3.深夜の対峙と、小さな進言
その夜、リベラータは自室の寝椅子に身を預け、ナタリーが密かに用意してくれた古い記録の写しと、昼間に見つけた焦げ跡のある書類を交互に見つめていた。
室内には魔導灯の淡い光だけが満ち、静寂が支配している。右足が鈍く疼く。けれど、文字を追い、散らばった情報の欠片を繋ぎ合わせていく作業に没頭している間だけは、その痛みも、自分が抱える役立たずという呪いも、どこか遠くへ追いやることができた。
(やっぱり……。国境の魔力異常は、決して突発的なものじゃない。五年前の演習記録にも、極めて微弱だけれど、同じ魔力の揺らぎが記されているわ。でも、誰かがその記録を組織的に隠そうとしている……。それも、この屋敷の中で)
深夜、二時を回った頃。
邸の静寂を切り裂くように、軍靴の音が廊下に響いた。グレイグが帰宅したのだ。
リベラータは一瞬躊躇したが、意を決して立ち上がった。使い慣れた杖に重心を預け、ゆっくりと、けれど確かな意志を持って自室の扉を開ける。
廊下には軍服のボタンをいくつか外し、疲労の色を滲ませ、自分の部屋へと向かうグレイグの背中があった。
「……あの、グレイグ様!」
呼びかける声は、自分でも驚くほど震えていた。
グレイグが足を止め、億劫そうに肩越しに振り返る。その鋭い眼光には、深夜の冷気と、戦場を統べる者特有の苛烈な威圧感が混じっている。
「……起きていたのか」
グレイグは完全にこちらへ向き直ると、怪訝そうに眉を寄せた。
「おかえりなさいませ、グレイグ様。……夜分に、申し訳ありません」
「体調が悪いのか? 足が痛むなら、ケネスを呼べ。私は医者ではない」
突き放すような物言い。しかし彼はその場を立ち去ろうとはせず、リベラータの蒼白な顔をじっと見下ろしていた。
「いいえ、そうではありません。……お忙しいのは重々承知しておりますが、どうしてもお伝えしたいことがありまして。……今日、書架でこれを見つけました」
リベラータは、震える手で焦げ跡のある書類を差し出した。
グレイグは一瞬、眉を不快そうに歪めた。だが、書類の焦げ跡が単なる火傷ではなく、高度な隠蔽工作による「魔力痕」であることに気づくと、その眼光が鋭く、冷徹な軍人のものへと変じた。
「……どこで手に入れた。これは王宮派遣の事務官が管理しているはずの資料だ」
「資料庫へ続く廊下の書架です。整理されていた場所ですが、不自然に順番が入れ替えられ、重要な記述が焼かれていました。……グレイグ様、失礼を承知で申し上げます。今あなたが調査されている国境の異常は、過去の記録と地続きです。そして、何者かがそれをあなたに知られまいとして、あなたのすぐ側で立ち回っています」
リベラータは言葉を切り、彼をじっと見上げた。
グレイグは無言でリベラータを凝視した。その圧倒的な威圧感に、彼女は思わず一歩後退りそうになる。ヴェリタスの獅子と謳われ、銀の野獣と恐れられる男の視線は、もはや背景を見るものではなかった。
沈黙が、永遠のように長く感じられた。
やがて、グレイグは大きな手で書類を奪い取るように受け取ると、低く鼻を鳴らした。
「……子爵家の令嬢が、軍事機密の隠蔽に口を出すとはな。文字の羅列に踊らされているだけではないのか?」
「私は、本を読み、観察することしかできませんから。……でも、文字は嘘をつきません。誰かが隠そうとした『意志』こそが、何よりも雄弁に真実を物語っています」
リベラータは、自分でも驚くほどはっきりとした声で言った。
グレイグは彼女の深い緑色の瞳を数秒間見つめ返した後、ふいと視線を逸らした。
「いいだろう。この書類は私が預かる。お前の……いや、君の言い分が正しいかどうか、精査させてもらう。君はもう寝ろ。顔色が紙のように白いぞ」
「……はい。おやすみなさいませ、グレイグ様」
リベラータが安堵し、深々と頭を下げ、杖を突き直して部屋へ戻ろうとした時。
「リベラータ」
背後から名を呼ばれ、彼女は肩を跳ねさせた。
「観察眼だけは、一人前のようだな」
それは、褒めているのか、あるいは皮肉なのか判然としない、ぶっきらぼうな言葉だった。
けれど、扉を閉めた後のリベラータの胸には、形容しがたい温かさが宿っていた。
愛されない置物でいようとしたはずの自分が、初めて彼という獅子の視界に、一人の意志を持つ人間として映った瞬間だった。




