第8話 俺のことが大嫌いなはずの彼女が、離してくれない
「お兄ちゃん〜?」
「…………っ!」
まずい。
こんな姿を妹に見られたら、軽蔑されるどころか、本当に七億円を請求される。
長い付き合いだから分かる。
優奈は、こういう約束だけは絶対に忘れない。
「おい、菜乃花。急いで手錠の鍵を貸してくれ」
「鍵なら、そこにあるよ?」
菜乃花が指差したのは、ドアのすぐそばに置かれた彼女の鞄だった。
よりによって、優奈が入ってこようとしているドアの目の前。
今から取りに行く時間なんてない。
「お兄ちゃん、返事がないから開けるよ〜」
優奈が、ゆっくりとドアを開け始めた。
「こうなったら……!」
「……やん」
俺は隣で寝転んでいた菜乃花を、慌てて布団の中へ引き寄せた。
真横に並んでいたら、二人分のシルエットでバレてしまう。
だったら、俺と重なるように菜乃花を隠し、一人で布団をかぶっているように見せるしかない。
これが、俺の将来の財産を守るための一世一代の賭けだ。
「お兄ちゃん……あれ? 電気消してるの?」
そう言いながら、優奈が部屋の明かりをつける。
ぱっと差し込んだ光が、容赦なく目に飛び込んできた。
「どうしたんだ、優奈?」
「ご飯、もうすぐできるから呼びに来たの」
「あれ? まだ一時間くらいあるって聞いたけど」
「早くできそうなんだよ。それと、姫城さんとお兄ちゃんの様子も見に来たの」
「俺たちの様子?」
「カップルが部屋でよからぬことをしてないか、抜き打ちチェックしに来たの。ただの嫌がらせ」
「普通に最低だな」
優奈は俺の顔を眺めたあと、不審そうに布団へ視線を落とした。
「……ねえ、お兄ちゃん」
「なんだよ」
「なんで布団、そんなに膨らんでるの?」
「……寒いからだよ」
「今日、そんなに寒くないけど?」
「俺は寒いんだよ!」
「ふ〜ん……」
優奈の疑いに満ちた視線が、布団の上をゆっくりと這う。
頼むから、それ以上観察しないでくれ。
「そういえば、姫城さんは?」
「菜乃花なら、親に電話するって庭に出てるよ」
「ふーん。そうなんだ」
優奈はドアの横にもたれたまま、じっと俺を見つめた。
「ねえ、お兄ちゃん。姫城さんのどういうところが好きで付き合ったの?」
「は? なんだよ、急に」
(布団の中に本人がいるのに、何を聞いてるんだよ!)
俺はそっと、布団の中の菜乃花へ目を向けた。
彼女は俺の財産の危機などどこ吹く風で、期待に満ちた目をこちらへ向けている。
(なんて緊張感のないやつだ……! こっちは今世紀最大の危機だっていうのに!)
しかし、その嬉しそうな顔を見ているうちに、俺の頭へ一つの考えが浮かんだ。
(……そうだ。いいことを思いついた)
嫌がらせが、姫城だけの専売特許だと思うなよ。
優奈に見つからない状況を利用して、こっちから仕返ししてやる。
「……そうだな」
俺は少し考えるふりをしてから、口を開いた。
「まず、かわいいところだな」
その瞬間、俺に密着している菜乃花の身体が、びくんと跳ねた。
ちらりと見ると、彼女は頬を赤らめながら、俺の腕へそっとキスをする。
「……え? 顔が好みってこと?」
「いや、それだけじゃない。みんなの前ではすごくツンツンしてるのに、俺にだけはいっつもデレデレしてるんだよ」
(まあ……演技なのは知ってるけど)
布団の中で、菜乃花が俺を見つめる。
顔を真っ赤にしながら、声を出さずに口を動かした。
『悠介、大好き♡』
(よしよし……順調だ)
(ここから一気に地獄へ叩き落としてやる)
「へぇ……かわいいね、姫城さん」
優奈はにこにこと笑ったあと、ふと思い出したように尋ねてきた。
「てか珍しいね? お兄ちゃんが制服のままベッドに入るの。いつも匂いが混ざるとかうるさいのに」
「……今日は疲れてるんだよ」
「ふーん。そういえば、お兄ちゃんっていい匂いの人が好きだよね? 男のくせに柔軟剤がどうとか、いつも言ってるし」
「悪かったな。柔軟剤にうるさくて」
「じゃあさ、姫城さんはお兄ちゃん好みの匂いなの?」
(来た……!)
まさか優奈のほうから、こんな絶好の質問をしてくれるとは。
(よし。これなら姫城に仕返しできるぞ)
(……まあ、もともと別の方法でからかうつもりだったけどな)
今日の女子体育はマラソンだったらしい。
今は制服へ着替えているとはいえ、菜乃花も汗をかいたはずだ。もちろん、普段から身だしなみに気を遣っている彼女なら、匂いの対策もしているだろう。
(実際、普通にいい匂いがするしな)
だが、今は布団の中。
こんな密閉された空間で「匂い」という言葉を出されたら、本人は嫌でも気にしてしまうはずだ。
俺は布団の中の菜乃花をちらりと見る。
彼女は期待に満ちていた表情を曇らせ、不安そうにこちらを見つめていた。
(きっと「いい匂い」って答えてほしいんだろうな)
(よし。ちょっとだけ、嫌がらせしてやろう)
「さあ……どうだろうな?」
臭いとは、一言も言っていない。
ただ、答えを濁しただけだ。
それでも菜乃花の頬は、みるみる赤くなっていった。
学園一の高嶺の花にとって、「もしかして自分は臭いのでは」と思わされるのは、かなりの屈辱だろう。
もちろん、俺はそんなことを一度も言っていない。
「ふ〜ん。まあいいや。お兄ちゃんも時間になったら、早く下りてきてね?」
優奈はそう言って、ドアへ向かった。
「あっ、そうだ。電気、消しておく?」
「悪い。少し休みたいから、消しておいてくれないか?」
「いいけど、うっかり寝ちゃったりしないでよ? 姫城さんにドン引きされるよ」
優奈は部屋の電気を消し、ドアを閉めた。
廊下を歩く足音が、少しずつ遠ざかっていく。
「…………はぁ」
俺はようやく息を吐き、布団をゆっくりとめくった。
すると――。
菜乃花は自分の制服へ鼻を近づけ、くんくんと匂いを確かめていた。
さっきまでとは打って変わって、ひどく不安そうな顔をしている。
「……菜乃花?」
「ゆ、悠介。今は近づいちゃダメ。私、今日ちょっと匂うかもしれない」
「は、早くシートで拭かないと……」
俺の言葉を真に受けた菜乃花は、想像以上に動揺していた。
暗闇の中、彼女はベッドから起き上がり、自分の鞄へ向かおうとする。
しかし――。
「きゃっ!」
手錠でつながれた腕を引かれ、菜乃花は俺の胸元へ倒れ込んできた。
「ゆ、悠介、ごめん! すぐ離れるから!」
菜乃花が恥ずかしそうに俺を見つめる。
その表情を見た俺は、日頃の嫌がらせを返すように、彼女の背中へ腕を回した。
「もう、悠介! 離して! 今の私、その……臭いから!」
「今日、体育でずっと走ったんだもん。一応、ミストも振ったけど……」
さっきの返事が、よほど堪えたらしい。
実際には、シトラス系の爽やかな香りがする。少しも臭くなんてない。
それでも俺は、ここぞとばかりに意地悪を続けた。
「あれ? 菜乃花。充電が足りないって言ってたよな?」
ぎゅーっと、抱きしめる腕に力を込める。
菜乃花はしばらく俺の胸元へ顔を埋めていたが、やがて観念したように呟いた。
「やだやだ。悠介に嫌われちゃう!」
「ねぇ……今日の私、臭いかもしれないよ?」
菜乃花は恐る恐る顔を上げる。
「悠介……幻滅した?」
「私、悠介がいい匂いの人を好きだなんて知らなかった……」
初めて、姫城への嫌がらせに成功した。
本来なら、喜ぶべきところだ。
なのに、不安そうな菜乃花を見ていると、俺の胸まで締めつけられる。
(……一体、どうしたんだよ。俺)
(あれほど大嫌いなはずなのに)
俺は菜乃花をぎゅっと抱きしめ、耳元で囁いた。
「いや、その……いい匂いだよ」
「…………え?」
「ごめん。少しからかいたくなっただけだ」
「本当に? 本当に本当? 嘘じゃない?」
「うん。俺のすごく好きな匂い」
そう答えると、菜乃花は安心したように息を吐いた。
しかし次の瞬間、じとっとした目で俺を睨む。
「へぇ〜。悠介、私を騙したんだ」
「いや、悪かったよ」
「晩ご飯まで、ずっとぎゅ〜ってしてくれたら許してあげる♡」
「今日、どんだけハグするんだよ……」
その瞬間、菜乃花のスマートフォンがプルルッと鳴った。
彼女は画面を確認すると、先ほどまでの笑顔を消し、申し訳なさそうに俺を見る。
「ごめんね、悠介。やっぱり今日、帰らないといけなくなっちゃった」
「お母さんから、急用ができたから帰ってきてって連絡があったの」
「え? 泊まるんじゃなかったのか?」
「うん。でも、帰らないと」
菜乃花は少し寂しそうに笑い、俺の手をそっと握った。
「お母さんに挨拶してから帰るね」
「いや、途中まで送るよ」
「ううん。もう、お母さんが迎えに来てるんだって」
「そっか……」
なんだよ。
さっきまで、一時間ずっと抱きしめろって言っていたくせに。
それなのに、いざ帰ると言われると――少しだけ寂しい。
(……いや、なんで俺が寂しがってるんだよ)
俺たちは鞄から鍵を取り出し、手錠を外した。
カチャリという小さな音とともに、つながれていた二人の手が離れる。
「悠介」
「なんだ?」
「また明日、いっぱいいっぱいイチャイチャしようね♡」
「……勘弁してくれ」
そう答えながらも。
俺は菜乃花の手を、なかなか離すことができなかった。




