5.剥き出しの牙
その日から、リベラータの生活は劇的に変化した。
日中の大半をグレイグの執務室に隣接する資料庫で過ごし、時折、彼自身が持ち込んでくる古い記録や、軍の暗号が混じった報告書の整理を手伝うようになったのだ。
ある日の午後。
資料庫と執務室を繋ぐ扉は、グレイグの指示で僅かに開け放たれていた。
(……こうしていると、お隣でグレイグ様が書類をめくる音や、ペンを走らせる音が聞こえるのね)
リベラータは視線を落とし、手元の古い羊皮紙を慎重にめくった。かつてのコンティ子爵邸では考えられないほど、心が凪いでいる。
グレイグは多忙を極めていたが、邸に戻っている間は、執務の合間にふらりと資料庫へ姿を現すようになった。
「……進み具合はどうだ」
背後から響いた低い声に、リベラータは小さく肩を揺らして振り返った。軍服の上着を脱ぎ、シャツの袖を捲り上げたグレイグが、棚に手をついて彼女の手元を覗き込んでいる。
「あ、はい。五年前の北域警備記録と、今の魔力異常の地点を照らし合わせているのですが……。この『空白の三日間』だけ、精霊の観測データが意図的に書き換えられているように見えます。……ほら、ここです」
リベラータが膝の上の地図を持ち上げ、特定の地点を指し示す。屈んだグレイグの顔が、彼女の耳元に触れそうなほど近づいた。
「……。なるほど、数値の整合性が取れていないな。素人目には見逃すような、微細な歪みだ」
グレイグは感心したように低く唸った。彼はリベラータから地図を受け取ると、そのまま彼女の隣にある椅子に腰を下ろした。彼が座るだけで、窓の少ない資料庫の空気が一気に密度を増したように感じられる。
「君は……。なぜこれほどまでに、文字の裏側を読み取れる?」
「……私には、これしかなかったから。外で駆け回ることも、華やかな社交界で踊ることもできませんでした。だから、図書室やこの資料庫のような場所で、ずっと言葉と対話するしかなかったんです」
自嘲気味に微笑むリベラータ。だが、グレイグはその横顔を、突き刺すような真剣な眼差しで見つめていた。
「置物には、もったいないな」
「え……?」
「文字の裏に隠された真実を、君だけは見つけている。……私が見落としている綻びがあるなら、すべて暴いて私に見せろ。リベラータ」
名前を呼ばれ、リベラータは鼓動が跳ね上がるのを感じた。
彼は彼女を、足が不自由な傷物として哀れんでいるのではない。一人の有能な協力者として、正面から真摯に向き合い、必要としている。
「……。はい。私の知る限りのすべてを、グレイグ様のために役立てます」
リベラータが力強く頷くと、グレイグはふいと視線を逸らし、立ち上がった。
「……あまり根を詰めるな。ナタリーに茶を用意させた。それと、その足に効くという軟膏も取り寄せた。使い方は、後で私が教える。それまでは勝手に触るな」
ぶっきらぼうに言い残して、彼は執務室へと戻っていく。
残されたリベラータは、自分の頬が火照っていることに気づいた。
不器用で、冷徹で、銀の野獣と恐れられる夫。
けれど、彼が時折見せるその温度に、彼女は少しずつ、抗いようもなく惹かれ始めていた。
静かな資料庫で重なる二人の時間は、ヴェリタスの暗雲を切り裂く、唯一の光になりつつあった。
資料庫で過ごす時間は、リベラータにとってかけがえのないものとなっていた。
――けれど、安穏な時間は長くは続かなかった。
風の強い夜のことだ。資料庫で古い魔導書を読み解いていたリベラータは、微かな音を捉えた。
それは、邸の外から聞こえる風の音ではない。もっと近く、廊下の石床を、執拗に這いずるような乾いた音だ。
(……精霊が、震えている?)
リベラータは瞳を凝らし、執務室へと続く扉を見つめた。
グレイグは今夜、軍の緊急会議で戻りが遅いと聞いている。護衛は廊下に控えているはずだが、その気配が不自然に薄い。
リベラータは杖を手に取り、ゆっくりと立ち上がった。
その瞬間、資料庫の狭い窓硝子が、外からの圧力でミシリと鳴った。
「……誰?」
声を出した瞬間、窓が内側へと弾け飛んだ。
舞い落ちる硝子の破片。そこから音もなく侵入してきたのは、夜の闇をそのまま纏ったような黒装束の集団だった。彼らの手には、あの日書類を焦がしたものと同じ、禍々しい魔力を帯びた短剣が握られている。
「……ああ、これか。余計な綻びを見つけ出した飛べない小鳥というのは」
侵入者の一人が、不気味な声で笑った。
リベラータは足が竦みそうになるのを必死に堪え、背後の本棚を背に、杖を両手で握りしめた。逃げることはできない。右足を引きずりながらでは、数歩歩く間に追いつかれる。
「グレイグ様は……すぐに戻られます。ここがどこか、分かっているのですか」
「分かっているさ。だからこそ、あの野獣が戻る前に終わらせる」
短剣が振り上げられた。
リベラータは覚悟を決め、瞳を閉じた。
――だが、衝撃は来なかった。
代わりに聞こえたのは、肉を断つ鈍い音と、部屋の空気を一瞬で凍りつかせるような、凄まじい魔力の奔流。
「……私の邸で、随分な真似をしてくれる」
リベラータが目を開けると、そこには、血に濡れた大剣を無造作に下げた、銀髪の男が立っていた。
「グレイグ、様……!」
間に合わないはずの彼が、そこにいた。
グレイグは振り返ることもなく、侵入者たちを冷徹な眼差しで射抜く。その背中は、どんな城壁よりも厚く、そして圧倒的だった。
「私の妻に、触れようとした罪は重いぞ」
グレイグの言葉に、侵入者たちの顔が絶望に染まる。
銀の野獣が、今、完全にその牙を剥いた。




