第13話 イチャイチャ禁止の日なのに、保健室でドキドキ勝負を挑まれた
二時限目は体育だった。
今日の授業は、男女ともに体育館で行われる。
男子はバレーボール。
女子はバスケットボール。
俺は宇崎と並んで、体育館へ向かっていた。
「悠介、お前さっきからぼーっとしてるけど、大丈夫か?」
「大丈夫だよ。少し考え事してただけだ」
「授業中にボールを顔面で受けるなよ?」
「そんな間抜けなことするわけないだろ?俺を舐めすぎだ」
「ならいいけど」
俺はいつものように目立たない位置を選び、コートの後方で試合へ参加していた。
積極的にボールを取りにいくことはせず、飛んできたときだけ無難に返す。
活躍もしない。
失敗もしない。
俺にとっては、それが理想的な立ち回りだった。
しかし――。
(くそっ……さっきのことが、頭から離れない)
薄暗い空き教室。
菜乃花との長いキス。
頬を赤らめ、潤んだ瞳で俺を見つめていた、大人びた表情。
思い出すだけで、唇にあの柔らかな感触が蘇ってくる。
(もう一度、抱きしめたい)
(もっと近くで、菜乃花のことを感じたい)
(ほかの男には、あんな顔を見せてほしくない)
大嫌いなはずなのに。
菜乃花を独占したいという感情が、胸の奥で渦巻いていた。
(何を考えてるんだよ、俺……)
菜乃花から距離を取り、自分の気持ちを確かめる。
そのために始めた「イチャイチャしない日」だった。
それなのに皮肉なことに、触れないと決めたせいで、以前よりも菜乃花を意識している。
ふと、体育館の反対側へ目を向けた。
「菜乃花、頑張れ〜!」
「ナイスシュート!」
「菜乃花、すごい!」
女子たちから、次々と歓声が上がっている。
その中心にいたのは、やはり菜乃花だった。
ピンク色の髪を揺らしながら、軽やかにコートを駆けている。
味方からのパスを受け取ると、迷うことなくシュートを放った。
ボールは綺麗な放物線を描き、そのままリングへ吸い込まれていく。
「やった!」
菜乃花は嬉しそうに笑い、チームメイトと手を叩き合った。
額には汗が浮かび、頬は運動の熱でほんのり赤く染まっている。
その姿が、普段よりもずっと眩しく見えた。
(……可愛い)
(俺はさっきまであんな可愛い子と……)
思わず、そんな言葉が頭に浮かぶ。
(なんなんだよ、この気持ちは……)
菜乃花から目を離せない。
もう少しだけ見ていたい。
そんなことを考えていた、その瞬間――。
「危ない! 悠介!」
「え?」
宇崎の声が聞こえた直後。
バシンッ!
横から飛んできたバレーボールが、俺の頭へ直撃した。
「――っ!?」
激しい衝撃とともに、視界が真っ暗になる。
床が大きく傾いたような感覚がした。
「悠介!」
遠くで宇崎の声が聞こえる。
次の瞬間、俺の身体は体育館の床へ崩れ落ちた。
◇
「…………」
ゆっくりと目を開ける。
最初に見えたのは、白い天井だった。
(……知らない天井だ)
いや、正確には見覚えがある。
消毒液の匂い。
白いカーテン。
身体の下にある、少し硬めのベッド。
どうやら俺は、保健室へ運ばれたらしい。
「悠介……?」
すぐ近くから、聞き慣れた声がした。
顔を横へ向ける。
ベッドのそばに置かれた椅子へ、菜乃花が座っていた。
俺の手を両手で包み込み、不安そうにこちらを見つめている。
「……あれ? 菜乃花?」
「悠介!」
俺が名前を呼んだ瞬間、握られていた手にぎゅっと力がこもった。
「もぉ! 心配したんだから!」
「うわっ!?」
菜乃花は椅子から立ち上がると、そのまま俺の胸元へ飛び込んできた。
背中へ腕を回し、確かめるように強く抱きしめてくる。
「お、おい。頭に響くって……」
「だって、悠介が急に倒れるから……!」
耳元で聞こえる声が、かすかに震えていた。
「もし、このまま目を覚まさなかったらどうしようって……」
「いや、大袈裟だろ」
俺は苦笑しながら、菜乃花の背中を軽く叩いた。
「もう目も覚めたんだから、大丈夫だって。それにしても、どんな殺人スパイクだよ」
「もぉ! 馬鹿なこと言ってないで、安静にして!」
菜乃花は身体を離すと、目元を拭いながら俺を睨んだ。
その顔を見て、胸の奥が小さく痛む。
今の涙も。
震えていた声も。
どう見ても、俺を騙すための演技には思えなかった。
「菜乃花が、俺をここまで運んでくれたのか?」
「連れてきたのは宇崎君だよ。男子の先生と一緒に運んでくれたの」
「宇崎が?」
「うん。それで宇崎君が、『俺は授業に戻るから、姫城さんが見ていてやってくれ』って」
(あいつ……余計なことを)
いや、倒れた俺をここまで運んでくれたのだから、感謝するべきなのだろう。
菜乃花は安心したように息を吐くと、再び俺の手を握った。
「はぁ……本当によかった」
「悪かったな。心配かけて」
「本当だよ。悠介のせいで、私の計画まで全部台無しになっちゃったんだから」
「計画?」
菜乃花は不満そうに頬を膨らませる。
「体育倉庫で、悠介とこっそりイチャイチャする計画!」
「そんな計画立ててたのかよ!」
「せっかく体育倉庫の隅に、二人で隠れられそうな場所を見つけておいたのに!」
「ボールは回避できなかったけど、イチャイチャは回避できてよかったよ」
「むぅ〜!」
菜乃花の頬が、さらに大きく膨らんだ。
「そんなこと言って、本当は悠介もイチャイチャしたかったんじゃないの?」
「そんなわけ――」
反射的に否定しようとして、言葉が止まる。
体育倉庫で、菜乃花と二人きり。
その状況を想像した瞬間、胸の奥に残念な気持ちが生まれてしまった。
(……いや、なんで残念がってるんだよ)
「ほら。黙った」
「黙ってない」
「じゃあ、今から体育倉庫へ行く?」
「行くわけねぇだろ!」
菜乃花が頬を膨らませるなか、俺はベッドから身体を起こした。
「もう大丈夫そうだし、授業へ戻るよ」
「駄目!」
床へ足を下ろそうとした途端、菜乃花が俺の肩を押し戻した。
「頭にボールが当たったんだよ? ちゃんと安静にしてないと駄目」
「でも、もう痛くないぞ」
「駄目なものは駄目!」
「お前、今日はそればっかりだな……」
仕方なく、俺は再びベッドへ横になる。
そういえば、さっきから保健室が妙に静かだ。
「保健室の先生は?」
「山南先生なら、念のため担任と家に連絡しに行ったよ。すぐ戻ってくるって」
「そうなのか」
「うん。気分が悪くなったり、頭が痛くなったりしたら、すぐに呼ぶようにって」
菜乃花はそこまで説明すると、突然嬉しそうに頬を緩めた。
「だから今、保健室には私と悠介しかいないよ♡」
「…………」
つい先ほどまで心配そうに涙を浮かべていた顔が、すっかりイチャイチャモードへ戻っている。
「ねぇ、悠介」
菜乃花は俺の手を握ったまま、椅子からゆっくりと立ち上がった。
「体育倉庫ではできなかったけど、ここなら誰にも邪魔されないね♡」
「け、怪我人を誘惑するな!」
俺は菜乃花の手を振りほどくと、ベッドから起き上がった。
「もういい。さっさと授業へ戻るぞ」
「駄目だってば! まだ安静にしてないと――」
「これくらい、もう平気だよ」
菜乃花の制止を聞かず、ベッドへ手をついて立ち上がろうとした。
その瞬間――。
「痛っ!」
手首に鋭い痛みが走り、思わず顔をしかめる。
「悠介!」
身体の力が抜けかけた俺を、菜乃花が慌てて支えてくれた。
「ほら、言ったじゃん! 無理しちゃ駄目だって!」
「いや、頭はもう痛くないんだけど……」
「たぶん倒れたとき、無意識に手をついたんだよ。手首まで痛めてたんじゃない?」
珍しく、菜乃花が本気で俺を叱っている。
その目には、先ほどまでの甘い雰囲気など少しも残っていなかった。
「ご、ごめん」
「もう……悠介は自分のことを雑に扱いすぎ」
菜乃花は俺の腕を自分の肩へ回すと、ゆっくり身体を支えてくれた。
「ほら、立てる?」
「ああ。手首以外は大丈夫そうだ」
「絶対に無理しないでね?」
「分かったよ」
菜乃花に支えられながらベッドを下り、保健室のソファへ移動する。
俺が腰を下ろしたことを確認すると、菜乃花はようやく安堵の息を吐いた。
「先生が戻ってくるまで、冷やしておこう」
「冷やすもの、どこにあるか分かるのか?」
「たしか、あの棚に保冷剤があったと思う」
菜乃花は保健室の奥へ向かい、高い棚を見上げた。
「あれかな……?」
背伸びをして、棚の上へ手を伸ばす。
しかし、あと少しのところで指が届かない。
「無理なら先生が戻るまで待てばいいだろ」
「大丈夫。もうちょっとだから……!」
菜乃花はつま先立ちになり、さらに身体を伸ばした。
その瞬間――。
「きゃっ!」
バランスを崩した菜乃花の身体が、ぐらりと傾く。
「菜乃花!」
思わず立ち上がりかけたが、菜乃花は何とか近くの棚へ手をつき、転倒を免れた。
「び、びっくりした……」
「危ないだろ。お前まで怪我したらどうするんだよ」
「ごめん。でも、ちゃんと持ちこたえたから――」
ピッ。
保健室に、小さな電子音が鳴った。
「……ん?」
菜乃花が着地した場所。
そこには、健康診断などで使われるデジタル式の体重計が置かれていた。
そして表示部分は、運悪く俺のいる方向を向いている。
「…………」
「…………」
俺の目の前に、菜乃花の体重がはっきりと表示されていた。
「あっ……意外と重た――」
「ゆ、悠介!?」
菜乃花は慌てて体重計から飛び下りると、両手で表示部分を隠した。
「意外と何!?」
「いや、その……」
「見たの!?」
「見ようとしたわけじゃない。勝手に目に入ったというか……」
「忘れて! 今すぐ忘れなさい!」
「見た直後に言われても無理だろ」
「無理でも忘れるの!」
菜乃花は顔を真っ赤にしながら、体重計を背中へ隠した。
普段の菜乃花は、かなり細く見える。
だから俺が勝手に想像していたより、数字が少しだけ大きかっただけだ。
よく考えれば、身長もある。
運動も得意なのだから、不思議な体重ではない。
「ね、ねぇ……悠介」
「なんだ?」
菜乃花は体操服の裾を指先でつまみ、不安そうに俺を見つめる。
「私、いつもこんなに重いわけじゃないからね?」
「どういうことだ?」
「その……この前から、ちょっと舞い上がっちゃって」
「いっぱいお菓子を食べちゃったの」
「お菓子を食べるほど舞い上がることなんてあるか?」
「あるよ」
菜乃花は恥ずかしそうに俯くと、足先で床を軽く擦った。
「私、ずっと好きだった悠介と付き合えたんだよ?」
「…………」
「嬉しすぎて、家に帰ってからも全然落ち着けなくて……気づいたら、お菓子をいっぱい食べちゃってたの」
菜乃花は頬を赤らめたまま、俺を見上げる。
「もぉ♡ こんなこと、言わせないでよ」
菜乃花は恥ずかしさを隠すように、俺の胸元へ飛び込んできた。
そのまま背中へ両腕を回し、ぎゅっと抱きしめてくる。
「ねぇ……さっきも言ったけどさ、もうイチャイチャ禁止令なんてやめようよ?」
「今なら誰もいないし、悠介の大好きなキスもいっぱいできるよ?」
「我慢は身体に毒だよ?」
「だから、いっぱいいっぱいイチャイチャしよ♡」
胸の奥が、急に熱くなった。
「えへへ♡」
「な、なんだよ」
「悠介、今すごく嬉しそう」
「嬉しくねぇよ!」
「顔、真っ赤だよ?」
菜乃花は完全に機嫌を直したらしく、楽しそうに笑っている。
すると、近くの棚に置かれていた何かが目に入ったらしい。
「あれ?」
菜乃花が手を伸ばし、銀色の器具を持ち上げる。
「これ……聴診器かな?」
「ああ。さっきまで健康診断をやってたみたいだし、片づけ忘れたんじゃないか?」
「ふ〜ん……」
菜乃花は聴診器と俺の顔を交互に見る。
その口元が、ゆっくりと悪戯っぽく緩んでいった。
「そうだ、悠介」
「勝負しようか?」
「何で勝負するんだよ?」
「せっかく保健室で二人きりなんだし――」
菜乃花は聴診器を首へかけると、俺の目の前まで近づいてきた。
「今から、お医者さんごっこしよっか?♡」
「聴診器でお互いの心臓の音を聞いて、先に心音が速くなったほうが負け♡」




