1.温度のない初対面
コンティ子爵家の紋章が薄く剥げかけた古い馬車が、レイヴァーグ侯爵邸の鉄門をくぐったのは、日が完全に落ちた後のことだった。
王都を一望する高台にあるその邸宅は、白亜の外壁が高くそびえ、歴史の重みを象徴する重厚な門構えをもって、リベラータを圧倒した。
ヴェリタスの建国以来、魔術研究の深淵を担い、騎士団の運営を司ってきた名門にふさわしい、静穏な威厳に満ちた城館だ。
(……ここが、私の新しい……いいえ、仮初の居場所)
リベラータは、膝の上で固く握りしめた拳を見つめた。
結婚式と呼べるものはなかった。子爵邸の薄暗い広間で、既にグレイグの署名がなされた書類に署名をし、神官の短い祈祷を受けただけ。侯爵家の嫡男が迎える婚礼としては、あまりにも簡素で、ひっそりとした儀式だった。
馬車が止まり、出迎えたのは背筋を真っ直ぐに伸ばした白髪の老執事、ケネスだった。
「ようこそお越しくださいました、リベラータ様。グレイグ様は現在、参謀本部にて急ぎの案件に対応されており、帰宅は深夜になるかと。まずは奥様のお部屋へご案内いたします」
案内された部屋は、魔法が組み込まれた調度品が整然と並び、機能的でありながら溜息が出るほど豪奢だった。リベラータは用意された軽食にも手を付けられず、ただ椅子に深く腰掛け、時計の針が刻む音を数えていた。
深夜。
静けさが一段と深まった頃、邸の空気が一変した。
遠くで響く重い足音。規則正しく、一切の迷いがない軍靴の響きが、次第に近づいてくる。
——コン、コン
短く、硬いノックの音が部屋に響いた。リベラータが返事をする間もなく、迷いのない手つきで扉が開かれる。
開かれた扉の向こうに、その男はいた。
リベラータは反射的に立ち上がろうとしたが、長旅による足の強張りがそれを阻んだ。
グレイグ・レイヴァーグ。
短く刈り込まれた銀髪は、夜の月光を浴びたように鋭く光り、軍服の上からでも分かる強靭な体躯は、部屋の入り口を完全に塞ぐほどの圧迫感を与えていた。
魔術と剣、その両極を極めた者だけが持つ、肌を刺すような鋭い気配。
「……待たせたか」
地響きのような低い声が、部屋の空気を震わせる。
リベラータは必死に声を絞り出した。
「い、いいえ……。はじめまして。コンティ子爵が娘、リベラータでございます。この度は——」
「挨拶はいい。無駄な時間は嫌いだ」
顔を上げる前に、頭上から降ってきたのは氷のように冷たい一言だった。
グレイグは一歩、また一歩と近づく。至近距離まで迫った彼は、傍らに立てかけられた杖を一瞥し、それからリベラータを見下ろした。その鋭い眼光が彼女のすべてを射抜くかのように見つめた。
「随分と、線の細い女だ。……それと、足は本当に悪いのだな」
残酷なまでの直言。だがそこに蔑みはない。
「申し訳ありません、見苦しい姿を……」
「謝る必要はない。事実を確認しただけだ」
グレイグは軍服の手袋を乱暴に外すと、彼女を真っ直ぐに見据えた。
「先に断っておく。私は多忙だ。この結婚に愛は求めていない。家督継承の体裁を整え、周囲の口を塞ぐために選んだ形式的な婚姻だ。……君に何かを強要するつもりはない。不自由はさせないが、過度な干渉も期待しないでほしい。この邸で、君の好きに過ごすがいい」
それは、自由の宣告というよりは、明確な拒絶に聞こえた。
「はい。……承知いたしました。私は、置物として……静かに、過ごさせていただきます」
リベラータが消え入るような声で答えると、グレイグは微かに眉を動かした。何かを言いかけたようにも見えたが、彼はそのまま背を向けた。
「食事は済ませたか?」
扉に手をかけたまま、彼は振り返らずに問うた。
「……あ、いえ。まだ……」
「そうか。冷える。体を冷やすな。明日は朝からいない。勝手にするがいい」
それだけを言い残すと、重厚な扉が閉まった。
残されたのは、彼が纏っていた微かな鉄と古い書物の匂い、そしてリベラータの激しい鼓動だけ。
ヴェリタスの獅子が棲む城で。
愛を求めない猛将と、羽根を折られた飛べない小鳥の、温度のない共同生活が始まった。




