プロローグ
窓の外には、春を待つ冷たい雨が降り続いていた。
コンティ子爵邸の薄暗い書斎には、湿り気を帯びた埃の匂いと、父の荒い鼻息だけが充満している。
「いいか、リベラータ。これは決定事項だ。お前はレイヴァーグ侯爵家に嫁ぐのだ」
父の言葉は、慈しみなど微塵もない、事務的な宣告だった。
デスクの脇には、派手な装飾の服に身を包んだ継母と、退屈そうに爪をいじる異母弟が、まるで余り物の処分が決まるのを待つような目で見守っている。
「……レイヴァーグ、侯爵家……。あのヴェリタスの獅子と謳われる、名門の……?」
リベラータは、質素なドレスの裾を握りしめ、伏せていた顔をゆっくりと上げた。彼女の淡い金髪が、微かな震えと共に揺れる。
「そうだ。向こうの嫡男、グレイグ殿が結婚相手を探しているという話を聞きつけてな。ダメ元で釣り書を送りつけたのだが……。どうやら向こうは、政略や派閥争いに関心のない、静かな生活を望む女性を求めていたらしい。お前の、そのなんの華も主張もない控えめな気質が、あちらには扱いやすいと好都合に映ったわけだ。全くだ、出来損ないなりに使い道があったな」
父は、手元の借用書の束を忌々しげに睨みながら、薄笑いを浮かべた。
「あわよくば、侯爵家の威光を借りて、借金の再編もできる。いいか、リベラータ。お前はただ、向こうで静かにしていればいい。下手に存在感を出して、追い出されるような真似はするなよ。こんな傷物を拾ってくれる物好きなど、後にも先にもあの方だけなのだからな」
コンティ子爵家は、代々の放蕩と相次ぐ投資の失敗で、今や没落の危機に瀕している。二十三歳になり、社交界でも「足の不自由な、魔力の乏しい厄介者」「飛べない小鳥」などと揶揄され、縁談が途絶えていたリベラータは、父にとって最後にして最大の返済手段となったのだ。
「ふん、良かったじゃない。足の悪い不器用なあんたでも、レイヴァーグ侯爵家なら一生食いっぱぐれはないわよ。その代わり、向こうで恥をかいて追い出されるような真似だけはしないでちょうだいね」
継母が冷ややかに言い放ち、異母弟がせせら笑う。
「そうだぜ、リベ。お前みたいな『家の恥』をあんな名門が引き取ってくれるんだ。奇跡だと思って、向こうの旦那に縋り付くんだな」
リベラータは、右足の鈍い痛みを感じながら、小さく「はい」と答えた。
幼い頃の馬車事故。あの時、彼女は未来を失った。激しい運動はできず、歩く時はどうしても右足を引きずってしまう。その体力のなさは魔力の出力にも影響し、貴族の令嬢として不可欠な「華やかさ」も「有用性」も、彼女は持ち合わせていなかった。
(……私に務まるのでしょうか。あの、戦場を駆ける猛将の妻など)
グレイグ・レイヴァーグ。
国境警備隊の最高司令官として軍務に明け暮れ、その冷徹なまでの強さから銀の野獣とも称される男。
彼にとって、自分のような女は、ただの体裁を整えるための置物に過ぎないのだろう。
リベラータは、部屋の隅に置かれた、たった一つの使い古したトランクを見つめた。
そこには、彼女が唯一の心の拠り所としてきた数冊の本だけが詰まっていた。
そして、その横には、彼女の頼りない足を長年支えてきた、飾り気のない木製の杖が立てかけられている。




