灯の祭り
橙の灯が、霧の中で静かに揺れていた。
――今夜のミストモスは、霧の奥まで光が届いている。
街の中心から水路へ伸びる小道には白布が渡され、その下に吊るされた灯籠が霧を照らしていた。
灯りは苔の粒に反射し、漂う霧の粒子を琥珀色に染める。
普段は冷たく湿っている空気そのものが、今夜ばかりは柔らかな灯の熱を抱いているようだった。
年に一度、霧がもっとも濃くなる夜――人々は《霧灯祭》を迎える。
消えた人々の魂を導き、そして今生きている者たちの灯を結界へ捧げる、光の祭りだ。
花や小瓶を手にした人々は、静かに祈りを捧げる。
流れゆく灯籠が水面をすべり、霧の奥へ消えるたび、誰かが小さく息を呑む音が聞こえた。
そこには、悲しみだけではない、どこか温かな安らぎがあった。
「……きれいだな。去年まで、自分も向こうにいたのに」
西門近くの石橋で見回りをしていたラグナは、手すりにもたれて、つい呟いた。
新調した自警団の制服は、霧を吸って重くなっている。
だが、その物理的な重さ以上に、胸の奥が冷たく張り詰めていた。
(……今夜だ)
祭りの美しさに目を奪われそうになるたび、昨日セヴランの頭上に浮かんでいた赫い文字が脳裏をよぎる。
『執行刻限:明晩』
つまり、今夜。
この美しい光のどこかに、死神が潜んでいる。
笑い合う家族、手を繋ぐ恋人たち、はしゃいで走り回る子供たち。
彼らは知らない。
この平穏な時間が、薄氷の上に成り立っていることを。
そしてその氷が、今夜砕かれようとしていることを。
「お兄ちゃん、これ!」
不意に、裾を引かれた。
ビクリと肩を震わせて見下ろすと、幼い少女が白い花を差し出していた。
祭りの花飾りだ。
「……え、俺に?」
「うん! じけいだんのお兄ちゃん、かっこいいから!」
少女は無邪気に笑うと、花をラグナの手に押し付け、母親の元へと駆けていった。
掌に残された白い花。
その柔らかさと儚さに、ラグナは拳を握りしめた。
(守らなきゃいけない。……絶対に)
決意を新たにするのと同時に、孤独な恐怖が胃の腑を冷やす。
もし失敗すれば、あの子の笑顔も、この光景も、すべて灰になる。
「ラグナ。通路の確認は終わり?」
霧の向こうから、落ち着いた声がした。
振り返ると、青白い灯を背にセラが歩いてきた。
淡い灰色の術士服の裾を押さえ、水路を渡る姿は、祭りの灯に溶けていくようだった。
「ああ、異常なし。……今のところは」
「顔、怖い」
「……え?」
セラがラグナの顔を覗き込む。
その淡い青の瞳は、心配そうに揺れていた。
彼女は勘が鋭い。ラグナがただ緊張しているだけではないことを、本能的に察しているのだろう。
「肩、上がってる。呼吸も浅い」
「……そうか? 普通にしてるつもりだったんだけどな」
「嘘つき」
セラは小さく溜息をつくと、持っていた予備の灯籠を足元に置いた。
「緊張してるのは分かるけど。……そんな顔してたら、住民が怖がる」
「……ああ。悪い」
ラグナは無理やり頬を緩めた。
セラには言えない。
自分が怯えているのは、失敗することではない。
この平和な祭りが、一夜にして“処刑場”に変わる未来を知っているからだと。
言えば彼女を巻き込む。共犯者にしてしまう。
それだけは避けたかった。
セラはそれ以上追求せず、ふっと息を吐いて霧の上層を見上げた。
「……それにしても、空気が重い」
「霧が濃いからか?」
「ううん。霧が沈静してるの。……北東の《結界杭》の方、灯の流れが少し乱れてる」
普通の人なら気づかない小さな渦。
だが、セラの感知は確かにその“乱れ”を捉えていた。
「気のせいじゃなければいいけど……昔の人はこういう時、“魂が帰る”って言ってたらしい」
セラの口元にかすかな笑み。
だが、その目の奥には、術士としての警戒の色が滲んでいる。
ラグナは頷き、水面の灯籠を見つめる。
――灯は、魂を導く光。
母の声が、遠い記憶の底からよみがえる。
『灯りは、きっと見つかる。――だから君は進んで』
あの夜と同じ声だった。
その残響とともに、胸ポケットの《銀の箱》が、チリリと熱を放った。
これまで沈黙していたそれが、初めて明確な痛みを伴って脈を刻む。
「……っ!?」
掌に伝わる鋭い共鳴。
ラグナは息を呑み、胸を押さえた。
熱い。まるで箱そのものが、危険を知らせて叫んでいるかのように。
「ラグナ、どうしたの?」
「……いや、なんでもない」
慌てて誤魔化し、箱を握りしめる。
警告だ。何かが近づいている。
それも、これまでの魔獣とは比較にならない“異質なもの”が。
祈りの列を見届けたラグナとセラは、巡回がてら水路沿いの細い通りを並んで歩く。
祭りのざわめきは遠のき、霧の層が音を呑み込んでいった。
白布の列の向こうに、いくつかの屋台がまだ灯を残していた。
鉄釜の湯気が白く立ちのぼるその一つの前で、ラグナは足を止める。
なじみのある香りが鼻をくすぐった。
甘く煮た霧草の香りだ。
「ロムばぁの屋台……寄ってみよう」
「今?」
「……熱いのを、一杯欲しいんだ。冷えたから」
ラグナの声に切実な響きがあったのか、セラは何も言わずに頷いた。
霧の奥、屋台の火の前に立つロムばぁが二人に気づき、シワだらけの顔をほころばせた。
「おや、巡回ご苦労さん。……どうした、そんな顔をして」
「……霧草茶、もらえる?」
「あいよ。今夜のは、いつもより甘くしてある」
湯気がふわりと広がり、焦げた甘みが霧に溶ける。
ラグナは湯呑みを受け取り、掌を温めた。
釉薬のひび割れに、熱がゆっくりと沁みていく。
この温もりが、今は何より欲しかった。
一口、舌にのせる。甘い。
けれど、どこか芯に冷たさが残る味だった。
ロムばぁの顔を見る。
いつもの穏やかな笑顔。
かじかんだ手を温めてくれる、この小さな屋台。
もし、自分が失敗すれば――この笑顔も、この温かい茶も、すべて失われる。
「……ねぇ、ロムばぁ」
「ん?」
「俺……ちゃんと、戻ってくるよ」
唐突な言葉に、ロムばぁは手を止め、ゆっくりとラグナを見つめた。
その瞳は、すべてを見透かすように深い。
彼女は長くこの街で生きてきた。
多くの若者を見送り、迎えてきたのだろう。
ラグナの言葉に含まれる“覚悟”のようなものを、感じ取ったのかもしれない。
「当たり前さ。……灯を見失うんじゃないよ」
「うん」
「迷ったら、自分の胸に聞きな。一番熱い場所が、あんたの道標だ」
ロムばぁは釜の火を整え、湯気をひとすじ逃がした。
その背中が、霧の中に淡く溶けていく。
「行っといで。……冷めた灯は、戻れないよ」
その言葉が、背中を押した。
あるいは、覚悟を決めさせた。
そうだ、迷っている時間はない。
灯を守るためには、自ら霧の中へ踏み込むしかないのだ。
屋台を離れ、人通りの少ない外縁部へと歩を進める。
温かい茶の余韻が消え、冷たい夜気が肌を刺し始めた頃――
ふと、水面を流れる灯籠の一つが――“呼吸”した。
「……?」
光が一度ふくらみ、次の瞬間、内側へと吸い込まれた。
風が吹いたわけではない。
まるで、灯籠の内部だけが光を喰っているように、不自然に輝きが消滅したのだ。
周囲は静かなまま、その一点だけが異質だった。
「おかしいな……」
ラグナは膝をつき、灯籠の縁へ手を伸ばす。
水面の反射を逆さに覗き、手で波紋を作って反射角を変え――
木枠に触れた瞬間、掌に細い震えが走った。
ドクンッ!!
胸の奥、銀の箱が激しく脈動する。
痛みにも似た熱量。
『――接触確認。接続元:外なる深淵』
『警告:境界の欠落からの侵入を検知』
脳内に耳鳴りが走る。
心臓と箱の鼓動が重なり、視界が歪む。
霧の粒が光の筋へと変わり、空気が軋むような音を立てた。
現実の風景の上に、見たこともない複雑な紋様の亀裂が重なっていく。
(まただ……! 間違いない、奴らだ!)
これは自然現象じゃない。
結界を内側から食い破るための、侵入の予兆だ。
爪痕や泥と同じ、悪意のある干渉。
「ラグナ!」
駆け寄る声。セラが腕を掴む。
彼女の指先に触れた瞬間、耳鳴りがフッと止んだ。
「顔色、悪い。無理はしないで。何があったの」
「……灯が、吸い込まれた気がした」
「光の流れが逆転してる。通常なら水路の方へ拡散するはずなのに」
セラは眉を寄せ、水面を睨む。
指先をかざすと、宙に《感知紋》が浮かぶ――
次の瞬間、それが弾けるように散った。
ぱん、と乾いた音。
光が弾け、セラの袖が焦げる。
「っ……!」
「おい、焦げてるぞ!」
「平気。……でも、これ」
セラは焦げた袖を払いもしない。
その顔から、血の気が引いていた。
「これは術式妨害じゃない。場そのものが乱れてる。……空間が、侵食されている」
その言葉を合図に、街の音が半拍だけ遅れた。
遠くの鐘が抜け、《結界塔》の低音だけが霧の底で続く。
始まったのだ。
目に見えない侵食が、静かに、確実に。
それは祭りの興奮に紛れ、誰にも気づかれないまま、街の喉元へと刃を突きつけている。
風はないのに、灯の列が逆向きに揺れた。
セラが一歩下がり、眉を寄せる。
「見た?」
「ああ。塔の光……一瞬、紫に」
橙と紫が交わる。
その一瞬が、夜の色を変えた。
遠くで、《結界塔》の鐘が低く鳴った。
ゴオォォォォォン……。
それは祈りの合図ではない。
世界の綻びを告げる、弔いの鐘の音。
時刻だ。
セヴランが、死地へ向かう刻限。
ラグナは拳を握りしめた。
もう、迷いはない。
ロムばぁに誓った「戻る」という言葉を反芻する。
(……行くぞ)
胸の《銀の箱》が、肯定するように熱く震えた。




