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【完結】獅子の隣で羽ばたく小鳥〜不器用な猛将は、傷ついた令嬢を離さない〜  作者: 桐生 翠月


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2.見えない綻び

 翌朝、リベラータが目を覚ましたとき、隣の寝室からは既に人の気配が消えていた。広い天蓋(てんがい)付きのベッドの中で、彼女はぼんやりと高い天井を見上げた。

 実家の、雨漏りの跡が残る天井とは違う、白亜の石材に精巧(せいこう)な彫刻が施された、高く、あまりにも清らかな天井。

 

(……夢では、なかったのね)

 

 ゆっくりと身を起こそうとした瞬間、枕元のベルを鳴らす間もなく、控えめなノックの音が響いた。

 

「失礼いたします、奥様。お目覚めでしょうか」

 

 入ってきたのは、リベラータより少し年上に見える、快活そうな瞳をした侍女だった。

 

「私は、本日より奥様の専属としてお仕えいたします、ナタリーと申します。グレイグ様より『奥様は御身が繊細ゆえ、常に気を配り、心を尽くして支えるように』と厳命を受けております」

 

「専属の……侍女……?」

 

 リベラータは驚き、思わず自らの右足に布団をかけ直した。実家では「金がかかる」という理由で自分専用の世話係などつけられず、継母の侍女に余り仕事として扱われてきたからだ。

 

「はい。奥様、お足がお辛いときは、どうか遠慮なく私にお預けくださいね。まずは、お着替えをお手伝いいたします」

 

 ナタリーの動作は、驚くほど手際よく、そして優しかった。リベラータが右足を引きずるのを察すると、彼女はさりげなく寄り添い、歩幅を合わせてゆっくりと歩いてくれる。

 

「……ありがとう、ナタリー。驚いたわ、グレイグ様がそんな配慮をしてくださるなんて」

 

「グレイグ様は、お言葉こそ真っ直ぐですが、身内にはこの上なくお優しい方ですから」

 

 ナタリーは誇らしげに笑う。

 

(……真っ直ぐ。あの方は、私の足を『事実』として見ただけ。そこに憐れみも蔑みもなかったのは、そういうことなの……?)

 

 昨夜の彼の視線を思い出し、リベラータは胸の奥で小さく反芻した。

 その笑顔に少しだけ緊張が解けたリベラータは、彼女を伴って、食堂へと向かった。

 

 食堂には、老執事のケネスが控えていた。彼は淀みのない動作で紅茶を注ぎながら、リベラータに邸の近況を静かに語った。

 

「グレイグ様は、毎朝日の出とともに家を出られます。日付が変わる前にお戻りになるのは稀でございます。現在はヴェリタス軍の再編と、国境付近の魔力異常の調査を並行して指揮しておられますので」

 

「魔力異常、の調査……。本当にお忙しいのね」

 

 リベラータは小さく頷き、静かに食事を口にした。

 食事を終えたリベラータは、邸内を散策することにした。グレイグからは「勝手にするがいい」と言われている。ナタリーに傍らの杖を手渡されると、彼女の支えを借りて、ゆっくりと右足を引きずりながら廊下を進む。

 

 レイヴァーグ侯爵邸は、どこまでも整然としていた。

 磨き上げられた床、一寸の狂いもなく並ぶ肖像画。だが、本を愛し、微細な変化に敏感なリベラータの目は、その完璧な調和の中に、奇妙な違和感を見つけた。

 

 それは、執務室とその隣に位置する資料庫へと続く、廊下を通りかかった時のことだ。

 壁面に埋め込まれた巨大な書架には、資料庫に収まりきらない、あるいは整理を待つ膨大な書類が並んでいる。

 

(……おかしいわ。空気の色が、ここだけ歪んでいる)

 

 リベラータは立ち止まり、書架の隙間を見つめた。そこには、膨大な量の古い羊皮紙や報告書が、一見きれいに積み上げられている。しかし、書類の端が僅かに湿気を帯びて波打ち、一部の束が、分類とは異なる順番で紛れ込んでいる。

 

「ナタリー、ここは?」

 

「あちらは資料庫に収蔵予定の古い領地の記録や、軍の過去の演習記録です。数日前から、王宮より派遣された臨時の事務官たちが整理に入っているはずですが……」

 

 リベラータは右足を引きずりながら、吸い寄せられるように書架へ歩み寄った。彼女の鼻が、精霊の微かな震えと、空気に混じる異質な匂いを捉える。

 

「少し見てもいいかしら?」

 

「ええ、もちろんですが……奥様?」

 

 リベラータが書類の束を一つ手に取った瞬間、彼女の細い指先にピリリとした刺激が走った。

 

「これ……焦げているわ」

 

「えっ!? 火事にでも遭ったのでしょうか」

 

 ナタリーが覗き込むと、書類の裏側が人為的に焼かれ、一部の文字が判読不能になっていた。だが、リベラータは首を振った。

 

「いいえ。火で焼かれたものではありません。これ、不安定な魔力の暴走による痕跡だわ。文献にあった記述と同じ……。ナタリー、ケネスさんを呼んできていただけますか?」

 

 リベラータは、先ほどケネスが口にした言葉を反芻(はんすう)した。

 ――国境付近の魔力異常。

 

「……もしできれば、グレイグ様が今扱っている案件に関連する、古い写しが資料庫のどこにあるか調べてほしいの。この焦げ跡、今の異常と無関係だとは思えないわ」

 

 自信のなさに伏せられていたリベラータの瞳が、この瞬間、分析官のような鋭い光を宿した。

 侍女のナタリーは、目の前の小さな主人の変貌に目を見開いた。か弱く、今にも消えてしまいそうだった若き奥方が、文字と気配の海の中から、誰も気づかなかった「真実」を掬い上げようとしている。

 

「……承知いたしました、奥様。すぐに手配いたします」

 

 ナタリーは深く頭を下げた。この瞬間、彼女の中でリベラータは「守られるべき弱者」から「仕えるべき聡明な貴婦人」へと変わった。

 

 銀の野獣さえ気づいていない、巨大な嵐の予兆。

 置物として静かに過ごすはずだった。羽根を折られたはずの小鳥が、その鋭い(くちばし)で、隠された罠の糸を解き始めようとしていた。

 

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