8.獅子の断罪
決戦の朝。王宮へ向かう馬車の中は、かつてない緊張感に包まれていた。
リベラータは、グレイグが用意させた最高級の絹布で仕立てられた、深い緑色のドレスを身に纏っていた。彼女の瞳の色と同じそのドレスは、肌の白さを際立たせ、高潔な美しさを放っている。
だが、リベラータの指先は膝の上で固く握りしめられていた。
「……。そんなに強張るな。君が間違えるはずがない」
向かい側に座るグレイグが、低い声で彼女に語りかけた。彼は正装である国境警備隊の礼装に身を包み、胸元にはレイヴァーグ侯爵家の紋章が誇らしげに輝いている。
「はい……。分かってはいるのですが。私のような、魔法もろくに使えず、歩くことさえままならない者が、王宮で証言するなど……。グレイグ様の顔に泥を塗ることにならないでしょうか」
リベラータが俯くと、グレイグは迷うことなく席を立ち、彼女の隣へと移動した。
馬車が揺れるたび、厚い胸板が彼女の肩に触れる。リベラータは、その圧倒的な存在感に息を呑んだ。
「泥を塗る? 逆だ、リベラータ」
グレイグは、彼女の冷たくなった手を大きな掌で包み込み、温めるように握った。
「軍の精鋭ですら見逃した偽装を、君は暴いた。王宮の連中は、君という『真実』を突きつけられて狼狽えることになる。……お前が不自由なのは、その脚だけだ。その知性と魂は、誰よりも高く飛んでいる」
「グレイグ様……」
「私の隣で、堂々としていろ。お前が歩けないのなら、私が支える。行きたい場所があるなら、私が連れて行く。そう誓ったはずだ」
リベラータは、彼の深い瞳の中に宿る揺るぎない信頼を見つけ、ようやく小さな呼吸を吐き出した。
やがて、馬車は王宮の正面玄関に到着した。
扉が開かれると、出迎えの文官たちが並び、好奇の視線がリベラータに注がれる。辺境の無能と噂されたコンティ家の令嬢が、なぜレイヴァーグ侯爵に伴われ、王宮へ現れたのか。
リベラータが杖を手に、ゆっくりと馬車から降りようとした時だ。
グレイグは先に降りると、彼女に手を貸し、リベラータが地面に足を着くのをじっと待った。
そこから王宮内へ続く長い回廊。
グレイグは、普段の彼からは想像もできないほど、ゆっくりとした足取りで歩き始めた。一歩、また一歩。リベラータの右足が地面を捉え、杖がコツリと音を立てる。そのリズムに合わせて、グレイグは自身の大きな歩幅を極限まで縮めている。
周囲の文官たちが、その光景に驚愕して足を止める。
戦場では獅子の如く疾走し、誰にも歩調を合わせることなどなかったヴェリタスの獅子が、一人の女性の歩みに寄り添い、守るように速度を落として歩いているのだ。
「グレイグ様……。あの、皆が見ています。私は平気ですから、もっと早く……」
リベラータが焦って声を潜めると、グレイグは前を見据えたまま、微かに口角を上げた。
「急ぐ必要などない。……ここからは、お前の時間だ。お前が前を向いている限り、誰も我々を追い越すことはできん」
その言葉は、リベラータの背中を力強く押し上げた。
二人はゆっくりと、けれど確実に、真実を解き放つ扉へと近づいていく。
荘厳な軍議室の扉が開かれるその時、リベラータの胸に宿っていたのは恐怖ではなく、自分を共に戦う者として必要としてくれた男の期待に応えたいという、静かな情熱だった。
——
威厳ある彫刻が施された軍議室の扉が開くと、室内には既に重苦しい沈黙が満ちていた。
上座には、ヴェリタスの賢王と名高いキングスレイ陛下が厳かな面持ちで座している。その左右には軍の重鎮たち、そして――余裕の表情を崩さぬ副官ガウスが控えていた。
杖を突き、グレイグの歩幅に合わせてゆっくりと入室してきたリベラータに、周囲の文官たちが困惑の視線を送る。一人の大臣が、その空気を代弁するように口を開いた。
「……グレイグ卿。北域の異常事態に関する『最終報告』と聞き陛下にもお出まし願ったが、そのご婦人は? 儀礼の場に似つかわしくないようだが」
暗に「足の不自由な部外者」を連れてきたことを咎める言葉。しかし、それを制したのは上座の国王だった。
「控えていろ。グレイグがこの場に連れてきたのだ。相応の理由があるのだろう」
国王は、穏やかながらも鋭い眼差しをリベラータに向けた。
グレイグは一歩前へ出ると、リベラータを庇うように、かつ誇らしげに告げた。
「陛下。こちらは私の妻、リベラータにございます。北域の綻びを見抜いたのは、他でもない彼女です」
「……ほう。コンティ家の令嬢か」
陛下が興味深げに頷くのを確認し、グレイグはリベラータを促した。
「感謝いたします、陛下。……説明しろ、リベラータ。お前が見た『真実』を」
グレイグの促しを受け、リベラータは震える脚を叱咤して一歩前へ出た。グレイグは彼女の傍らに寄り添い、無言で一本の細い指し棒を彼女の手に持たせた。
「……陛下。私は幼き頃の怪我の影響ゆえ、人並みに魔法を扱う力はございません。ですが、文字と数字に刻まれた精霊の『声』を読み解くことはできます」
彼女はグレイグから受け取った指し棒を使い、震える手で地図上の一点を丁寧に指し示した。北域の防衛要衝だ。
「この拠点において、過去五年の観測データには、三つの『空白』がありました。表向きは正常な数値で埋められていますが、前後の魔力の流れが、不自然に断絶しています。……これは、特定の周波の魔力を流し込み、その土地に住まう精霊を意図的に追い出した際に生じる歪みです」
「……馬鹿な。そんな微細な綻び、誰に分かると言うのです?」
ガウスが嘲笑を浮かべて割って入る。しかし、リベラータは動じなかった。
「分かります。なぜなら、その書き換えに使用された魔術印章の残滓……。それは、ガウス副官が管理する『国境警備隊・事務官室』の備品と、完全に一致するからです。私は魔法を扱うのは人並み以下ですが、他者の魔力や『異物』には敏感なのです」
室内が騒然となった。ガウスの顔から余裕が消え、血の気が引いていく。リベラータは、彼が完璧だと信じていた改竄の手口を、あたかも目の前で見ていたかのように、理路整然と、かつ冷静に暴いていく。
「精霊を追い出し、土地の守りを内側から崩そうとしたのは……北の国境を意図的に弱体化させ、軍の再編を口実に、自らの派閥を捩じ込むためではありませんか? 陛下、これはレイヴァーグ侯爵家への背信である以上に、ヴェリタスの防衛を根底から揺るがす国家への裏切りです」
「……貴様、よくも出鱈目を!」
逆上したガウスが、リベラータに向けて腕を振り上げた。その瞬間。
鋭い金属音が響き、ガウスの喉元に抜き身の刃が突きつけられた。
グレイグが、音もなくリベラータの前に立ち塞がっていた。彼の瞳には、ヴェリタスの獅子と恐れられた、苛烈な怒りの炎が宿っている。
「……私の前で、誰に手を上げようとした。ガウス。貴様は今、二重の意味で断罪されるに値する愚行を犯した」
グレイグの低く、地を這うような声が軍議室を震撼させる。
上座の国王キングスレイ陛下が、静かに立ち上がった。
「……ガウス。今のリベラータ殿の説明に、反論はあるか?」
「……陛下、それは……」
「——ないようだな。グレイグ、その男を捕らえよ。……リベラータ殿、見事であった。魔法を持たぬ者が、知性のみで軍の盲点を突く。……其方は、ヴェリタスの宝だ」
賢王からの最大級の賞賛。リベラータは呆然とし、それから、自分を支えてくれるグレイグの腕の中で、ようやく小さな安堵の息を漏らした。




