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霧灯のラグナ ~崩壊する迷宮世界を、旧人類の《管理者権限》で書き換える~  作者: すいまる
第一章

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刻限の鐘

 ゴオォォォォン……。


 《結界塔》の鐘が、重く、長く響き渡った。

 その音は物理的な振動となって、霧に濡れた石畳を震わせ、人々の鼓膜の奥深くまで染み込んでいく。


 広場を埋め尽くしていた無数の灯籠の列が止まる。

 《光刻板》が放っていた温かな橙色が、ゆっくりと収束し、鎮まっていく。


 祭りの喧騒は波が引くように消え去り、代わりに張り詰めた静寂が満ちた。

 数百人の群衆が息をひそめ、霧の奥を見つめている。

 そこにあるのは、祈りの終わりを見届ける敬虔さと、夜の深まりに対する本能的な畏れだった。


 広場の隅、石造りの回廊の陰に自警団員が集められていた。

 団長イリアが、硬い表情で団員たちを見渡す。

 いよいよ霧灯祭の最後――長老たちによる「調律の儀」の時間だ。


「これより儀式に入る。――だが、今年は手順を変える」


 イリアの抑えた声が、冷たい霧を震わせた。

 団員たちの間に、さざ波のような動揺が走る。


「外縁部の結界に、調整を要する箇所が見つかった。そのため、長老方は二手に分かれる」


 イリアは言葉を選んでいた。

 他の団員には伏せているが、ラグナには分かった。

 あの「結界の遅延」を修正するためだ。


「他の長老方は、オルドの護衛のもと、里の外の祠へ向かい『外殻』の修復を行う。……そしてセヴラン様は、塔の最上階『中枢の間』に残り、内部から接続を行う」


 その言葉を聞いた瞬間、ラグナの心臓が早鐘を打った。

 セヴラン長老が、塔に残る?


(……まずい)


 血の気が引いていくのが分かった。


 塔の警備は、強力な結界があるため普段は最小限だ。

 しかも今夜は、里の主戦力であるオルドやリャナ、精鋭のほとんどが「外の護衛」に出払ってしまう。

 つまり、セヴランは広大な塔の中で、たった一人になる。


 ラグナは、出発の準備を整える長老たちの姿を目で追った。

 他の三人の長老たちは、どこか安堵したような顔でオルドの傍に集まっている。

 対して、セヴランだけがポツンと離れ、塔を見上げていた。


(……押し付けられたのか?)


 昨日の会議での対立が脳裏をよぎる。

 「綻び」を認めない保守派の長老たちは、危険な調整役を、異端であるセヴラン一人に背負わせたのだ。

 『君が言い出したことなのだから、君が責任を持って調整したまえ』――そんな無言の圧力が、霧の向こうから透けて見えるようだった。


 そして、敵はそれを見逃さない。

 脳裏に明滅する『執行刻限:明晩』の文字。


(敵が操ったんじゃない。敵は、この状況を“計算”していたんだ……!)


 人間の心の隙間、保身と対立。

 それによって生じる致命的な空白を、あの無機質な殺意は静かに待ち構えていたのだ。


「ラグナ、セラ。お前たちは私と共に塔の入り口前で待機。内と外、両方の連絡役を務める」

「……了解」


 イリアの声には迷いがない。

 彼女はこの配置が最善だと信じている。


 ラグナは拳を握りしめ、爪が掌に食い込む痛みで、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。

 「長老を一人にするな」と叫んだところで、今のラグナには誰も納得させられない。


 黒い外套を纏ったオルドが、出発の列に入る。

 額の古傷が、残った灯光石に照らされて鈍く光った。


「行ってくる。……塔の方は頼んだぞ、イリア」

「はい。ご武運を」


 オルドが率いる本隊が、重々しい足音と共に霧の奥へと消えていく。

 残されたセヴランは、イリアに短く頷くと、杖をつきながらゆっくりと塔の入り口へと向かった。

 その背中は、あまりにも小さく、無防備だった。


「セヴラン様!」


 ラグナは思わず声を上げていた。

 自分の意思ですらない。

 焦燥が、身体を突き動かしていた。


 長老が足を止め、穏やかに振り返る。


「……おや、どうしたのかな。ラグナ君」

「あ……その……」


 イリアが怪訝な顔をする。

 ラグナは必死に言葉を探し、震える声で絞り出した。


「……お気をつけて。何かあれば、すぐに駆けつけますから」


 それは、ただの激励ではない。誓いだった。

 セヴランは、ラグナの悲痛な表情の意味を察したのか、目元を優しく細めた。


「ありがとう。君がいてくれれば、心強いよ」


 長老は孫を見るような温かな眼差しを残し、重厚な鉄扉の奥へと消えていった。


 ズゥゥン……。


 扉が閉まる重い音。

 それがラグナには、断頭台の刃が落ちる音のように聞こえ、背筋が粟立った。


――――――


 配置につき、しばらくの間、静寂が続いた。


 塔の前は、祭りの喧騒から隔離され、異様なほど静かだ。

 霧は粘度を増し、呼吸をするたびに肺に重く絡みつく。


 イリアが塔の扉を背にして仁王立ちになり、鋭い視線を霧に向けている。

 ラグナとセラはその少し前、左右を警戒していた。

 遠くからは、まだ祈りの歌の残響が微かに聞こえてくる。だが、この場所だけは音が死んでいた。


「……静かね」


 セラがぽつりと呟く。

 その声さえも、霧に吸い込まれてすぐに消える。


「うん。静かすぎる」


 ラグナは胸ポケットの《銀の箱》を、制服の上から押さえた。

 箱は、一定の規則正しいリズムで熱を発している。

 トクン、トクン、と。

 まるで時限爆弾の秒読みのように。


 ふと、リャナの明るい声を思い出す。

 出発前、彼女は二人に飴をくれた。


 『目は灯の外にも置いときな』

 その言葉が、警句のように耳に残っている。

 口の中に残る甘さが、今のひりつくような緊張感と混ざり合い、奇妙な不快感を生んでいた。


 その時だった。


 ズゥゥゥン……。


 地の底を叩くような重低音が響いた。

 音ではない。強烈な振動だ。

 足元の石畳が波打つように震え、塔の外壁に吊るされた灯光石がカチャカチャと鳴った。


「……今の音は?」


 イリアが即座に反応し、剣の柄に手をかける。

 セラが素早く懐から術具を取り出し、《術式装置》を展開した。

 空中に浮かんだ光の紋様が、赤く明滅する。


「霧濃度、急上昇! ……結界杭の魔力反応が乱れてる。場所は――外縁部、第三区画!」


 第三区画。

 数日前、ラグナたちが水路で「爪痕」を見つけた場所だ。

 そしてオルドが「応急処置」をしたはずの場所。


「綻びが破られたか!」


 イリアが叫ぶと同時に、遠くで爆発音が轟いた。


 ドォォォォォンッ!


 悲鳴が上がる。

 赤い火柱が霧の向こうで上がり、祭りの灯籠を吹き飛ばすのが見えた。

 平和な夜が、一瞬にして戦場へと変わる。


「敵襲! 総員、第三区画へ急行! 住民の避難を最優先しろ!」


 イリアが駆け出す。セラも続く。

 だが、ラグナの足だけが動かなかった。

 地面に縫いつけられたように、一歩も踏み出せない。


(……違う)


 目の前の光景は派手だ。

 爆発、悲鳴、燃え上がる炎。

 誰もがそちらに目を奪われる。

 だが、胸の《銀の箱》が指し示している「脅威の反応」は、そっちじゃない。


 ラグナは振り返った。

 背後にそびえる、巨大な《結界塔》。

 静まり返ったその塔の最上階。

 そこには今、セヴランがたった一人でいる。


(外は陽動だ。……本命は、こっちだ!)


 確信した瞬間、塔の裏手にある通気口から、あり得ない色の霧が漏れ出しているのが見えた。


 黒い霧。

 あの「泥」と同じ、鉄錆と腐敗の臭いがする闇。

 誰にも気づかれないよう、音もなく塔の中へ浸食していく「影」。


「ラグナ! 何している、早く来い!」


 先行したイリアが、振り返って怒鳴る。


 命令違反だ。

 今すぐ外縁へ向かい、パニックになった住民を守るのが自警団の任務だ。

 イリアの判断は正しい。

 常識的に考えれば、塔は安全圏なのだから。


 だが――ここで塔を離れれば、長老は死ぬ。

 それだけは、真実だった。


「……すみません、イリアさん」

「は?」

「俺は行けません! 敵は外だけじゃない……塔の中にもいます!」


 イリアが目を見開く。


「何を馬鹿な! 塔の防護術式は作動していない! 内部反応は正常だ!」

「正常に見せかけてるんです! ……俺には分かるんです!」


 ラグナは叫んだ。

 喉が張り裂けそうなほどの声だった。

 説明している時間はない。証明する証拠もない。

 けれど、行かなければならない。


「セラ! イリアさんを頼む! 外の敵を食い止めてくれ!」

「っ、ラグナ!?」


 セラが足を止め、驚愕の表情でこちらを見る。

 その瞳に映る自分の姿が、ひどく必死な形相をしているのが分かった。

 ラグナは彼女たちに背を向け、塔の裏口へと走り出した。


「待て! 命令違反だぞ!」


 イリアの制止の声が、二度目の爆発音にかき消される。

 背後で、外縁の結界が砕け散る音がした。

 巨大な影が街になだれ込んでくる気配がする。

 仲間たちが死ぬかもしれない。街が焼かれるかもしれない。


(頼む、持ちこたえてくれ……!)


 仲間を見捨てる罪悪感を、ギリギリのところで振り切る。

 ラグナは塔の壁にしがみついた。


 裏口の扉には、すでに異変が起きていた。

 扉の制御盤が焼け焦げ、半開きになっている。

 隙間から漏れ出す空気は、氷のように冷たく、そして濃密な殺意に満ちていた。


 この冷気を、ラグナは知っている。

 あの泥を持ち帰った時に感じた、生理的な拒絶感と同じものだ。


(……やっぱり、来ている)


 外の派手な襲撃とは違う。

 音もなく、気配もなく。

 ただ命を刈り取るためだけに研ぎ澄まされた、純粋な悪意。

 あの「爪痕」の主が、ここにいる。


 ラグナは震える手で剣の柄を握り、扉を蹴り開けた。

 青白い光の中へ、飛び込む。


 ――間に合え。

 その一心で、彼は死地へと踏み入った。



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