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霧灯のラグナ ~崩壊する迷宮世界を、旧人類の《管理者権限》で書き換える~  作者: すいまる
第一章

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霧路の先で

 ――朝、霧が淡く晴れかける頃。

 広場には、すでに慌ただしい人の気配があった。


 木枠に白布を張る者。

 川から水を汲み上げる子供たち。

 並べられた灯籠の骨組みが霧風に揺れ、色とりどりの布が白い霧の中に滲んでいく。


 カラン、カラン――近くで小さな鐘が鳴る。

 白布の列に合わせて、少年少女が歩調を刻む。


 ――祈りの行進の練習だ。

 灯光石の淡い光が霧の粒を抱き、列をやわらかく照らしていた。


「……いよいよだな」


 ラグナが呟くと、近くで縄を結んでいた老人が顔を上げた。


「霧灯祭は年に一度。消えた者を忘れぬための夜だ。来年も無事に迎えられますように――そう祈りながらな」


 その声には期待と、かすかな怯えが混じっていた。

 祭りは弔いであり、結界への祈りだった。

 人々の手の動き一つ一つが、静かな信仰そのものに見えた。


 隣で灯籠に油を差していたセラが、視線を寄こす。


「……顔、強ばってる」

「あぁ。多分、緊張してる」

「当然でしょ。明日は初めて一人で任務に出るんだから」


 セラは手を止め、静かに言った。


「失敗しても、戻ればいい。それだけ、覚えておいて」


 冷静で現実的な口調。

 だが、その奥にある淡い優しさについても知っている。

 ラグナは短く息を吐き、頷いた。



――――――



 午前の訓練場は、霧が薄く静かだった。

 湿った地面の上に、魔導陣の焦げ跡がいくつも残っている。

 いつもならここで弓の音や詠唱の声が響く時間だが、今日はラグナとセラの二人だけが立っていた。


「――今日の指導は私が務める」


 その声に、二人の肩がわずかに動く。

 霧の向こうから現れたのは、団長イリアだった。


「リャナさんの代わり、ですか?」とセラ。


 イリアは小さく頷く。


「調査班だ。祭り前の外縁を確認している。――だから今日は、私が様子を見に来た」


 淡々とした口調。

 だが、ラグナはその“様子を見る”という言葉の奥にわずかな警戒を感じ取った。


「堅くなるな。私とお前たちの関係だろう?」

「……はい」


 イリアは、かつて崩牙獣の襲撃でラグナを救った恩人だ。

 だが、今は街を率いる団長としての顔を持つ。

 近くにいるのに遠い――そんな距離感だった。


「さて、今日は詠唱と陣展開の訓練だ。杖は使うな。術式の安定を、精神だけで保て」


 セラが頷き、ラグナも呼吸を整える。

 互いに目を合わせ、同時に詠唱を始めた。


 霧が揺れ、二つの光陣が浮かぶ。

 ラグナの陣は少し大きく、セラの陣は寸分違わず安定している。

 その差が、わずかに悔しかった。


 ――成功、と思った瞬間、びり、と空気が震えた。


「っ……!」


 ラグナの胸の奥が軋み、霧がざわめく。

 セラが反応するより早く、イリアが歩み寄り、手首を掴んで短く命じた。


「止めろ。これ以上は危うい」


 光が弾け、陣が崩れて消える。

 訓練場に静寂が落ちた。


 イリアはラグナをしばらく見つめ、低く言う。


「……お前の術式、霧の反応が強すぎるな」

「霧の反応……?」


 聞き覚えのある現象――昔読んだ古書にあった“霧に呼応する心”。

 名は出てこない。

 ただただ、胸の奥がざわついている。


「術式に心を引きずられる者は珍しい。心が揺らげば、霧もまたそれに応える。恐れるな。意志で律せ。……霧に呑まれるな。お前が――霧を従え」


 その声は、警告というより確信に近かった。

 ラグナは胸の鼓動を押さえ、ただ静かに頷いた。


 隣で見ていたセラの表情に、わずかな不安が浮かんでいた。



――――――



 訓練を切り上げると、イリアは短く告げた。


「午後は外縁へ向かう。――《霧路の裂隙》だ」


 ――そして午後。

 ラグナがその場所に立つのは初めてだった。


 霧の街ミストモスを包む厚い結界。

 外へ通じる“ただひとつの門”――それが《霧路の裂隙》だ。

 普段は長老と自警団員以外の立ち入りが禁じられており、見習いがここに来るのは異例のことだった。


 霧の流れが不自然に歪み、そこだけ空気が凪いでいる。

 まるで、見えない膜が世界を押し返しているようであった。


「見ろ。これが結界だ」


 イリアが術具を翳す。

 岩壁に淡い紋が走り、青白い光が幾重にも重なって揺らめいた。

 低い音が地を伝い、霧が波紋のように広がる。

 それは風ではなく――“術式の呼吸”だった。


「《結界杭》を基点に、長老たちの術で補強している。力任せに押さえ込んでいるわけじゃない。祈りと魔力の循環で、霧を押し返しているんだ」


 ラグナはそっと結界に掌を近づけた。

 空気が震え、指先が痺れる。


 ――生きている。

 呼吸する心臓のように、脈打っていた。


 イリアが一歩前に出て、結界杭の中心に術具を押し当てた。

 光がひときわ強くなり、霧が裂ける。


「これが《霧路の裂隙》――里の外へ通じる唯一の道だ。

この先から、空気が変わる。気を引き締めろ」


 霧が反転するように流れ、内と外の境界が開く。

 足を踏み出した瞬間、体の周囲を薄い膜が抜けていった。

 温度が下がり、音が遠のく。


 外の霧は、里のものとは違う。

 重く、鋭く、静寂を食らう。


 セラが小さく息を呑む。


「……これが、外の空気」


 霧は冷たく、胸の奥を刺すように重かった。

 ラグナは静かに頷き、剣に手を置く。


 その瞬間、低い鳴き声。

 霧の底で、石を擦るような音が走った。


「下がれ。……出るぞ」


 イリアの声と同時に、灰色の毛皮を持つ小型魔物――《迷宮ネズミ》が飛び出した。

 赤く濁った瞳が、灯光を反射してギラつく。


(……また、あの感覚)


 崩牙獣に追われたあの日の冷たい匂いが、一瞬で蘇る。

 だが、今は違う。

 逃げるためではなく、立つためにここにいる。


「ラグナ!」


 その声が導火線になる。

 息を吸い、詠唱を刻む。

 《風紋陣》――霧が裂け、敵の輪郭が露わになる。


 踏み込みと同時に、《光紋》を重ねた。

 閃光が走り、空気が裂ける。

 《迷宮ネズミ》が悲鳴を上げ、霧に沈んだ。


 呼吸が荒い。だが、立っている。

 自分の力で、敵を倒した。

 その実感が、胸の奥を静かに熱くする。


「……よくやった」


 イリアの声に、霧の重さが少しだけ軽くなった。

 イリアはラグナの無事を確認して、話を続ける。


「この結界は長老たちの力で維持されている。だが、祈りがなければ調律は続かん。霧灯祭は、その“祈り”のための儀だ。――明後日、街全体がそのために動く」


 ラグナは静かに頷いた。

 結界はただの壁ではない。

 街の心臓であり、祈りで鼓動を刻む命。


 それは同時に――

 灯が途切れれば、街は霧に呑まれる、という意味でもあった。


 ラグナは拳を握りしめ、胸の奥に、小さな決意の灯を感じていた。



――――――



 夜。


 家の窓の外で、霧がゆっくりと流れている。

 湯釜の音が小さく響き、ロムばぁが椅子に腰を下ろした。


「落ち着かない顔だねぇ」

「……まぁ、少し」

「灯を見失うな。それだけ覚えてりゃ、帰ってこられる」


 短くそう言って、ロムばぁは目を閉じた。

 霧草の香りが、胸のざわめきを少しだけ和らげる。


 ラグナは寝台に腰を下ろし、天井の灯光石を見上げた。

 昼間見た結界の脈動が、今も瞼の裏に残っている。

 それは恐ろしくも、美しい光だった。


 ――初めて、自分の力で誰かの前に立った。

 崩牙獣のときは、逃げることしかできなかったのに、今日の自分は違う。

 術が確かに“外の霧”を裂いたのだ。


 怖くはあった。

 それでも、足は止まらなかった。

 イリアの声、霧の重さ、そして心の奥で微かに灯った“何か”。


(母さんが言ってた……見たことのない世界を、恐れないでって)


 結界の向こうには、まだ知らないものがある。

 それを見に行ける力が、自分の中にあるのなら――。


 ラグナは拳を握り、息を整えた。

 霧の街に来てから、初めて“明日が楽しみだ”と思えた夜だった。



――――――



 霧は前日より濃く、橙光がわずかに滲んでいた。

 すでに自分の試験を終えたセラは、門の前まで見送りに来ていた。


「……準備は?」

「十分。これ以上は考えても仕方ない」


 ラグナは短く答えた。

 その目は、試験への緊張ではなく、もっと切実な光を宿していた。


(……敵は、どこから来た?)


 一昨日、長老の頭上に見た『剪定』の文字。

 そして、第三水路で見た“結界の綻び”と“侵入者の足跡”。


 点と点は繋がっているはずだ。

 何かが、外から結界をこじ開けて入ってきた。

 ならば、その「侵入経路」には、まだ奴らの痕跡が残っているかもしれない。


 里の中では証拠が消され、長老会も口を閉ざす。

 だからこそ、自分の目で現場を見るしかない。

 ラグナにとって、この試験は、そのための唯一の機会だった。


「そう。なら、落ち着いてやればいい」

「言われなくても」


 短く笑い合う。

 それ以上の言葉はいらなかった。

 セラの視線が、“信頼”そのものだと分かっていたからだ。


 ラグナは短く頷き、《霧路の裂隙》を抜けた。

 《霧路の裂隙》を通ると、薄い膜が肌を撫でていく。

 温度が一段落ち、音が遠のく。

 外の霧は、里のものより冷たく、鋭い。


 ここは何度も浄化され、《監視結晶》で見守られる回廊――それでも“外”は外だ。

 霧の流れは重く、どこか生き物のように息づいている。


 まずは《迷宮ネズミ》。

 霧の間から、灰色の影が地を這う。

 ラグナは深く息を吸い、《風紋陣》を展開した。

 足元の霧が裂け、淡い風の輪が広がる。


(焦るな。落ち着け)


 掌に魔力を集め、《光紋陣》を重ねる。

 詠唱を短く切ると、閃光が走り――影が跳ねた。

 小さな悲鳴が霧に吸い込まれ、やがて静寂が訪れる。

 霧が閉じ、光が消える。


 息を吐いた瞬間、胸の奥がわずかに軽くなった。

 だが、本番はここからだ。


 第三水路のちょうど外側に近づいたとき、霧の向こうで、《霧犬》の低い唸り。


 だが、その音には不自然な軋みが混じっている。

 まるで、壊れた笛のような、ざらついた響きだった。


「……来い」


 霧が渦を巻き、白い影が跳ね出る。


「速い……! いや、動きが変だ!」


 ラグナは横へ跳んだ。

 霧犬の動きは、獣のしなやかさとは程遠かった。


 カク、カク、と、まるで時が飛んだように、不自然な加速と停止を繰り返している。

 眼球は白く濁り、口からは唾液の代わりにどす黒い液体を垂れ流していた。


(なんだ、こいつ……普通の霧犬じゃない!)


 詠唱を紡ごうとした刹那――胸の《銀の箱》が警告するように熱くなる。


(早く倒さないと。早く痕跡を探さないと……!)


 焦りが雑念となり、霧がそれに反応する。

 陣がきしみ、霧がざわめく。


(……くそっ。霧が、俺の心を覗こうとしてる)


 イリアの教えが脳裏をよぎる。


『霧に呑まれるな。従え』


(違う。焦るな……俺が今やるべきことは、生き残ることだ。生きて、情報を持ち帰ることだ!)


 ラグナは深く息を吐き、思考を切り替えた。

 長老の死の予兆を、無理やり頭の隅へ追いやる。

 今は目の前の敵だけを見る。


「《光紋陣:照閃》!」


 閃光が走り、鋼の刃が霧犬の胴を薙いだ。

 確かな手応え。


 だが、飛び散ったのは赤い血ではなかった。

 バヂィッ! と音を立てて、黒い泥が飛散したのだ。

 霧犬の巨体は、断末魔も上げず、泥のように崩れ落ちていく。


 静寂。


 荒い息を整えながら、ラグナは剣を下ろした。

 目の前にあるのは、生き物の死骸ではない。

 地面を焦がす、異臭を放つ黒いシミだけだった。


「……なんだ、これは」


 ラグナはおそるおそる近づき、剣先でその黒い泥に触れた。

 鉄錆と、焦げた何かが混じったような臭い。


 その瞬間だった。

 懐の《銀の箱》が、衣越しに鋭い熱を放った。


『――検体より、強制的な術式改変うわがきを検知』

『起源:外なる深淵』


 脳髄に直接響く、無機質な報告音。

 ラグナは息を呑み、胸を押さえた。


(……改変? 外なる深淵?)


 意味は完全には分からない。

 だが、この声が告げていることは一つ。


 こいつは自然に生まれた魔獣じゃない。

 “何者か”が外から手を加えて、意図的に作り出した怪物だということだった。


(やっぱり、そうだ。……外から何かが入ってきている!)


 ラグナは震える手で布を取り出し、黒い泥を慎重に拭い取って包んだ。

 ただの不気味な死骸ではない。

 これは、里を狙う見えない敵の、尻尾そのものだ。


(持ち帰らないと。……これは、決定的な証拠になる)


 手のひらに残る微かな振動を確かめながら、ラグナは息を整えた。


――――――


 夕刻。

 門の前でイリアが待っていた。


「迷宮ネズミ一、霧犬一。……記録も残したな?」

「はい。……それと、気になる痕跡がありました」


 ラグナは布に包んだサンプル――あの“黒い泥”を差し出す。

 イリアは眉をひそめ、鉄錆と焦げた臭いが混じるその異様な物体を見つめた。


「……奇妙な物体だな。魔獣の体液とも違う」

「倒した霧犬が、これに変化したんです。動きも……明らかに異常でした」


 ラグナは事実だけを告げた。

 だが、その泥に触れた瞬間に脳内に響いた声――『強制的な術式改変』という言葉については伏せた。

 そんなことを口にしても信じてもらえないだろうし、何より《銀の箱》の秘密に関わる。


「……なるほど。報告は私が預かる。――よくやった」


 イリアは包みを慎重に懐へしまうと、短く労いの言葉をかけた。

 その声には、見習いへの確かな信頼があった。

 緊張が解けたラグナの元へ、セラが駆け寄る。


「生きて帰った。それで十分」

「……ああ」


 二人の背で、街が橙光に染まる。

 水面に灯が揺れ、祈りの気配が霧の奥で脈を打った。


 だが、ラグナの胸のうちは穏やかではなかった。

 “侵入者”は、すでに中にいる。

 そして長老のカウントダウンは進んでいる。


 イリアに渡したあの黒い泥は、ただの死骸ではない。

 何者かが意図的に送り込んだ、悪意の種だ。


 ――戦いは、終わってなどいなかった。


 本当の危機は、これから始まるのだ。



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