第5話 付き合った初日、彼女にキスを迫られています
無事に教室へ到着した俺は、自分の席へ腰を下ろした。
鞄を机の横へ掛けてから、何気なく右手へ視線を落とす。
開いて。
閉じて。
もう一度、開く。
姫城と恋人つなぎをしていた感触が、まだ手のひらに残っている気がした。
「俺……何であのとき……」
離したはずの手を、わざわざ自分から握り直してしまった。
しかも、ただ手をつなぐだけではない。
指と指を絡ませる、恋人つなぎで。
(……違う!)
危うく、何か重大な勘違いをするところだった。
(姫城が俺と付き合ったのは、嫌がらせのためだ!)
まずは恋人のふりをして、俺を徹底的に心酔させる。
俺が姫城なしでは生きられなくなった瞬間、ゴミのように捨てる。
それこそが、姫城の真の目的なのだ。
(何を浮かれてるんだ、俺は! あいつの作戦にまんまとハマりかけてるじゃねぇか!)
しかし、姫城の狙いが分かっている以上、対処法は簡単だ。
俺が取るべき行動は、ただ一つ。
(この嫌がらせを終わらせるためにも、俺は姫城にメロメロになった演技をしなければならない!)
俺が完全に堕ちたと姫城が確信すれば、いずれ満足して俺を捨てるはずだ。
そうすれば今度こそ、静かで平穏な日常を取り戻せる。
(完璧な作戦だ……!)
「あの、八王子君」
「うおっ!?」
突然声をかけられ、俺は勢いよく顔を上げた。
目の前に立っていたのは、学級委員の佐藤瞳だった。
「ご、ごめん。驚かせちゃった?」
「いや、俺が考え事してただけだ。それで、どうした?」
「今日提出の課題、まだ八王子君から受け取ってなくて。そろそろ職員室へ持っていきたいんだけど……」
「あっ、悪い。すぐ渡すよ」
姫城の一件で頭がいっぱいになり、完全に忘れていた。
俺は慌てて鞄から課題のノートを取り出し、佐藤さんへ手渡す。
「はい、これ」
「ありがとう」
「こっちこそ遅くなってごめん」
「ううん。それじゃあね」
たったそれだけ。
何の変哲もない、学級委員と生徒の事務的な会話だった。
だというのに――。
ジロリ。
「…………っ」
どこからか、強烈な視線を感じた。
恐る恐る顔を向ける。
教室の一番前。
自分の席へ座っている姫城が、こちらをものすごい目で睨みつけていた。
「…………」
「…………」
目が合う。
すると姫城は、ぷいっと勢いよく顔をそむけた。
(えっ、何でキレてるんだ?)
もしかして、俺が佐藤さんへの課題提出を忘れていたからか?
いくら優等生だからといって、他人の提出物にまで目を光らせる必要はないだろう。
それからというもの、姫城は妙な行動を取り始めた。
授業前、後ろのロッカーへ教科書を取りに行く。
休み時間、女友達の席へ向かう。
廊下へ出て、しばらくして教室へ戻ってくる。
そのすべてにおいて――。
なぜか必ず、俺の席の近くを通るのだ。
(いや、何で毎回ここを経由するんだよ!?)
姫城の席は、教室の一番前。
後ろのロッカーへ向かうなら、まだ分かる。
しかし、廊下へ出るための扉は姫城の席のすぐ近くにある。
お手洗いへ行くときまで、わざわざ教室の後方にいる俺の席を経由する必要は、絶対にない。
そんなことを考えていると、姫城が再び俺の席の横を通りかかった。
これで何度目だろう。
さすがに直接問い詰めようとした、そのとき――。
ひらり。
「ん?」
姫城の手元から、小さく四つ折りにされた紙が落ちた。
「おい、姫城。何か落とし――」
拾い上げた俺が呼び止めようとすると、姫城はこちらを振り返った。
しかし、戻ってくる様子はない。
姫城は俺が拾った紙を指差すと、唇だけをゆっくりと動かした。
――開いて。
「…………」
どうやら、落としたのではないらしい。
俺は周囲の目を気にしながら、机の下でこっそりと紙を開いた。
丸みを帯びた、女の子らしい字で一言だけ書かれている。
『昼休み、屋上へ続く階段に来て』
(……なんか、嫌な予感がする)
付き合って早々、いったい何を企んでいるのだろう。
できることなら、見なかったことにしたい。
だが、行かなければ余計に面倒なことになりそうだ。
何より――。
(いや、決めたじゃないか)
(俺は全力で、姫城にメロメロになった演技をするんだ!)
恋人から呼び出されたのなら、喜んで駆けつける。
それが今の俺に与えられた役目である。
◇
昼休み。
授業終了のチャイムと同時に、俺は姫城から指定された場所へ向かった。
校舎の最上階。
そのさらに上、普段は施錠されている屋上へ続く階段。
ほとんど誰も近づかない踊り場に、姫城菜乃花は一人で待っていた。
階段へ腰かけ、落ち着かない様子で何度もこちらを見上げている。
「どうしたんだ? こんなところに呼び出して」
「あっ! やっと来た!」
俺の姿を見つけた瞬間、姫城はぴょこんと立ち上がった。
そして勢いよく駆け寄ってくると、俺の右腕へ両腕を絡ませる。
「うおっ!?」
柔らかな感触が、肘を包み込んだ。
「えへへ……悠介〜。私の悠介〜♡」
俺の腕へ頬をすり寄せながら、姫城がその場で嬉しそうにぴょんぴょん跳ねる。
「お、おい、姫城。危ないって。すぐ下は階段だぞ」
「だって、朝からずっと我慢してたんだもん」
「何を?」
「悠介にくっつくのを!」
「…………」
付き合った途端、距離感が壊れていないか?
「とりあえず座ろうぜ。転んだら洒落にならないから」
「はーい」
姫城は素直に返事をすると、俺の腕へしがみついたまま階段の踊り場へ腰を下ろした。
俺もその隣へ座る。
すると姫城は、思い出したように「あっ」と声を上げた。
「そうだ! 悠介のために、お弁当を作ってきたの!」
「俺のために?」
「うん。はい、どうぞ」
姫城が差し出してきたのは、淡い桃色の弁当箱だった。
受け取って蓋を開ける。
「……おお」
綺麗な黄色の卵焼き。
甘辛いタレの絡んだ生姜焼き。
きつね色に揚がった唐揚げ。
可愛らしいタコさんウインナー。
色鮮やかな野菜まで添えられ、店で売っていてもおかしくないほど綺麗に盛りつけられている。
しかも――。
(全部、俺の好きなものじゃないか)
偶然にしては、出来すぎている。
(こいつ……何で俺の好物を知ってるんだ?)
「どう? おいしそう?」
「ああ。めちゃくちゃうまそう」
「ほ、本当!?」
姫城の顔が、ぱっと明るくなる。
「まあ、見た目だけじゃ分からないけどな」
「なっ……絶対おいしいんだから! 食べたら驚くわよ!」
「そこまで言うなら、いただきます」
弁当から漂ってくる香ばしい匂いに、空腹が刺激される。
俺は付属していた箸を手に取り、さっそく唐揚げへ伸ばそうとした。
そのとき――。
「待って、悠介!」
「今度は何だよ」
姫城は弁当箱を横へ置くと、突然立ち上がった。
そして座っている俺の正面へ回り込み、そのまま胸元へ飛び込んでくる。
「うおっ!?」
俺の首へ両腕を回し、ぎゅっと抱きついてきた。
「お、おい! すぐ後ろは階段だぞ!? 落ちたらどうするんだよ!」
「だったら、悠介がちゃんと私を抱きしめて支えてよ♡」
「無茶苦茶だな!」
演技にしては、命を懸けすぎている。
このまま俺が体勢を崩せば、二人そろって階段を転げ落ちかねない。
「ほら、危ないから離れろって」
「…………やだ。離れたくない。」
俺が姫城の肩へ手を置くと、その表情が目に見えて曇った。
「どうしたんだよ?」
「だって今日……悠介、佐藤さんと楽しそうに話してた」
「……佐藤さん?」
「学級委員の佐藤瞳さん!」
「いや、それは分かってるけど」
課題のノートを渡したときの話か?
「あれのどこが楽しそうだったんだよ。提出物を渡しただけだぞ」
「でも、笑ってた」
「課題の提出を忘れてたから、愛想よく謝っただけだ」
「私だって、悠介と学校でお話ししたいのに我慢してるんだよ?」
姫城の腕に、さらに力がこもる。
「悠介が目立つのを嫌がるから、話しかけないように頑張ってるのに……佐藤さんは普通に悠介とお話ししてた」
「学級委員なんだから仕方ないだろ」
「しかも楽しそうだった」
「だから業務連絡だって!」
姫城は俺の胸へ頬を押しつけたまま、不満そうに唇を尖らせる。
「今日、教室に着いてから、私と悠介が目を合わせていた時間は合計四十五秒だったの」
「…………は?」
「でも、佐藤さんとは五十七秒」
「これって絶対悠介に色仕掛けしてるよね?」
「そんなわけないだろ!」
「佐藤さんも、もう少し気を遣ってくれてもいいと思うの」
「一体何に?」
「彼女がいる男の子と五十七秒も見つめ合うなんて、おかしいでしょ」
「いや、付き合ってる事そもそも佐藤知らないだろ!!」
「もしかして佐藤さん、悠介のこと……」
「そんなわけないだろ!」
佐藤さんとは、これまでまともに話した記憶すらない。
今日の会話だって、完全な業務連絡である。
「でも、油断はできないよね……」
姫城は俺から片腕を離すと、ポケットからスマートフォンを取り出した。
慣れた手つきで画面を操作し、クラスの連絡先から佐藤さんの名前を表示する。
そして登録名を――。
『泥棒猫』
へ変更した。
「おい! 今すぐ戻せ!さすがに佐藤が不憫すぎる!」
こいつ、付き合った途端に愛が重くなりすぎじゃないか?
いや、これも俺を惑わす演技なのか?
姫城はスマートフォンをポケットへ戻すと、再び両腕で俺を抱き締めた。
「悠介は、私だけを見てればいいの」
俺の胸元へ顔を埋め、頬をすりすりと擦りつけてくる。
「ほかの女の子を見るなんて、やだ……」
大切なものを誰にも奪われまいと抱え込む、小動物のようだった。
(……いや、俺はそれより早く弁当を食べたいんだが)
出来たてらしい唐揚げが、どんどん冷めていく。
しかし――。
(待てよ)
俺は今朝、何と決めた?
姫城の嫌がらせを終わらせるため、全力で姫城にメロメロになった演技をする。
今こそ、その作戦を実行する絶好の機会ではないか。
(よし……!)
俺は姫城の背中へ腕を回し、こちらからも強く抱き締めた。
「ふぇっ!?」
姫城の身体が、腕の中で小さく跳ねる。
(あ、あれ……?)
想像していたより、ずっと柔らかい。
温かい。
腕の中へすっぽりと収まる華奢な身体から、ふわりと甘い香りが漂ってくる。
俺の心臓が、激しく跳ねた。
(な、何で俺がドキドキしてるんだ!?)
これは演技だ。
姫城に本気で惚れていると思わせるための演技。
それ以外の意味など、あるはずがない。
俺は喉につかえそうになる声を、どうにか絞り出した。
「大丈夫だよ」
「……何が?」
「佐藤さんとは、課題を渡すために話しただけだ」
姫城が、おそるおそる俺の顔を見上げる。
その潤んだ瞳をまっすぐ見つめながら、俺は作戦どおりの台詞を告げた。
「姫城のほうが、佐藤さんより何倍もかわいい」
「――っ!」
「俺が好きなのは、姫城だけだよ」
姫城の顔が、一瞬にして真っ赤に染まった。
「…………」
「姫城?」
「も、もう一回」
「は?」
「今の……もう一回言って」
俺の胸元を握り締めながら、姫城は期待に満ちた瞳でこちらを見つめる。
その顔が、あまりにもかわいくて――。
また、心臓が大きく跳ねた。
(……おかしい)
(演技をしているのは俺のはずなのに、何で俺のほうが追い詰められてるんだ?)
「俺にとっては、姫城のほうが佐藤さんよりずっとかわいいよ」
「あれ〜? 悠介、顔が赤くなってる」
「なってねぇよ!」
「ふ〜ん……?」
姫城はからかうように笑いながら、俺の顔をじっと見つめた。
「……ねぇ、悠介」
「なんだ?」
姫城は答えなかった。
俺の首へ両腕を回したまま、ほんの少し顎を上げる。
そして――。
長い睫毛を震わせながら、ゆっくりと瞳を閉じた。
赤く染まった頬。
わずかに前へ差し出された唇。
まるで、この先に起こる何かを待っているかのように。




