9.微睡みの時間
王宮を辞し、走り出した馬車の車輪が心地よいリズムを刻む。
先ほどまで王の御前で凛としていたリベラータは、座席に深く体を預けたまま、こくりと首を揺らして眠りに落ちていた。
グレイグは隣でその寝顔を黙って見つめていた。
最高級の絹布に包まれた細い肩。膝の上に置かれた小さな手。そして、慣れない王宮で、その細い体と不自由な右足を必死に鼓舞し、最後まで立ち続けていた彼女の姿を思い返す。
「……。まったく、無茶をする」
グレイグは低く呟き、彼女が窓に頭をぶつけないよう、その細い肩をそっと引き寄せて、自分の肩に寄りかからせた。リベラータは微かな吐息を漏らし、吸い寄せられるように彼の逞しい胸元へ頬を寄せる。
その瞬間、グレイグの胸の奥が、熱い何かに締め付けられた。
これまで、女という存在は彼にとって守るべき弱者か、政略の道具でしかなかった。けれど、隣で眠るこの小鳥はどうだ。
羽をもがれ、飛べない身でありながら、彼女は自分の知性という嘴で巨大な敵を打ち破り、グレイグの窮地を救ってみせた。
(私は、この女に救われたのか)
軍の精鋭さえ見逃した綻びを、彼女は見抜いた。
そして、グレイグが最も信頼し、それゆえに最も深い傷を負わされたであろうガウスの裏切り。それを白日の下にさらす際、彼女は自分のためではなく、常に「グレイグのために」と言い続けた。
リベラータが微かに眉を寄せ、寒さに震えるように身を縮める。
グレイグは反射的に自身の分厚い軍服の上着を脱ぎ、彼女の細い体にかぶせた。大きな上着に埋もれるリベラータの姿を見て、彼の中で、ある感情が確固たる形を結んだ。
それは、便宜上の妻を守るという義務感ではない。
有能な部下を慈しむような愛着でもない。
「……一生、お前を離しはしない」
グレイグは、自分の声が驚くほど情熱を孕んで響くのを感じた。
彼女が眠っているのをいいことに、彼はその柔らかな頬を親指でそっとなぞる。
もし、誰かが再び彼女を傷つけようとするなら、自分はヴェリタスの獅子として、そのすべてを噛み殺すだろう。この小さな体温を守るためなら、軍人としての名声も地位も、すべてを賭けていいとさえ思えた。
——いや、もう賭けているのだろう。
これは、陥落だ。
他でもない、彼自身の心が、この歩くことさえままならない小鳥に完全に屈服したのだ。
馬車が屋敷の庭に入り、速度を落とす。
グレイグは、御者が扉を開けるよりも早く、リベラータを起こさぬよう慎重にその体を抱き上げた。
腕の中に収まる重みは、あまりにも軽い。けれど今の彼にとって、それはどんな勲章よりも重く、誇らしいものだった。
「……グレイグ様?」
出迎えたケネスが、主人の顔を見て、思わず言葉を失った。
そこには、戦勝報告を持ち帰った時よりも、さらに深く、暗いほどの熱を瞳に宿した、一人の「男」としてのグレイグが立っていた。
「静かにしろ。……リベラータは、私が寝室へ運ぶ。誰も入れるな」
低く命じ、グレイグは愛おしい「妻」を抱いたまま、ゆっくりと階段を上り始めた。
——
リベラータが目を覚ましたのは、夕闇が部屋を包み始めた頃だった。
見慣れた寝室の天蓋を見上げ、自分が馬車の中で眠ってしまったことに気づき、彼女は慌てて身を起こそうとした。
「……あ」
しかし、すぐ傍らから伸びてきた大きな手が、彼女の肩を優しく押し留めた。
「まだ寝ていろ。今日一日の疲れが出たのだろう」
そこには、上着を脱いだシャツ姿で椅子に座り、彼女を見守っていたグレイグがいた。
リベラータは顔を赤くし、掛け布団の上から重ねられていた彼の軍服の上着を、そっと握りしめた。ずっしりとした重みと、彼特有の香りが、自分は守られていたのだと伝えてくる。
「申し訳ありません……。せっかくの王宮からの帰りに、私としたことが」
「気にするな。それより……リベラータ。お前に渡したいものがある」
グレイグは、傍らのテーブルに置かれていた、皮表紙の厚みのある、一冊の書物を手に取った。
装丁には精緻な金細工が施され、背表紙には失われた古代語のタイトルが刻まれている。
「これは……。まさか、伝説の博物学者アルフォンスの『古代文献学』の初版本ですか!?」
リベラータの瞳が、これまでにないほど大きく、輝きに満ちた。
資料庫で軍事記録や報告書の綻びを追う仕事には、グレイグの役に立てるという大きな喜びがあった。けれど、それとは別に、純粋に憧れ、いつか一目見たいと願っていた至高の稀覯本が今、目の前にある。
「ナタリーから聞いた。お前が、実家でもこの本の写本を大切にしていたとな。……だが、それは写本ですら不完全なものだろう。これは完全版だ。王都の古書店を三軒、ケネスに回らせてようやく手に入れた」
「グレイグ様……。こんな、貴重なものを……。私、資料庫の本を読み解くだけでも、十分すぎるほど幸せでしたのに」
震える手で本を受け取ったリベラータに、グレイグは椅子から立ち上がり、ベッドの縁に腰を下ろした。
「これまで、お前には軍の仕事ばかりさせてしまったな。だが、これからは……自分の楽しみのために、時間を使え。お前がその本を読んで、穏やかな時間を過ごせるなら、その対価など安いものだ」
グレイグは、リベラータの驚きに染まった頬に、大きな掌を添えた。
「もうお前を、資料庫に閉じ込める必要はなくなった。この邸で、好きな本を広げ、自由に過ごしていればいい」
リベラータは、胸がいっぱいになり、本を抱きしめたままぽろぽろと涙をこぼした。
自分に居場所をくれただけでなく、自分の好きという感情までも尊重し、守ろうとしてくれる。
「……。泣くな。本が濡れるだろう」
困ったように笑いながら、グレイグはその涙を指で拭い、そのまま彼女をそっと腕の中へ引き寄せた。
彼の胸の中で、リベラータは静かに息をつく。もう、どこにも追いやられることはないと、知っているかのように。




