霧灯祭前夜
朝靄がほどけはじめる。
訓練場の中央で、団長イリアの影が霧を切った。
「ラグナ。前へ」
呼ばれた名に、胸が一度だけ鳴る。
歩み出たラグナの前で、イリアは小箱を開けた。
六芒の印を刻んだ金属――団員章。
淡い光を返したそれは、霧に濡れた朝の冷たさを帯び、手のひらでじんわりと温もりへ変わる。
「正式団員として迎える。……おめでとう」
「……ありがとうございます」
言葉は短い。
だが、イリアの眼差しには確かな信頼があった。
昨日の今日だ。
彼女もまた、ラグナが持ち帰った“あの泥”の意味を重く受け止めているはずだった。
「解散。各自、祭り準備へ回れ。――ラグナ、セラ。お前たちはリャナの指示に従え」
「はっ!」
澄んだ声が霧の天蓋を震わせる。
だが、去り際にイリアとすれ違う瞬間、彼女はラグナにだけ聞こえる声で囁いた。
「……あとで《結界塔》に来い。長老たちがお待ちだ」
ラグナは無言で頷いた。
いよいよだ。あの黒い泥が、里の危機を証明する。
――――――
昼前、街は白と橙の準備で賑わっていた。
リャナが広場で指示を飛ばし、セラが機敏に動く。
平和な光景だ。
だが、ラグナの心臓だけが、周囲の喧騒とは違う早鐘を打っていた。
《結界塔》上層。
厚い扉をくぐると、灯光石の鼓動が静かに室内へ響く。
導かれたのは、上層の奥――霧がかすかに漂う私室。
中央には、淡灰の衣の長老――セヴラン。
そして、左右にイリアとオルドが控えていた。
室内の空気は、外の祭りムードとは隔絶されたように重い。
ここにいる全員が、薄氷の上に立っているような顔をしていた。
セヴラン長老は、五日前、ラグナに「結界の綻び」を告げた人物だ。
唯一、今のミストモスの危機を直視している長老。
そして――ラグナの目にだけ映る『剪定対象』でもある。
(……まだ、ある)
ラグナは息を呑んだ。
長老の頭上には、今日も赫い文字列が浮かんでいる。
だが、その内容は昨日までとは変わっていた。
『剪定儀式:最終段階へ移行』
『執行刻限:明晩、《霧灯祭》祭壇にて』
(明日……!?)
血の気が引いていく。
猶予なんてなかった。
敵は、祭りの喧騒と闇に紛れて――確実にこの人を殺しに来る。
「来たか、ラグナ」
セヴラン長老の静かな声が響く。
何も知らない本人の穏やかな声が、余計に胸を締め付けた。
「昨日の外縁での働き、聞き及んでいる。……そして、イリアから報告を受けた“異物”についてだが」
ラグナは顔を上げる。
イリアが、卓上に置かれた白い布をゆっくりと開いた。
「……これだ」
ラグナは目を見開いた。
布の上にあるはずの、あの粘つくどす黒い泥。
だが、そこに広がっていたのは――
「……砂?」
乾いた、灰色の砂だった。
鉄錆のような異臭もしない。ただの、どこにでもある塵芥。
「一晩で、こうなった」
イリアが悔しげに唇を噛む。
「回収した直後は、確かに黒い泥状だった。だが、結界内に入った途端に乾燥が始まり……今朝にはこの有様だ。魔力反応も消え失せている」
「そ、そんな……!」
ラグナは卓に身を乗り出した。
「確かに異常だったんです! 動きも、あの黒い色も……あれは普通の魔獣じゃなかった! あれは、誰かが意図的に作った――」
「分かっている!」
イリアが鋭く遮った。
その瞳には、ラグナへの拒絶ではなく、自分自身への苛立ちがあった。
「私も見た。あれが異常な物体だったことは、この目が覚えている。……セヴラン様も、疑ってはおられん」
見ると、セヴラン長老は灰色の砂を指先で掬い上げ、沈痛な面持ちで見つめていた。
「……これだけの証拠と証言がありながら、私は無力だ」
その言葉は、懺悔のように響いた。
「今朝の長老会で、祭りの延期を提言した。だが……否決されたよ」
「そんな……里の近くで異変が――それに、侵入者がいるかもしれないんですよ!?」
ラグナの叫びに、控えていたオルドが静かに口を開く。
「他の長老たちは『結界は絶対』だと信じている。それに、この砂だ。魔力反応のない砂を見せても、『見習いの見間違い』だと一蹴された」
オルドは続けて、卓上の地図の一点を指した。
「該当箇所である外縁第三区画の“綻び”については、すでに私が応急処置を施した。予備の結界杭を打ち込み、亀裂は塞いであります。……物理的な侵入経路は、一応断ちました」
だが、その表情は晴れない。
「しかし、それはあくまで蓋をしただけ。原因の解決にはなっていません」
「ああ。分かっている」
セヴラン長老が深くため息をついた。
「他の長老たちは言う。『綻びは塞いだ。ならば祭りの祈りで結界を強化するのが最善だ』と。……筋は通っている。我々には、それを覆す決定的な材料がない」
重苦しい沈黙が落ちた。
ここにいる全員が分かっている。
蓋をした程度で止まる敵ではない。
すでに“中”に入り込んでいる可能性すらある。
だが、里の決定機関である長老会が「開催」を決めた以上、自警団にそれを止める権限はない。
「……すまない」
セヴラン長老が、苦渋に満ちた顔で言った。
「私がもっと強硬に振る舞えればよかったのだが……民の不安を煽ることを恐れる彼らを、説得しきれなかった」
イリアが一歩前に出る。
「謝らないでください。……ならば、我々は我々のやり方で里を護るだけです」
「うむ。……イリア、オルド。祭りの警備体制を、秘密裏に最大級へ引き上げろ。何かあれば、私の独断で祭りを止める覚悟でいる」
「はっ!」
二人が力強く頷く。
セヴランは最後にラグナを見た。
「ラグナ。君にも苦労をかけるな。……見習い上がりの君に背負わせるべき重荷ではないと分かっている。だが、君のその“目”に頼らざるを得ない」
「……はい」
ラグナは拳を握りしめた。
この人は、自分が一番危険な立場にいることを知らない。
自分を責め、里を案じ、そして明日の夜――祭壇という名の処刑台に立とうとしている。
(……違う。俺が一番知ってるんだ)
あなたの頭の上に、『明日殺す』と書いてあるんだと。
理屈も証拠も関係なく、明確な殺意がここにあるんだと。
だが、言えない。
言ったところで、精神の錯乱を疑われて任務から外されれば、守ることすらできなくなる。
「……必ず、守ります」
ラグナは言葉に力を込めた。
「明日の夜……何があっても」
セヴラン長老は、孫を見るような目で優しく微笑んだ。
「ありがとう。君のような若者がいてくれて、ミストモスは幸福だ」
その笑顔の上で。
赫い文字だけが、無慈悲に点滅していた。
『執行刻限:明晩』
――――――
塔を出ると、イリアが足を止めた。
その背中は、悔しさに震えているように見えた。
「……すまない、ラグナ」
絞り出すような声だった。
「お前が命がけで持ち帰った証拠を、守れなかった」
「いえ……イリアさんのせいじゃありません」
イリアは振り返り、ラグナの肩に手を置いた。
その手は熱く、力強かった。
「だが、私はお前を信じる。あの泥は、間違いなく“脅威”だった。……明日は、何が起きても対応できるように備えろ」
「はい!」
イリアは頷き、準備へと戻っていった。
彼女は強い。
けれど、彼女には見えていない。
敵の本当の狙いが、無差別なものではなく――“長老の暗殺”という一点にあることが。
(俺だけだ)
ラグナは空を見上げた。
橙色の灯籠が並び始めている。
明日の夜、この美しい光のどこかで、敵は牙を剥く。
知っているのは、自分だけ。
守れるのも、自分だけかもしれない。
――――――
夜の端。
巡回を終えたラグナは、逃げ込むように家の戸を閉めた。
心臓の音がうるさい。
手の震えが止まらない。
明日の夜、人が死ぬかもしれない。
それを知っていながら、日常を演じなければならない恐怖。
「……顔色が悪いよ」
振り向くと、ロムばぁが心配そうに覗き込んでいた。
湯気の立つ霧草茶を差し出される。
「飲みな。……何か、怖いもんでも見たかい?」
その言葉に、ラグナはカップを受け取る手を止めた。
怖いもの。ああ、見た。
人の命の期限を告げる、あの赫い文字を。
「……ロムばぁ」
「ん?」
「もし……明日、すごく悪いことが起きるって分かってたら……どうする?」
震える声で問う。
ロムばぁは驚く様子もなく、ただ静かにラグナを見つめた。
「逃げたいのかい?」
「……逃げられない。俺が逃げたら、大切な人がいなくなるかもしれない」
「なら、答えは決まってるじゃないか」
ロムばぁは皺だらけの手で、ラグナの手を包み込んだ。
温かくて、乾いた手。
「灯を見失うな。恐怖で足が竦んでも、目の前の闇がどれほど深くても……あんたが守りたい灯がそこにあるなら、ただ手を伸ばせばいい」
「……手を、伸ばす」
「そうさ。あんたには、その力がある。そうだろ?」
ロムばぁの言葉が、冷え切った胸の奥にじんわりと染み渡る。
そうだ。
自分には母の形見である《銀の箱》がある。
敵の正体を暴くヒントをくれた、あの声がある。
たった一人でも、武器はある。
ラグナは茶を一気に飲み干し、強く頷いた。
「……うん。行ってくる。俺、絶対に守ってみせる」
窓の外。
祭りの前夜、街は静かに呼吸をしている。
この平穏が明日も続くように。
ラグナは懐の《銀の箱》を握りしめた。
覚悟は決まった。
明日の夜――霧灯祭が、決戦の場になる。




