6.獅子の焦燥、指先の熱
静寂が、資料庫に降り積もる。
先ほどまでそこにあった殺気は、グレイグが剣を一振りし、肌を刺すような凍てついた魔力を解き放った瞬間に霧散していた。床には侵入者たちが組み伏せられ、駆けつけたケネスや部下たちが無言で彼らを連行していく。
グレイグは大剣を鞘に納めると、ようやくリベラータの方を向いた。
返り血を浴びた銀髪が、月光に濡れて鈍く光っている。その瞳にはまだ、獣じみた鋭い残光が宿っていた。
「……怪我はないか」
「はい……。グレイグ様こそ、お怪我は……」
リベラータの声は震えていた。恐ろしい敵から守られた安堵と、目の前の男が放つ圧倒的な野獣としての気配に、胸が詰まる。
グレイグは答えず、無造作な足取りで彼女に近づいた。
リベラータの目の前で止まった彼は、大きな手を伸ばし、彼女の頬に付着した小さな硝子の破片を親指で払った。
「ひっ……」
思わず小さく身を竦めたリベラータを見て、グレイグの眉がぴくりと動いた。彼は手を止め、苦々しげに吐き捨てる。
「……やはり、怖いか。私のような血生臭い男が側にいるのは」
「ち、違います! そうではなくて……」
リベラータは慌てて首を振った。恐怖がないと言えば嘘になる。けれど、それ以上に、彼女の頬に触れた彼の指が、驚くほど熱く、そして微かに震えていることに気づいてしまったのだ。
「……。グレイグ様、手が」
リベラータは、おずおずと自分の細い指を伸ばし、彼の大きな手首に触れた。
グレイグは一瞬、弾かれたように身を硬くしたが、彼女の瞳が真っ直ぐに自分を見上げていることに気づくと、深く、重い溜息をついた。
「……会議など、出るべきではなかったな。君を一人にするリスクを、甘く見ていた」
彼はそのまま、リベラータの体を壊れ物を扱うような手つきで引き寄せ、その肩を抱いた。分厚い軍服越しに、彼の力強い鼓動が伝わってくる。
「……飛べない鳥。……私が不自由なばかりに、ご迷惑をおかけしてしまいました」
自嘲するリベラータの頭上で、グレイグの声が低く響いた。
「……奴らは、君の足を笑ったのか」
その声の温度が、一瞬で零度まで冷え切る。グレイグは彼女の肩を掴む手に力を込め、耳元で断じるように言った。
「飛ぶ必要なんてない。……君には、私が見落とす小さな綻びを見つける力がある。それが私の助けになっているんだ。行きたいところがあるのなら、私がどこへでも連れて行く。だから……」
グレイグは言葉を切り、顔を背けた。
「……もう自分を卑下するな」
それは、誇り高い獅子が初めて漏らした、祈りにも似た言葉だった。
リベラータは、彼の胸に顔を埋めたまま、熱い涙が溢れるのを感じていた。
——
襲撃から一夜明けた侯爵邸は、表面上は平穏を取り戻していた。
だが、リベラータの周囲だけは明らかに変わった。彼女が資料庫へ向かおうとすると、廊下には倍の数の護衛が並び、執務室から戻ったばかりのグレイグが、険しい顔で彼女を呼び止めたのだ。
「今日は部屋で休めと言ったはずだ。……足の具合はどうだ」
「グレイグ様……。はい、ナタリーが丁寧に手入れしてくれましたから、痛みはありません。それよりも、昨夜の調査の続きを……」
リベラータが資料庫へ向きを変えようとした瞬間、グレイグの大きな手が彼女の手首を掴んだ。
「今は、資料などどうでもいい」
低く、地響きのような声。リベラータが驚いて見上げると、グレイグは何か言い淀むように視線を彷徨わせ、そのまま彼女を自室へと促し、寝椅子へと座らせた。
グレイグはケネスから小さな小瓶を受け取ると、人払いを命じた。室内には、二人きり。
「グレイグ様……?」
「……先日言った軟膏だ。北域の精霊術師が調合したもので、浸透させるには少しコツがいる」
そう言うと、グレイグは躊躇いもなく彼女の足元に膝をついた。
「えっ、お待ちください! グレイグ様の手を煩わせるようなことでは……!」
リベラータは顔を真っ赤にして足を引っ込めようとしたが、彼はその細い足首を逃がさなかった。
グレイグの大きな掌が、彼女の右足に触れる。
(……熱い)
軍人の、硬くて大きな手。けれど、不自由な彼女の足を扱う手つきは、羽毛に触れるかのように慎重で、優しい。
グレイグは無言で軟膏を指に取り、リベラータの肌に伸ばしていく。
だが、その指先が触れるたび、彼自身の呼吸も微かに乱れていることに、リベラータは気づいていなかった。
(……なんだ、この細さは)
グレイグは内心、激しい動揺に襲われていた。
掌に収まってしまいそうな足首。軍靴で踏み潰してしまいそうなほど、白くて脆い肌。
これまで「便宜上の妻」だと思っていたはずなのに、実際にその肌の柔らかさに触れた瞬間、それが「守らねばならない一人の女」という生々しい質感を持って彼に襲いかかってきたのだ。
ふと視線を上げると、恥ずかしさに耐えるように瞳を潤ませ、唇を噛むリベラータと目が合った。
深い緑色の瞳に、自分の姿だけが映っている。
「……。リベラータ」
「……はい」
「……いや、なんでもない」
彼は慌てて視線を逸らし、乱暴に小瓶の蓋を閉めた。
耳の淵が微かに赤くなっているのを、彼はリベラータに見られまいと立ち上がる。
「……しばらく、そこで大人しくしていろ。……いいな」
吐き捨てるような言い方だったが、その声にはいつもの冷徹な響きはなく、どこか余裕のない、追い詰められたような熱が混じっていた。
部屋を出たグレイグは、廊下で大きく息を吐き、額を押さえた。
(……大人しくするのは、私の方か)
彼女の知性に惹かれ、その脆さに絆され、今や彼女の肌の熱までが、鋼の心臓をかき乱している。
ヴェリタスの獅子は、初めて理屈では統べられない感情という名の迷宮に、足を踏み入れようとしていた。




