第12話 キスを断ったら、ご褒美のキスをされました
美術の授業が終わり、生徒たちが次々と美術室を出ていく。
俺たちも片づけを済ませて廊下へ出た頃には、周囲に誰の姿もなくなっていた。
その瞬間――。
ぎゅっ。
菜乃花が俺の制服の袖をつかんだ。
「えへへ♡ 今から楽しみにしてたイチャイチャタイムだね♡」
「別に俺は楽しみじゃないし」
そう答えたものの、身体が妙に熱い。
おそらく、頬まで赤くなっている。
俺は菜乃花に見られないよう、ぷいっと顔を背けた。
(なんで……勝負に負けたのに、俺まで嬉しくなってるんだよ!)
そんな俺の反応を見て、菜乃花がからかうように笑う。
「えへへ♡ そんなこと言って、本当は悠介が一番楽しみにしてたんじゃないの?」
「違うわ! 何を証拠に――」
言い終えるより先に、菜乃花が俺の胸元へ飛び込んできた。
そのまま俺の背中へ腕を回し、ぎゅっと抱きしめる。
「お、おい!? ここ、廊下だぞ!」
「誰もいないからいいの♡」
「アホか! 誰かが来たらどうするんだよ!」
「みんなに、私たちが付き合ってるってバレちゃうね?」
「だったら離れろ!」
「でも私、見られてもいいよ?」
「……は?」
菜乃花は俺へ抱きついたまま、悪戯っぽく笑う。
「だって、みんなに私たちが付き合ってるって知ってもらえたら、私の悠介に泥棒猫が寄りつかなくなるでしょ?」
「でもね?」
菜乃花は少しだけ表情を和らげ、俺を見上げた。
「悠介が目立つのを嫌がってることは、ちゃんと知ってるよ。だから私から、みんなに言いふらしたりはしないの」
「それなら、こんなところで抱きつくなよ!」
「でも、偶然誰かに目撃されちゃったなら仕方ないよね?」
「偶然を装った必然じゃねぇか!」
「それに私ね、さっきから何だか変なの」
「変?」
「美術室で、すぐ近くにみんながいたのに……悠介と二人だけの世界に入れたでしょ?」
菜乃花は俺から片腕を離すと、自分の胸元へ手を当てた。
「そのとき、この辺がぞわぞわってしたの」
「…………」
とろんとした瞳で、菜乃花が俺を見つめている。
どうやら学園一の高嶺の花は、人に見つかるかもしれない状況でイチャイチャすることに、妙な刺激を感じてしまったらしい。
(こいつ……新しい扉を開きかけてないか?)
「だから悠介、今日はここで――」
「いいわけあるか!」
俺は菜乃花の手をつかむと、廊下の向かいにあった空き教室へ駆け込んだ。
後ろ手に扉を閉め、ようやく足を止める。
カーテンまで閉められた教室は薄暗く、互いの表情もよく見えない。
それでも、俺たちの手はしっかりとつながったままだった。
視界を奪われたぶん、菜乃花の手の温かさが鮮明に伝わってくる。
近くで聞こえる、小さな呼吸。
甘い香り。
すぐ隣に菜乃花がいることを、否応なく意識してしまう。
「もぉ……悠介ったら♡」
「な、なんだよ」
「いきなり手を引いて、誰もいない教室へ連れ込むなんて……強引なんだから♡」
「ち、違う! 菜乃花が廊下でイチャイチャしようとするから、仕方なく――」
「電気、つけないの?」
「ああ。今つけるから――」
壁のスイッチを探そうとした、その瞬間。
チュッ。
「――っ!?」
柔らかな感触が、俺の唇に重なった。
ほんの一瞬。
けれど菜乃花の唇の温もりは、離れたあともはっきりと残っていた。
「お、おい! 急にキスするなよ!」
「えへへ♡ 休み時間には制限があるから、急いで充電しないとね?」
「だからって――」
チュッ。
二度目のキスが、俺の言葉を塞いだ。
今度は先ほどよりも少しだけ長い。
唇が離れる頃には、心臓がうるさいほど高鳴っていた。
「というか……」
「なぁに?」
「こんなに暗いのに、なんで正確に俺の唇を狙えるんだよ?」
「もぉ、悠介ったら」
暗闇の中から、菜乃花の呆れたような声が返ってくる。
「私が、どれだけ長い間悠介を見てきたと思ってるの?」
「それだけで分かるものなのか?」
「悠介とキスするところも、いっぱいシミュレーションしてきたから。暗くても、感覚で分かるよ♡」
「長年修業を積んだ達人みたいに言うな!」
「それに悠介は、すっごくかっこいいからね。暗闇の中でも、オーラで何となく分かるの」
「俺は芸能人か」
「悠介だって、告白したときに言ってたじゃん!」
「何を?」
「夢の中で、私とイチャイチャしてるところを想像してるって♡」
「あ、あれは……!」
嘘の告白を本物らしく見せるため、その場の勢いで口にしただけだ。
もちろん、そんなことを今さら正直に言えるはずもない。
「ねぇ、悠介」
菜乃花が、つないだ手の指を絡めてくる。
「夢の中でも一緒にイチャイチャできたら、最高だと思わない?」
「いや、そんな非現実的なこと――」
(……こいつ夢の中でも嫌がらせする気か?)
「今度、試しに二人で一緒に寝てみない?」
「はぁ!?」
「すぐ近くで眠れば、もしかしたら同じ夢を見られるかもしれないよ?」
「なるほど。距離が近ければ、夢もつながって――って、なるほどじゃねぇよ!」
危うく納得しかけた俺へ、菜乃花が身体を寄せてくる。
「ねぇ、試してみようよ♡」
「さらっと一緒に寝る約束を取りつけようとするな!」
「それじゃあ、今はキスの続きにする?」
「それも駄目だ!」
「でも悠介、私の手をずっと握ったままだよ?」
「…………」
言われて初めて気がついた。
空き教室へ入ってからずっと、俺は菜乃花の手を一度も離していない。
「えへへ♡」
暗闇の中で、菜乃花が幸せそうに笑う。
「やっぱり悠介も、私とイチャイチャしたかったんだね♡」
「ち、違う! これは廊下から連れてきた流れで――」
「言い訳しなくてもいいよ?」
絡められた指に、ぎゅっと力が込められる。
「それでは、充電しま〜す♡」
「お、おい――」
次の瞬間、菜乃花が俺の胸元へ飛び込んできた。
背中へ両腕を回し、身体をぴったりと密着させる。
暗闇のせいで、その表情はほとんど見えない。
伝わってくるのは、菜乃花の体温と、すぐ近くで聞こえる呼吸だけだ。
「悠介、あったか〜い♡」
「…………」
菜乃花の顔が見えないことに、なぜか物足りなさを感じた。
今、どんな表情をしているのか。
どれくらい嬉しそうに笑っているのか。
もっと近くで、菜乃花のことを感じたい。
そんな思いが、胸の奥から湧き上がってくる。
(……違う)
(これは、メロメロになったふりをするための演技だ)
そう言い聞かせても、胸の高鳴りは収まらない。
暗闇と菜乃花の熱にあてられ、頭の中がくらくらしていた。
「菜乃花……」
「なぁに?」
「キスは、もういいのか?」
「…………え?」
菜乃花の声が、明らかに弾んだ。
「ほら……キスのほうが、その充電とやらも早いんだろ?」
もっともらしい理由を並べているが、本当は俺自身が続きを求めていた。
菜乃花に、もう一度触れてほしかった。
「へぇ〜……」
暗闇の中から、からかうような声が聞こえてくる。
「悠介、私とキスしたいんだ?」
「違う! 充電の効率を考えただけだ!」
「別にいいよ? キスしてあげても♡」
「……なら、早く」
気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。
してあげても――。
まるで俺のほうからお願いしているような言い方だ。
普段なら反発していたはずなのに、今はそんなことすらどうでもよかった。
「その代わり、一つ条件があるの」
「条件?」
「今日の『イチャイチャ禁止令』を取り下げて?」
「……は?」
「取り下げてくれたら、キスしてあげる」
菜乃花が俺の耳元へ唇を寄せ、甘く囁く。
「今度は、もっと長いやつ♡」
「…………っ」
心臓が、大きく跳ねた。
菜乃花は俺へ無理やりキスをするのではなく、俺自身に選ばせようとしている。
イチャイチャ禁止を貫くのか。
それとも自分の意思で撤回し、菜乃花とのキスを選ぶのか。
以前、宇崎から聞いた話を思い出す。
人は誰かから一方的に与えられたものより、自分の意思で選び、手に入れたものに強い価値を感じやすいらしい。
(まさか、菜乃花の狙いはそれか?)
俺自身にキスを選ばせることで、俺が本当に夢中になったと菜乃花へ思わせる。
そして、俺が完全に心酔した瞬間――ゴミのように捨てる。
(もし、そのための作戦なら……むしろ好都合じゃないか?)
俺がイチャイチャ禁止を撤回すれば、菜乃花は俺が完全にメロメロになったと思うはずだ。
そうなれば、この嫌がらせが終わる日も早まるかもしれない。
「分かっ――」
答えかけた、その瞬間。
(……いや、待て)
これは本当に、菜乃花を騙すための演技なのか?
この胸の高鳴りも。
もう一度キスしてほしいという気持ちも。
菜乃花の顔を見たいと思ったことも。
すべてを「演技」の一言で片づけていいものなのか?
(このままキスを選んだら、本当にメロメロになってしまうんじゃないか?)
(メロメロになったふりをしているうちに、俺自身が姫城菜乃花という底なし沼へ沈んでいくんじゃ……)
忘れたのか、八王子悠介。
中学時代、菜乃花の行動をきっかけに、どれほどつらい思いをしたのか。
あの頃の痛みを、甘い言葉とキスだけで忘れていいはずがない。
俺は胸の奥から湧き上がる衝動を、ぐっと堪えた。
「……だったら、キスはしなくていい」
「…………え?」
俺の胸へ回されていた菜乃花の腕から、わずかに力が抜けた。
その瞬間、俺は気づいた。
ただ菜乃花の甘い態度に流されていては駄目なのだ。
自分の理性を保ち、何が演技で、何が本当の気持ちなのかを見極めなければならない。
そのうえで、菜乃花へメロメロになったふりを続ける。
(よし。もう簡単には流されないぞ)
「ふ〜ん」
暗闇の中から、どこか楽しそうな声が聞こえてくる。
「悠介、まだ我慢できるんだ?」
「ああ。俺を甘く見るなよ」
「そっかぁ……」
菜乃花は俺から離れると、近くにあった椅子を引き寄せた。
そして、俺の背後へ置く。
「何してるんだ?」
「ちょっとだけ、じっとしててね♡」
「は?」
ぽんっ。
胸元を軽く押され、俺は背後の椅子へ腰を落とした。
「あぶなっ! 何するんだよ!」
「だって、悠介が我慢するって言うから」
菜乃花は俺の両肩へ手を置くと、ゆっくり顔を近づけてくる。
「な、菜乃花……?」
「嫌だったら、逃げてもいいよ?」
「…………」
逃げようと思えば、逃げられた。
肩に置かれた手にも、それほど強い力は入っていない。
それなのに俺は、椅子から立ち上がらなかった。
菜乃花を押し返すこともできなかった。
暗闇の中、互いの呼吸だけが重なる。
「逃げないんだ?」
「それは……」
「それじゃあ、ご褒美あげるね♡」
チュッ。
菜乃花の唇が、俺の唇へ重なった。
「――っ」
先ほどまでとは違う。
触れて、すぐに離れるだけのキスではなかった。
柔らかな感触が、いつまでも唇に重なっている。
数秒のはずなのに、何分にも感じられた。
俺は拒むことも忘れ、ただ菜乃花の温もりを受け入れていた。
やがて、ゆっくりと唇が離れる。
「…………」
「…………」
どちらからともなく、熱い息がこぼれた。
菜乃花は俺の両肩へ手を置いたまま、じっと顔を覗き込んでくる。
「えへへ……♡」
「な、なんだよ」
「誘惑に耐えようと頑張った悠介へ、ご褒美だよ」
「ご褒美って……結局キスするなら、俺が我慢した意味ないだろ」
「あるよ?」
「どこに?」
「悠介が、本当は逃げたくないって分かったもん♡」
「…………」
菜乃花は俺の頬へ手を添えると、甘く囁いた。
「私ね、悠介をもっともっと、私にメロメロにしたいの」
「ほかの女の子なんて、どうでもよくなるくらいに♡」
反論しようとして、何も言えなくなった。
確かに俺は、逃げようと思えば逃げられた。
それでも菜乃花のキスを受け入れてしまったのだ。
薄暗さに目が慣れてきたのか、ようやく菜乃花の顔が見えてくる。
頬を赤く染め、潤んだ瞳で俺を見つめていた。
いつもの無邪気で可愛らしい菜乃花とは違う。
どこか大人びた、息をのむほど綺麗な表情だった。
(……こんな顔、するんだな)
目を逸らしたいのに、逸らせない。
むしろ、いつまでも見つめていたいと思ってしまう。
そんな俺の心を見透かしたように、菜乃花が艶やかに微笑んだ。
「ねぇ、悠介」
「……なんだよ」
「もう一回、ご褒美いる?♡」
「…………」
(こいつの沼、想像していたよりずっと深いぞ……)
こうして俺の「イチャイチャしない日」は――まだ始まったばかりだというのに、早くも崩壊寸前まで追い込まれていた。




