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第10話 イチャイチャ禁止にしたら、彼女が本気で誘惑してきた

「今日一日、悠介のほうからイチャイチャしたくなるように誘惑します♡」


「それなら、悠介が自分からしたくなるんだから問題ないよね?」


「なんで、そんなところだけ理屈が通ってるんだよ!?」


 菜乃花は俺へ突きつけていた人差し指を下ろすと、くるりと背を向けた。


 そして、俺には聞かせたくないのか、小さな声でぶつぶつと呟き始める。


「もっと悠介を、私にメロメロにしないと……」


「悠介を誰かに取られちゃう前に」


「やっと両想いになれたんだから……」


「私の彼氏、すっごくかっこいいもん。みんなが悠介の魅力に気づく前に、もっともっと私以外見られないくらいメロメロにしないと……」


 最初の言葉だけは聞こえたものの、それ以降は声が小さすぎて聞き取れなかった。


(もっと俺をメロメロにする、か……)


 やはり、俺が完全に心酔するまで嫌がらせを続けるつもりらしい。


 俺が首を傾げていた、そのとき――。


 ガラガラッ!


 教室の扉が勢いよく開いた。


「あれ? 姫城さんと悠介君じゃん」


「……佐藤さん? ずいぶん早いね」


 教室へ入ってきたのは、佐藤瞳だった。


 肩にかかる程度の黒髪に、健康的に焼けた肌。


 陸上部の朝練を終えたばかりらしく、頬にはうっすらと汗が浮かんでいる。暑いのか、体操服の胸元をつまんでぱたぱたと風を送っていた。


「うん。朝練があったからさ」


 そう答えた瞳は、俺を見るなり不満そうに頬を膨らませた。


「ていうかさ、悠介」


「なんだ?」


「昨日、友達になったときは下の名前で呼んでくれたのに、もう苗字呼びに戻ってる。傷つくなぁ」


「あっ……悪い、瞳」


「うん。それでよし」


 瞳は満足そうに笑った。


(一日経っただけで距離感をリセットするとか、我ながらコミュ力なさすぎるだろ……)


 そんな自分に嫌気が差していると、隣から強烈な視線を感じた。


 顔を向ける。


 菜乃花が、ものすごいジト目で俺を睨んでいた。


(……なんでだよ)


 俺は約束どおり、下の名前で呼んだだけだぞ。


「それにしても、悠介が早いのは日直だから分かるけど……姫城さんは、どうしてこんなに早く来てるの?」


「そ、それは――!」


 菜乃花の肩が大きく跳ねた。


 俺と二人きりになるために日直を代わったとは、さすがに言えないらしい。


 菜乃花は顔を真っ赤にしながら、苦し紛れに俺を指差した。


「私の大切な友達である鈴木さんを、こんな豚と二人きりにするわけにはいかなかったからよ!」


「誰が豚だ!」


 相変わらず、とんでもない落差だ。


 瞳が現れた瞬間、菜乃花はイチャイチャモードからツンツンモードへ切り替わってしまった。


「豚呼ばわりって、相変わらず辛辣だね」


 瞳は苦笑しながら、俺を横目で見る。


「でも、こう見えて悠介君って、陸上部の女子からもちらほら人気あるんだよ?」


(……こう見えて、ってなんだよ)


 コイツも大概失礼じゃないか?


「へぇ……そうなんだ」


 菜乃花は興味がなさそうに答えた。


 ただし、その目はまったく笑っていない。


「まあ、私には関係ないけど」


「それで昨日、陸上部の子から『八王子君を紹介して』って頼まれたんだよね」


「…………は?」


 菜乃花の笑顔が固まった。


「ふーん。そうなんだ。私には関係ないけど」


「でも、八王子は、やめておいたほうがいいんじゃないかな?」


「どうして?」


「どうしてって、それは――!」


 菜乃花が勢いよく口を開く。


 どうやら今から、俺の悪口大会が開催されるらしい。


 ところが――。


「あっ、そうだ! 部室に忘れ物したんだった!」


 瞳が突然、声を上げた。


「急いで取ってこないと。それじゃ、またあとでね!」


 そう言い残し、瞳は慌ただしく教室を飛び出していった。


「…………」


「…………」


 再び、教室へ静寂が訪れる。


 菜乃花は閉まった扉をしばらく見つめていた。


 それから、ゆっくりと俺へ振り返る。


 先ほどまでの険しい表情は消え、今にも泣き出しそうな顔になっていた。


「ねぇ……悠介」


「なんだよ」


「今すぐ、ぎゅーってして」


「なんで!?」


「充電するの!」


「さっき、今日はイチャイチャしないって決めたばかりだろ!」


「やだやだ! もうバッテリーが切れちゃう! 昨日、充電するの忘れたもん!」


「昨日の夜、うちで散々充電してただろ!」


 そもそも、その充電とやらは一日持たないのか。


 菜乃花はそそくさと俺の目の前までやってくると、しおらしく両腕を広げた。


「だってぇ……陸上部の女の子に、私の彼氏を取られちゃうかもしれないもん」


「紹介を頼まれただけだろ」


「でも、不安なの。悠介、かっこいいから……」


 菜乃花は潤んだ瞳で、俺を見上げる。


「ぎゅーってしたら、安心できるの。だから、しよ?」


「俺のほうからイチャイチャしたくなるように誘惑する作戦は、どうしたんだよ」


「…………」


 菜乃花は返事をせず、ぷくっと頬を膨らませた。


「早く、ぎゅーってして」


「駄目だ。今日はしない」


「じゃあ、手をつないで」


「…………」


 今にも泣き出しそうな菜乃花を前に、早くも俺の決意が揺らぐ。


(ハグは完全にイチャイチャだけど……手をつなぐくらいなら、ぎりぎりセーフか?)


 いや、普通に考えればアウトだ。


 そもそも俺は今日、菜乃花と少し距離を置くと決めたはずだ。


 しかし、菜乃花は本気で不安そうにしている。


(まあ……少しだけなら)


 誰かに見られるのはまずい。


 俺たちは教室後方の窓際へ移動すると、カーテンの陰に身を隠した。


 そして、菜乃花が差し出した手を握る。


「ほら。これでいいだろ?」


「違う。悠介、その握り方じゃない!」


「手をつなぐだけでも種類があるのかよ」


「あるよ。こうするの」


 菜乃花が、俺の指の隙間へ自分の指を滑り込ませてくる。


 一本、また一本と、逃がさないように絡めていく。


 気づけば、ただの手つなぎが恋人つなぎへ変えられていた。


「えへへ♡ ちゃんとできて偉いね、わんちゃん」


「誰がわんちゃんだ」


 菜乃花は満足そうに笑いながら、さらに身体を寄せてくる。


 肩と肩が触れ合う。


 腕同士が、ぴったりと密着する。


 これでは、ぎゅーっと抱きつかれているのと大差ない。


 菜乃花はとろんとした目で俺を見上げ、絡めた指にさらに力を込めた。


「悠介、好き好き♡」


「陸上部の女の子になんて、絶対に渡しませ〜ん♡」


「悠介は、私の彼氏なんだもん」


 今度は俺の腕へ頬をすり寄せ、制服の匂いをくんくんと嗅ぎ始める。


「おい、匂いを嗅ぐな!」


「悠介を充電してるの」


「それ、絶対に充電じゃないだろ!」


 というか――。


(これ、普通にイチャイチャしてないか?)


 手をつなぐだけだったはずだ。


 それなのに、いつの間にか恋人つなぎへ変えられ、身体まで密着されている。


 そのとき、昔、宇崎から聞いた話を思い出した。


 最初に、相手が断りそうな大きな要求をする。


 それを拒否されたあと、要求を小さくして承諾させる。


 確か――“ドア・イン・ザ・フェイス”と呼ばれる交渉術だったはずだ。


(まさか……)


 菜乃花は最初から、俺がハグを断ると分かっていた。


 そこで生まれた罪悪感を利用して、本命である恋人つなぎを承諾させたのではないか。


 おそるおそる、菜乃花へ目を向ける。


「えへへ〜♡ 悠介、あったかい」


 菜乃花は俺の腕へ頬を寄せたまま、心の底から幸せそうに笑っていた。


(……いや、まさかな)


 こんなに無邪気で可愛い笑顔を浮かべる女の子が、そんな計算高いことをするはずがない。


「だって、こんなに可愛いんだから」


「……え?」


 菜乃花が顔を上げた。


「今、悠介……私のこと、可愛いって言った?」


「…………は?」


 一瞬、何を言われたのか分からなかった。


 だが、すぐに気づく。


 どうやら今の言葉は、心の中だけでは収まらなかったらしい。


「いや、違う! 今のは、その……!」


「何が違うの?」


 菜乃花の瞳が、期待にきらきらと輝き始める。


「ねぇ、もう一回言って♡」


「言わない!」


「私、可愛い?」


「知らん!」


「悠介は私のこと、可愛いと思ってるんだぁ♡」


「だから違うって!」


 俺が否定するほど、菜乃花の笑顔が嬉しそうに深まっていく。


「ねぇ、悠介。もう『イチャイチャ禁止令』なんて、やめない?」


「駄目だ!」


「むぅ〜。じゃあ、キスして!」


「もっと駄目だ!」


「じゃあ、ぎゅーってして!」


「さっき断っただろ!」


「けち!」


「何とでも言え!」


 俺はこれ以上流されまいと、絡めていた手をそっと離そうとした。


 しかし――。


 ぎゅっ。


 菜乃花が、逃がさないように強く握り返してくる。


「えへへ♡」


「……なんだよ」


「手を握るのは、いいんだよね?」


「…………」


 俺は何も答えられなかった。


 返事をしない俺を了承と受け取ったのか、菜乃花は再び腕へ頬を寄せ、幸せそうに目を細める。


(……次からは、手をつなぐのも絶対にイチャイチャへ含めよう)


 こうして――。


 俺の「イチャイチャしない日」。


 ホームルーム前の第一ラウンドは、早くも俺の敗北に終わった。


(次の一時間目こそは、絶対に誘惑へ負けないからな……!)

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