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【完結】獅子の隣で羽ばたく小鳥〜不器用な猛将は、傷ついた令嬢を離さない〜  作者: 桐生 翠月


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10.獅子の変心

 王宮での一件から数日。王都にあるレイヴァーグ侯爵家本邸の空気は、劇的に変化していた。

 

 最も困惑し、同時に頬を緩ませているのは、長年この屋敷を支えてきた使用人たちである。

 

「……信じられますか、ナタリー。あのグレイグ様が、ですよ?」

 

 廊下ですれ違いざま、執事のケネスが深刻そうな面持ちで、侍女のナタリーに耳打ちした。

 

「ええ、分かっています。今朝も、リベラータ様が中庭の花を眺めていらしたら、グレイグ様が背後からそっとご自分の私室用の柔らかなカシミアの上着をかけられたのを見ました。軍用ではない、肌触りの良いものをわざわざ選んで」

 

「それだけではありません。今しがた、リベラータ様が重い本を持とうとされた際、グレイグ様は『指一本動かすな』とばかりに慌てて駆け寄り、本を運ばれていました。戦場で千の敵を相手にする時よりも、ずっと必死な顔で」

 

 二人は顔を見合わせ、深いため息をついた。

 かつて「ヴェリタスの獅子」と恐れられた主人は、今や「飛べない小鳥」の羽根が一本抜けることさえ恐れる、過保護な守護聖人のようになっている。

 

 だが、その変化は厳格だった本邸に、柔らかな陽だまりをもたらしていた。

 不遇な身の上で嫁いできたリベラータが、今やこの家の中心で、誰よりも大切に愛されている。その事実は、古参の使用人たちにとって、何よりの喜びだった。

 

 ——

 

「……グレイグ様、あの。さすがに近すぎませんか?」

 

 午後の穏やかな光が差し込むテラス。

 リベラータは、先日贈られた『古代文献学』のページをめくりながら、隣に座る夫に控えめな抗議をした。

 グレイグは、王宮での軍議を終えて帰宅するなり、リベラータの隣――というより、彼女の体が少しでも揺れれば肩が触れ合うほどの至近距離に腰を下ろしていた。

 

「気にするな。私はここで、明日の演習の書類を確認しているだけだ」

 

 グレイグはペンを動かしながら、視線だけはリベラータの足にかけられた膝掛けの乱れを、数分おきにチェックしている。

 

 (……以前の私なら、こんな場所に長く留まることはなかったな)

 

 軍議と訓練の合間を縫ってでも、こうして時間を費やしている自分に、わずかな違和感と――否、奇妙な納得があった。

 

「ですが、ナタリーたちが何度もこちらを見ては、顔を赤くして立ち去っていくのですけれど……」

 

「放っておけ。私の屋敷で、私が妻の隣にいて何が悪い」

 

 開き直ったようなグレイグの言葉に、リベラータは困ったように微笑んだ。

 あの日、王宮から帰った夜以来、グレイグの態度は驚くほど真っ直ぐで、彼女を守ろうとする過保護さを隠さなくなった。不自由な自分を、一人の愛おしい伴侶として案じてくれるその温もりが、今でも夢のようで胸が熱くなる。

 

 そこへ、ケネスがやってきて一礼した。

 

「グレイグ様。王都郊外の別邸より、ライゼル様とアーヤ様がお見えです。今回の功績と、お二人のご結婚をお祝いしたいとのことです」

 

「ライゼル達が? 聖地へ行っていたと聞いてたが、戻ってきたのか」

 

 グレイグはわずかに眉を寄せたが、リベラータの緊張を察したのか、そっと彼女の手を握って安心させるように頷いた。

 

 ——

 

「兄上! 昨日、別邸のほうへ戻りました。王宮での活躍、聞きましたよ! なんでも、ガウスの裏切りを暴いたとか——あっ……」

 

 快活ながらも落ち着いた声と共に現れたライゼルが、テラスに足を踏み入れた瞬間に固まった。

 背後からついてきた妻のアーヤも、驚きに目を見開いている。

 

 二人の目の前には、椅子に座るリベラータの背もたれに腕を回し、まるで外界の敵から守るように寄り添っているグレイグの姿があった。

 

 リベラータは、夫の家族が来たと知るや、不自由な右足を杖で支え、礼を尽くそうと急いで立ち上がろうとした。

 

「ライゼル様……。初めまして、リベラータで——」

「待て、無理をするな」

 

 しかし、すぐさまグレイグの手がリベラータの肩を優しく、だが断固として押し留めた。

 

「兄上……。結婚されたというのは本当だったのですね。初めまして、リベラータ義姉様。……それにしても兄上、本当に兄上ですよね?  随分と、表情が柔らかくなられたようで驚きました」

 

 ライゼルは丁寧な一礼を捧げながらも、兄の変貌ぶりに目を細めた。グレイグはぶっきらぼうに言い放つが、その手はリベラータの膝掛けを直したり、クッションの位置を調整したりと、甲斐甲斐しく動き続けている。

 

「初めまして、リベラータさん。ライゼルの妻のアーヤです。グレイグ様がこんなに……その、熱心に誰かをお世話されている姿、初めて見ました。とっても素敵な奥様なのですね」

 

 アーヤが柔らかな笑みを浮かべて歩み寄ると、リベラータは顔を赤くして頭を下げた。

 

「初めまして、アーヤ様、ライゼル様。コンティ家から参りました、リベラータです。本来であれば、お立ちしてお迎えすべきところを……申し訳ございません」

 

「そんなことは気にしなくていい。リベラータは軍や北域を救い、陛下からも直々に賞賛を賜ったのだ。ライゼル、お前も失礼のないようにしろ」

 

 グレイグが誇らしげに胸を張る様子に、ライゼルは呆気にとられた後、堪えきれずに吹き出した。

 

「ははは! 父上からは『便宜上の結婚』だなんて聞いてたけど、全然違うじゃないですか。これじゃまるで、獲物を自慢する獅子というより、妻を自慢するただの愛妻家ですね」

 

「……やかましい。北域に飛ばされたいか」

 

「いいえ、結構です! でも安心しましたよ。兄上がこんなに幸せそうなら、侯爵家も安泰ですね。リベラータ義姉様、兄上は不器用ですけど、一度懐に入れたものは命がけで守る人です。どうかよろしくお願いします」

 

 ライゼルの言葉に、リベラータはグレイグを見上げた。彼は少し気まずそうに視線を逸らしたが、その耳たぶが赤くなっているのをリベラータは見逃さなかった。

 

「はい。……私の方こそ、グレイグ様に救われましたから」

 

 初対面の義弟夫婦に囲まれ、賑やかな笑い声がテラスに響く。

 かつて実家で傷物と蔑まれ、光の当たらない場所で孤独に過ごしていたリベラータ。

 

 彼女は今、自分を丸ごと受け入れてくれる夫と、新しい家族の温もりに包まれ、確信していた。

 例え形だけの縁として結ばれたものだったとしても、この場所で彼に出会えたことは、きっと、この先の人生すべてを塗り替える奇跡だったのだと。

 

 

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