刻限の鐘
ゴオォォォォン……。
《結界塔》の鐘が、重く、長く響き渡った。
その音は物理的な振動となって、霧に濡れた石畳を震わせ、人々の鼓膜の奥深くまで染み込んでいく。
広場を埋め尽くしていた無数の灯籠の列が止まる。
《光刻板》が放っていた温かな橙色が、ゆっくりと収束し、鎮まっていく。
祭りの喧騒は波が引くように消え去り、代わりに張り詰めた静寂が満ちた。
数百人の群衆が息をひそめ、霧の奥を見つめている。
そこにあるのは、祈りの終わりを見届ける敬虔さと、夜の深まりに対する本能的な畏れだった。
広場の隅、石造りの回廊の陰に自警団員が集められていた。
団長イリアが、硬い表情で団員たちを見渡す。
いよいよ霧灯祭の最後――長老たちによる「調律の儀」の時間だ。
「これより儀式に入る。――だが、今年は手順を変える」
イリアの抑えた声が、冷たい霧を震わせた。
団員たちの間に、さざ波のような動揺が走る。
「外縁部の結界に、調整を要する箇所が見つかった。そのため、長老方は二手に分かれる」
イリアは言葉を選んでいた。
他の団員には伏せているが、ラグナには分かった。
あの「結界の遅延」を修正するためだ。
「他の長老方は、オルドの護衛のもと、里の外の祠へ向かい『外殻』の修復を行う。……そしてセヴラン様は、塔の最上階『中枢の間』に残り、内部から接続を行う」
その言葉を聞いた瞬間、ラグナの心臓が早鐘を打った。
セヴラン長老が、塔に残る?
(……まずい)
血の気が引いていくのが分かった。
塔の警備は、強力な結界があるため普段は最小限だ。
しかも今夜は、里の主戦力であるオルドやリャナ、精鋭のほとんどが「外の護衛」に出払ってしまう。
つまり、セヴランは広大な塔の中で、たった一人になる。
ラグナは、出発の準備を整える長老たちの姿を目で追った。
他の三人の長老たちは、どこか安堵したような顔でオルドの傍に集まっている。
対して、セヴランだけがポツンと離れ、塔を見上げていた。
(……押し付けられたのか?)
昨日の会議での対立が脳裏をよぎる。
「綻び」を認めない保守派の長老たちは、危険な調整役を、異端であるセヴラン一人に背負わせたのだ。
『君が言い出したことなのだから、君が責任を持って調整したまえ』――そんな無言の圧力が、霧の向こうから透けて見えるようだった。
そして、敵はそれを見逃さない。
脳裏に明滅する『執行刻限:明晩』の文字。
(敵が操ったんじゃない。敵は、この状況を“計算”していたんだ……!)
人間の心の隙間、保身と対立。
それによって生じる致命的な空白を、あの無機質な殺意は静かに待ち構えていたのだ。
「ラグナ、セラ。お前たちは私と共に塔の入り口前で待機。内と外、両方の連絡役を務める」
「……了解」
イリアの声には迷いがない。
彼女はこの配置が最善だと信じている。
ラグナは拳を握りしめ、爪が掌に食い込む痛みで、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
「長老を一人にするな」と叫んだところで、今のラグナには誰も納得させられない。
黒い外套を纏ったオルドが、出発の列に入る。
額の古傷が、残った灯光石に照らされて鈍く光った。
「行ってくる。……塔の方は頼んだぞ、イリア」
「はい。ご武運を」
オルドが率いる本隊が、重々しい足音と共に霧の奥へと消えていく。
残されたセヴランは、イリアに短く頷くと、杖をつきながらゆっくりと塔の入り口へと向かった。
その背中は、あまりにも小さく、無防備だった。
「セヴラン様!」
ラグナは思わず声を上げていた。
自分の意思ですらない。
焦燥が、身体を突き動かしていた。
長老が足を止め、穏やかに振り返る。
「……おや、どうしたのかな。ラグナ君」
「あ……その……」
イリアが怪訝な顔をする。
ラグナは必死に言葉を探し、震える声で絞り出した。
「……お気をつけて。何かあれば、すぐに駆けつけますから」
それは、ただの激励ではない。誓いだった。
セヴランは、ラグナの悲痛な表情の意味を察したのか、目元を優しく細めた。
「ありがとう。君がいてくれれば、心強いよ」
長老は孫を見るような温かな眼差しを残し、重厚な鉄扉の奥へと消えていった。
ズゥゥン……。
扉が閉まる重い音。
それがラグナには、断頭台の刃が落ちる音のように聞こえ、背筋が粟立った。
――――――
配置につき、しばらくの間、静寂が続いた。
塔の前は、祭りの喧騒から隔離され、異様なほど静かだ。
霧は粘度を増し、呼吸をするたびに肺に重く絡みつく。
イリアが塔の扉を背にして仁王立ちになり、鋭い視線を霧に向けている。
ラグナとセラはその少し前、左右を警戒していた。
遠くからは、まだ祈りの歌の残響が微かに聞こえてくる。だが、この場所だけは音が死んでいた。
「……静かね」
セラがぽつりと呟く。
その声さえも、霧に吸い込まれてすぐに消える。
「うん。静かすぎる」
ラグナは胸ポケットの《銀の箱》を、制服の上から押さえた。
箱は、一定の規則正しいリズムで熱を発している。
トクン、トクン、と。
まるで時限爆弾の秒読みのように。
ふと、リャナの明るい声を思い出す。
出発前、彼女は二人に飴をくれた。
『目は灯の外にも置いときな』
その言葉が、警句のように耳に残っている。
口の中に残る甘さが、今のひりつくような緊張感と混ざり合い、奇妙な不快感を生んでいた。
その時だった。
ズゥゥゥン……。
地の底を叩くような重低音が響いた。
音ではない。強烈な振動だ。
足元の石畳が波打つように震え、塔の外壁に吊るされた灯光石がカチャカチャと鳴った。
「……今の音は?」
イリアが即座に反応し、剣の柄に手をかける。
セラが素早く懐から術具を取り出し、《術式装置》を展開した。
空中に浮かんだ光の紋様が、赤く明滅する。
「霧濃度、急上昇! ……結界杭の魔力反応が乱れてる。場所は――外縁部、第三区画!」
第三区画。
数日前、ラグナたちが水路で「爪痕」を見つけた場所だ。
そしてオルドが「応急処置」をしたはずの場所。
「綻びが破られたか!」
イリアが叫ぶと同時に、遠くで爆発音が轟いた。
ドォォォォォンッ!
悲鳴が上がる。
赤い火柱が霧の向こうで上がり、祭りの灯籠を吹き飛ばすのが見えた。
平和な夜が、一瞬にして戦場へと変わる。
「敵襲! 総員、第三区画へ急行! 住民の避難を最優先しろ!」
イリアが駆け出す。セラも続く。
だが、ラグナの足だけが動かなかった。
地面に縫いつけられたように、一歩も踏み出せない。
(……違う)
目の前の光景は派手だ。
爆発、悲鳴、燃え上がる炎。
誰もがそちらに目を奪われる。
だが、胸の《銀の箱》が指し示している「脅威の反応」は、そっちじゃない。
ラグナは振り返った。
背後にそびえる、巨大な《結界塔》。
静まり返ったその塔の最上階。
そこには今、セヴランがたった一人でいる。
(外は陽動だ。……本命は、こっちだ!)
確信した瞬間、塔の裏手にある通気口から、あり得ない色の霧が漏れ出しているのが見えた。
黒い霧。
あの「泥」と同じ、鉄錆と腐敗の臭いがする闇。
誰にも気づかれないよう、音もなく塔の中へ浸食していく「影」。
「ラグナ! 何している、早く来い!」
先行したイリアが、振り返って怒鳴る。
命令違反だ。
今すぐ外縁へ向かい、パニックになった住民を守るのが自警団の任務だ。
イリアの判断は正しい。
常識的に考えれば、塔は安全圏なのだから。
だが――ここで塔を離れれば、長老は死ぬ。
それだけは、真実だった。
「……すみません、イリアさん」
「は?」
「俺は行けません! 敵は外だけじゃない……塔の中にもいます!」
イリアが目を見開く。
「何を馬鹿な! 塔の防護術式は作動していない! 内部反応は正常だ!」
「正常に見せかけてるんです! ……俺には分かるんです!」
ラグナは叫んだ。
喉が張り裂けそうなほどの声だった。
説明している時間はない。証明する証拠もない。
けれど、行かなければならない。
「セラ! イリアさんを頼む! 外の敵を食い止めてくれ!」
「っ、ラグナ!?」
セラが足を止め、驚愕の表情でこちらを見る。
その瞳に映る自分の姿が、ひどく必死な形相をしているのが分かった。
ラグナは彼女たちに背を向け、塔の裏口へと走り出した。
「待て! 命令違反だぞ!」
イリアの制止の声が、二度目の爆発音にかき消される。
背後で、外縁の結界が砕け散る音がした。
巨大な影が街になだれ込んでくる気配がする。
仲間たちが死ぬかもしれない。街が焼かれるかもしれない。
(頼む、持ちこたえてくれ……!)
仲間を見捨てる罪悪感を、ギリギリのところで振り切る。
ラグナは塔の壁にしがみついた。
裏口の扉には、すでに異変が起きていた。
扉の制御盤が焼け焦げ、半開きになっている。
隙間から漏れ出す空気は、氷のように冷たく、そして濃密な殺意に満ちていた。
この冷気を、ラグナは知っている。
あの泥を持ち帰った時に感じた、生理的な拒絶感と同じものだ。
(……やっぱり、来ている)
外の派手な襲撃とは違う。
音もなく、気配もなく。
ただ命を刈り取るためだけに研ぎ澄まされた、純粋な悪意。
あの「爪痕」の主が、ここにいる。
ラグナは震える手で剣の柄を握り、扉を蹴り開けた。
青白い光の中へ、飛び込む。
――間に合え。
その一心で、彼は死地へと踏み入った。




