入れない。
手をつながれても、握り返さない。
キスを迫られても――断る。
そうして菜乃花の甘い態度に惑わされない時間を作れば、俺が本当は彼女のことをどう思っているのか、見えてくる気がした。
(よし。今日一日だけ、少し距離を取ってみよう)
(……菜乃花、怒るだろうな)
別に、別れたいわけではない。
菜乃花を嫌い直したいわけでもない。
ただ、自分の気持ちを整理するためだ。
「それにしても……鈴木さん、まだ来ないな」
今日、俺と一緒に日直をする予定なのは鈴木さんだ。
そろそろ登校してきてもいい時間なのだが――。
ガラガラッ!
そのとき、教室の扉が勢いよく開いた。
「悠介〜♡ おはよう!」
「…………え?」
現れたのは、待っていた鈴木さんではなかった。
艶やかなピンク色の髪を揺らしながら、菜乃花が満面の笑みで教室へ入ってくる。
「菜乃花? どうしてこんな時間にいるんだ?」
「えへへ。悠介に会いに来たの」
「いや、そうじゃなくて。今日は鈴木さんと日直のはずなんだけど」
「鈴木さんなら来ないよ?」
「……なんで?」
「今日の日直、私と代わってもらったから!」
「はぁ!?」
菜乃花は得意げに胸を張った。
「昨日、鈴木さんにお願いしたの。どうしても日直を代わってほしいって」
「そこまでして早く来たのかよ……」
「だって、みんなが登校してきたら、学校ではイチャイチャできないでしょ?」
菜乃花は不満そうに唇を尖らせる。
「私はただでさえ、ずっと悠介とぎゅーってしてたいのに」
「ずっとは無理だろ」
「どうして?」
「生活できなくなるからだよ!」
俺が目立つことを嫌っているため、二人の関係は学校では秘密にしている。
だから、誰もいない時間を狙ったということらしい。
菜乃花は教室の中をきょろきょろと見回した。
自分でこの時間を選んだのだから、誰もいないことくらい分かっているはずなのに。
「よし。誰もいないね」
「確認する必要あったか?」
「念のためだよ。途中で邪魔されたくないもん」
「邪魔って……何をする気だ?」
俺が尋ねると、菜乃花は後ろ手に教室の扉を閉めた。
そして、嬉しそうに俺のもとへ駆け寄ってくる。
「みんなが来るまで、いっぱいイチャイチャしようね♡」
「ちょっ、菜乃花――」
制止する間もなく、菜乃花が俺の胸元へ飛び込んできた。
人差し指で、制服の胸元を楽しそうにつんつんと突いてくる。
「今日は、どこから充電しようかなぁ?」
「俺は充電器じゃないぞ」
「じゃあ、まずはおはようのキスから♡」
菜乃花は俺の制服を両手でつかみ、わずかに背伸びをした。
長い睫毛が、ゆっくりと伏せられていく。
柔らかそうな唇が、俺の唇へ近づいてきた。
(……駄目だ。流されるな)
危うく、そのまま受け入れそうになった。
けれど俺は、決めたのだ。
今日一日だけは菜乃花と距離を置き、自分の気持ちを確かめると。
俺は菜乃花の両肩をつかみ、そっと押しとどめた。
「もぉ〜、悠介ったら」
菜乃花は目を開くと、嬉しそうに頬を緩めた。
「自分からしたいなら、そう言ってくれればいいのに♡」
「いや、そうじゃなくて」
「でも嬉しい。悠介からキスしてくれるなんて――」
「菜乃花」
俺が真剣な声で名前を呼ぶと、菜乃花の動きが止まった。
「……どうしたの?」
「悪い」
一瞬、言葉に詰まる。
まっすぐ俺を見つめる菜乃花を前にすると、決意が揺らぎそうになる。
それでも俺は、彼女の肩からそっと手を離した。
「今日は、やめとく」
「…………え?」
菜乃花の笑顔が固まった。
俺の言葉が理解できないのか、何度も目を瞬かせる。
「なんで……? どうしたの、悠介?」
「いや、別に何かあったわけじゃない。ただ今日は――」
「やだ!」
俺の言葉を遮り、菜乃花が再び胸元へ飛び込んできた。
「やだやだ! 悠介といっぱい、いーっぱいイチャイチャするの!」
俺の胸へ額を押しつけたまま、顔を左右へぶんぶんと振る。
「おい、菜乃花。少し落ち着けって」
「もしかして……私のこと、もう嫌いになった?」
俺の制服を握り締めたまま、菜乃花がおそるおそる顔を上げる。
今にも泣き出しそうな瞳を見て、胸がずきりと痛んだ。
「違う。嫌いになったわけじゃない」
「じゃあ、どうしてキスしてくれないの?」
「だから……毎日ずっとイチャイチャするより、たまには何もしない日があってもいいだろ?」
「よくない!」
「ほら、こういうのは少し間を空けたほうが、新鮮さも保てるというか……マンネリを防げるというか」
「マンネリ……?」
菜乃花の眉が、ぴくりと動いた。
「悠介、私とイチャイチャするの……もう飽きたの?」
「そういう意味じゃない!」
「私とマンネリになりそうって思ってるの?」
「だから、将来そうならないために――」
「ならないよ!」
菜乃花は俺をまっすぐ見上げ、迷うことなく言い切った。
「私は悠介のことが世界で一番大好きだから、絶対にマンネリなんてしないもん!」
「今はそう思ってても、将来は分からないだろ」
「絶対ならないもん!」
菜乃花は頬を膨らませ、俺の胸元をぽかぽかと叩く。
「百年経っても、千年経っても、ずーっと悠介とイチャイチャするんだから!」
「千年後は二人とも生きてないだろ!」
「生まれ変わってもするの!」
「どれだけイチャイチャしたいんだよ!」
「ずっと!」
「分かったから、いったん離れろって!」
「やだ! 絶対離れない!」
菜乃花は俺の腰へ両腕を回し、これでもかというほど強く抱きついた。
「マンネリにならないって、私が証明するんだから!」
「何をどうやって証明するつもりだよ!?」
「今日一日、ずっとイチャイチャする!」
「俺の話、何も聞いてなかったのか!?」
菜乃花は俺の腰を抱いたまま、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「悠介が『イチャイチャしない』って決めるなら、私が『イチャイチャする』って決めてもいいよね?」
「よくない! 二人ですることなんだから、片方の意思だけで決めるな!」
「それじゃあ、決めた!」
「今の話を聞いてたか!?」
菜乃花は俺から身体を離すと、びしっと人差し指を突きつけた。
「今日一日、悠介のほうからイチャイチャしたくなるように誘惑します♡」
「それなら、悠介が自分からしたくなるんだから問題ないよね?」
「なんでそんなところだけ理屈が通ってるんだよ!?」
このときの俺は、まだ気づいていなかった。
何気なく口にした「マンネリ」という言葉が、菜乃花の対抗心に火をつけてしまったことに。
そして、この日を境に――。
菜乃花が時と場所を選ばず、見境なくイチャイチャを仕掛けてくるようになるなんて。




